随談第232回 今月の歌舞伎から 附・今月の一押し

(まずは新年のご挨拶と、大晦日から松の内までさる事情でご覧になれない状態が続いたお詫びを、申し上げます。これに懲りず、本年もよろしくご愛読ねがいます。)

さてここからが本番。東京だけで四座に歌舞伎のかかった今月、押しなべてベテランよりも若手の勢いの方が印象に残る。もちろん、雀右衛門一世一代の女五右衛門の、不可思議としか言いようのない臈たけた美のごときものもある。裲襠を脱ぎ、最後に肌脱ぎになる、その間三様に変る中で黒の衣裳のときが最も美しいところに、雀右衛門の独自の美がある。あの美しさは歌右衛門にはなかった。同じ臈たけた美しさでも、歌右衛門には歌右衛門の美があり、雀右衛門には雀右衛門の美がある。当り前の話だが、87歳の今日まで若女形として生き続けてきた、その意志の強さが作り上げた美であることは間違いない。

吉右衛門の一条大蔵卿、やっぱりいい。満足する出来である。あの大蔵卿の作り阿呆は、作の設定を遥かに越えて、人たるものの生きようを考えさせずにはおかない。團十郎の助六を見られたことも嬉しいことだった。やはりこれは百の理屈を越えて、正月の歌舞伎座で春を寿ぐための助六である。但し、以前に比べあるヤワな感じを覚えのは何の故だろう?

さて今月の一押しは、勘太郎と亀治郎である。前者の又平、後者のお徳による『吃又』はいま既に、どこへ出してもおかしくない現在の歌舞伎における一級品である。理由は要するに、義太夫物の骨法をきちんと踏まえていることにある。踏まえているからいいのではなく、踏まえているが故に、この曲に描かれている情愛を丈高く演じることができたから、いいのである。この前の吉右衛門もそうだったが、この夫婦も幕外のつまらぬ蛇足はやらない。将監夫妻ともども、本舞台できちんとキマッて幕を切る。この方がはるかに余韻が深い。

亀治郎はまた『金閣寺』の雪姫もいい。雀右衛門に教わることが念願で、その宿願を果たしての成果であるらしい。教わったことを教えた者以上に的確無比に演じてのけることは、亀治郎にはそれほど難しいことではないだろう。だが雀右衛門のあの美学は、なぞってなぞられるものではないに違いない。いやしかし、亀治郎は見事になぞってもいる。縄が切れて花道を駆け入る雪姫が七三でおこついて、鞘走った刀身を鏡にして鬢を撫でつけるその一瞬、亀治郎はみごとに雀右衛門になっていた。いや、雀右衛門になって、同時にそれ以上に、亀治郎として輝いていた。それに比べると、爪先鼠は芸としては確かだったが、こうした憑依は起らなかった。それだけ、意識がまだ先に立っていたのかも知れない。

七之助の弁天小僧とお富は、あきらかに未成品という意味では、これらと同一には並べられないが、未成品でありながら、まぎれもなく弁天でありお富であるところがいい。きょう横綱から金星を挙げたかと思うと、翌日はたいしたことのない平幕に負けたりしているようなのが現状だが、その金星が決してまぐれでないところが値打ちである。

最後に誰を挙げよう。そうだ、獅童の大膳の白面の悪の美がちょっとしたものである。こういう扮装をすると、前にも言ったが、死んだ延若にそっくりになる。獅童たるもの、決してただの鼠ではないのだ。

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