随談第575回 訃報あれこれ

加賀屋歌江が死んだ。小山三という別格的な存在は別とすれば、ひと足先に逝った吉之亟とともに、「昭和歌舞伎」を知る最後の女形だった。歌右衛門が八ッ橋をするのがテレビ中継されれば、画面のフレームの中、歌右衛門の斜め後ろ辺りに歌江の顔がある。遠近感が失われる画像の中では、身を殺していても大柄な姿はすぐに目についた。実を言うと少し目立ちすぎたのかもしれない。

それは、歌江にとっては決して喜ばしいことではなかった筈である。芯の役の役者の邪魔になってはいけない並び腰元や並び傾城の役を務める女形として、目立ちすぎることは慎まなければならない、という建前のもと、しかし実を言うと、これという女形は、みなそれぞれの個性をもって自分の贔屓を持っている。傾城や腰元たちの中に心に留まった顔を見つけて、あれは誰だ? というのが、観客の側の楽しみでもある。

歌右衛門の踊りに後見として影身の如く付きしたがって、引き抜きを行う名手としても知られたが、歌江の前に同じ役をつとめていた加賀屋鶴助がひと際の小柄だったのと、ここでも対照的だった。踊りの後見を表芸とすれば、形態模写という隠し芸があって、永い時期、俳優祭の名物になっていたことは、私がここに書くまでもないだろう。

昭和の末期から平成の初年にかけて、例年八月に国立劇場で続けていた葉月会で、珍しい狂言をいろいろ見せてくれたことが最も評価されるべきことだろうが(特に幸右衛門と組んで見せた『敷島物語』をはじめとする諸作は正に隠れた名作だった)、ああした形で一歌舞伎俳優として気を吐いたことと、歌右衛門の影法師として女形人生を全うしたことと、歌江自身、どちらを本望としていたかは、本人以外には窺い知れないことである。

上野の酒屋の倅で、昭和30年前後に新東宝の二枚目スターとして宇津井健の次ぐらいの位置にいた中山昭二が兄だという、かつては歌江のことを人に教えるときによくした説明は、今となっては、ヘエ―と言ってわかる人も稀になった。

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ダーク・ダックスのバリトン喜早哲氏が亡くなって、それなりの話題にはなったが、新聞の扱いは必ずしも大きくなかった。中には顔写真も何もないベタ記事の扱いのところもあったらしい。新聞を読まない若者世代が増えたというので東大総長が入学式の訓示に新聞を読みましょうと言う時代、紙面構成の中での扱い様でニュースの重大性が相対的に知れるのが新聞ならでは、インターネットではそうはいかない、と新聞人がアピールに努める昨今、喜早哲氏の死亡記事のこの扱いはその言を自ら裏切るものと言わねばなるまい。

確かに、イマドキノワカイモンはダークダックスなどといってもピンと来ないかも知れないが、しかし相前後して訃報が伝えられた秋山ちえ子、戸川昌子といった名前とともに、昭和30年代という時代の匂いを伝えるという意味で欠くことのできない名前である。もっとも戸川昌子が第一回の江戸川乱歩賞を取って作家デビューしたのは既に高度成長期に入ってからだから、実は少し遅れる。ラジオでデビューして最盛期をテレビで迎えたという意味で、ダークダックスも秋山ちえ子も、他の同業の人々とは一線を画す、戦後世相史年表を作るとしたら、独特の時代の匂いを持っているが故に逸することのできない名前なのだ。

ダークダックスよりデュ-クエイセスの方が上手いだの何だのということを言い出せば、いろいろな評価があり得るだろう。しかし4人コーラスというあの形で戦後社会に登場したのはダークダックスが先駆者であり、そのこと自体が、戦後世相を語るひとつの「事件」であったのだ、という意味で、他の、ダークダックス以上に音楽的に優れ、より以上にヒットナンバーを持ち、人気の上で上位に立ったどのコーラスグループにもまさって、喜早哲氏の死は、新聞紙面に然るべき扱いをされるべきなのだ。(つい先日、日本映画チャンネルで江利チエミの東宝映画『サザエさん』を放映したので70年ぶりの再会をしたが、初めと終わりに、ダークダックスが近所の酒屋の御用聞きの役で出てきたのを見て、アア、そうだったっけ、と古い古い記憶が甦った。つまり、あの映画は江利チエミだけでなくダークダックスが出演したことによってミュージカル映画となったのである。(もちろん、当節のミュージカルとは全然違うが、当時の製作意図としては、あれでもミュージカルなのだ。)

秋山ちえ子氏については、訃を伝えるどこの局でも流していた、戦時中殺された上野動物園の象の物語の語り部としてよりも、そのいわばデビューとなったラジオでの、声によるニュース解説のような番組が、子供心にも新鮮な感じが印象的だったのを覚えている。ダークダックスにしても秋山氏にしても、格別ファンであったわけでも愛読者・愛聴者であったわけでもないが、ラジオからテレビに移り変わって行った時代の感覚を鮮やかに思い出させてくれるという意味で、欠かせない名前であり懐かしい名前なのだ。

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ここまで書き継いできたところで、蜷川幸雄氏の訃報が入った。もっとも私は、決して氏のよき観客ではなかったし、あちらとこちらの活動を線で表すなら二つの線分が交わることはほとんどかった。

唯一接近したのは、既に10年も前になるか、菊之助が働きかけてシェイクスピアの『十二夜』を蜷川演出による歌舞伎仕立てで、まだ建て替え前の元の歌舞伎座で上演、大評判になったとき、旧体制時代の『演劇界』に私が書いた劇評を、氏が気に入っているらしいと教えてくれた人があった。と言ってもそれだけのことで、あちらからもこちらからも別に何をしたわけでもなく、交差しかけた2本の線は、またそれなりにてんでんに放物線を描きながら相遠ざかるようになった。

氏がまだ役者だったごく若いころ、大佛次郎の『三姉妹』という、国立劇場で新歌舞伎にもなった維新物の大河ドラマで、ほんのチョイ役だが(たしか二回ほど出てすぐ殺されてしまったと思う)、開港場になった横浜で虚無的な通弁の役をしていたのが、妙に気になってそれ一作でその存在ははっきりと認識することになる。やがてその後、灰皿を投げつける演出家、などと面白がられながら評判を高めていくのを、時にはその演出した舞台を見たりしながら、遠くから眺めていた。というのがそれからほぼ半世紀間の、わが蜷川像ということになる。

というわけで、私などが口を挟むようなことは何もない。一言で言うなら、主演俳優や、ときにはタイトルよりも、演出家の名前が大きく語られ、大きな文字で宣伝されるような時代状況を切り拓いき、現出させた人、ということだろう。料理はシェフ次第、芝居は演出家次第、ということを、時代の常識にした人、と言い換えてもいい。