随談第203回 観劇偶談(その95)今月の一押し・時蔵の織笛姫

再演の『NINAGAWA 十二夜』で見ものなのは、菊之助もさることながら、その他の役々を演じる多士済々の面々である。

左團次の洞院鐘道がいい。サー・トビイはもともと麻阿ことマライアと並ぶ儲け役だが、人生を達観して悪戯に韜晦している具合など、なにがなし左團次の役者人生を暗示しているようでもある。このところ脂ッ気が抜けて飄々滑脱の風格が好もしい左團次だが、鐘道のドタバタ調にもそれが生きている。左團次もいい役者になったものとつくづく思う。

亀治郎の麻阿は前回の大評判に引き続いての快調だが、丸尾坊太夫をからかう演出が前回に比べやや過剰に個人芸を突出させるので、亀治郎はその分水嶺の剣が峰を綱渡りする趣きともいえる。ここらが喜劇につきまとう難しいところだ。松緑に変わる翫雀の安藤英竹は自身の仁を考えた一種の頭脳プレイ。松緑のおかしさと質が違うのは仁の違いでやむを得ない。團蔵の比叡庵五郎は分を心得切った仕事ぶり。つまり大人の芸である。

主膳之助・琵琶姫兄妹に助力する段四郎の磯右衛門、権十郎の鳰兵衛、亀三郎、秀調などがいかにも程をわきまえた存在感を示すのも、特に苦労をするほどの役ではないにしても、歌舞伎俳優ならではのツボの押さえ方の故だろう。とくに権十郎が、シェイクスピア劇の人物らしい匂いを漂わせつつ翻案劇の人物になっているのが面白い。大篠左大臣の錦之助が一段と大人の役者に成長したことも合わせて、このあたりの役々の層の厚さが、この21世紀版翻案歌舞伎としての『十二夜』を支える土台として大いにものを言っている。つまり、チームプレイとして見ても、この芝居、なかなかの見ものなのである。

菊五郎の二役も、前回より輪郭が明確になっている。マルヴォーリオこと丸尾坊太夫は、菊五郎としてはお手の物だろう。前回は欝金色といいながら、むしろ淡い、上品な色合いだったのが気になったが、こんどは多少修正してあった。「欝金色」とは単なるyellowとイコールではない。よく書画骨董を包むのに使ったり、昔ならどこの家にも欝金色の風呂敷の一枚ぐらい必ずあったものだが、むしろ山吹色に近い濃い黄色である。

もうひと役の笛助は、FOOLという伝統のない歌舞伎の役柄の類型になぞらえるわけにいかないところが難役たる所以だが、阿呆な利口より利口な阿呆という阿呆の哲学がよく効いて、自由人の趣きが初演よりもくっきりと出たところに、菊五郎の腕がある。

しかしこれらを差し置いて、今月の一押しはというなら、時蔵の織笛姫を挙げよう。『十二夜』というシェイクスピア劇の世界を、時蔵の織笛姫が八重垣姫さながらの姿で赤姫の格を揺るぎなく示すことによって、歌舞伎という土壌に見事に移し植え、歌舞伎という器に盛ることを可能にしたのだと、私は見るからである。菊之助が主膳之助を勝頼さながらの姿で、獅子丸ときっちりと演じ分けた殊勲もそれと絡んで見逃せないが、おそらく今日の歌舞伎界で赤姫役者として最も純度の高い時蔵の存在がなければ、この「奇蹟」は菊之助の好演だけでは完結しなかったであろう。織笛姫としてどんなに突っ込んでシェイクスピアの世界を演じても、赤姫としての時蔵の示す歌舞伎の世界は揺らぐことがない。その虚実皮膜の間の振幅こそが、見もの中の見ものというべきである。

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