随談第567回 新春舞台巡り

明けましておめでとうございます。

大みそかの晩、除夜の鐘でも聞いて静かになろうかと『行く年来る年』なる番組にチャンネルを合せたら、一応しめやかそうに喋る男性アナの長話の最後にゴーンと一突きだけ鐘の音を聞かせたと思ったら、たちまち男女アナの賑やかな掛け合いに変り、今年もいろいろなことがありました、まずこのポーズ、とまたしても五郎丸の例の映像が映し出された。五郎丸もラグビー人気復活も結構だが、もう散々やったではないか。結局NHKは、いやこの国は、百八煩悩を払うことなどどうでもよく、小休みもなくはしゃぎまわって、煩悩ならぬ憂さを紛らせばそれでよい、ということなのだろうか。

などと、いきなりぼやき初めをしてしまったが、新年はまず、四座+一劇場にかかった初芝居の舞台からとしよう。

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見た順にまず、「新春浅草歌舞伎」から。去年から新メンバーになって松也が最年長で30歳、以下巳之助27歳、新悟25歳、米吉と隼人が22歳、国生が一番若くて20歳というのは、過去さまざまの花形たちの例から見てもこの面々だけが殊更若いというわけではない。少年老い易し、急いてはならず、と言って、あまりうかうかしてもいられない。

もっとも、ついまだ子供のように思ってしまうのは、見るこちらも気をつけなければいけないのであって、恒例の開演前の年始ご挨拶に米吉が出てきて、その「トーク」の流暢なこと、機転の利くこと、たとえば『源氏店』の解説に、社長さんが若い女性を住まわせていてそこへやって来たわけあり風の若い男が彼女の元カレだったんです、などとやって程のよい笑いを場内から取っている。聞けばトークショウなどで既に定評があるのだそうだ。イマドキノ若イモンはみな頭がいいのである。(但し、多左衛門は番頭だから社長ではなく専務というべきだろうが。)

だがその頭のいいのが必ずしも芸にプラスとして働くわけではないのが難しいところであって、たとえば『三人吉三』で隼人のお嬢が、花道を出てきて後ろをキッと振り返る顔が男になっている。たぶんこれは台本を読んだ上で自分の解釈でしていることと思われる。『源氏店』でも松也の与三郎が、表で所在なく爪先で小石をもてあそんでいる様子が、いかにもわけありげである。なるほどこれも、台本を「読み抜けば」そういうやり方も成り立ち得るかも知れない。こういう種類の頭の良さは、かつてののほほんとした御曹司たちにはなかったことだろう。皆、真剣で、熱心な研究家なのだ。大切なのは形ではなく「肚」、「性根」であるとかつての先輩たちは説いたが、現代の若手は肚も性根も自分で「研究」してとっくに「わかっている」のかも知れない。だから現代の先輩役者たちは、肚だの性根だのと言う前に、大事なのは「型」である、「手順」であると説くべきなのかもしれない。

以下、ひと口評。『三人吉三』。巳之助のお坊のツラネがまるで時代物だ。様式とはいっても時代に世話あり、世話に時代あり。緩急は根底に意味を踏まえている。たぶん、己之助は分かってはいるのだろう。わかってはいても、「ああなっちゃう」のだろう。

『土佐絵』。内容は「鞘当」だが、清元の踊りにしたところがミソ。不破と名古屋に、留め女が傾城になっている。坂東流にあるものの由。己之助としてはこういう形で出せることを有難いと思わなくては。

『源氏店』。松也の与三郎は声に柔らか味と色気があるのが二枚目としては天性恵まれている。先月の『関の扉』の宗貞でも、ぬーっと立っているだけでサマになっていたのは大したものだったが、与三郎となるとそうは行かないのが世話物の難しいところ。米吉のお富は時蔵に教わった由。初めて見る大人の女の役だが、それなりに役になっているのはエライ。蝙蝠安の国矢は敢闘賞。下女およしの国久ともども澤村藤十郎の門人である。舞台に立てない師に代って気を吐く彼等に声援を送ろう。

『毛抜』。己之助の粂寺弾正。こういう役は精一杯ぶつかれるからか、今の已之助なりに役になっている。体に色気がつくには場数を踏むしかない。10代の頃一時ブランクのあったのが響いているともいえるが、逆に、歌舞伎を疑うことを知らぬ「歌舞伎大好き人間」の知らない「目」を持った(であろう)ところに、期待も楽しみもあるとも言える。

隼人が秦民部などという大人の役でそれなりの貫目を備えているのに驚いた。お嬢吉三とは大違い。昨秋の『おちくぼ物語』といい、この人は立役で大を成すようになるのかも知れない。

『千本桜四の切』。松也の、(取り分け本物の忠信の)役者ぶりはここでもいいが、狐になってからの体が重い。音羽屋型の忠信は、澤瀉屋みたいに派手に跳びはねなくともいいが、ケレンのエッセンスを見せるにはむしろ澤瀉屋以上の身の軽さを思わせる必要がある。

錦之助の上置き役の数々。引率の先生と自ら称する由だが、生徒たちがみなマジメなので大過なく務まっている呑気な先生、といった体。

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歌舞伎座は新聞に書いた通り。補遺という趣旨で幾つか箇条書きにすると、

◆今月の三傑。吉右衛門の梶原。芝雀の梢。東蔵の丈賀。

吉の梶原は今更のようだが、今回取り分け感服した。力みというものが一切ない。芝雀の梢は芝雀の名でつとめる最後の舞台だが、散々やり尽くした娘役で、娘というものはこう務めるのだというところを見せるかのよう。三千歳も、手を氷で冷やしてつとめたという古名優の逸話を思い出させるような、男のことだけを思っている女である。東蔵の丈賀は先代権十郎など前代の丈賀役者の水準を思い出させる。次点として歌六の六郎大夫も今やこの人のもの。

◆今月の推奨。染五郎の直侍。金太郎の秀頼。吉弥の吉田屋おきさ。種之助の『廓三番叟』新造。(もちろん、それぞれのレベルに於いて、の話である。)

染五郎の直次郎は、セリフの声音からして低く苦み走って吉右衛門のよう。いつもの甘い染ちゃんではない。この線で行けば、この作この役を次代まで愉しめる期待が持てる。染五郎は『廓三番叟』の太鼓持ちでも、孝太郎の傾城、種之助の新造という間に太鼓持という役回りで入って程よく納めるところに、端倪すべからざるプロデュース的才覚が窺える。染五郎論を書くなら着目の要あり。

金太郎は背も伸びて、10歳で小学校5年生、上演史上最年少との由。家康にまず一献と盃を差されるのには本当はちと早いわけだが、凛とした風情が立派な秀頼である。幸四郎おじいちゃんが待ち切れないのも無理はない。あの秀頼見たわよ、というのが後世語り草になるであろう。(その頃も歌舞伎が健在ならば、だが。)

吉弥のおきさ。この吉田屋で唯ひとり、正真正銘の上方の女である。

種之助はまだ役どころを定めていない段階だが、兄の歌昇が今度の俣野も推奨ものの好演で、役どころも固まりつつあるようだが、兄の小型になるより今度の役は将来へのひとつのヒントになり得る。

◆幸四郎が夜の部だけ、吉右衛門が昼の部だけの出演というのも、あって然るべきだが、二人に比べれば若いとはいえ、玉三郎が松緑と『茨木』、鴈治郎と『廓文章』と、後輩を引き立てながら、鬼女と傾城と対照的な役をするというのはよい仕事ぶりと言える。もっとも、夕霧は格別として、茨木という役は元来は女形の役と限ったものではないと思うが、かつて歌右衛門も梅幸も芝翫もやったように、女形が食指を動かしたくなる役であるらしい。(雀右衛門はやらなかったが、これも見識である。)しかし小顔の玉三郎は、前ジテの真柴はともかく茨木童子になってからは、小さいお皿に模様を沢山描いたようで、ナンダカナアと呟きたくなる。かつての若き日『紅葉狩』の鬼女をしたのを思い出した。

橋之助が『鳥居前』の忠信と『猩々』で正月役者ぶりを見せる。秋に決まった芝翫襲名の暁、ぜひとも「いい役者」になってもらいたい。『猩々』といえば梅玉はこのひと役だけだが、そういえば今月は、幸・吉だけでなく左団次も魁春も、東蔵も又五郎も、ひと役だけの出演が多い。

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国立劇場の『小春穏沖津白浪』は14年前の復活上演のときは何の感興も感想も覚えのない芝居だったので、その再演と聞いても期待薄だった割には、存外面白かった。座頭格の日本駄右衛門が富十郎から菊五郎へ、小平が菊五郎から菊之助に変ってきびきびとテンポがよくなったのが因。伝奇ものらしい雰囲気が随所にあったのも悪くなかったし、あとは上演台本を切り詰めてテンよく運ぶだけ、と割り切った芝居作りがいい。

と同時に、これは新聞にも書いたが、菊五郎劇団に時蔵父子という水入らずの一座で、大どころから脇役端役に至るまでキャスティングすることが、ことにこういう芝居の場合、絶大の効果を発揮することを如実に証明した。毎月が顔見世みたいな歌舞伎座とひと味、ふた味違った芝居を見せるにはこれに限る。かつて日本映画爛熟時代の東映時代劇や東宝の森繁の社長シリーズが何故面白かったが、進藤英太郎だ山形勲だ、加東大介だ三木のり平だ、その他その他、毎度おなじみの手練れの脇役たちがするべき仕事を当り前のようにし遂げるという、偉大なるマンネリズムにこそ理由がある。マンネリズムというとマイナス面ばかりが言われがちだが、読みを変えればマナリズム、復活物をしこなすにはこれなくしてはあり得ない。『岡崎』だ『伊勢物語』だ、最近の吉右衛門の復活物の成果も、一座と謳ってこそいないが、歌六だ東蔵だ芝雀だ、およびその門人たち、ほぼいつもの顔ぶれで脇役端役がそろっていればこその成果であったと、私は思っている。

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新橋演舞場初春花形歌舞伎。海老蔵、獅童に市川右近という一座形成前々夜みたいな海老蔵軍団ともいうべき顔ぶれで、おととしの傑作『寿三升景清』、昨年の非傑作『石川五右衛門』と乱高下した新作路線から、今年は『車引』に『女男白浪』に『七つ面』という温故知新路線。やや音なし(大人らし)の構えだが、そうなると却って、この面々がそれぞれ抱えている瑕が気になってくる。

海老蔵は、女に化けた弁天娘の容子など、いかにもドラマをはらんで天下一品なのだが、何故かもうひとつ冴え渡らない。長い人生、そういう時期もあらあな、と片づけるにはちょいと気になる。

右近は、このところの年の功でこの軍団に抑えの格で迎えられるだけの、役者ぶりに尾鰭がついてきたのは認めるが、飴玉を頬張ったような口跡の悪さは相変わらず。若い頃に、師の二世猿翁の真似をしたのが癖となり、更に嵩じて第二の天性となったか。こういう「天性」はいただきかねる。獅童は今回はまず無難の口。鷹之資が加わったのは今回だけのことか、それとも今後も同道するのか?

『七つ面』の終いに『幡隨長兵衛』の山村座よろしく書き足して、いま見終った『七つ面』を劇中劇とし、「お坐りを、お坐りを」と舞台番を活躍させて最後に海老蔵が「睨んでご覧入れまする」という趣向。自作自演のようなものだから、今回限りのこういう趣向もありかもしれないが、あまりいただきかねる。見終って全体に印象に薄い今回であった。

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四座+一劇場、と先に言ったのは、三越劇場の新派にこの月から月之助が新派入りしての初春新派公演がなかなかの出来栄えであったことを書いておきたいからだ。

新狂言『糸桜』とは故河竹登志夫さんの『作者の家』から斎藤雅文が劇化・演出したもので、黙阿弥の長女糸女を波乃久里子、養子になる河竹繁俊さんを月之助という配役で、脚本もよく役者もよく、新派といわず演劇界近頃のクリーン・ヒットである。繁俊が河竹家の養子に入り、当主として地歩を固める大震災後までを全6場、駆け足というより、欲張らずにキリリと引き締まった構成で、斎藤雅文という人を、皮肉でも何でもなく見直した。

月之助も嫌みのない素直な演技で好演、波乃久里子はこういうものをさせれば流石というべく、一旦帝劇の作者部屋の人となった繁俊が作者の道を断念すると言い出した時の驚き、呆れ怒り狂うさまなど、さながら17代目勘三郎を目の当たりに見るようだ。(18代目よりよほど似ている。)

もうひとつ書き落とせないのが、こういうものをするときの脇を固める新派の俳優たちの見事さで、腐っても鯛などと言ったら叱られるかも知れないが、そうではなく、まさしく正真正銘の鯛であって、竹柴其水になる佐堂克実、黙阿弥になる柳田豊といったベテランから、女中になる石原舞子・鴫原桂、車屋になる鈴木章生その他その他の中堅から、新派なければ見られない世界を作っている。

というわけで、これを今月のお奨めとする。へたな歌舞伎より実になる面白さを味わえること請け合いである。