随談第224回 今月の一押し 鷹之資の太刀持音若、我当・吉弥の合邦夫婦

今月は『土蜘』における鷹之資の太刀持音若である。父の富十郎が頼光で、その太刀持ちの音若の役で、まるで縦横とも相似形のように、顔ばかりでなく姿形まで文字通り瓜二つで登場すると、誰だって頬がゆるんでくる。

だがこの音若という役は、幼い子役がつとめる役としては、重要な役目がある。蜘蛛の精が化けた僧の影が灯影に映るのを見て、「ノウノウわが君、ご油断あるな。灯影に映る僧の姿、いといと怪しく存じ候」と頼光へ呼びかけるセリフが、静から動へと局面を転回させる重要なポイントになっているからだ。この声を、声変わりした太い声で言ったのでは面白くない。声変わり前の甲高い声で、しかも凛然と言い放たなければ、効果は半減する。

鷹之資は、これを見事に凛然と言ってのけた。声よし、間もよかった。姿形だけでなく、声の質も父と同じ声音だった。

大人組では国立劇場の『合邦』における我当と上村吉弥の合邦夫婦がなかなかいい。吉弥は、先月も『牡丹灯篭』のお国で推したばかりだが、芝雀に筆を費やしてしまい、吉弥については詳しく書くスペースがなくなってしまった。その補いの意味からも、ここにちょっと書いておきたい。

あのお国はちょいとしたものだった。毒婦役のツボを押さえながら、つまり『牡丹灯篭』という芝居を彩る人物としてのイメージを充分に満足させながら、同時に生き生きとしたキャラクターとして立っていた。大西信行の脚本は、もともと杉村春子にお峰をさせるために書いたのだから、杉村を意識してうまく書けていて、そうなると杉村も欲が出て、初演の東横劇場のときは伴蔵が北村和夫だったのが、なろうことなら松録さんとやりたいわと言い出して、殺生なことを言いやがると北村を嘆かせ、それで新橋演舞場で松録がやってから、いつの間にか「歌舞伎狂言」になってしまったのだが、さて閑話休題、歌舞伎になり遂せたようで、やはり本質は「新劇」だから、人物の捕らえ方に新劇作者らしい視点がある。その代表がお国なわけだが、吉弥は、幸手堤のかまぼこ小屋で足萎えになった源次郎を見舞うところなど、歌舞伎のお国と新劇のお国の間にみごとに橋を掛け渡していた。

ところで『合邦』で誰も何も言わないことで、不思議なのは、合邦の女房、つまり玉手の母親の役というのは、合邦が元は青砥藤綱の子で大名の数に入っていたとういうからには、あの老女も、元は奥方と呼ばれる女性であったことになるはずだが、誰がやっても、歌舞伎の役柄のコンヴェンションでいう「婆」の役としてやることに決まっているようだ。元は郷代官の家柄という『引窓』の婆どころではないはずだが、まあ、永い間の貧窮暮らしがしみついたのかもしれない。もちろん吉弥も、あくまでもそのコンヴェンションに従っているのだが、何といってもまだ婆役者ではない。いい意味での若さが程よく中和して、ある種、品格を保って見えるのが面白い。

我当の合邦にもちょっと感心した。羽左衛門とか十三代目仁左衛門とか八世三津五郎とか、偉い人たちのつとめる合邦とは違い、我当という人が持っているある種の若さが、悟っても悟りきれぬ「愚」を実感させる。その意味で、いままで見た誰よりも、合邦という人物の核心に触れていたと思う。

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