随談第208回 観劇偶談(その98)明治座と新橋演舞場

今月は明治座の『妻をめとらば』が面白い。マキノノゾミの元の作は青年座に書き下ろした『MOTHER~君わらひたまふことなかれ』というれっきとした「新劇」である。それが、ところも明治座、藤山直美の芝居に化けてしまうのだから、なんとも懐の深い作だといわざるを得ない。もちろん、鈴木哲也の脚本もあるが。

「晶子と鉄幹」と副題にあるように、直美が与謝野晶子、香川照之が鉄幹という夫婦になって、ここに出てくるだけでも6人だか7人だかの子沢山(実際はもっといた)、そこへ、管野須賀子、北原白秋、石川啄木、平塚雷鳥、平野万里、佐藤春夫といったひとびとが、あるいは隣人あるいは門下生などとして登場し、時代を切り取って見せる。ときは明治42年から44年にかけて。その間に大逆事件が起こり、白秋の姦通事件があり、雷鳥の青鞜創刊があり、啄木の貧窮と死があり、特高刑事が晶子の身辺に出没する。鉄幹はすでに詩嚢が枯れ、文人としてはただの人へと変貌を余儀なくされ、割烹着を着ておむつの洗濯をし、買い物籠をさげて買い物をする。時代の風景を描くという意味では、いわば『坊ちゃんの季節』と同じだが、それが見事に明治座という劇場の寸法に合った芝居になっているところがおもしろい。明治座としても、今後こういう路線を積極的に考えていい。

直美は例によって、与謝野晶子だろうが何だろうが、藤山直美の芝居にしてしまい、ときに鼻白らませもしながら、しかし結局は納得させてしまう。藤山直美と与謝野晶子など、ミスマッチもいいところのはずが、やはりこれでいいのだと思わせてしまう。この辺が親譲りの芝居哲学の賜物、これこそまさに反・新劇である。香川照之も、とくに巧いというわけでもないが、この芝居の鉄幹としてうまくはまっている。そのほかでは松金よね子の啄木の母が達者なのは当然として、岡本健一の啄木がいい。終幕がうまく決まったのは彼の好演によるところ大である。(岡本は先月新国立で見たオニールの『氷屋来たる』でもなかなか敢闘していたっけ。)

新橋演舞場は恒例の舟木一夫公演だが、今年は『銭形平次』である。身体にダンディズムと軽味があり、尻端折りに股引という目明し姿が似合う柄と仁のよさが得点になるが、俗に言う「決めゼリフ」(じつはこの言葉、便利ではあるが抵抗があって、使うのはいまがはじめてである)になればなるほど訛りが強くなるのが気になる。「舟木一夫のお芝居」で安住するなら別だが、そうでないなら、ぜひとも一考、一工夫ありたい。(昔の長谷川一夫も、関西なまりで江戸っ子の平次をやっていたが、「長谷川ぶり」として認めていいだけの味のあるセリフ術を確立していた。)

その長谷川一夫の遺児である長谷川稀世と、大川橋蔵の遺児の丹羽貞仁がヒロイン役と三輪の万七の子分の清吉役で活躍し、幕切れに長谷川と橋蔵の平次の写真パネルが二人のところへ降りてくるのは、舟木の大先輩への敬意の表現としての心ゆかせである。

というわけで、芝居の方は中ぐらいだが、第二部のシアターコンサートに感動があった。格別いつもと違うことをするわけではないのだが、それだけ、舟木の歌う曲そのものと、舟木の歌いぶりが、ひとつの時代を抱え込んだ「歴史」を感じさせるようになった、ということであろう。

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