随談第263回 観劇偶談(その123) あれこれ談話

テレビの「平成教育委員会」というクイズ番組で、亀治郎が最優秀生徒(?)というのに選ばれたのを見ていた。問題はみな、全国の私立中学校の入試問題らしく、並みの大人では到底歯が立たない。見ていると、ほとんどの問題に亀治郎が真っ先に正解を答えてゆく。慶応高校時代の秀才ぶりは音に聞こえているが、なるほどという感じだ。第二位の宮崎県知事を引き離して断トツ優等生という結果だった。(途中で司会のビートたけしが、一瞬、しゃらくせえという表情をしたのが面白かった。)

それでおのずから連想したのは、ついその一週間前に見た第六回「亀治郎の会」である。劇評は『演劇界』に書いたからここではしないが、タイトルだけ披露すると「知略の達成」というのである。『俊寛』も『娘道成寺』も、とにかく全編「意」と「知」と「技」で覆い尽されている。やってやろうという「意力」と、達成するためにめぐらし、組み上げる「知力」と、それをやってのける「技術力」である。

『道成寺』では、歌右衛門に似ていると思った箇所が何箇所かあった。踊りぶりでもあるが、もっと端的に顔が似ている。ホオ、と思った。これは私だけの錯覚ではなく、信頼の置ける、それも複数の人の意見でも、やはり、似ていると感じたという。いろいろ研究したんでしょう、とその人は言うが、それもあろうけれど、私はむしろ、「おのずから似た」のだと思いながら見ていたのだった。その方が、私の価値観では、本物ということになる。

いまの歌舞伎界で、『俊寛』と『娘道成寺』をふたつながら自分の演目にしたのは富十郎と勘三郎の二人だろう。しかし亀治郎の『道成寺』は、これら先輩の『道成寺』とはまったく違う。両先輩のは、六代目菊五郎以来の、恋する娘の百態を組曲として踊る加役の『道成寺』だが、亀治郎のは、恋の執着を踊りぬく真女形の『道成寺』である。歌右衛門を彷彿とさせるのもむべなるかなだが、『俊寛』や『道成寺』でくりひろげて見せた知略の数々以上に、畏るべしと思わせるのは、むしろこういうところなのだ。真女方亀治郎!

ところでこの一見無関係の二つを見ての発見は、「平成教育委員会」で遊んでいるときも、「亀治郎の会」で獅子奮迅に取り組んでいるときも、亀治郎は少しも遊んでいないように見えるということである。会のパンフの「おいしい亀治郎の説明書」なる遊びのページのケッタイナ写真集にしても同じである。役者に、「くたびれる」役者と「くたびれない」役者がいるとしたら、亀治郎は「くたびれる」役者である。そういえば猿之助も「くたびれる」役者である。しかし実父の段四郎はあきらかに「くたびれない」役者だから、必ずしも血統のせいではない。そうしてもちろん、歌右衛門も「くたびれる」役者だった。

もちろんこれは、どちらがいいの悪いのという問題ではない。それぞれに、それぞれでなければないよさも、欠点もある。政治家にも、ハッタリの利く政治家と利かない政治家がいるようなものだ。福田首相など、どうせ投げ出すのなら、そんなに仰るなら向こう半年間、民主党さんに政権をお預けしましょうや、お手並み拝見した上で総選挙をして、有権者にどっちがよかったか決めてもらいましょう、とでも啖呵を切ればよかったのだ。郵政民営化法案が否決されて、ナヌ?そんなら解散総選挙だ、ともろ肌脱いで大道に大の字になってサア殺せ、みたいなことをやって大勝利、英雄もどきになった首相もいる。ハッタリの上手いか下手かの違いに過ぎないように、私には思えるのだが。

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