随談第243回 観劇偶談(113)武田晴信とドン・キホーテ

日生劇場の『風林火山』と帝劇の『ラ・マンチャの男』を一日の内に見るということをした。こうした取り合わせのお陰で、別々に見たら考えもしなかったような思いがけない発見をしたりする。

『風林火山』は、もし劇評を書けといわれたら困るだろう。この作品をどういう風に摑まえればいいのか、困惑するからだ。いっそ原作に返って新たに作るのならともかく、あくまで亀治郎の武田晴信というのが前提である以上、まったくテレビを離れてしまうわけにも行かない。といって、単なるテレビドラマの焼き直しには終らせたくない。そうしたさまざまなジレンマを抱えた脚本・演出者の苦労は察するに余りあるのだが、見ていてかなり疲労困憊したのは、何を見せようとしているのか、焦点が未整理で定めにくいからで、休憩を入れて5時間弱という長さのためだけではない。

晴信と山本勘助を亀治郎が二役で演じるというアイデアはいい。勘助にボリュームを割いて尤もらしい「重厚な」時代劇など見せられたのではたまったものではない。勘助はほどほどにして、晴信と板垣信方という、一種の「父と子」を中心にしたのは基本的には賛成だ。ビルドゥングス・ロマン=晴信が人として武人として如何に成長してゆくか? 家来たちも、はじめ頼りなかったのが、晴信とともに成長してゆく。そこに狙いがあるのは読めるのだが、惜しいかなごちゃごちゃして、晴信がどういう人間なのかが見えてこない。

冒頭、堂上家から妻を迎えて権高な新夫人を前に、一条大蔵卿みたいな晴信が登場する。面白いかと思って見ていると、なんということなく不徹底に終ってしまう。未熟な姿を描いたのだといえばそれまでだが、そうかと思うと、急に颯爽となったり傲慢になったり、晴信WHO?と言いたくなる。要は亀治郎をいかに見せるか、なのだから、ある意味では「亀治郎ショウ」であっても構わないのだが、ただいろいろ格好いいところを見せるだけでは、魅力は充分に開発されたとはいえない。亀治郎を「如何に」、亀治郎の「何を」見せるか?

帝劇へ移動して、一時間後には『ラ・マンチャの男』の序曲が始まる。何度も聞いた曲だが、いつにもまして、心にしみて聞こえたのは何故だろう? ついさっきまで、千住明の『風林火山』のテーマが鳴り響いていたのだった。いい曲ではあっても、ああのべつ、ボリュームいっぱいに聞かされたのでは食傷する。それと、ミュージカルも最近はむずかしい曲が多いが、『ラ・マンチャ』はそれに比べると素朴なものだ。それが却って、新鮮に聞こえるのだ。やはり、音痴でも見終わったら自然に口ずさんでいるようでなくちゃ。

それに、今度の『ラ・マンチャ』は、ひと際、出来がいいような気がする。幸四郎も、千何百回も場数を重ねて、無駄な力が抜けているし、松たか子も、臨終の場などいつも以上に哀切だ。作意が、今度ほど、素直に受け止められたことは、私にとってはなかったことだ。『風林火山』が引き立て役になった、というばかりでもなさそうだ。

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