随談564回 今月の舞台から

歌舞伎座は新聞評に「玉三郎歌舞伎学校」の趣き、と書いたように、玉三郎学長がとりしきる「大和屋式女庭訓」だが、学生はもちろん共学で、大学生もいれば中高生もいるから、一貫教育風でもある。あるいは自ら演じあるいは自ら演出し、学長先生の熱意にはほだされるが、教育方針もなかなかユニークのようだ。

「玉三郎演出」と銘打ったものもあれば謳っていないものもあるが、大なり小なり何らかの「玉三郎演出」の目がどの演目にも配られているに違いない。『赤い陣羽織』は在来の岡倉士郎演出、福田善之演出に対して明記したのであり、『関の扉』に竹本・常磐津掛け合いにするという大変革を施しても、こうした曲に演出とは名乗らないのは慣例に従ったまでのことであろう。

それはまあ、『千本桜』の道行を清元に直したりするのは昔からあることだから、『関の扉』を竹本・常磐津掛け合いにしたっていけないわけではないが、「昔むかし」という語り出しから、むしろ竹本の方が主体になっている。関の扉を挟んでの関兵衛と小町のやりとりひとつとっても、関兵衛は竹本、小町は常磐津が受け持つから、わかりやすいといえばわかりやすいのは一得として、(松緑にはこの方が向いているとも言える)、奥へ行けば行くほど、曲調・曲想の反りが合わなくなるのは如何ともし難い。しかし味わいなどというものは馴染んで来ればそっちの方が好みという人もやがては出現するかもしれない。玉三郎好みのテイストということであろう。『妹背山』のお三輪というのも、玉三郎としては数少ない丸本物での持ち役だが、これも、お三輪という役の一面が玉三郎のメルヘンチックなテイストと反りが合ってのことで、あくまで「玉三郎の婦女庭訓」というべきものだろう。

ところで玉三郎教授の生徒たちだが、松緑も七之助も、松也も児太郎も、大役を二つも三つも受け持っている。それを何とかやってしまうというところが、良くも悪くも現代という時代である。松緑は、ともかくも彼なりに力をつけてきていることを認めよう。関兵衛など、お祖父さんを西瓜とすれば夏みかんほども顔の大きさが違うから、あの扮装がさまになるだけでも大変な苦労努力が必要に違いない。松也が、宗貞などという不得要領な役を、それなりにそれらしく見せているのは、二枚目としての天性の良さといえる。児太郎という人は、濡衣なら濡衣、橘姫なら橘姫、それなりに役になるのに感心する。やや老けだちに見えるのも、やがて吹っ切れる時があるに違いない。

こうした中で七之助のこのところの進境というものは、ちょっと感心する。『関の扉』も小町を、『妹背山』も「道行」までは七之助に任せ、墨染から、「御殿」から玉三郎にバトンタッチという方式で、それだけ七之助を信頼してのことともいえるが、それはそれとして、特にお三輪の場合、このまま七之助で「御殿」まで見たいと思わせた。

中車という俳優をどう考えればいいのか、私は今なお、手探り状態でいる。何の役にせよ、とにかく相当のレベルでそれなりにこなしている。この人の履歴を考えれば感心してもいいのだが、なんとなく、もやっとしたものが残る。思うに、尻尾を掴まれまいという用心が過ぎるのではあるまいか。(そんなことを言われてもねえ、とご本人が聞いたら言うかも知れないが。)もちっと黙って見ているより仕方がないかもしれない。

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見る前は、今更『四谷怪談』でもあるまいに、まあ染五郎がお岩さんをやってみたいのだろうから仕方がないさ、といった気も正直、ないでもなかった国立劇場だが、存外に悪くなかった、こりゃ案外いけるでえ、というやつである。染五郎と(幸四郎もか)国立劇場の文芸部が、いろいろ細かいところにまで気を回して、台本の上でも、舞台上の工夫の上でも、一所懸命、辻褄を合わせたり、現行の慣例がほったらかしにしているところに気配りをしたり(たとえば序幕の「浅草田圃」に登場するお岩が糸立を手にしていたり、庄三郎の扱いを整備したり)、的中率にしたらさてどうだろうか、ともあれ好感度を上げる要因になっていることは間違いない。

発端に『足利館門前』、大詰に『師直邸夜討』という『忠臣蔵』劇のフレームをつけて、(染五郎が作者鶴屋南北として話を現代につなげるやり口は、大西信行版『牡丹灯篭』に於ける三遊亭圓朝、猿翁が『獨道中五十三駅』復活初演の折の(二代目鴈治郎だったっけ)作者鶴屋南北を登場させたアイデアのパクリのようだが、この染五郎の如才なさぶりの好感度がなかなかいいのでちゃんと洒落になっている。(こういうときのセンスの良さは、猿翁などよりずっと上等である。もっとも、そのエグさの有無が澤瀉屋と高麗屋を分けるところで、猿翁が今日の大をなしたのはこうしたエグいところを厭わず押し付ける「厚かましさ」があったからでもある。染五郎のボン・グウはそれに耐えられるだろうか?)

ところで『四谷怪談』を『忠臣蔵』のフレームに嵌めるという試みは。その猿翁が夙に昭和50年代にやっていて、そのときは「六段目」までの後に「隠亡堀」まで、次に「討入り」までの後に「仇討」まで二日掛りで上演したという初演の形に準じて、しかも今度のような実録風ではなく『仮名手本』そのものを演じたのだった。

今回のもう一つのミソは、小仏小平と小汐田又之丞の筋を表に出したことで、「又之丞住家」を出したのは、私の覚えているのは昭和43年7月の歌舞伎座で、17代目勘三郎のお岩・与茂七・小平に勘弥の伊右衛門の時で、17歳だか18歳の玉三郎が又之丞妹という役をつくってもらって出したとき(又之丞は訥升時代の宗十郎だったか。出番は少ないのにちゃんと覚えている)、その後にもう一回、勘三郎が北版と称して串田和美演出でコクーン歌舞伎で出しただけであろう。伊右衛門の母親のお熊という役は、「隠亡堀」だけだと、仮にも武士の母親とも思われない汚い婆アとして出るだけだが、ここが出ると彼女の日常が見えて、いわゆる「通った役」として、萬次郎が出ただけの甲斐のある役になる。またここに登場する高麗蔵の赤垣伝蔵が実にいい。『忠臣蔵』というフレームを明示したのが今回上演の眼目とすれば、高麗蔵の仕事は画龍点睛の働きをなすものと言っていい。

もうひとつ、これは新聞にも書いたが、いつもの三役に加え発端の南北と大詰の大星も併せ都合五役をつとめる染五郎に、若き座頭といった風情なり格なりがほの見えたことで、世代交代の気運の満ち始めた折から、そろそろ新大関昇進の時期も近いか、という感じもする。(少し気が早いかな?)

となると、御大幸四郎はご隠居さんか、ということにもなるが、隠居はともかく、相も変らぬ幸四郎風新劇には違いないとはいえ、この人の伊右衛門というのは悪いものではないし(現にいまの第一線級で伊右衛門役者が他にいるだろうか?)、芸に齢を取らせていないのは偉い。思えばいまはない日比谷の芸術座での木の芽会で、染五郎の伊右衛門に万之助の直助でやったのが、今年でちょうど50年前ということになる。つまりこの人の伊右衛門を、もう半世紀見てきたことになる。先の又五郎がお岩で(これは名演の誉れ高い傑作だった)、父の八代目が「隠亡堀」だけ与茂七で特別出演したのだった。ひょろ長い伊右衛門と直助に左右からはさまれた直助が、安っぽい現代風のビルの谷間に沈んだ格調ある赤煉瓦の建築みたいだった。もう一つ思い出した。このとき「隠亡堀」以外の場の与茂七は、先頃死んだ吉之亟だったっけ。

と、今回は褒めた『四谷怪談』だが、いつもいつもオミットされる「三角屋敷」を、いまやもう冗談ではない、ここできちんと出しておかなくては。それこそ、国立劇場に求められるところだろう。先の猿翁の時はちゃんと「三角屋敷」を出している。こういうところが、猿翁の端倪すべからざるところと言える。

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文楽は、本興行の方の『奥州安達原』「環宮御殿」で千歳大夫も文字久大夫も、時代物らしいスケール感があってよく語ったが、鑑賞教室の方の『三十三間堂棟由来』がなかなか結構だった。私の見たのはBプロの方だが、「鷹狩の段」の咲甫もよかったし、「平太郎住家」から「木遣り音頭」を語った英大夫が出色だった。この大夫は、大曲を語るにはやや非力だが、こういうものを語らせればしっかりしている。無駄に修行はしていないというやつだ。

お柳もだが平太郎がよく語れるのがこの曲の勘どころで、平太郎と言えばかつて歌舞伎で歌右衛門が復活した時の三代目左団次のいいことと言ったらなかった。魁春と梅玉で(鴈治郎という手もある)、国立劇場で如何であろう。

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新橋演舞場の舟木一夫公演がなかなかよかった。このところ天一坊の伊賀亮だの物々しい役が続いたが、今度の勝小吉は、青果の『天保遊侠緑』とも子母澤寛の『父子鷹』とも違い、小吉自身の書いた『夢酔独言』から新規に作ったのがよかった。水谷八重子や林与一など、共演者にも人を得ているのがこの公演のいつもいいところで、今回特に英太郎が大活躍をする。(ちょっぴり芝翫や芝喜松に似ていることに気が付いた。)しばらく前だがテレビのチャンネルNEKOで「舟木一夫オン・ザ・ロード」という番組を見たが、なかなか面白かった。つまり、この人、芸談を語れる人なのである。

勝小吉といえば、映画では阪妻の最後の映画(撮影未完で死んだのだった)の『あばれ獅子』や、『父子鷹』は市川右太衛門が小吉で中学生だった北大路欣也が麟太郎役でデビューしたのを見ている。NHKの大河ドラマで『勝海舟』を渡哲也がしたときには、何と松緑(二代目である)が小吉役で出ている。

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毎年暮れの三越劇場には劇団民芸の公演が掛かる。何だか奈良岡朋子一座のようなことが多いが、今年は小幡欣治作の『根岸庵律女』、つまり正岡子規の妹の話で、一代記というか、一種の芸道物風というか、もちろん再演だが近頃古風ともいえる芝居を、初演では主役の律をした奈良岡は今度は母親役で脇に回り、若手を前面に出している。もう宇野重吉を知らない世代なのだそうだ。若い女優の声がびんびん響きすぎるのが、民芸や前進座の特徴というか(まさか芸風ではないだろう)玉に瑕だが、良い意味での新劇らしい舞台で、久しぶりにこの劇団を見直した感じだ。