随談第206回 観劇偶談(97)追悼・梅村豊氏、併せて、歌舞伎の舞台写真のこと

まことに迂闊なことだが、梅村豊さんの亡くなったのを知ったのは、演劇協会の会報の訃報欄でだった。今年6月5日のことという。83歳との由、ほぼ昭和の年数と同じ世代の、本来の意味での「戦後派」、終戦の日を、二十歳になるやならずで迎えた世代である。

梅村さんの名前も業績も、知ったのは『演劇界』を通じてであり、また『演劇界』を離れることもなかった。わたしが『演劇界』という雑誌の存在を知ったとき、すでにそのグラビアを飾っていたのは梅村さんの撮影した写真だった。まだカラーの時代ではなく、モノクロフィルムの陰影が、舞台の陰影を豊かな情感とエスプリによって捉えていた。といって、決していわゆる芸術写真ではない。写真が画像として自立するのではなく、あくまでも舞台を舞台として写し出している。写真としてどんなにすぐれていても、芝居としての舞台を伝えてくれるものでなければ、『演劇界』のような雑誌の読者は満足できない。梅村さんの写真は、舞台を彷彿とさせ、客席にいたとき気がつかなかったような舞台の瞬間や役者の表情を、捉えていた。

昭和30年代、映画界にワイドスクリーンが導入され話題になっていたころ、『演劇界』では、グラビアの1ページを折り込みにして、繰り広げるとワイド画面になるのということをやっていた。歌舞伎座のあの横長の舞台がうまく生きる。吉右衛門劇団健在のころの白鸚の幸四郎・先代勘三郎・歌右衛門顔合わせによる『五大力恋緘』のワイド写真など、芝居の臨場感を捕らえた舞台写真の傑作として世に知られるべきである。

だからといって、梅村さんは決して、単に舞台再現をもってよしとするのでもなかった。『風姿花影』など、『演劇界』のために撮り続けた写真の中から選りすぐったものを、演劇出版社で何冊かの写真集にしているが、そのあたりに、当時の利倉幸一編集長の梅村さんへの心遣いと男気が感じられる。本を出すのに合わせて個展を開かれるのを常としていたが、『演劇界』に文章を書くようになってから、個展を見に伺うととても喜んでくれた。まだ若い玉三郎の梅川の写真でいいのがあったので、そういうと、わが意を得たという面持ちで、梅村さん独自の玉三郎観を語ってくれたのが、とりわけ印象に残っている。

『新世紀の歌舞伎俳優たち』を三月書房から出すとき、梅村さんの写真を使わせていただこうと思って、三月書房の吉川志都子さんとお目にかかったのが、あるいは最後であったかもしれない。せっかくのチャンスだったのだが、若手花形が中心の本だったので、その時分すでに、やや第一線から引いた観もあった梅村さんにとっては必ずしも適任の仕事というわけにはいかず、話は実現しなかった。やむを得ないことではあったが、それきりになったのが心残りになってしまった。

『演劇界』で去年一年間、目次の次のページに「ゆめのつばさ」という題で梅村さんの作品が載った。都会人でダンディな梅村さんらしいのエスプリが利いていて、毎号、オアシスに行き逢ったような思いで、しばし目と心をなごませたが、それも立ち消えになってしまった。

さきに逝った吉田千秋氏といい、梅村さんといい、戦後の歌舞伎を撮り続けた写真家は、これでいなくなったことになる。

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