随談第214回 わが時代劇映画50選(その12) 『江戸へ百七十里』 昭和37年大映、監督・森一生 附・ライゾロジイ(Raizology)入門

タイムリー性を求められない記事はつい後回しになるため中断が長くなってしまったが、時代劇50選をそろそろ再開しよう。初期の雷蔵物のこれも一典型。この前挙げた『怪盗と判官』もそうだが、殿様とやくざ者、あるいは浪人者を早替りよろしく演じて、貴公子ぶりと自由人ぶりとの両面を見せようという、この種の趣向は昔から時代劇の一定型だが、とりわけ初期の雷蔵ものにそれが多いというのは、ライゾロジストの方々にとっては、雷蔵研究(Raizology)の欠かせぬテーマだろう。勝新では、どうしたってこうはいかない。

この手のものの、最も華麗で、配役も手揃いで、演出も堂に入っているという意味からは、『江戸へ百七十里』を最も典型にして最も代表的な作品として挙げるのが常識だろう。雷蔵狂四郎・勝新座頭市を中心とする後期大映時代劇が成立するのが、長谷川一夫御大の退場と東映時代劇の撤退と入れ替わる昭和38年前後をメルクマールと考えるとすれば、奇しくもその前年制作の『江戸へ百七十里』は、いわば前期大映時代劇における定番雷蔵映画の集大成ともいえる。

原作である山手樹一郎の明朗青春時代小説というのは、昭和30年代に隆盛だった貸し本屋文化を象徴する存在で、抜群の愛読者を有していた。有名な『桃太郎侍』をはじめ、およそどれを読んでも同じようなものだが、山手樹一郎ものでは錦之助にも『青雲の鬼』という佳作がある。こちらは題名通り、青雲の志を抱いて江戸に上る青年がその途次巻き込まれる事件と、それにまつわる人間関係から人生如何に生きるべきかを学んでゆくという、いかにも若き日の錦之助にぴったりのイニシエーション・ドラマである。

『江戸へ百七十里』は、瓜二つの兄弟の片方が世継ぎの若殿、片方が剣の達人の浪人者、そこに『ローマの休日』もどきのおしのびの姫君がからんでの道中物という、典型に典型を組み合わせたようなストーリイで、雷蔵が兄の若殿と弟の浪人者の二役、姫君が瑳峨三智子。いろいろな女優を相手役にしたが、結局のところ、前期における雷蔵には瑳峨三智子が他を圧してうつりがいい。後期における藤村志保と双璧ということになるが、姫から娘から堅気の女房から武家女房から遊女女郎から女賊から、役柄の幅の広さ、どれになってもツボにはまる多彩さと柔軟性、演技そのものの巧さ、素人臭さのなさ、この時点での時代劇全盛を支えた女優の中で瑳峨三智子の存在というものは抜群のものがあった。

世の時代劇論に女優を真っ当に論じたものをほとんど見かけないが、そうしたマッチョ趣味の固定観念は廃されねばならない。また瑳峨三智子というとすぐに山田五十鈴を持ち出すのも、「何とかの壁」の虜になって思考停止した論者の条件反射みたいなもので、お色気女優という固定観念の牢獄に彼女を押し込める結果となっている。瑳峨三智子に限らず、いずれ、定番時代劇の女優論をきちんとしなければなるまい。

『江戸へ百七十里』でもうひとつ、言い忘れてはならないのは、あの二世鴈治郎が姫君守護の老爺役で出ていることだ。これも、映画俳優中村鴈治郎の一風景として忘れがたい。

じつは、同系のもっと初期の典型として『次男坊鴉』にも触れたかったのだが、スペースがなくなった。次回にしよう。

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