随談第594回 今月の舞台

まず歌舞伎座の「お噂」から取り掛かろう。

染五郎の貢がなかなかいい。染五郎としてはもしかするとこれが一番の適役かもしれない、とすら思いながらロビーに出て、聞こえてくる評判を聞いていると、案外にも、褒める声が多くない。どうも感じが、いま一つ違う、ということらしい。私としては、ピントコナといわれるこの役の感覚に、久しぶりでぴしゃりと適った貢に出会ったと手応えを感じたのだったが・・・。もっともこういう感覚というものは、自分が実際に出会った舞台をベースに蓄積され、発酵を繰り返しながら育っていくものだから、当節の見巧者たちにとっては、貢と言えばたとえば仁左衛門なのであろう。現に今度の染五郎も仁左衛門に教示を受けたのだそうだから、まずそこのところに関心が集まるのも尤もなところだ。私とて、仁左衛門を当代での貢役者と見ることに異論はない。染五郎が仁左衛門のやり方をよく学んで演じていることもよくわかる。

だからそれはそれとしての話だが、今度の染五郎を見ながら、角々のきまりやちょっとした間合い、その時の目の使い方、顎の使い方、後頭部から肩や背中の線などに、勘弥の貢を彷彿させるような箇所が幾つもあり、それが私にちょっとした驚きをもたらした。こういう、柔らか味のある、とろっとした感触のある貢を、ずいぶん久しぶりに見たと思った。ピントコナという、どこか滑稽味をはらんだ感覚が、この言葉の語感のなかに宿っている意味を解くカギだと思うのだが、勘弥の芸の中にあったある種の軽みと共にあるおかしみが、私が見た限りの貢たちの中で最も、あゝ、これがピントコナだと直感させるものであったと思うのだ。今度の染五郎は、比べればやや薄味ながらそれを思い出させた、というわけである。

現・仁左衛門は、この人らしく、父十三代目のものに自身の柄や工夫を掛け算して独自のものを作り上げたものと思われる。十三代目は、衣裳も東京の貢たちのように白の上布を着たこともあったが、上方歌舞伎と謳った公演では、浅葱の衣裳を着たと思う。昭和40年6月、東横ホールに上方歌舞伎の公演が掛かって、そのときに十三代目の貢を初めて見たのだった。(『鰻谷』の八郎兵衛を見たのもこの時だった。ワンフロア下の百貨店の食堂と別に劇場の中にも小さな食堂があって、気が付くと隣のテーブルに、自身はこの公演に出演していなかった鴈治郎(もちろん二代目である)が焼きそばなんぞを食べていたり、他の劇場では体験できないようなことが、この劇場ではあり得た。)

筋書巻末の上演記録を見ると、勘弥が貢を演じたのは戦前は知らず戦後ではただ一度きりらしい。(初代吉右衛門が最晩年の昭和27年7月、貢をつとめた時に勘弥が型を教えているのは、当然、経験があったればこそであろう。) 昭和42年7月、八代目三津五郎が父七代目の七回忌追善興行をした時で、追善の演目は『関の扉』に『勧進帳』という、踊りの神様七代目のイメージからすると異色なものだったが、八代目としては思うところあってのことだったようで、たとえば弁慶は、七代目はもちろん本興行で出したことはないが、八代目としてはいろいろ教わる処があったのでそれを世に示したい、という趣意だった。後の九代目の簑助の縁でか、菊五郎劇団から三代目左團次と梅幸、それについその三カ月前に七代目を襲名したばかりの芝翫(つまり、あの芝翫である)が客演したお陰で、左團次の宗貞という、今にして思えば貴重な眼福を得たり、後の十代目三津五郎がまだ11歳の八十助少年で、父の蘭平で『蘭平物狂』の繁蔵をつとめて、祖父八代目をして、これで歌舞伎は30年生き延びたと言わしめたとか、いろいろミソがあった公演だったが、当時の歌舞伎界を蔽っていた状況からすると、傍流に掉さす人たちによるやや異色な公演で、ご常連からは、今月はパスかな、などと見られがちであったことは確かだろう。そうした中で、勘弥としては従兄弟の八代目三津五郎の弁慶に富樫をつき合い、自身の出し物として『伊勢音頭』を出したというわけだった。こういう機会に、という自負があってのことと想像できる。(つまりこういう折でもないと、歌舞伎座で貢をつとめられるような機会はあまりなかったわけだ。)他の配役は梅幸のお紺、三津五郎の喜助、簑助のお鹿、菊之助(つまり現・菊五郎である)の万次郎、売出し間もない玉三郎のお岸に、さて万野が多賀之丞で、これは本当に見ておいてよかったと、私の観劇歴中でも幾つかという内に数えられる。いかにも夏の芝居らしく、どんなに突っ込んで芝居をしても芸が暑苦しくならない。洗練の極みである。もっとも、あんなのは真似の仕様がないから、今度の猿之助が熱演のあまり少々暑苦しくなったって咎める必要は毛頭ない。秀太郎に教わったと言っているが、二代目の鴈治郎のが面白かった、などとも言っているのがニクイところで、相当研究しているに相違ない。鴈治郎の万野というのは、私が見るようになってからは東京ではしていないから、最晩年に関西でしたのを見てきた人が、別に頼んだわけでもないのに、あんまり面白いからとブロマイドになった舞台写真をお土産にくれたのを貰ったので推し量るばかりだが(ブロマイドとは思えないような凄まじい顔で写っていた。それにしても猿之助は当時いくつだったのだろう?)猿之助は相当よくやっていると認めていい。後に衣装を変えるのが上方式なのだろうが初めて見た、ように思う。(さっき言った昭和42年6月の東横ホールの上方歌舞伎公演で十三代目仁左衛門の貢が浅葱色の衣装でつとめた時、万野は四代目菊次郎だったが、さてどうだったか? 残念ながら覚えていない。)

というわけで、染五郎貢、猿之助万野がそれぞれ自分の仁にあってそれぞれよく、且つ取り合わせの妙も利いて面白く、梅枝のお紺、米吉のお岸、ちょっと水気が過多のようではあるが神妙につとめているところを買って松也の喜助も無事とすれば、この若いメンバーに、秀太郎の万次郎、萬次郎のお鹿などという長老連と(この中に京妙の千野も加えたい)、何とも不思議な取り合わせもおかしく、何だか私一人で褒めているような気もするが、近頃面白い『伊勢音頭』ではあった。(忘れるところだった。橘太郎に橘三郎に隼人の林平による「追っかけ」から「二見ケ浦」も近頃でのものと認められる。十頭身みたいな顔の小さいのは気になるが、隼人の息の良さというものは、先月の『伊賀越』の奴でもオッと思わせる。)

      *

幸四郎が13度目とかいう『熊谷陣屋』を出して、幸四郎一代としての熊谷を作り上げた感があるが、今回ひとつオヤと思ったのは、顔をいつもの砥の粉よりも赤面と言っていいほど赤く塗っていることで(そうすると癇癪筋が引き立たないのが難だが)、察するに芝翫型を加味乃至折衷したものか? いわゆる團十郎型が、相模をそっちのけにして熊谷一人の心境劇になってしまうことへの批判や反省が(以前からあったにはあったが)最近頓に聞こえて来るようになったのは、ひとつには男女対等がここまで進化した世相の反映でもあるだろう。吉右衛門も仁左衛門も、それぞれ團十郎型の熊谷の中で、能うる限り、敦盛≠小次郎の首の扱い方に気を配って相模への心遣いを示す工夫をしているが、今回の幸四郎は、それを一段と進めようということでもあろうか?

(それにしても、埼玉の奥の熊谷からはるばる神戸まで、我が子を思ってやってきた女房に向かって「ヤイ女」とは、いくらなんでもないよナア。赤い顔をした素朴な豪傑のオジサンならまだしもユルセルが、砥の粉の顔の沈着冷静なミスター熊谷ともあろうものが、なおさら気になる? 今日埼玉県立熊谷高校が甲子園に出場したとして、球児たちの母親連中がバスを連ねて駆け付けるのと、相模が一里歩み三里歩みして、徒歩でやってきたのと同じ距離であるわけだ。)

ところで、ここでも染五郎が義経を、猿之助が女形で相模をつとめ、実力を見せるが、猿之助の相模が小次郎の首を抱いてのクドキが、座ってする仕事が多い。私の席はちょうど相模の居所と相対する位置にあったのだが、生憎この日は前の席に座高高く肩幅広い偉丈夫が座ったので、普通に坐っていると丸っきり姿が見えない。後ろの席に気兼ねしつつ左右いずれかへ首を傾げねばならず、じっくりと見極めることが出来なかったのは残念である。

      *

吉右衛門が『吃又』をするのは数え間違いでなければ今度で10演目のようだ。もちろん悪かろう筈もないが、大きな体を小さくして芸をしているような感じがないでもない。むしろ今度は、菊之助がお徳をするのに興味があった。栗梅の小袖に黒繻子の帯という女房役の典型のような姿の菊之助というのは、あまり見た記憶がない。昨秋の『六段目』でお軽を見たのも珍しかったが、お軽は姿は女房でも性根は娘だから、今度のお徳で吉右衛門を亭主に持っての女房体験は大いに得る処あったに相違ない。祖父の梅幸という人は、立女形として大きな役もいろいろしたが、十一代目團十郎や松緑を相手に女房役も数々つとめている。

      *

坂田藤十郎が長右衛門、鴈治郎が『醍醐の花見』の秀吉一役切りで上がってブルペンで待機という態勢下、立ったり座ったりを能うる限り少なくしてつとめる。たまたま初見日、お半の書置きを知って、行灯の燈を掻き立て、読もうと立ち上がった途端、あわや稀勢の里の二の舞かとヒヤリとさせる場面もあったが、どうやら無事であったようなのは何よりだった。(間髪を入れぬタイミングで下手からすっと近寄り、一瞬で様子を見極めてすっと姿を消してしまった黒衣の振る舞いが見事だった。)大長老の気力には敬意を表するしかないが、この人はやはり辛抱役より、お半と長吉の二役を変わった在りし日が懐かしい。辛抱役でも『河庄』の治兵衛とは一つではないようだ。もっとも今回は、そのお半と長吉の二役を壱太郎がつとめるというミソがあり、この秀才クンは抜かりなく巧打を放ち、ここでも染五郎が儀兵衛をつとめるという協力体制。上村吉弥のおとせが、『宵庚申』の八百屋の婆をさせてみたいような面白さがある。

      *

猿之助の『奴道成寺』に「三代猿之助四十八撰の内」という肩書がつけてある。なるほど、「家の芸」なわけだ。過日初目見得をした大谷桂三の長男が大谷龍三と名乗って小坊主の役で初舞台。数奇な役者人生を閲してきた桂三を思うと、どうぞ健やかに成長してくれと願わずにはいられない。

      *

亡き勘三郎ゆかりの赤坂ACTシアターの赤坂歌舞伎(実は「赤坂大歌舞伎」と「大」の字がついている)で初の新作を掛けた。蓬莱竜太作・演出で『夢幻恋双紙』。「赤目の転生」というサブタイトルがついている。小劇場系の気鋭の作者らしく、こうと思えばあゝといった感じで次々と観客の意表を突いてゆく展開といい、それを転生という形で人間の諸相を視覚化して見せる、水際立った演出の手際といい、なかなかのものだし、作としても悪くない。勘九郎にしても七之助にしてもなかなか達者で、こういうものをすればひょっとすると親父より巧いかも、と思わせるほどだ。だがここで気になるのは、和服を召した年配のご婦人方から各年齢層に広がった中村屋ファンと思われる女性観客たちが、どういう感想をお持ちになったか、である。思うに、この作を盛る器として最もふさわしい劇場はと言えば、赤坂ACTシアターよりむしろ、新国立劇場の小劇場ではあるまいか、というのが見終わっての私の第一の感想である。(「新」の字がついているのに注意。三宅坂ではなく初台の方ですぞ。)いっそこのメンバー、このスタッフがこぞって新国立劇場に出演したなら、歌舞伎界だけでなく日本の演劇界にとっても、もっともっと、幾層倍にも意義ある公演になり得たのではあるまいか。どこかの先走りの週刊誌が「歌舞伎が新国立へ殴り込み」などと書いてくれるかもしれない。

      *

「歌舞伎」と名乗る公演が今月はもう一つあって、それは新橋演舞場の「滝沢歌舞伎」である。「滝沢演舞場」と称していた頃から数えればもう随分の年数を数えることになる。毎回欠かさず見ているわけではないが、はじめは国籍不明のようなところに魅力を発散させていたようだったのが、三十半ばという年齢だそうだが、大分落ち着いた「歌舞伎」ぶりを見せるようになっている。今年は『鼠小僧』を結構面白く見せている。「野田版」を認めるなら、これだって「滝沢版」として認められて然るべきには違いない。とにかくこの一党の身体訓練だけでも一見に値するわけで、戸板を使った義堅ばりの立回りにしても、大ゼリを使って歌舞伎の義堅の二倍の落差を跳び下りるのだから、大変なことは間違いない。

      *

この月のミュージカルは、40年余、今なお連載が続いているという少女漫画を原作とする日本製ミュージカル『王家の紋章』の再演、英国小説の原作による米国製ミュージカル『紳士のための愛と殺しの手引き』といった、いろいろに考えるネタを提供してくれるかのような作が並んでいて、それぞれに興味深かった。かつての『ベルサイユの薔薇』にしてもだが、西洋史やら中東史やらを題材なり舞台なりにして女性の作者が大長編を物してしまうというのは、さすが紫式部の国ならではとも言えるが、一面、すぐれて現代日本ならではとも考えられる。かつてはかの『八犬伝』あり『白縫譚』あり(なんと現代語訳が、それも女性の訳者の手でなされていることを迂闊にもつい最近知った)、だから男性にも物語作者の才能はない筈がない(筈なの)だが、少なくとも今日、男がつまらぬ小理屈に拘泥して物語を構築する才覚と度胸(と考えるのが、おそらく一番当たっているであろう)を失ってしまったのが最大原因であろう。まさしく「女は度胸」の時代なのだ。(三島由紀夫は逆立ちしても山崎豊子になれなかったであろう。)

一方『紳士のための愛と殺しの手引き』がアガサ・クリスティーを思わせるような物語性を秘めているのも興味を惹かれるが(つまりかの大英帝国も、かつてはウォルター・スコットのようなのもいたが、近代に入るとミス・マープルのおばさんに名を成さしめることとなる)、しかしこちらについては、そういうことよりも、米国製ではあっても英国の貴族社会の相続制度をネタにしているためもあり、ミュージカル化に当たっての脚本と作曲に妙を得ているためもあって、テイストがイギリス風なのが面白いし、成功の因になってもいる。要するに、ドタバタをしてもガキっぽくないのがいい。宮沢エマという最近になって見掛けるようになった女優は、かの元首相の孫娘なそうだが、なかなか潤いのあるソプラノで、この芝居の肝になる場面で、おそらく技巧的にも難しいに違いない曲を好唱佳演してまことに結構だった。今回公演の殊勲甲である。

      *

新国立は前回の『白蟻の巣』につづくシリーズ「かさなる視点・日本戯曲の力」の第2弾で安部公房の『城塞』。初演当時は奇天烈と見えたに違いない劇中劇中劇という設定も、そういう点ではすれっからしになっている当節の観客には受け容れやすくなっているが、翻って思えばそういう観客を造成するうえで、この作などが大いに貢献した筈ともいえる。同時に、昭和37年という時点で、昭和21年を劇中劇としてみせるという入れ子構造による三一致の法則が、いま見ても充分インパクトがあることを確認できただけでも、今回上演した意義はあるというものだ。

そうは言うものの、二つの劇中芝居の内、主人公の「男」とその「男の父」の方は明快だが、「男」と「男の妻」の方がもうひとつすっきりしないために、やや片肺飛行の感が残るのが今度の上演の難点だろう。名作はすべからく明晰・明快であることを要するのだ。

アベ・コウボウというやや奇妙な響きを持つ名前は、中学生のころラジオの放送劇(という言い方の方が普通だった。ラジオドラマとは、まだあまり言わなかった)の始まりに、「作・アベコウボウ」というアナウンスをちょくちょく耳にしたのが始まりだった。奇妙な内容だが決して難解ではなかった。初期のテレビにも、ちょいちょい出演してヤマアラシのようなヘアスタイルを見せていた。言うこともしごく平明だった。それなのに「演劇」となると妙に難解になってしまうのは、だから演出や俳優の演技のせいではないかという気が、私などはどうもしてしまうのだが。