随談第226回 観劇偶談(その108) 新国立劇場、三つのギリシャ劇

新国立劇場が開場10周年記念のフェスティバル公演として、『クリュタイメストラ』『アンドロマケ』『アンティゴネ』の三つのギリシャ劇を、現代のドラマとして書替えるという試みをした。狙いは結構、興味も津々、期待もなかなかだったが、結果はというと、まあ1勝2敗がいいところ。その1勝といえども、まず合格点だったというまでで、成功とまで言えるかどうか・・・という結果であった。原因は、いつにかかって脚本の貧困にある。

ドラマの状況を現代の日本にするといっても、原典のストーリイを忠実に守るのではなく、人物設定とモチーフを押さえるだけで自在に書き換えるというのが、三作を通じての方針のようだ。これはいい。昔の歌舞伎では書替え狂言というのはお手の物、どころか、むしろそれが常道であったので、そこから「世界」というものが成立していた。『仮名手本忠臣蔵』は「太平記の世界」であり、『助六』は「曽我狂言」の一演目であり、この伝統は映画のシナリオライターやテレビの脚本家のDNAにも染み込んでいて、「水戸黄門の世界」や「新撰組の世界」その他その他が成立し、無数の書替狂言ならぬ書替ドラマが次々と作られては放映されている。「NHK大河ドラマにおける世界の成立」などという研究論文を書く演劇科の大学院生が出てきたっておかしくない。「新劇」作者にだって、日本人である以上当然、そのDNAは体内に宿っていないわけはないので、だからこの企画は、それを思いついたご当人の考えた以上にさまざまな意味も意義もある、じつにインタレスチングな企画だったのである。

「クリュタイメストラ」の『アルゴス坂の白い家』はアガメムノンが映画監督、クリュタイメストラがその妻で大スターの女優、アイギストスがカメラマンという設定。こういうのは実にいい。なんなら役名も、アガメムノン、などと原典のままほっぽり出さないで、映画監督赤目能平実はアガメムノン、などとして、引き抜きやぶっかえりがあったりすれば、もっとダイナミックに、現代日本と古代ギリシャを往還する芝居が出来たかもしれない。などというのはもちろん冗談だが、エレクトラの待ち焦がれたオレステスが、性同一性症者で女性になって帰ってくる、などという程度でアッと言わせたつもりだとしたら、まだまだ、小せえ小せえと五右衛門に言われても仕方がない。その証拠に、ラストのアルゴス坂の家で、ちんまりと家族傷を嘗めあう日本的ホームドラマになってしまった。それなぐらいら、「サザエさん」や「ちびまるこチャン」や「クレオンしんちゃん」の方がずっと時代や社会を反映していることになる。

二作目の「アンドロマケ」『たとえば野に咲く花のように』は素直に見ることが出来た。時を朝鮮戦争勃発の年、場を狭い海ひとつへだてた九州F県のある町、と明確に定め、作も演出もてらいもはったりもなく芝居を作っているからだ。新劇はやはりナチュラルな芝居作りに長けてもいれば慣れてもいるのだ。これも新劇人という人種の体内に流れるDNAのなせる業であるのかも知れない。アンドロマケこと安田真貴役の七瀬なつみなど、なかなかの好演だった。三作目の「アンティゴネ」『異人の唄』は周回遅れの第三位の成績だった。設定があいまいで、一番最近に見たのに、一番記憶にうすい。現代といいながら設定を曖昧にしたのがいけなかったのだろう。

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