随談第229回 観劇偶談(その110)今月の歌舞伎から&今月の一押し

歌舞伎座を見て、勘太郎が『紅葉鬼揃』の山神で目覚しい働き、『寺子屋』でも戸浪をしっかりやっているので、これを一押しとしよう。前者は踊りの骨法が体の中に入っているのがよく分かる快演だし、後者も、義太夫時代物については若手花形勢総崩れの情勢の中で、ほとんど勘太郎ひとり踏ん張っている形だ。間よし、呼吸よし、×十年後の歌舞伎はもっぱら勘太郎の肩にかかっている、なんてことになっているかも知れない。それにしても、今月の海老蔵の源蔵、染五郎の清水一角や大高源吾のセリフの手前勘的な癖やひ弱さはちと耳に不協和音を感じさせる。すでに一介の若手とはランクの違う存在となったいま、もう若いからではすまない時期に来ている。みっちり義太夫の稽古をするしかないのでは。

勘太郎とは別の意味で、今月面白いと思ったのは、国立劇場の「忠臣蔵」シリーズで『清水一角』の牧山丈左衛門と『松浦の太鼓』で其角をやっている歌六である。とりわけ其角がいい。じつは今度の歌六の其角を見て、なるほどこの役はこういう役なのだ、ということが得心出来た。この役は、宝井其角という歴史上の人物である大宗匠であり、十三代目仁左衛門とか近くは又五郎とか、生きながら神に入ったような風格の老名優がつとめることが多いので、ついそういう目で見てしまうが、しかしお縫をかばい松浦侯に翻意を訴える様子を見てもセリフを聞いても、殿様の御馬前に鉢巻をし尻端折りをしている姿を見ても、この芝居この脚本による限り、この其角はそれほどの人物ではない。歌六に感心したのは、そこらのことを的確に読み切ってつとめている点だ。

つまりこの芝居の其角という役は、歌六がそうしているように、松浦侯をある意味で煽る役なのだ。其角と松浦侯とが芝居っ気たっぷりに入れ込んでやり合う面白さ、それがあって、俳諧をひねったりする高踏趣味も、鼻につく嫌味となるか、稚気愛すべき愛嬌となるかの分れ道となる。そのあたりのバランスが、こんどの吉右衛門と歌六のやりとりはじつに巧く取れている。松浦侯は、『仮名手本』でいえば石堂や若狭助を実録で行った穴であり、社会の要路にある人へ大衆が託した夢の、あれも反映なのだ。嫌味と取るのは、インテリが見たくない自分の顔を鏡にかけて見せられるような気がするからで、つまりは知識人の独り相撲である。

牧山丈左衛門の方も、不徳要領ともいえる人物をそれなりに存在感をもって見せてしまうところに、歌六代々の役者の血を感じさせる。今にして思えば、もっともふさわしい人が歌六の名を継いだのだということになる。扮装から来る連想だが、歌六に由井正雪をさせてみたくなる。

今月の海老蔵は、源蔵は先に言った如く、『紅葉鬼揃』の維茂は花道の出などじつに綺麗だが、さしたり為所もなく、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の攘夷浪人も同様、いい当たりのファウルを打ったりもしているが結局はノーヒットに終ったというところか。染五郎もまずその口。強いて取り得をあげるなら、『松浦の太鼓』の序幕、「両国橋」の清潔感。代わって、普段あまり名前が挙がる機会に恵まれない門之助が、『降るアメリカ』の終幕、三津五郎と並ぶ思誠塾の頭分の役でなかなか立派だったのが、オヤと目を瞠らせた。

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