随談第252回 観劇偶談(その117) 今月の一押し 段四郎の玉の井

今月はなんといっても『身替座禅』の奥方の段四郎である。他にも、コクーン歌舞伎での勘太郎のお辰など、めざましい成長を見せたものもあるが、今回は段四郎玉の井にとどめを刺す。いろいろな『身替座禅』を見てきたが、かくあるべき玉の井にはじめて巡りあったという感がする。

よく指摘されることだが、この狂言はとかくサービス過剰のどたばたになりやすい。狂言の方では、極重習いなどといってごく重い演目になっているが、また事実、野村万作のを見てなるほどと思った記憶も忘れがたいが、歌舞伎としては、そのエスプリを掬い取りさえすればいいのであって、やたらに過大に考える必要はない。といって、右京の恐妻ぶりと玉の井の猛妻ぶりを、どういう風に見せるのがいいのか、もうひとつ判りかねるところがあった。

白鸚の幸四郎が、いつか、この役は、ふだん女形など間違ってもしない役者がやって、ヌット出てきただけでおかしいという風な役であって、ことさらに笑わせたりする必要はないのだと言っていたのが、ひとつのヒントとして記憶に残っている。要するに自分のことを言っているわけだが、しかし本質をつかまえている言でもあるだろう。白鸚という人は、仁といい柄といい、また舞台ぶりから察せられる人柄といい、「ますらをぶり」の代表のような人だったから、おのれをよく知る言でもある。

しかし、いまひとつ、解決しきれない点が残った。もともとこの狂言は、六代目菊五郎の右京に七代目三津五郎の玉の井というコンビで当りを取った狂言である。菊五郎の右京にしても、三津五郎の玉の井にしても、どんな風だったのか、見たことのないわれわれには、じつは想像の外と言わざるを得ないところがある。とりわけ、三津五郎の玉の井がよくわからない。少なくとも、白鸚の言うような、ヌッと出て来ただけでおかしい、というようなのとは少し違うのではあるまいか?

白鸚以外では、私の見たかぎりでは、亡くなった宗十郎のがよかった。品があってかわいい妻だった。しかしこの人には、一流のサービス精神が濃厚にあったから、それが、ときとして気にならないと言っては嘘になる、というところがあった。

さて段四郎である。何がいいといって、これぞまさしく玉の井だという玉の井だった。右京にとっては猛妻でも、見る人によっては、なかなかチャーミングな妻でもある、という感じのあるところがまずいい。それと、じつに「女」を感じさせる。白鸚のは、これに比べると、女の「度数」が足りなかった気がする。そこへいくと段四郎は、みごとに女である。しかもなかなかの肉体美である。あれなら、何のかのといいながら、右京も満更でもあるまいかとすら思われてくる。好いてはいても浮気をする、というところが、恐妻というものの本性であって、夫婦の愛はまた別物であって然るべきである。

それに言うまでもないことだが、段四郎は手いっぱい演じてはいても、過剰のドタバタには陥らない節度がある。いまさらながら、そのことが如何に大切かということも、段四郎は教えてくれる。繰り返して言う。段四郎によって、私は『身替座禅』という狂言がはじめてわかった。

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