随談第562回 今月の舞台から

11月の歌舞伎座が十一代目團十郎50年祭というので、私が担当しているカルチャーの教室で受講者の方々と私の手持ちの十一代目の古いVTRを一緒に見た。格別の珍品ではない。昭和40年3月歌舞伎座での七世幸四郎17回忌の折の『勧進帳』で、このときは團十郎・白鸚八世幸四郎・二世松緑の三兄弟で弁慶と富樫を一日替わり、義経も延若・後の七世芝翫の先先代福助・雀右衛門が一日替わりするので、すべての組み合わせを見ようと思ったらほぼ毎日見なければならなくなるという騒ぎだったが、VTRに映像が残っているのは團十郎の弁慶、松緑の富樫、延若の義経という顔合わせのものである。何度も見て知っている映像だが、改めてそのスケールの大きい役者ぶりに感嘆久しうした。映像の時とは別の日に実際の舞台も見ているが、当時思っていた以上に、掛け替えのない人であったことが今更の如くに思われる。

不器用という評判だった通り、いかにも武骨不器用、減点法で採点でもしたら点数を引かれるところは多々あろうが、しかしこれほど荒事の骨格を備えた弁慶らしい弁慶は、以降、遂に見ることがない。歌舞伎座の筋書にも書いたが、その芸質を一言で言うなら「豪宕」というべく、その魅力を一言で言うなら「男性美」というべきであろう。

(それはそれとして、この松緑の富樫も、いま見ると実に見事でほとんど模範的といっていい。当時の通念としては、白鸚または松緑の弁慶に團十郎の富樫というのがベスト配役とされていたこともあって、むしろ不慣れな役で兄貴につきあった兄弟愛の方が話題だったかもしれない。)

海老蔵は祖父似と言われるが,痩身痩躯という外観、一種のeccentricityを蔵した気質に、たしかに共通するものを覚えることはある。『若き日の信長』に父十二代目よりも役との親近性があり、『河内山』ではそれが役への屈折として顕われる分、「広間」「書院」では変化球の面白さが生きるが、「玄関先」では如何にも若輩ぶりを露呈する。まあこれは、年配から言って余儀ないこととしても(河内山というのは、悪をし尽くした悪党が、ふとした善心から上野の使僧に化けて大名に一杯喰わせる、これ以上はない大博打を打って、「悪に強きは善にも」という、悪党人生の果てに得た悪党哲学と諦念とがブレンドされてそこはかとなく漂ってこその面白さ、つまりは大人の芝居であって、同じことを若造がしたって青臭い悪戯にしかならない。つまり海老蔵にはまだ無理な芝居なのだ)、それよりもセリフがヘロヘロなのがこういう芝居では致命傷となる。もっとも、緋の衣を着たあの扮装はなかなか似合うし、チャームもあるから、延命院日当をしたら面白かろう。

『若き日の信長』では左團次の平手中務がなかなかいい風格で、この人はこの人なりに、ひとつの境地に達しようとしていることが思われる。が、それはそれとして、十二代目が健在でこの役で父子共演をしたら、ということをしきりに思いながら見たのも事実である。

今川の間者僧覚円という役をする右之助が、近頃の人にはちょいとない味な演技を見せる。病気でしばらく休んでいたのが、再起後、いい味を見せるようになった。女形と両方行けるところが、若い時には痛しかゆしになりがちだったが、ここへきて、立役女形それぞれに、うまい具合に発酵するようになった。すっかり世代交代した脇役陣にあって、ひときわ大人の芝居である。

菊五郎の御所五郎蔵、幸四郎の『勧進帳』弁慶、仁左衛門の『千石屋敷』の大石は、いずれも、それぞれの役者人生を反映したそれぞれの到達点と言えば足りるであろう。『御所五郎蔵』では魁春の皐月の隴たけた綺麗さというものも、この人の永い女形としての蓄積の上に底光りがするようで、年代物のワインをちびりとやるような味わいがある。各人それぞれに、それぞれのものを発酵させる年配に達しているのだ。

若い人では染五郎の実盛がよかった。セリフに丸本味が薄いのは難点だが、生締物にドンピシャリの仁のあること、とりわけ爽やかさのあること、この役この狂言にふさわしい夢幻性のあること、素の優しみが役の優しみに通っていること等々、これらの長所がことごとく生きている。妙なことを言うようだが、太郎吉の鼻をチーンとかんでやったり、太郎吉が本物の馬に乗りたそうなそぶりをするのをそれと察してやったりする、いうなら芝居の遊び、入れ事の箇所で、実盛役者の当否が計れると私は思っている。それがないと、20年後のことを予言(予約?)したり、人名はまだしも地名を勝手に命名したりするこの「不思議な小父さん」として、適任者とは言えないのだ。(染五郎より遥かにうまい勘三郎が、夢幻性という一点で、染五郎に一籌を輸するのはこのこと故である。)

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吉右衛門が「由良兵庫助館」を初代以来100年ぶりに復活するというのを「売り」にした国立劇場『神霊矢口渡』だが、周到な準備と条件を整えてしっかり演じさえするなら名作であることは疑いない『岡崎』や『競伊勢物語』と違い、果たしてどういうものやら当りのつけようのなかった代物だが、まずは、吉右衛門充実の日々は今も続いていることを証するに足る仕事ぶりであった。敵方に寝返りと見せてそうでなかったり、わが子を若君の犠牲にしたり、先行名作のあれこれから趣向をパクっている辺り、セミプロ作者福内鬼外先生の面目躍如というところだが、吉右衛門はあくまで正攻法に攻めてまずは見応えは充分ある一幕に仕上げたのは同慶の至りというべきか。歌六のしている江田判官の扱いが原作と違えてあるのが脚本校訂上のミソであろう。名作未満、凡作以上というところ、100年上演されなかったわけもわかるし、だがやってみれば相当の作として見られる。少なくとも、吉右衛門の苦労は無駄ではなかった。

とはいえ、やはり何と言っても『頓兵衛住家』が底光りがして見えるのは手垢がついている有難さだが(艶とは要するに手垢であるとは、かの『陰影礼賛』の説くところである)、そればかりでなく芝雀のお舟の手柄でもある。雀右衛門襲名を前にして着々と打率を稼いでいるところだが、この人の本領はやはりこうした娘方にあることを証明したとも言える。歌六の老役も遂に頓兵衛までつとめるようになって、段四郎休演のいま、これも当代でのものであろう。

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と、言いかけたら、その段四郎が11月から『ワンピース』に出演しているとの報を受けた。10月に寿猿のしていた役をつとめている由。筋書等には、とくに「再起」だの何だのと謳わず、ひっそりと、また不定期な出演の仕方であるらしい。必ずしも楽観は出来ないが、ともあれめでたいことと言わねばなるまい。

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『矢口渡』といえば公演中の一日、伝統歌舞伎保存会の主催による研修発表会が行われ、米吉のお舟、吉之助の頓兵衛、蝶之介の義岑、京由のうてな、吉兵衛の六蔵等々といった配役で「頓兵衛住家」が上演されたが、米吉の娘方としての素質の良さ、吉之助の手強さ、蝶、京由の仁の良さ、吉兵衛の手強さ、それぞれに今後への期待のもてるものであった。先月も亀鶴の貢らで『伊勢音頭』があったが、これもなかなかの好成績だった。一回だけの上演だが、かえってそれがいいのかもしれない。それよりむしろ、ご褒美として機会を与えるということがあっていい。

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加藤治子が亡くなって、マスコミではもっぱら「お母さん女優」として紹介しているのはそれとして自然なことだろうが、たまたま訃報の届いた日、劇場で隣り合わせた小田島雄志さんが、若き日にはじめて「年上で可愛いと思った人」だったと仰っていたのがむべなるかなという感じである。私は小田島さんよりさらにひと回りも下だが、「かわいい」という感じはよくわかる。が、同時に「こわい女」をさせても、というか「女のこわさ」を演じさせてもユニークな人であったと思っている。仮に「日本舞台女優何傑」といった企画を立てるなら相当いいところにつけるのではないか、というのが私の「加藤治子論」の結論である。

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新国立の『桜の園』を見ていて、どういう演技がいいとか、どういう役者が上手いとかいった基準というか、評価の仕方というか、そういったものが随分と変わってしまったなあと、改めて思い遣った。元よりそんなことは、いわゆる70年代の地殻変動以来、常識みたいなものと心得ているつもりだが、それにしても、ここまでくると、遥けくも来つるものかなとため息が出るほどである。

冒頭、ロパーヒンが小間使(などという、ナントカ・ハラスメントだと訴えられはしまいかと心配になりそうな、古めかしい呼称が配役表に書いてあるのは神西清訳を使っているからだ)のドウニャーシャを相手にぼそぼそ、ロクに聞き取れないような調子で喋るのを聞いているだけで、アアこりゃ駄目だ、と私のような時代遅れのむかし気質の者は思ってしまうのだが、カーテンコールでは結構拍手を浴びているし、そもそも演出者が許しているのだから、あれでよしと認められているのだろう。台本の上では対話だが、今度の演出ではほぼ舞台中央に観客に向かって立って、つまりシェイクスピアか何かの冒頭の独白に近い形でこれを言うのだから、なおのことと言わねばならない。

今度のロパーヒン君はひとつの例であって、この手のことに、舞台だけでなくテレビドラマなどでも、ちょいちょいぶつかる。私には妙な癖としか思われない演技が、巧いとされているらしい。しかし私だけが時代遅れなのかと思うと、少なくとも今度の『桜の園』の場合、幕間にロビーで会った演劇関係の顔見知りにそれを言うと、皆ひとしく賛同したのだから、ハテどういう考えればいいのだろうか?

随談第561回 私家版・BC級映画名鑑 第8回 映画の中のプロ野球(番外その2)『三太と千代の山』

『三太と千代の山』は、昭和27年9月18日封切りの新東宝作品だが、新理研映画株式会社製作とクレジットにある。上映時間約46分という短尺物で、私が虎の巻にしている昭和38年発行の『キネマ旬報』増刊の「日本映画戦後18年総目録」は昭和20年8月15日から昭和38年8月15日までの間に封切られた日本映画全作品をリストアップしたものだが、それによると、古川ロッパ主演の『さくらんぼ大将』と同時に封切られている。二本立だったわけだが、実はこの二本とも、当時人気のラジオドラマ、その頃の言葉で言う放送劇の映画化である。『三太物語』がNHK、『さくらんぼ大将』が前年末に開局した、この時点で唯一の民間放送だったラジオ東京。テレビというものがまだ存在しないこの当時の放送劇の質量ともに隆盛だったことは、現代の人がもっと認識して然るべきで、『君の名は』や『笛吹童子』だけが特別だったわけではない。ウィークデーには毎日夕方の5時~6時台が子供向け、ないしは家族向けの連続劇が15分づつ(NHKの朝ドラが今なお続けているあの形式こそ、往年の連続放送劇の形式の流れを汲むものである)、日曜日にはもう少し長い時間のもの、というケースが多かった。(いまもなお振袖姿で矍鑠としている黒柳徹子女史の売り出した『ヤン坊ニン坊トン坊』は毎日曜6時台、家中で聴く番組だったから、『笛吹童子』や『紅孔雀』のように子供には絶大な人気でもお父さんは聞いたことがない、というのとは違っていた。)『三太物語』にしても『さくらんぼ大将』にしても、夕方になると、仮に我が家では聞いていなくとも、近所のどこかしらの家から放送時間になるとまず主題歌が聞えてくるから、誰もがその歌を聞き知っていた。(どこの家もあけっぴろげの木造住宅だった。)実をいうとどちらの番組も私はそれほど熱心なファンだったわけではないにも拘らず、いまでもフッと、『さくらんぼ大将』のあのロッパの特徴ある歌声を耳朶に蘇らせることが出来る。そこが昭和20年代と現代の決定的とも言える違いなのだ。

ところで『三太物語』だが、丹沢の奥というか裏というか、甲州と神奈川県とが合する辺りを流れてやがて相模川に注ぎ込む道志川という川のほとりの山村が舞台で、毎回必ず、「俺ァ三太だ」という主人公の少年のナレーションで始まることになっていた。作者の筒井敬介は当時売れっ子の放送作家で(テレビ草創期、いまの十朱幸代がデビューした『バス通り裏』の作者もこの人である)、私がやや敬遠していたのは少々学校推薦風の匂いも感じ取れたせいもあったが(よしそうであったとしても、それはまたそれで、いまとなっては懐かしいが)、凡その人物設定や、ストーリーの語り口や運び方は自ずと知っている。小学校の高学年と思しき三太少年とその家族、学校の友達、村人の誰彼、先生たちといったおなじみの人物たちが繰り広げる小宇宙を舞台とした物語である。中でも花荻先生という若い女性の先生が子供たちのマドンナで、山本嘉次郎脚本の映画でも、その舞台背景、ストーリー展開はほぼそのままに繰り広げられる。

仙爺と呼ばれて鮎釣りの名手として自他ともに許している三太の祖父(徳川夢声がやっている)が、化け物の祟りだと言って寝付いてしまう。三太は迷信だと笑うが、結局、それから始まった顛末で、この道志村へ大相撲の(といっても当時の巡業は各一門ごとにすることが多かったから)横綱千代の山一行の巡業がやって来て、三太が千代の山に鮎釣りの穴場を教えてやったことから親しくなり、次の本場所に招待してくれることになる。という主筋に、結婚退職したマドンナの花荻先生が川で泳いでいて失くした結婚指輪をめぐる脇筋が絡んで、藤原釜足演ずる校長から特命を受けて三太は先生のために毎日川に潜って探すが見つからず(先生は指輪を失くしご主人に叱られて泣いているらしい)、却って足を負傷してしまう。やがて千代の山が約束通り送ってくれた秋場所の入場券を、オラの代りに行ってくださいと花荻先生に譲ったのだったが、やがてその当日、ラジオの実況放送で(ここでも、アナウンサーは和田信賢である)千代の山優勝の報を聞いたところへ先生夫妻がやってきて、ごめんなさいね、指輪は今朝、家にあったことがわかったの、ということになる。千代の山の雄姿を見損なった残念さに、憧れだった花荻先生の、結婚してフツーの大人としての一面を見てしまった淡い喪失感が重なって、ひとつ大人になるという、いうならイニシエーション・ドラマなわけだが、花荻先生は若き日の左幸子で、当時の輝くばかりの瑞々しさというものは、同じ頃に作られた『思春の泉』(「草を刈る娘」改題)などを見てもそれまでの日本の女優にはないものだろう。この作でも道志川の淵で泳ぐ姿の美しさというものはいま見ても凄い。(昭和32年9月封切りの中平康監督『誘惑』というのを、私はこの女優の代表作と考えているのだが、もう一度めぐり会いたいものだ。)

こうしたストーリーの中で、巡業の一行に二、三日先立って鮎釣りにやって来た千代の山と仲良くなった子どもたちとの交流の場面で、千代の山がかなりの量のセリフを言って、千代の山自身を演じる芝居をする。『エノケンのホームラン王』における巨人軍の選手たちと同じデンだが、千代の山と言っても、往時を実見していず記録だけから判断する当世のオタク相撲通にはピンとこない惧れがあるが、当時の千代の山というものが如何に大変なスターであったかを知ることが、まず必要になる。幕下当時から稀代の逸材と言われ、いうなら、一世代後の大鵬級の大横綱になるものと期待されていたと思えば話が早い。前に『川上哲治物語』のところで書いた『土俵の鬼若乃花物語』『名寄岩涙の敢闘賞』『褐色の弾丸房錦物語』といった人気力士の伝記映画がしきりに作られたのは、これから数年後のいわゆる栃若時代の相撲人気絶頂のさなかだったが、これはそれより数年先、テレビのない当時、相撲雑誌のグラビア以外では力士の顔も体型も知るすべがないままに、すべてはラジオを通して熱狂していたのである。そういう時代の、千代の山は少年ファンの憧れの第一だったのである。

三太たちがラジオの中継放送で聴いている秋場所千秋楽の千代の山が優勝を決める一戦は、画面では蔵前国技館での実写で(まだ仮設国技館といっていた蔵前国技館の外観が映るのが息を吞ませる)千代の山と照国の取組みと(勝負のついた場面が出ないのは照国の名誉のためであろう)、優勝杯を出羽海理事長、優勝旗を時津風親方(つまり双葉山である)から千代の山が受け取るショットが写るが(後に言うように現実の秋場所はこのようにならなかった。照国との一戦、優勝杯と優勝旗を受けるショットは、おそらくその前年に大関で優勝した折のフィルムであろう)、相撲の場面としてはそれ以上に、三太たちの住む隣村で興行された巡業の場面が素晴らしい。体育館や公民館といった公的施設で行なう今日の巡業と違い、野天に土俵を作って行ったかつての巡業風景としても貴重な映像と言える。付け人が総がかりで千代の山の横綱を締める光景や、出羽錦と鳴門海を太刀持ち・露払いに従えて土俵入りをするショットから、当時まだ関脇だった栃錦が胸を出して激しいぶつかり稽古をするのを、出羽錦、信夫山、鳴門海、大起、羽島山、八方山といった出羽の海一門の力士たちが見守るシーンなど、眼を皿のようにして見ても足りない。(当時は都内にも巡業が廻ってきたものだった。大塚駅前の広場に二所ノ関一門の巡業がやってきて、当時小結だった初代若乃花や内掛け名人の琴ケ浜やガダルカナル帰還兵の怪力玉ノ海や、速攻の先代琴錦らを見たのも、近くの中学校の校庭に出羽の海一門の巡業が来て、前日に新横綱としての土俵入りを明治神宮に奉納したばかりの栃錦を見たのも(もちろん千代の山も)、この映画の一年後、二年後のことである。)

ところで、昭和27年9月封切りのこの映画のこうした場面は、おそらくその夏に撮影されたものと思われるが(物語も、巡業の一行が来て間もなく夏休みとなり、花荻先生の指輪の一件があって、やがて新学期、秋場所という風に展開する)、実はこの夏を転回点として、現実の千代の山の力士人生は思わぬ方へ大きく転じてゆくことになる。映画の中で千代の山が優勝した筈の昭和27年秋場所は、それまで卓抜の技能力士ではあっても関脇どまりと思われていた栃錦が優勝、大関となり、その後の大成への第一歩を踏み出すことになったのと対照的に、千代の山は不振がちとなり、翌年の春場所中に自ら横綱返上を申し出るという事態となる。返上問題自体は、真面目で誠実な人柄を反映したもので、協会も受理せずに落着、その後復調して会心の全勝優勝を果たしたりもしたが、大局的には、土俵の趨勢は千代の山に戻ってくることはなかった。三場所制から四場所制へと移る時期に通算6回という優勝回数は横綱として一級と言えようが、期待と前評価の大きさから見ると、やや悲運の人という翳が差すのは否めない。それだけに、その誠実でやや弱気(ですらある)強豪力士のたたずまいが一種の悲哀を帯びつつ懐かしく思い出されるのだが、『三太と千代の山』はちょうどその運命の転回点の直前の風貌を、奇しくも捉えていることになる。

映画のちょうど一年後の昭和28年秋場所の二日目、友だちと大塚駅前から厩橋まで、すなわち都電16番線の始点から終点まで乗って蔵前国技館で朝の一番相撲から結びまで観戦した打出し後の帰りがけ、ちょうど通りかかった売店の暖簾を上げて、店の人と談笑していたらしい笑顔を残したままの千代の山が、見上げるような長身をぬっと現わした。中学生にとってのこうした一瞬の記憶というものは、おそらく呆けたのちまで残像を残してくれるに違いない。実はこの場所は、その春に横綱返上問題を起した千代の山の再起の場所だった。

つづき

『三太と千代の山』は、昭和27年9月18日封切りの新東宝作品だが、新理研映画株式会社製作とクレジットにある。上映時間約46分という短尺物で、私が虎の巻にしている昭和38年発行の『キネマ旬報』増刊の「日本映画戦後18年総目録」は昭和20年8月15日から昭和38年8月15日までの間に封切られた日本映画全作品をリストアップしたものだが、それによると、古川ロッパ主演の『さくらんぼ大将』と同時に封切られている。二本立だったわけだが、実はこの二本とも、当時人気のラジオドラマ、その頃の言葉で言う放送劇の映画化である。『三太物語』がNHK、『さくらんぼ大将』が前年末に開局した、この時点で唯一の民間放送だったラジオ東京。テレビというものがまだ存在しないこの当時の放送劇の質量ともに隆盛だったことは、現代の人がもっと認識して然るべきで、『君の名は』や『笛吹童子』だけが特別だったわけではない。ウィークデーには毎日夕方の5時~6時台が子供向け、ないしは家族向けの連続劇が15分づつ(NHKの朝ドラが今なお続けているあの形式こそ、往年の連続放送劇の形式の流れを汲むものである)、日曜日にはもう少し長い時間のもの、というケースが多かった。(いまもなお振袖姿で矍鑠としている黒柳徹子女史の売り出した『ヤン坊ニン坊トン坊』は毎日曜6時台、家中で聴く番組だったから、『笛吹童子』や『紅孔雀』のように子供には絶大な人気でもお父さんは聞いたことがない、というのとは違っていた。)『三太物語』にしても『さくらんぼ大将』にしても、夕方になると、仮に我が家では聞いていなくとも、近所のどこかしらの家から放送時間になるとまず主題歌が聞えてくるから、誰もがその歌を聞き知っていた。(どこの家もあけっぴろげの木造住宅だった。)実をいうとどちらの番組も私はそれほど熱心なファンだったわけではないにも拘らず、いまでもフッと、『さくらんぼ大将』のあのロッパの特徴ある歌声を耳朶に蘇らせることが出来る。そこが昭和20年代と現代の決定的とも言える違いなのだ。

ところで『三太物語』だが、丹沢の奥というか裏というか、甲州と神奈川県とが合する辺りを流れてやがて相模川に注ぎ込む道志川という川のほとりの山村が舞台で、毎回必ず、「俺ァ三太だ」という主人公の少年のナレーションで始まることになっていた。作者の筒井敬介は当時売れっ子の放送作家で(テレビ草創期、いまの十朱幸代がデビューした『バス通り裏』の作者もこの人である)、私がやや敬遠していたのは少々学校推薦風の匂いも感じ取れたせいもあったが(よしそうであったとしても、それはまたそれで、いまとなっては懐かしいが)、凡その人物設定や、ストーリーの語り口や運び方は自ずと知っている。小学校の高学年と思しき三太少年とその家族、学校の友達、村人の誰彼、先生たちといったおなじみの人物たちが繰り広げる小宇宙を舞台とした物語である。中でも花荻先生という若い女性の先生が子供たちのマドンナで、山本嘉次郎脚本の映画でも、その舞台背景、ストーリー展開はほぼそのままに繰り広げられる。

仙爺と呼ばれて鮎釣りの名手として自他ともに許している三太の祖父(徳川夢声がやっている)が、化け物の祟りだと言って寝付いてしまう。三太は迷信だと笑うが、結局、それから始まった顛末で、この道志村へ大相撲の(といっても当時の巡業は各一門ごとにすることが多かったから)横綱千代の山一行の巡業がやって来て、三太が千代の山に鮎釣りの穴場を教えてやったことから親しくなり、次の本場所に招待してくれることになる。という主筋に、結婚退職したマドンナの花荻先生が川で泳いでいて失くした結婚指輪をめぐる脇筋が絡んで、藤原釜足演ずる校長から特命を受けて三太は先生のために毎日川に潜って探すが見つからず(先生は指輪を失くしご主人に叱られて泣いているらしい)、却って足を負傷してしまう。やがて千代の山が約束通り送ってくれた秋場所の入場券を、オラの代りに行ってくださいと花荻先生に譲ったのだったが、やがてその当日、ラジオの実況放送で(ここでも、アナウンサーは和田信賢である)千代の山優勝の報を聞いたところへ先生夫妻がやってきて、ごめんなさいね、指輪は今朝、家にあったことがわかったの、ということになる。千代の山の雄姿を見損なった残念さに、憧れだった花荻先生の、結婚してフツーの大人としての一面を見てしまった淡い喪失感が重なって、ひとつ大人になるという、いうならイニシエーション・ドラマなわけだが、花荻先生は若き日の左幸子で、当時の輝くばかりの瑞々しさというものは、同じ頃に作られた『思春の泉』(「草を刈る娘」改題)などを見てもそれまでの日本の女優にはないものだろう。この作でも道志川の淵で泳ぐ姿の美しさというものはいま見ても凄い。(昭和32年9月封切りの中平康監督『誘惑』というのを、私はこの女優の代表作と考えているのだが、もう一度めぐり会いたいものだ。)

こうしたストーリーの中で、巡業の一行に二、三日先立って鮎釣りにやって来た千代の山と仲良くなった子どもたちとの交流の場面で、千代の山がかなりの量のセリフを言って、千代の山自身を演じる芝居をする。『エノケンのホームラン王』における巨人軍の選手たちと同じデンだが、千代の山と言っても、往時を実見していず記録だけから判断する当世のオタク相撲通にはピンとこない惧れがあるが、当時の千代の山というものが如何に大変なスターであったかを知ることが、まず必要になる。幕下当時から稀代の逸材と言われ、いうなら、一世代後の大鵬級の大横綱になるものと期待されていたと思えば話が早い。前に『川上哲治物語』のところで書いた『土俵の鬼若乃花物語』『名寄岩涙の敢闘賞』『褐色の弾丸房錦物語』といった人気力士の伝記映画がしきりに作られたのは、これから数年後のいわゆる栃若時代の相撲人気絶頂のさなかだったが、これはそれより数年先、テレビのない当時、相撲雑誌のグラビア以外では力士の顔も体型も知るすべがないままに、すべてはラジオを通して熱狂していたのである。そういう時代の、千代の山は少年ファンの憧れの第一だったのである。

三太たちがラジオの中継放送で聴いている秋場所千秋楽の千代の山が優勝を決める一戦は、画面では蔵前国技館での実写で(まだ仮設国技館といっていた蔵前国技館の外観が映るのが息を吞ませる)千代の山と照国の取組みと(勝負のついた場面が出ないのは照国の名誉のためであろう)、優勝杯を出羽海理事長、優勝旗を時津風親方(つまり双葉山である)から千代の山が受け取るショットが写るが(後に言うように現実の秋場所はこのようにならなかった。照国との一戦、優勝杯と優勝旗を受けるショットは、おそらくその前年に大関で優勝した折のフィルムであろう)、相撲の場面としてはそれ以上に、三太たちの住む隣村で興行された巡業の場面が素晴らしい。体育館や公民館といった公的施設で行なう今日の巡業と違い、野天に土俵を作って行ったかつての巡業風景としても貴重な映像と言える。付け人が総がかりで千代の山の横綱を締める光景や、出羽錦と鳴門海を太刀持ち・露払いに従えて土俵入りをするショットから、当時まだ関脇だった栃錦が胸を出して激しいぶつかり稽古をするのを、出羽錦、信夫山、鳴門海、大起、羽島山、八方山といった出羽の海一門の力士たちが見守るシーンなど、眼を皿のようにして見ても足りない。(当時は都内にも巡業が廻ってきたものだった。大塚駅前の広場に二所ノ関一門の巡業がやってきて、当時小結だった初代若乃花や内掛け名人の琴ケ浜やガダルカナル帰還兵の怪力玉ノ海や、速攻の先代琴錦らを見たのも、近くの中学校の校庭に出羽の海一門の巡業が来て、前日に新横綱としての土俵入りを明治神宮に奉納したばかりの栃錦を見たのも(もちろん千代の山も)、この映画の一年後、二年後のことである。)

ところで、昭和27年9月封切りのこの映画のこうした場面は、おそらくその夏に撮影されたものと思われるが(物語も、巡業の一行が来て間もなく夏休みとなり、花荻先生の指輪の一件があって、やがて新学期、秋場所という風に展開する)、実はこの夏を転回点として、現実の千代の山の力士人生は思わぬ方へ大きく転じてゆくことになる。映画の中で千代の山が優勝した筈の昭和27年秋場所は、それまで卓抜の技能力士ではあっても関脇どまりと思われていた栃錦が優勝、大関となり、その後の大成への第一歩を踏み出すことになったのと対照的に、千代の山は不振がちとなり、翌年の春場所中に自ら横綱返上を申し出るという事態となる。返上問題自体は、真面目で誠実な人柄を反映したもので、協会も受理せずに落着、その後復調して会心の全勝優勝を果たしたりもしたが、大局的には、土俵の趨勢は千代の山に戻ってくることはなかった。三場所制から四場所制へと移る時期に通算6回という優勝回数は横綱として一級と言えようが、期待と前評価の大きさから見ると、やや悲運の人という翳が差すのは否めない。それだけに、その誠実でやや弱気(ですらある)強豪力士のたたずまいが一種の悲哀を帯びつつ懐かしく思い出されるのだが、『三太と千代の山』はちょうどその運命の転回点の直前の風貌を、奇しくも捉えていることになる。

映画のちょうど一年後の昭和28年秋場所の二日目、友だちと大塚駅前から厩橋まで、すなわち都電16番線の始点から終点まで乗って蔵前国技館で朝の一番相撲から結びまで観戦した打出し後の帰りがけ、ちょうど通りかかった売店の暖簾を上げて、店の人と談笑していたらしい笑顔を残したままの千代の山が、見上げるような長身をぬっと現わした。中学生にとってのこうした一瞬の記憶というものは、おそらく呆けたのちまで残像を残してくれるに違いない。実はこの場所は、その春に横綱返上問題を起した千代の山の再起の場所だった。

随談第560回 私家版・BC級映画名鑑 第7回 映画の中のプロ野球(番外)『秀子の応援団長』&『三太と千代の山』(その1)

「映画の中のプロ野球」と題して、第一回の『一刀斎は背番号6』から、戦後という「新時代」をシンボリックに映し出すものとしてプロ野球隆盛の様を映像に写し撮った作品を見てきたが、ここで番外として、戦前の作品に登場するプロ野球と、戦後プロ野球と並んで最も親しい存在だった大相撲を扱った作品を併せて見てみようという趣向である。『秀子の応援団長』には少女時代の高峰秀子の人気を反映した作という興味もあるが、『三太と千代の山』の方は、都会と地方の違いはあっても、子供たちの身なりや表情ひとつにも、昭和20年代という、貧しくも、ある意味で良き時代でもあった当時に小学生時代を過した者には、郷愁にも似た懐かしさを覚える作でもある。

まず『秀子の応援団長』から取り掛かることにするが、実はこの作のことはこの随談の第386回で触れたことがある。昭和15年、高峰秀子14歳の折、今で言うアイドルとしてしきりに作られた秀子映画の一作だが、その翌年の『秀子の車掌さん』は、監督も成瀬巳喜男だし、原作の井伏鱒二お得意の甲州の田園牧歌的ムードを生かして、こっちの方が映画として上等であることは確かだし、高峰としても後年を思わせる才質もほの見えて、もし「高峰秀子論」をするなら貴重な作だろうが、有名な『綴り方教室』とか、更に翌年の、こちらは名画の誉れ高い『馬』といい、14、5、6歳ごろの高峰秀子の可愛らしさというものは、いま見てもたしかに素晴らしい。が、それはそれとして『応援団長』にはいかにもBC級作品らしい懐かしさにある種の「感動」があって捨てがたい。高峰の自伝『私の渡世日記』を読むと、当の本人は忙しくて完成試写も映画館でも見るヒマがなかったと書いている、つまりあまり気もなければ愛着もないような作品なのだが。

この『応援団長』での高峰は、成上がりとはいえ金持ちの令嬢という設定で、伯父が「アトラス」なるプロ野球チームの監督で(この役を何とまだ壮年の千田是也がやっていて、戦後のいかにも新劇のボス丸出しみたいな千田しか知らない私には、大袈裟にいえば、新劇史を見直してみようかと思わせられるほどの感慨がある)、エースが出征して戦地へ行ってしまった後釜として新エースとなった第二投手が散々の出来で連戦連敗の中、秀子の作詞作曲した応援歌が俄然チームを奮い立たせる、という、つまりアイドル秀子がお目当ての「他愛もない」作なわけだが、それにもかかわらず私が「感動」したのは、14歳の高峰の初々しさと重ね合わせて画面からたちのぼってくる昭和15年という時代が持っていた「空気」であり、それを伝えてくれるのが往時の後楽園球場のグラウンドやスタンドのたたずまいだからである。戦中、グラウンドが芋畑になったりスタンドに高射砲陣地が出来たりしたものの、空襲で壊滅していない有難さは、往年のそれが映し出されるだけで、私の知る戦後のそれと重ね合わせると千万言に優るものがある。旧き善き「戦前」が辛うじてまだ保たれていた、あるひとつの時代。それは、「戦後」を知る我々だからこそ感じ取るのであって、昭和15年という「現在」に生きていた人たちにとっては知る由もなかったものかも知れない。

「アトラス」の対戦相手の各チームの選手のショットが映る。これがみな「本物」だというところに、この映画の製作者たちがおそらく予期していなかったであろう、「不朽の」価値があると言っても過言ではあるまい。巨人の攻撃が満塁で、一塁走者がスタルヒン、二塁走者が水原、三塁が(後に戦死する)吉原という(「アトラス」からすれば)ピンチに中島治康が打席に入ってニヤリと不敵に笑う。(中島治康という名前を懐かしいと思う人は、いまはもう後期高齢者に限られてしまったろう。今日野球通を以って任じているような人の口から中島の名が出たのを私は聞いたことがない。戦前を代表するホームラン打者で、ワンバウンドの投球を打ってホームランにしたという逸話は知られているが、戦後まで活躍したから幼い目で見た風格あるその巨体はよく覚えている。今で言えばライオンズの中村剛也か。その巨躯から和製ベーブともいわれたが、もう少し通っぽく言うと、戦後の赤バット青バット時代以降の(つまり『エノケンのホームラン王』に描かれている)ホームラン量産時代以前のホームラン打者という意味から、ベーブルース出現以前の代表的ホームラン打者とされるホームラン・ベーカーになぞらえられる。ベールース以前のベースボールを象徴する選手として、頭脳的な打法と走塁で知られるタイ・カップの名はその再来ともいえるイチローのお蔭で甦ったが、よほど飛ばないボールが支持されて年間10本も打てば本塁打王になるような時代が再び巡ってこない限り、ホームラン・ベーカーの名が甦る機会はまずないだろう。つまり、中島治康の名も。)

それにしてもこの塁上に走者としている3人から類推される打順はどう考えても変テコだ。この辺も、野球映画としてはデタラメデだが、製作側としては当時の巨人軍の三大スターに出てもらったということだろう。沢村は既にいず、川上は、売り出してはいたがこの3人には及ばない、ということか。)水原は、この9年後にシベリアから帰還したときにさえ、まだ現役の三塁手としてプレーする気でいたという話を聞いたことがある。巨人以外のチームとの対戦場面では、のちに中日の四番打者として鳴らした西沢が、当時はまだ投手として投げている。その他、さすがに昭和15年当時の選手となると、ほんの一瞬の短いショットでは、私にはその多くが見分けがつかないのが残念だが、野口二郎や阪神の景浦も写っていたようだ。

散々打ち込まれて悩むアトラスの代理エースがもうひとりの主人公で、灰田勝彦がやっていて有名な『煌く星座』を劇中で歌う。つまり「男純情の」に始まるあの有名な歌はこの映画の主題歌なのだ。灰田勝彦は戦後も大活躍して少年時代の私の記憶にも懐かしい歌手だが、昭和24年、戦争を挟んで9年後の『銀座カンカン娘』でも、高峰と灰田は似合いのコンビと見做されていたことがわかる。その最初の出会いの作品というわけだが、『私の渡世日記』によると、この作品の撮影中に高峰と灰田は顔を合わせたことはないという。つまり二人のシーンは別々に撮ったものの合成だったわけだが、それでも、まさに縁は異なものというべく、ハワイ育ちで湿潤なところのない灰田と、明るく闊達な若き日の高峰は、たしかに一脈通じ合う。こうした作品に写っている大女優・名女優になる前の高峰秀子の何というナツカシサ。それはある種のデ・ジャ・ヴュであって、かつてを知る知らないに拘わらないことだ。後年の「名女優」高峰が、いつも、やり切れないようなウンザリ顔ばかり見せることになるのと不思議なほどの好対照だが、これは高峰秀子論のひとつのテーマになり得るであろう。(この項つづく)