随談第207回 相撲偶談(2)朝青龍談義

相撲の話は一回だけのつもりだったが、予期せぬ事態が起こって、もう一回書く気になった。こんどの一件についての朝青龍を弁護するつもりはない。しかし朝青龍に惚れて、一度薄れかけた相撲への興味を回復した人間として、またそのことを折に触れこの欄で書いてきた者として、やはりいま、何も言わないというわけにはいかない。

わたしが朝青龍に惚れた理由は、その土俵から発散する荒ぶるものの気迫であり、オーラである。新横綱のころ、たまたま、本当に久しぶりに土俵間近で見る機会にめぐまれて、目にした朝青龍は文字通り抜群に美しかった。むかしの若乃花を彷彿させた。わたしは昔の栃若では栃錦の方がひいきだったが、しかし若乃花もすばらしかった。栃が江戸の相撲なら、若は田舎の怪力が力士になったような、原初的な魅力があった。それを、朝青龍は思い出させた。

今場所中日、NHKの放送にゲスト出演した奥田瑛二が、朝青龍の仁王立ちのすばらしさということを言っているのを聞いて、いつも尤もらしい顔ばかりしているのが気に食わなかった彼を一気に見直す気になった。まさしく、名言である。とかく批判もある懸賞金を受け取る時の所作についても、奥田説に同意見である。荒ぶるものが漲った挙句のあれは、「朝青龍ぶり」と認めて然るべきである。明治の角聖常陸山は、あるとき大一番に勝って意気揚々と土俵を一周したことがあるそうだ。ほかならぬ「角聖」常陸山が、である。

もちろん、相撲が礼にはじまり礼に終わることは大切に守らねばならない。今後相撲が国際的になるとしたら、なおのことである。しかし、私がいまの相撲に物足りないものを覚えるのは、あまりにも力士たちがいい子になって、野趣が乏しくなりすぎたことである。野趣のないところに、本当の粋はない。お相撲さんのどこ見て惚れた、稽古帰りの乱れ髪、という昔の俗謡のうたった、あの野趣の中の粋こそが、男も惚れ、女も惚れる、相撲の美学なのだ。朝青龍は、おとなしやかに貧血症状になりかけていた相撲に野趣を注入し甦らせたカンフル剤だった。

とはいえ、今度の騒動のいきさつを見る限り、朝青龍を弁護できる要素はひとつもない。しかし相撲協会の対処の仕方をみていると、抜かっていることが少なくとも二つあると思う。ひとつは、朝青龍が処分を受けなければならない理由を、はっきりと明示することである。ファンの期待に応える、などと口当たりのいい、しかし曖昧なことを言わないで、地方巡業というのは本場所につぐ協会の重要な業務であり力士にとっては任務なのだということを、もっと明確に指摘した上で処分の量刑を示すべきだった。精神不安定とかいう処分後の朝青龍の報道を見ると、当人が事態をどれだけ認識していたのか、心もとない。本来なら、朝青龍の方から、処分より先に詫びをするべきだったのだ。

第二は、それをモンゴル側にもはっきり説明することである。モンゴルでサッカーをしたことがいけないのではない。本来ならあれはほほえましいグッドニュースであった筈のことだ。いけないのは、巡業という大事な任務をおろそかにしたことであることを、大使館や報道関係を通じて「広報」する必要がある。相撲を国際化するなら、そういう配慮も必要な筈だ。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です