随談第568回 一月の人物誌-梅之助・鶴蔵・春団治・前田祐吉・榎本喜八、一転して琴奨菊

梅之助逝去を伝えるのに、「遠山の金さん」などでおなじみの俳優中村梅之助さんが亡くなりました、という相変わらずのテレビ報道のスタンスには今更驚きもしないが、これはテレビとはそういうものであるとテレビ局自身が、ということはテレビ人種という人類が揺るぎなく考えていることの現われと見るべきであろう。しばらく昔になるが芥川也寸志逝去の折の報が「大河ドラマ『赤穂浪士』のテーマ曲でお馴染みの芥川也寸志さんが亡くなりました」であったから、仮にいまベートーベンが死んだとすると「『エリーゼのために』でお馴染みの作曲家ベートーベンさんが亡くなりました」というニュースになるわけだ。

それにしても、並のワイドショーならまだしも、TBSでも看板番組に相違ないかの『サンデーモーニング』でさえ、遠山の金さんから切り出したのはともかく、司会者の原稿の読み方が胡乱で、うっかりすると梅之助が前進座の創立者であるように聞いた人がいたかもしれないようだったのは、要するに知識も用意もまるでなしに読んだが故なのだろう。ほんの二、三秒の言い淀みの揚げ足を取るのではない。関口宏氏が名司会者(といっていいであろう)たる所以は、インテリぶりといい、世上の事どもに対する知識や見識、如才なさと骨っぽさの混じり具合等々、すべてが「中の上」という程のよいところでバランスよく整っているために、何事にもニュートラルな対応が出来るところにあると見ているが、つまり当節の中高年男性の質の良いところの備えている「常識」というものが如何なるものであるかを、この関口氏のヘマははしなくも物語っているかのようだ。前進座第二世代の代表として、芸の上でも座の運営の上でも、前進座の担い手であり顔であった中村梅之助も、要するに「遠山の金さん」の「これにて一件落着」というセリフで有名なあの人、であり、「前進座」とかいう劇団みたいなところの創立者だか何だか(?)でもあるらしい・・・といった辺りが、当節の中高年ジェントルメンの持ち合わせている「梅之助認識」であるということであろう。そもそも番組としての扱いもおざなり臭かった。要するに、知らない、のだ。ということは、「関心外」なのだ。かの「サンデー・モーニング」にしてなお、である。

(梅之助はそれでも「金さん」があったからまだいい。先年亡くなった安井昌二など、「新派の重鎮」だけでなく、かつては映画俳優として『ビルマの竪琴』という有名作の主役としての経歴もあるにもかかわらず、当節のマスコミ人には『ビルマの竪琴』といえば市川崑監督で石坂浩二のやったリメーク版であり、同じ頃に死んだ宇津井健なら知っているが、安井昌二などと言っても、ハア?といったとこなのだろう。)

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鶴蔵が死んだ。訃を聞いたのは暮れの内だったか。舞台に立たなくなってもう何年になるか、俳優協会で出している『かぶき手帖』の俳優名鑑の「市村鶴蔵」の項はもう十年來、私の書いたものが再録されていたが、それもこの一月発行の「2016年版」でお終いということになる。巧いという人ではなかったが、戦前からの歌舞伎を知る人ならではの「役者らしさ」があった。

何と言っても思い出すのは『三人吉三』の八百屋久兵衛だが(大詰に庚申丸と百両の金包みの二品を預かって花道を駆け込むところで、たまたま席を隣り合わせていた水落潔さんが「あんな人にあんな大事なものを預けて大丈夫なんでしょうかねえ」と笑いながら話しかけてきたのが如何にもむべなるかなという感じだった)、昭和46年5月、六代目菊五郎二十三回忌追善興行の歌舞伎座で鶴蔵になった時に、『道行旅路の花聟』に伴内をつとめて、はじめ三段目、つまり「進物場」「喧嘩場」と同じ裃袴で登場、花道付け根ではらりと衣裳が脱げ落ちていつもの湯文字姿になるという型を見せたのが忘れられない。つまり『旅路の花聟』と『仮名手本』三段目との脈絡をつけて見せるという、なかなか味な型なわけで、この型はのちに十代目三津五郎が見せたことがあったが、特に通しで出す場合など、今後も誰かが受け継いで然るべきであろう。ともあれこれで、大正生まれの歌舞伎俳優はいなくなったことになるわけか。

桂春団治についても書いておくべきだろうが、実をいうとこの人について私は語るべきことをあまり持っていない、というより、語るべき資格がないといった方が妥当かも知れない。つまり私が高座に何度か接した頃の春団治は、端正さが取り澄ました気取りと紙一重のような感じで、親しみをもって取りつく隙を与えてくれなかった。黒の羽織に朱色の紐といった一種の気障さと、一針のほころびも見せない完全主義の芸が、正直、まだ固かった。近年の、老熟を感じさせる風格から、いまならまた違う春団治に接しられるだろうと思いながら、落語を聞きに行くという習慣を失ってしまったという不精から、その真骨頂を窺う機会をついに得ないままになってしまった。米朝の上方言葉は東京の客にもわかるように按配した上方弁で、春団治のこそ本来の上方言葉だと教わりながら、そういうものかと思いつつ、遂にこれという機会を得ないままになってしまった。

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前田祐吉といっても、ハテ?と首をかしげる人の方が多いだろうが、1960年(つまり安保の年だ)の秋の六大学野球で早慶6連戦ということがあり、そのときの慶應の監督である。つい昨秋、その折の早稲田の監督だった石井連蔵氏が亡くなったときにもこのブログに書いたが、両校監督が相次いで逝ったことになる。こういうことは不思議なほどよくあるもので、よく、後を追うように亡くなった、という言い方をするが、あれから56年、月並みだが、時代が終わったと思わせられるような事態が次々と起る、これもそのひとつということになる。

しかしそういうこと以上に、あの年は、夏前に安保騒動があり、プロ野球では大洋ホエールズが三原監督になって万年最下位から優勝、日本シリーズでも大毎オリオンズに四タテを喰らわせて勝ってしまった年であり(巨人はこの年が水原監督の最後の年、翌年から川上監督になる端境期で、およそパッとしなかった)、大相撲はこの年5月場所で栃錦が引退し、その1月場所に大鵬が新入幕(3月場所で栃錦・大鵬戦というのが一回だけ行われている)、柏鵬の対戦が人気随一になった最初の年であり、という風に、何かにつけ、同じ「戦後」でも、昭和20年代以来の匂いがなくなって、「第二期戦後」とでもいうような時代の匂いが充満し始めた、分水嶺の年であったような気がする。私はちょうど大学に入学した年でもあったから、我が身と重ね合わせて、56年という歳月の果て、前田・石井の早慶両監督の死が相次いだことに感慨を覚えるのだろう。

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つい先頃、工藤公康、斎藤雅樹と言った面々が野球殿堂入りしたというニュースの中に、榎本喜八も殿堂入りというのがあってエーッと思った。まだ殿堂入りしていなかったのか、という驚きである。殿堂入りのための規定というのが、毎回、殿堂入りの記事に添えられているので凡そのことは知らないわけでもないのだが、何だかややこしいルールがあってびしっと頭に入っていない。とに角、榎本ほどの名選手がまだ殿堂に入っていなかったというのは不思議という他はない。ご当人はもう故人であって、直接その喜びを知ることはないままである。

変人だとかなんとか言われていたようだが、要するにそれはかつての剣豪小説の人物のような求道のため故の変人ぶりであって、いまのイチローだって相当の変人であるらしいのと同じことだ。人気のない時代のパ・リーグを代表する強打者として、南海ホークスの野村克也と双璧であろう。違うのは、大監督だの名監督などに間違ってもならない生き方にある。

三ノ輪に東京スタジアムが出来て阪急=大毎戦というのを見に行ったことがある。真夏のナイターで、歌右衛門と寿海でやった綺堂の『箕輪心中』を見て間もなくだったのをいま思い出したが、つまり地下鉄の日比谷線で南千住の手前の、そんなところにプロ野球の球場が出来たというのでちょいとした話題になった。当時はやりのコンクリート打ちっ放しのような殺風景な感じが、妙に似合っていた。試合経過などはもうまったく覚えていないが、阪急に、黒人選手第一号で人気のあったバルボンがまだ出ていた。その当時だって在日もう10年を越えていたろうから、かなり息長く活躍したわけだ。わが榎本は、パリスという白人選手の強打者と大毎の3,4番を打っていた。この試合でも、どちらかが一本、打ったのではなかったっけ。

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訃報がらみの人物誌の最後に琴奨菊のことを書くのは気が差すようだが、妙なつもりは全くない。今場所の相撲っぷりの見事さは既に言い尽くされている通りで,言い足すべきこともない。まさしく気は優しくて力持ち、「おすもうさん」というイメージ通りの人柄があまねく知れ渡ったらしいのも、我ひと共に喜ばしいことだ。

年末に載せた第565回の「BC級映画名鑑」の『名寄岩涙の敢闘賞』にちょいと名前を出しておいたが、栃錦などよりやや先輩だがひと足遅れて大関になった三根山という大関がいた。体つきと言い、がぶり寄りが得意の相撲ぶりといい、琴奨菊をその三根山と重ね合わせて見ることが多かった。あまり強いとは言えなかったが、真面目な土俵ぶりと「おすもうさん」らしい風格とで独特の人気があった。琴奨菊も、いうなら現代の三根山かと見ていたのだが、そういえば三根山も一度優勝している。もっともその場所は上位陣総崩れの乱戦混線模様の中で比較的傷の浅かった三根山が12勝3敗で勝ち残るように優勝したのであったから、今度の琴奨菊の優勝の内容充実とは比較にならない。今場所の「化け」ぶりがもし本物なら、先代の師匠の琴桜が、突如、押しとのど輪の威力がワンランク上がったかのような強さと風格となって二場所連覇して横綱になってしまった先例の再現もあるかもしれないと思わせる。(取りこぼしが多かったので連覇してなお疑問視する声も上がった時、現役の先輩横綱であった北の富士氏が「あんな強い奴を横綱にしないで誰を横綱にするんだ」と言い放ったのが実に痛快だったのを思い出す。)

日本人力士の優勝が10年ぶりというので、普段は大相撲など見向きもしないマスコミが大騒ぎをして、(案のごとく)ナショナリズム偏向と批判も出始めたようだが、私は今度のマスコミのフィーバーぶりは一度通らざるを得ない通過儀礼のようなものだと考えている。以前若貴ブーム前期の頃、貴乃花がまだ完熟に至らず、曙の方が先んじていた一時期があって、ある場所、ようやく貴乃花が曙との決戦に勝てば優勝というところまで行きながら負けてしまい、曙に名を成さしめたということがあったが、その時の表彰式はひどいものだった。テレビの画面に映る向う正面の客席がほとんど空になってしまったのだ。なんたる狭量かと、この時ばかりは、相撲ファンと称する人たちの心なさに唖然、憤然、曙のために義憤を覚えたものだったが、あれからざっと20余年、観客も随分大人になったのは、「小錦黒船説」などが起った頃を思い起こせば、「文明開化」もずいぶんと進んだことがわかる。日本人力士も時には優勝するようになってこそ、いうところの「大相撲国際化」も雨降って地固まるのだ。それにつけても、立役者となった琴奨菊の「おすもうさんぶり」は、さまざまな意味で「値千金」であったといえる。