随談第233回 観劇偶談(その112) 続・今月の歌舞伎から

もう少し、今月活躍の若手花形の話を続けよう。浅草歌舞伎の話の続きから始めると、愛之助が日本駄右衛門と与三郎をやっている。どうやら与三郎の方に人気が集まっているらしいが、二度目ということもあるが、これは駄右衛門の方がいい。こうした手強さが求められる役のとき、愛之助は目の上に筋が入って癇の強さが利くのと声音が仁左衛門そっくりになる。やさおとこでありながら、手強さのある役がいいところも仁左衛門と共通する。それでいて『吃又』では雅楽之助がはまり役なのだから、不思議な役者ではある。

もっとも、それを言うなら亀治郎も同じで、単に器用にいろいろな役をこなすというのではなく、それが本役であるかのようにすんなりその役柄にはまるところが大したものだ。雪姫といえば真女形しかやらない役の筈だが、つい去年一年間テレビで入道頭の武田信玄でファンになった人がこれを見たら、驚嘆するに違いない。いや、私だって驚く。(パンフレットの表紙の、黒スーツ姿の7人が並ぶ写真の坊主頭の亀治郎は、学生を引率する硬派の教師みたいだ。ところが、7人の中で必ずしも最年長というわけでもないらしい。)

愛之助の与三郎は、なかなか上手にやっているが、私はもうひとつ乗れない。もっとも、この狂言の本来の味をもった与三郎はもういなくなってしまった以上、江戸前などといってもはじまらないのだから、こういう感覚の与三郎もありと認めるべきなのかもしれない。つまり、江戸の親に勘当を受け木更津から望郷の念に駆られペペルモコをきめこんでいる与三郎でなく、京大阪から須磨明石、淡路島あたりから都恋しがっている与三郎である。

男女蔵が将監に多左衛門と親そのままの路線になりそうなのはつい笑いを誘われるが、この一座の面々を相手に相応に見えるのはほめていいのかもしれない。亀鶴が、「浜松屋」の鳶頭がよくて蝙蝠安がいまひとつなのは、この手の役がこれからの世の中、一番難しくなることを予言するかのようだ。

浅草ではもうひとつ、巳之助が「吃又」の修理之助と浜松屋の宗之助の二役で浅草歌舞伎初参加しているのに注目した。まだ教わった通りに動いているだけだが、開演前の挨拶で七之助がさりげなく笑いを取りながら巳之助の初参加を紹介していたのは、麗しき友情である。目下大阪で芝居をしている父親は『連獅子』の親獅子の心境か。ともあれ、しばらくは地道な精進が肝要。何年か後に、今度は巳之助の○○に注目、と書かせてください。

国立劇場では菊之助の小女郎狐がひとり光っている。もうひと役、五位之助兼道という生締の役もなかなか乙だ。あの分なら将来、実盛か『金閣寺』の藤吉あたり、行けるだろう。いやそれ以上に、『新薄雪物語』の葛城民部のような役がきっといい筈だ。松録も紀名虎の表裏とも、結構自分の光で光っている。いわゆる、形作ってきたというやつである。

歌舞伎座では染五郎の『連獅子』がなかなかよかった。この曲のこの役から多くのファンが思い描く子獅子のイメージに快くかなっている。決して、ベテランの多いこの一座で、鳥なき里の蝙蝠ではない。染五郎らしいセンスのよさが光っているところがいい。

と、何人もに「光っている」という讃辞を奉ったが、新年のご祝儀の気味はあったとしても、決してバーゲンでないことはまちがいない。

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