随談第254回 観劇偶談(118) 前田司郎と久保田万太郎

新国立劇場の「シリーズ・同時代」の一作として、前田司郎の『混じりあうこと、消えること』というのを見ているうちに、ああ、これは久保田万太郎だ、と気がついた。

家族とも、家族でないともつかない四人の男女の、不得要領な会話、というよりやりとりだけで成り立っている芝居である。そのやりとり自体は、結構笑わせるようにできているが、その笑いは、決してアハハという声にはならない。客席のそこここで、単独に、あるいは孤独に、ウフフ、というごく小さい声が小波のようにおこるだけだ。

まあ、いわゆる不条理劇によくある、考え落ちのような、だからどうなんだ、と観客を苛立たせるためのような、やりとりが1時間20分ばかり続いて、やがて終る。終ったからといって、何がどうなったわけでもない。このまま、また1時間20分続けたって構わないようなもので、ここらが観客に過度な疲労を課さないですむ潮時だからとりあえずここらで終っておきましょう、といった風情である。

パンフレットに載っている作者自身の言葉をよむと、前田司郎という作者はずいぶんと正直な人らしく、何故そういうふうに書くのかということを、やはり考え落ちのような、不得要領なような調子で、しかし極めて正直に、ある意味で赤裸々に吐露している。

芝居は、たとえばトンカチのような道具だという。叩くという目的があって、道具というものは作られ、存在する。トンカチに目的があるように、芝居にも目的があって、つまりそれは考えるための道具であり、つまり「芸術」とはそういうものでなければならないのだ、という。ここで「芸術」というコトバに括弧をつけたのは私の仕業だが、突如前田が「芸術」という、むかしなつかしいようなコトバをもちだしてきたのを、面白いと思ったからである。(こんなに、臆面もないほど堂々と、しかもシャイに、自分の仕事を「芸術」と呼ぶ人って、近頃珍しいのではないだろうか? 私は、前田という人に好もしい正直さを感じて、好意を抱いた。)

前田のこの文章を読みながらふと連想したのは、吉田健一が、書くという行為は、ひとつのことを頭のなかで考え続け、一定時間言葉にして書き付ける、やがてゼンマイが巻き切れて活動が終るようにひとまとまりの文章が書きあがるのだ、という意味のことを書いていたことである。表現は少し違っているかもしれないが、この感じは、なにかよくわかるような気がして、覚えている。(吉田のあのぐりぐりした文体の秘密もまた。)

しかし前田の戯曲の文体は、吉田健一とは違う。あちらはひとりの頭の中で完結する作業だが、こちらは、ひとりの頭の中で、登場人物にやりとりをさせる必要があり、そのために間合いが不可欠だからだ。そこで、前田は「、、、」を多用する。久保田万太郎が「・・・」を多用したように。前田の人物も、万太郎の人物も、自分の頭にあることを充分に相手に伝えられないことを知っている。(どこかで苛立ってもいる。)だから、コトバは途中で呑み込まれてしまい「、、、」や「・・・」が並ぶことになる。万太郎というと、判で押したように下町の人情や風情とか、下町言葉の美しさということばかりがいわれがちだが、そればかりに気を取られるのは、前田の言う、トンカチを眺め回して「ああ、美しいトンカチだなあ」などというのと、同じデンではないだろうか。万太郎の戯曲は、私には、一種の不条理劇のようにも見えるのだが・・・。

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