随談第216回 観劇偶談(その104) 『ドラクル』を見る

話題の『ドラクル』を見た。海老蔵が出るから、といった程度の関心で見に行ったのだが、どうして、なかなかおもしろい。拾い物、といっては作者に失礼だが、海老蔵人気で売る芝居に終わっていない、いや、海老蔵抜きで見たって結構いける作である。

海老蔵もかなりうまくはまっている。少なくとも、単なる話題の外部出演でなく、何らかの土産(戦利品?)を持ち帰れるだけの仕事をしたといっていい。もっとも、15キロ(だっけ? いや15針縫ったのか)減量したというにしては、アンコールに出てきたときの様子など、むしろ逆に太ったか?と思うぐらいに見えた。なかなかうまくドラクルになり遂せているのが、ガカイの大きさが単に体格だけのことでなく役のスケールになっているところに、海老蔵の非凡さがある。

ドラクルとは、もちろんドラキュラから取った命名だが、固有名詞ではなく、ドラキュラ的なるものを指す一種の抽象名詞に近い。レイという役名だが、15世紀フランスに実在したジ・ル・ドレ侯という人物をモデル、というよりヒントにして作者長塚圭史がこしらえた人物で、ドラマ自体も、レイという「ドラクル」を通して神と人の関係だの、見る者に「公案」を解かせるかのような作りになっている。レイ=ドラクルは吸血鬼には違いないが、いわゆる吸血鬼物を期待すると少し当てがはずれるだろう。

面白いのは、作者がこれを完全な翻訳調の文体で書いていることで、三島の『サド侯爵夫人』ではないが、日本人の俳優がセイヨウジンに扮して翻訳調で固めたセリフを言う芝居であるところに、この芝居のすぐれた点がある。だからなまじにセリフをうまくこなしてニホンジンであるお郷が出てしまうと、戯曲の骨格が崩れ出し、中途半端な芝居に見えてくる。つまり、翻訳調の文体でしゃべられると、観客は情に訴えかけられないから、考えるということをしないわけにいかなくなる。その辺の仕掛けがなかなか巧くできている。

一番感心したのは、装置と芝居の組み立てをうまく処理している(作者自身だから当然といえば当然だが)演出で、これは近頃での出色の出来といっていいのではないか知らん。弦楽四重奏の生演奏による「下座」もなかなか効果的だ。これが一番いいか。

欠点は、すこし長すぎること。第一幕と第二幕が均等の長さなのは作者が意図的にしたことかもしれないが、正直なところ、前半はやや睡魔と闘うのに苦労した。眼目は第二幕で、第一幕は歌舞伎でいえばいわば「仕込み」なのだからあの半分でも十分だろう。(隣席の大先生らしき方は第一幕だけで帰ってしまったらしい。)

俳優たちも、第二幕に至って俄然、好演する。私など、相手役リリスの宮沢りえは別とすれば、正直なところなじみの顔はあまりないが、エヴァをやった永作博美、アダムの勝村政信、司教の手塚とおるなど、それぞれに役の存在感をよく感じさせた。

余禄はパンフレットの長塚圭史と海老蔵の対談で、これがなかなかの傑作である。お客が何を見に来るのかといえばアナタの才能と俺の才能とみんなの才能でしょ。だから何が言いたいのか、これが『ドラクル』のテーマだとハッキリ打ち出したらドオ?とこれは海老蔵。エビ君に欠けてるのは心の交流、とこれは長塚。互いに、相手の痛いところを突いている。

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