随談第239回 観劇偶談(その111) 『ヤマトタケル』

いままでスーパー歌舞伎のことをあまり書いたことがなかったが、今月の新橋演舞場で『ヤマトタケル』を右近と段治郎が昼夜に分かれてやっているのを見て、段治郎のことをちょっと書いておきたくなった。そのヤマトタケルがちょいとしたものだからである。

ずばり言って、いままでに見たヤマトタケルで一番よかった。つい三年前にも、同じように右近とふたり交互にやっているのだが、正直なところきわめて印象が希薄である。なかなかよくやっているな、というだけに留まって、もちろんそれだけだって大したことだが、役者段治郎として特に見るべきものといっては、格別なかった。が、こんどは違う。

ひとりの、歴とした俳優の誕生と言っていい。することに性根が通っている。ヤマトタケルという役の性根と、それを演じる段治郎という役者の性根とが、重なり合い、渾然とし、増幅し、ドラマの人物として舞台の上に立ち上がっている。作者の書いた「天翔ける心」と「傲慢の心」という「哲学」が、説明や解説やお説教でなく、ドラマの人物として生きているのを、こんどはじめて見たような気がする。戯曲の言葉が、これほど素直にこちらの心に届いてくることも、じつはこれまでになかった。

この芝居は、なんといっても猿之助の初演のときのが、いい意味にも悪い意味にも、断然、印象に強く残っているが、猿之助だと、こうした「哲学」や、その他方々にちりばめられている言葉が、直接に猿之助自身と重ねあわされすぎてしまい、劇として芝居として、素直に見ることが妨げられがちだった。(こちらもまだ未熟だったから、つい、いらぬ反発を覚えたりすることも、正直なところなかったとはいえない。だから半面としては、受け取り手の側の問題でもあるのだが。)だが、こんどの段治郎だと、そうした夾雑物が綺麗に拭い去られて見える。『ヤマトタケル』という「劇」を、だから、こんどはじめて、素直に見ることができたといっても、あながち過言ではない。

はじめの、小碓命のときなど、潔癖のなかに怒りや自責の感覚が秘められている具合など、十一代目團十郎を彷彿とさせるものすらあった。長身でいながら骨っぽいところがそう思わせるのでもあるのだが、しかし長身なのはいまに始まったわけではないのだから、これは、やはり段治郎の成長の賜物なのである。

一方の右近は、右近なりには進歩の跡を見せているが、(だからほめていいのだが)、いわばそれは予測の範囲内の進歩であって、いままで右近に対して抱いてきたイメージに変更を求められるようなものではない。その分、段治郎の「進化」の前に、割を食って見えることになるのは、致し方ない。しかし右近の名誉のためにひと言つけ加えておくと、もうひと役のタケヒコでは、段治郎に対して兄貴分たるところを見せている。つまり二役を演じ分けるという点で、役者として一日の長を見せたわけだ。

その他の人たちのなかでは、兄橘姫をやっている笑也に感心した。もうひと役つとめている出世役のみやず姫以上に、この大人の女性を掘り下げてつとめているところに、初演以来の二十年間の成長を雄弁に語っている。ヘタルベという役を、抜擢されて弘太郎とダブルキャストでつとめている猿紫という新人が、ユニークな個性を持っているのも目を惹いた。

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