随談第594回 今月の舞台

まず歌舞伎座の「お噂」から取り掛かろう。

染五郎の貢がなかなかいい。染五郎としてはもしかするとこれが一番の適役かもしれない、とすら思いながらロビーに出て、聞こえてくる評判を聞いていると、案外にも、褒める声が多くない。どうも感じが、いま一つ違う、ということらしい。私としては、ピントコナといわれるこの役の感覚に、久しぶりでぴしゃりと適った貢に出会ったと手応えを感じたのだったが・・・。もっともこういう感覚というものは、自分が実際に出会った舞台をベースに蓄積され、発酵を繰り返しながら育っていくものだから、当節の見巧者たちにとっては、貢と言えばたとえば仁左衛門なのであろう。現に今度の染五郎も仁左衛門に教示を受けたのだそうだから、まずそこのところに関心が集まるのも尤もなところだ。私とて、仁左衛門を当代での貢役者と見ることに異論はない。染五郎が仁左衛門のやり方をよく学んで演じていることもよくわかる。

だからそれはそれとしての話だが、今度の染五郎を見ながら、角々のきまりやちょっとした間合い、その時の目の使い方、顎の使い方、後頭部から肩や背中の線などに、勘弥の貢を彷彿させるような箇所が幾つもあり、それが私にちょっとした驚きをもたらした。こういう、柔らか味のある、とろっとした感触のある貢を、ずいぶん久しぶりに見たと思った。ピントコナという、どこか滑稽味をはらんだ感覚が、この言葉の語感のなかに宿っている意味を解くカギだと思うのだが、勘弥の芸の中にあったある種の軽みと共にあるおかしみが、私が見た限りの貢たちの中で最も、あゝ、これがピントコナだと直感させるものであったと思うのだ。今度の染五郎は、比べればやや薄味ながらそれを思い出させた、というわけである。

現・仁左衛門は、この人らしく、父十三代目のものに自身の柄や工夫を掛け算して独自のものを作り上げたものと思われる。十三代目は、衣裳も東京の貢たちのように白の上布を着たこともあったが、上方歌舞伎と謳った公演では、浅葱の衣裳を着たと思う。昭和40年6月、東横ホールに上方歌舞伎の公演が掛かって、そのときに十三代目の貢を初めて見たのだった。(『鰻谷』の八郎兵衛を見たのもこの時だった。ワンフロア下の百貨店の食堂と別に劇場の中にも小さな食堂があって、気が付くと隣のテーブルに、自身はこの公演に出演していなかった鴈治郎(もちろん二代目である)が焼きそばなんぞを食べていたり、他の劇場では体験できないようなことが、この劇場ではあり得た。)

筋書巻末の上演記録を見ると、勘弥が貢を演じたのは戦前は知らず戦後ではただ一度きりらしい。(初代吉右衛門が最晩年の昭和27年7月、貢をつとめた時に勘弥が型を教えているのは、当然、経験があったればこそであろう。) 昭和42年7月、八代目三津五郎が父七代目の七回忌追善興行をした時で、追善の演目は『関の扉』に『勧進帳』という、踊りの神様七代目のイメージからすると異色なものだったが、八代目としては思うところあってのことだったようで、たとえば弁慶は、七代目はもちろん本興行で出したことはないが、八代目としてはいろいろ教わる処があったのでそれを世に示したい、という趣意だった。後の九代目の簑助の縁でか、菊五郎劇団から三代目左團次と梅幸、それについその三カ月前に七代目を襲名したばかりの芝翫(つまり、あの芝翫である)が客演したお陰で、左團次の宗貞という、今にして思えば貴重な眼福を得たり、後の十代目三津五郎がまだ11歳の八十助少年で、父の蘭平で『蘭平物狂』の繁蔵をつとめて、祖父八代目をして、これで歌舞伎は30年生き延びたと言わしめたとか、いろいろミソがあった公演だったが、当時の歌舞伎界を蔽っていた状況からすると、傍流に掉さす人たちによるやや異色な公演で、ご常連からは、今月はパスかな、などと見られがちであったことは確かだろう。そうした中で、勘弥としては従兄弟の八代目三津五郎の弁慶に富樫をつき合い、自身の出し物として『伊勢音頭』を出したというわけだった。こういう機会に、という自負があってのことと想像できる。(つまりこういう折でもないと、歌舞伎座で貢をつとめられるような機会はあまりなかったわけだ。)他の配役は梅幸のお紺、三津五郎の喜助、簑助のお鹿、菊之助(つまり現・菊五郎である)の万次郎、売出し間もない玉三郎のお岸に、さて万野が多賀之丞で、これは本当に見ておいてよかったと、私の観劇歴中でも幾つかという内に数えられる。いかにも夏の芝居らしく、どんなに突っ込んで芝居をしても芸が暑苦しくならない。洗練の極みである。もっとも、あんなのは真似の仕様がないから、今度の猿之助が熱演のあまり少々暑苦しくなったって咎める必要は毛頭ない。秀太郎に教わったと言っているが、二代目の鴈治郎のが面白かった、などとも言っているのがニクイところで、相当研究しているに相違ない。鴈治郎の万野というのは、私が見るようになってからは東京ではしていないから、最晩年に関西でしたのを見てきた人が、別に頼んだわけでもないのに、あんまり面白いからとブロマイドになった舞台写真をお土産にくれたのを貰ったので推し量るばかりだが(ブロマイドとは思えないような凄まじい顔で写っていた。それにしても猿之助は当時いくつだったのだろう?)猿之助は相当よくやっていると認めていい。後に衣装を変えるのが上方式なのだろうが初めて見た、ように思う。(さっき言った昭和42年6月の東横ホールの上方歌舞伎公演で十三代目仁左衛門の貢が浅葱色の衣装でつとめた時、万野は四代目菊次郎だったが、さてどうだったか? 残念ながら覚えていない。)

というわけで、染五郎貢、猿之助万野がそれぞれ自分の仁にあってそれぞれよく、且つ取り合わせの妙も利いて面白く、梅枝のお紺、米吉のお岸、ちょっと水気が過多のようではあるが神妙につとめているところを買って松也の喜助も無事とすれば、この若いメンバーに、秀太郎の万次郎、萬次郎のお鹿などという長老連と(この中に京妙の千野も加えたい)、何とも不思議な取り合わせもおかしく、何だか私一人で褒めているような気もするが、近頃面白い『伊勢音頭』ではあった。(忘れるところだった。橘太郎に橘三郎に隼人の林平による「追っかけ」から「二見ケ浦」も近頃でのものと認められる。十頭身みたいな顔の小さいのは気になるが、隼人の息の良さというものは、先月の『伊賀越』の奴でもオッと思わせる。)

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幸四郎が13度目とかいう『熊谷陣屋』を出して、幸四郎一代としての熊谷を作り上げた感があるが、今回ひとつオヤと思ったのは、顔をいつもの砥の粉よりも赤面と言っていいほど赤く塗っていることで(そうすると癇癪筋が引き立たないのが難だが)、察するに芝翫型を加味乃至折衷したものか? いわゆる團十郎型が、相模をそっちのけにして熊谷一人の心境劇になってしまうことへの批判や反省が(以前からあったにはあったが)最近頓に聞こえて来るようになったのは、ひとつには男女対等がここまで進化した世相の反映でもあるだろう。吉右衛門も仁左衛門も、それぞれ團十郎型の熊谷の中で、能うる限り、敦盛≠小次郎の首の扱い方に気を配って相模への心遣いを示す工夫をしているが、今回の幸四郎は、それを一段と進めようということでもあろうか?

(それにしても、埼玉の奥の熊谷からはるばる神戸まで、我が子を思ってやってきた女房に向かって「ヤイ女」とは、いくらなんでもないよナア。赤い顔をした素朴な豪傑のオジサンならまだしもユルセルが、砥の粉の顔の沈着冷静なミスター熊谷ともあろうものが、なおさら気になる? 今日埼玉県立熊谷高校が甲子園に出場したとして、球児たちの母親連中がバスを連ねて駆け付けるのと、相模が一里歩み三里歩みして、徒歩でやってきたのと同じ距離であるわけだ。)

ところで、ここでも染五郎が義経を、猿之助が女形で相模をつとめ、実力を見せるが、猿之助の相模が小次郎の首を抱いてのクドキが、座ってする仕事が多い。私の席はちょうど相模の居所と相対する位置にあったのだが、生憎この日は前の席に座高高く肩幅広い偉丈夫が座ったので、普通に坐っていると丸っきり姿が見えない。後ろの席に気兼ねしつつ左右いずれかへ首を傾げねばならず、じっくりと見極めることが出来なかったのは残念である。

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吉右衛門が『吃又』をするのは数え間違いでなければ今度で10演目のようだ。もちろん悪かろう筈もないが、大きな体を小さくして芸をしているような感じがないでもない。むしろ今度は、菊之助がお徳をするのに興味があった。栗梅の小袖に黒繻子の帯という女房役の典型のような姿の菊之助というのは、あまり見た記憶がない。昨秋の『六段目』でお軽を見たのも珍しかったが、お軽は姿は女房でも性根は娘だから、今度のお徳で吉右衛門を亭主に持っての女房体験は大いに得る処あったに相違ない。祖父の梅幸という人は、立女形として大きな役もいろいろしたが、十一代目團十郎や松緑を相手に女房役も数々つとめている。

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坂田藤十郎が長右衛門、鴈治郎が『醍醐の花見』の秀吉一役切りで上がってブルペンで待機という態勢下、立ったり座ったりを能うる限り少なくしてつとめる。たまたま初見日、お半の書置きを知って、行灯の燈を掻き立て、読もうと立ち上がった途端、あわや稀勢の里の二の舞かとヒヤリとさせる場面もあったが、どうやら無事であったようなのは何よりだった。(間髪を入れぬタイミングで下手からすっと近寄り、一瞬で様子を見極めてすっと姿を消してしまった黒衣の振る舞いが見事だった。)大長老の気力には敬意を表するしかないが、この人はやはり辛抱役より、お半と長吉の二役を変わった在りし日が懐かしい。辛抱役でも『河庄』の治兵衛とは一つではないようだ。もっとも今回は、そのお半と長吉の二役を壱太郎がつとめるというミソがあり、この秀才クンは抜かりなく巧打を放ち、ここでも染五郎が儀兵衛をつとめるという協力体制。上村吉弥のおとせが、『宵庚申』の八百屋の婆をさせてみたいような面白さがある。

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猿之助の『奴道成寺』に「三代猿之助四十八撰の内」という肩書がつけてある。なるほど、「家の芸」なわけだ。過日初目見得をした大谷桂三の長男が大谷龍三と名乗って小坊主の役で初舞台。数奇な役者人生を閲してきた桂三を思うと、どうぞ健やかに成長してくれと願わずにはいられない。

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亡き勘三郎ゆかりの赤坂ACTシアターの赤坂歌舞伎(実は「赤坂大歌舞伎」と「大」の字がついている)で初の新作を掛けた。蓬莱竜太作・演出で『夢幻恋双紙』。「赤目の転生」というサブタイトルがついている。小劇場系の気鋭の作者らしく、こうと思えばあゝといった感じで次々と観客の意表を突いてゆく展開といい、それを転生という形で人間の諸相を視覚化して見せる、水際立った演出の手際といい、なかなかのものだし、作としても悪くない。勘九郎にしても七之助にしてもなかなか達者で、こういうものをすればひょっとすると親父より巧いかも、と思わせるほどだ。だがここで気になるのは、和服を召した年配のご婦人方から各年齢層に広がった中村屋ファンと思われる女性観客たちが、どういう感想をお持ちになったか、である。思うに、この作を盛る器として最もふさわしい劇場はと言えば、赤坂ACTシアターよりむしろ、新国立劇場の小劇場ではあるまいか、というのが見終わっての私の第一の感想である。(「新」の字がついているのに注意。三宅坂ではなく初台の方ですぞ。)いっそこのメンバー、このスタッフがこぞって新国立劇場に出演したなら、歌舞伎界だけでなく日本の演劇界にとっても、もっともっと、幾層倍にも意義ある公演になり得たのではあるまいか。どこかの先走りの週刊誌が「歌舞伎が新国立へ殴り込み」などと書いてくれるかもしれない。

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「歌舞伎」と名乗る公演が今月はもう一つあって、それは新橋演舞場の「滝沢歌舞伎」である。「滝沢演舞場」と称していた頃から数えればもう随分の年数を数えることになる。毎回欠かさず見ているわけではないが、はじめは国籍不明のようなところに魅力を発散させていたようだったのが、三十半ばという年齢だそうだが、大分落ち着いた「歌舞伎」ぶりを見せるようになっている。今年は『鼠小僧』を結構面白く見せている。「野田版」を認めるなら、これだって「滝沢版」として認められて然るべきには違いない。とにかくこの一党の身体訓練だけでも一見に値するわけで、戸板を使った義堅ばりの立回りにしても、大ゼリを使って歌舞伎の義堅の二倍の落差を跳び下りるのだから、大変なことは間違いない。

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この月のミュージカルは、40年余、今なお連載が続いているという少女漫画を原作とする日本製ミュージカル『王家の紋章』の再演、英国小説の原作による米国製ミュージカル『紳士のための愛と殺しの手引き』といった、いろいろに考えるネタを提供してくれるかのような作が並んでいて、それぞれに興味深かった。かつての『ベルサイユの薔薇』にしてもだが、西洋史やら中東史やらを題材なり舞台なりにして女性の作者が大長編を物してしまうというのは、さすが紫式部の国ならではとも言えるが、一面、すぐれて現代日本ならではとも考えられる。かつてはかの『八犬伝』あり『白縫譚』あり(なんと現代語訳が、それも女性の訳者の手でなされていることを迂闊にもつい最近知った)、だから男性にも物語作者の才能はない筈がない(筈なの)だが、少なくとも今日、男がつまらぬ小理屈に拘泥して物語を構築する才覚と度胸(と考えるのが、おそらく一番当たっているであろう)を失ってしまったのが最大原因であろう。まさしく「女は度胸」の時代なのだ。(三島由紀夫は逆立ちしても山崎豊子になれなかったであろう。)

一方『紳士のための愛と殺しの手引き』がアガサ・クリスティーを思わせるような物語性を秘めているのも興味を惹かれるが(つまりかの大英帝国も、かつてはウォルター・スコットのようなのもいたが、近代に入るとミス・マープルのおばさんに名を成さしめることとなる)、しかしこちらについては、そういうことよりも、米国製ではあっても英国の貴族社会の相続制度をネタにしているためもあり、ミュージカル化に当たっての脚本と作曲に妙を得ているためもあって、テイストがイギリス風なのが面白いし、成功の因になってもいる。要するに、ドタバタをしてもガキっぽくないのがいい。宮沢エマという最近になって見掛けるようになった女優は、かの元首相の孫娘なそうだが、なかなか潤いのあるソプラノで、この芝居の肝になる場面で、おそらく技巧的にも難しいに違いない曲を好唱佳演してまことに結構だった。今回公演の殊勲甲である。

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新国立は前回の『白蟻の巣』につづくシリーズ「かさなる視点・日本戯曲の力」の第2弾で安部公房の『城塞』。初演当時は奇天烈と見えたに違いない劇中劇中劇という設定も、そういう点ではすれっからしになっている当節の観客には受け容れやすくなっているが、翻って思えばそういう観客を造成するうえで、この作などが大いに貢献した筈ともいえる。同時に、昭和37年という時点で、昭和21年を劇中劇としてみせるという入れ子構造による三一致の法則が、いま見ても充分インパクトがあることを確認できただけでも、今回上演した意義はあるというものだ。

そうは言うものの、二つの劇中芝居の内、主人公の「男」とその「男の父」の方は明快だが、「男」と「男の妻」の方がもうひとつすっきりしないために、やや片肺飛行の感が残るのが今度の上演の難点だろう。名作はすべからく明晰・明快であることを要するのだ。

アベ・コウボウというやや奇妙な響きを持つ名前は、中学生のころラジオの放送劇(という言い方の方が普通だった。ラジオドラマとは、まだあまり言わなかった)の始まりに、「作・アベコウボウ」というアナウンスをちょくちょく耳にしたのが始まりだった。奇妙な内容だが決して難解ではなかった。初期のテレビにも、ちょいちょい出演してヤマアラシのようなヘアスタイルを見せていた。言うこともしごく平明だった。それなのに「演劇」となると妙に難解になってしまうのは、だから演出や俳優の演技のせいではないかという気が、私などはどうもしてしまうのだが。

随談第593回 このところの話

前回と前々回の第591回と第592回でうっかりミスを二件、犯していたことに後になってから気が付いた。まずはそのお詫びから。

一件目は第591回のフランス女優ミッシェル・モルガンの訃報のところ。子供のころ西洋人の女性、特に女優の顔を怖いと思うことがよくあったが、彼女などもその代表格だったと書いた話の続きとして、同時代のフランス女優の連想から、『天井桟敷の人々』のアルレッティなどもそのひとりだった、と書こうとして、そのアルレッティの名前が不意に出なくなった。こういうことは若い時にだってあることだが、近頃頓に多くなったのは残念ながら歳のせいと思わざるを得ない。目の前にいる孫の顔を見ながらいまは50歳を優に超えている筈の甥の名前が口をついて出たりする。溺愛?する身内の幼い子供として、年若の叔父として初めて接した甥の名前が脳裏の最深部にインプットされているのに違いない。で、こういう場合、しばらく放っておくと自然に記憶が回復するのが分かっているから、それから書き加えればいいと思って取り敢えず先を書き進めたわけだが、今度はそれを失念したまま載せてしまった、というのが事の次第。掲載が大分間遠になっているのが気になっていたので少々気が急いていた、ということもあったとはいえ大トチリではあった。

もっとも、こちらは恥になりこそすれ迷惑を及ぼすことではないが、もう一件の方は、前回の最後の話題『マリウス』について新橋演舞場でと書いたのは全くの勘違いが原因のうっかりミス、正しくは日生劇場だった。こういうミスはよろしくありませんね。改めてお詫び申し上げます。

ところでその新橋演舞場は愛之助らによるブロードウェイ・ミュージカル『コメディ・トゥナイト!』なるもので、ちょいとこれは、どうにもならないものだった。「ローマで起こったおかしな出来事」の「江戸版」と副題に謳っているが、うわべだけローマを江戸におきかえたところで話のポイントが土台から成り立たず、洒落にもならない。企画の見通しの甘かったが故の失敗だから、愛之助が懸命につとめるだけ気の毒になるばかりで、とても笑えるものではない。

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大相撲春場所はおそらく誰ひとり予想しなかったであろう筋書となって、さしも普段は関心を示そうとしない民放各局まで、春場所だけでなく相撲の話題をいろいろな番組にして放送を始めている。稀勢の里はこれで断トツに人気随一の力士となったに違いない。相撲ぶりもだが、横綱の土俵入りが、所作のいちいちに重みがあって近来稀に見る素晴らしさだ。セリ上がりの前傾も程がよく、したがって風格が出る。最近の横綱は皆、不知火型だとそうなりがちなのは差し引いても前のめりに突っ込み過ぎるのが気になる。マスコミが、何秒かかったからどうのということばかり問題にするのはおかしな話で、流れと間合いが整っていることが肝要で、先輩の三横綱の中では、リズム感がいい日馬富士のが一番、白鵬のは、ひとつの所作ごとに流れが停滞する感じが感心しない。

万人が目撃していた土俵上での怪我を押して出場、優勝を決めたのは、貴乃花最後の優勝のケースが、小泉首相の「痛みに耐えてよく頑張った、感動した」という総理大臣杯授与の際の「名言」で誰知らぬものないが、13日目の土俵で負傷、休場かと思われたときに連想したのは、昭和31年秋場所の初代若乃花のことである。前場所初優勝してこの場所も最有力と目され、当然横綱昇進が期待されていた初日目前、煮立っているちゃんこの大鍋を、回りではしゃいでいた3歳か4歳ぐらいだったかの長男坊がひっくり返して全身火傷で死去するという不慮の悲劇に見舞われた。当時大関で若の花(はじめ若ノ花だったのが、験を担いで若の花となったら大関となり、こののち、若乃花と改めて横綱になったのだったが、「ノ」「の」「乃」、どう書こうと、本来こういう場合の正式の表記は「若花」であり、「の」は補いのためなのだからどう書いても同じことであり、この改名は意味がないと評した古老がいたが、なるほど、一理ある一家言であろう)といっていたが、その日からちゃんこを絶ち、土俵に上がるとき以外は大きな数珠を掛けて念仏三昧で秋場所に臨んで、鬼神の乗りうつったように連戦連勝、12連勝したところで高熱に倒れ休場となった。それでも千秋楽に再出場、勝てば優勝というので、本割が組まれて横綱の栃錦と対戦と決まった。ところが高熱が引かない、協会も異例の措置を取って、幕の内の取組み開始の時刻まで出場を待とうということにしたのだったが、遂に高熱が引かず欠場となり優勝を逃し横綱昇進もお預けとなった。(つまりこの場所、若の花は不戦敗が二つ付いて12勝2不戦敗1休み、という戦績だったことになる。)しかしこのときの強烈な印象から「土俵の鬼」という異名が出来、若乃花人気は爆発的なものとなったのだった。(日活で映画化して題名も『若の花物語・土俵の鬼』、本人役には本人が出演し、奥方役をつとめたのが、のちに石原裕次郎夫人となった北原三枝だった、という嘘のようなホントの話がおまけにつく。)

負傷を押して優勝、物凄い形相が評判となったという点では貴乃花の時と共通するが、しかしあの時の貴乃花はすでに功成り名遂げた晩年だった。片や新横綱の場所、片や横綱目前の場所でそののちに全盛を迎える期待をいやが上にも高揚させたという意味では、今度の稀勢の里のケースは初代若乃花を襲った惨事と重なり合う。確かに、八角理事長の言うように、後世語り継がれるであろうことは疑いない。但し問題は、あの怪我が今後の土俵にどれだけ尾を引くかということであろう。顔を歪めてしばし動けず、検査役の親方に背を持たせかけるというあの様子から察するに、筋肉断裂とでもいうことでなければいいが。

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それにしても、稀勢の里礼賛の声に覆われてほとんど聞こえてこないが、当の相手が照の富士であったというのは因縁というほかはない。一昨年秋場所13日目、照ノ富士が土俵上の取組みで膝を痛め、以後1年半、低迷を続ける原因となった一番の相手が稀勢の里だったのだ。たまたま私は見に行った日だったから、膝が折れるように崩れ落ちたさまを眼前にしたが、あの負傷がなければあの場所優勝して連続優勝、横綱になっていたところだった。踏ん張りが利き、寄りをこらえたり、吊り上げたりする怪力を発揮出来るようになった今場所は7割程度の回復具合と思われるが、終盤の遠藤戦と鶴竜戦で無理をしたのが祟って、稀勢の里との二番は膝の悪さがかなり目についたのも、事実として誰かが書いておくべきだろう。(このことは琴奨菊戦での問題の立会い変化にも微妙に影を落としている筈だが、しかしああいう一番で「あれ」をやっては、完全アウェイになってしまうのはやむを得ない。あの一番で出来た悪役イメージは今後の相撲ぶりで払拭するしかない。)

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照の富士との本割の一戦の最後の仕切りに入る時、解説の舞の海氏が、私なら右に変化し(て右上手を取りに行き)ますね、と言ったのが適中し稀勢の里が立会い右に動いて右上手を取りに行ったのだったが、立ち合い不成立となって、今度は左へ大きく変わるという動きを見せた。これまでの稀勢の里だったらこういう機転を利かせられたか、少々疑問だが、こうした場合、少なくともスポーツ番組と称するほどの番組なら、不成立となった初めの立ち合いから映像を見せなければいけない。照の富士が琴奨菊に見せた立ち合いの変化も、実はその前にまっすぐに立ったのが不成立となってやり直したという前提があってのことだった筈だが、その晩のサタデー・スポーと題するNHKの番組では、二度目の立ち合いからしか映像を見せなかった。中継放送を見なかった人は、その前に不成立となった立ち合いがあったことは知らないままということになる。ニュース番組の中のスポーツ・コーナーならともかく、これはスポーツの専門番組ではないか。もう5秒、時間を割けばすむことで、司会者とレポーターのじゃれ合いみたいな余計なお喋りを5秒だけ早くやめれば事は足りるのだ。この番組に限らず、近頃この手のことが多すぎる。

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先に書いた映画『若の花物語・土俵の鬼』だが、当時日活では、元大関が糖尿病のため幕尻近くまで凋落して再起、敢闘賞を受賞、40歳にして関脇まで復活する感激を描いた『名寄岩物語・涙の敢闘賞』の好評に続けて『川上哲治物語・背番号16』『褐色の弾丸・房錦物語』『怒涛の男・力道山物語』など、どれも本人が出演して本人自身を演じるという映画が次々と作られたその一作である。(若乃花や川上、力道山はともかく『房錦物語』と聞いてハハンとわかる人はこのブログを読んでくださる方の内どれぐらいいるだろう? 今で言うなら『遠藤物語』みたいなものだといえば一番手っ取り早いか。房錦は遠藤とは顔は似ていないがやはりイケメンで、前捌きのいい寄り身を得意とする好力士という点では共通する。関脇まで行ったが、まだ若い横綱だった大鵬が何度か苦杯をなめたことがある。)

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怪我の話ばかりだが、相次いでのアキレス腱断裂で片や十両、片や何と幕下にまで下がってしまった安美錦と豊ノ島が苦闘を続けているのを見るのは本当に胸が痛む。こういうことが、私にとっては一番と二番の贔屓力士であるこの二人に相次いで起こったのを見ると、神の悪意とでもいうべきものを思い浮かべざるを得ない。二人とも当代屈指の相撲巧者だが、その巧さも立ち合いの当たりや出足、踏ん張りが利いてこそ十分に発揮されるものだから、一見以前と同じように取っていても、むざむざこのあたりの地位の力士に負けてしまう姿を見ることになる。今の尾車親方の大関琴風や、近くはいまの栃ノ心なども幕下に落ちて復活したが、まだ若かったから可能であったことで、今度の二人のように年齢が行ってからではなかなか難しいのだろう。出来る限りBSの放送で取組を見るようにしているが、午後二時、三時という時間だから欠かさずというわけにもいかない。何とかいま一度、幕の内に復帰した姿を見る日を願うしかない。
 アキレス腱断絶というと思い出すのが往年の横綱羽黒山で、終戦直後の昭和22年頃まで、たしか4連覇と無敵の豪勇であったのが、二度に亘ってアキレス腱を断絶、四年間、優勝から遠ざかってしまった。そもそも、小学生だった私がアキレス腱という言葉を覚えたのはこの羽黒山の一件によってのことだったから、いまなおアキレス腱と聞くとすぐ羽黒山を連想するように頭の構造が出来上っているのだ。こうした不運にも拘らず40歳近くまで強豪の名を辱しめることなく横綱を張り続けて、最晩年に全勝優勝した時のことは忘れがたい思い出として、新進の横綱の千代の山を下手投げで破った千秋楽の一番など、ラジオのアナウンサーの声まで耳に残っている。

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むかし話にかまけるようだが、相撲だろうと野球だろと、芝居だろうと、結局のところ、どれだけ多くのむかし話を総和として蓄積しているかが、そのジャンルの厚みやら懐の深さやらを決めると言ってもいいのではあるまいか。女優の富士真奈美という人がなかなか端倪すべからざる女史であるらしいことは、ときどきテレビで喋っている姿を見て知ってはいたが、先日、風呂上がりのつれづれに何気なくつけたテレビの番組で、佐藤浩市等と駄弁っている中に、話題が高校野球になると、突如、巨人へ行った新浦が静商のエースで投げた試合をあたし下田の砂浜でラジオで聞いていたの(彼女は伊豆の出身らしい)、とか、放浪画家の山下清さんと(何かの番組でか)柏戸さんの部屋を訪問した時、柏戸さんが喜んで、タクシーで帰るとき裸のまんまで手を振って送ってくれたの、といった話がすらすら出てくる。面白い。オーオー、という感じでつい見入ってしまったが、彼女はこういう話題をいくつも持っているに違いない。新浦などという名前がすらっと出てきたり、裸のまま手を振ってタクシーを見送ってくれたなど、いかにも柏戸の一面らしい。いわゆるオタクとは違う、自由気ままに悠然と楽しんでいる感じがいい。
 それで、というわけではないが、稀勢の里の本名が萩原寛というのを今度知って、ヘエ、と思った。戦後、一リーグ時代最後の年と二リーグ時代一年目の二年間、巨人の正右翼手だった同姓同名の選手がいたのを思い出す。つまり中島治康と南村不可止の間をつないだわけで(なんて言っても、分かる人はどれほどいることだろう?)、台湾出身で前名を呉といった。戦前巨人、戦後阪神で活躍した呉昌征とは別人で、あまり目立たない地味な存在だったが、『エノケンのホームラン王』という巨人軍選手総出演の映画にちらっと出てくる。

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WBCというと日本の戦績のことばかりが問題になるが、もう少し目を見開いて眺めるなら、今回最も注目すべきは、アメリカが、メジャーの選手を揃えて優勝するなどようやくこの大会の意義に目覚めた感のあることである。野球は、オリンピックの種目に入れてもらおうなどと齷齪するより、WBCを真の世界大会にして隆盛を図るべきだというのが、私の持論である。将来その隆盛に気が付いたIOCが、ベースボールもオリンピックに参加してくれと頼んできたら、ようやく、まあ、出てやるか、と答えればよろしいのだ。サッカーだって、世界大会の方が本大会ではないか。

カリブ海上に浮かぶ一島嶼をかつてオランダが領有したのを起源として、自治領となった今、野球強国の一角を占めるようになったり(バレンティンよりはるか前にヤクルトにいたミューレンが監督をしているのも、ヘーエという面白さがある)、アメリカ球界のマイナーリーガーでチームを編成したイスラエルが予選リーグで健闘したり、注目に値するおもしろい話柄がいろいろあった。こうした視野を拡げて見るなら、準決勝敗退という今回の日本の戦績は、それなりに悪くない位置取りだったとも言えるのだ。