随談第559回 続・今月のあれこれ

『放浪記』の林芙美子役が仲間由紀恵に変っての初公演が話題になっているが、一口評でいえば、まずは無事に通過というところ、もうひと声上げて、精一杯よくやった、と言ってもいいだろう。

難しいのは、脚本から舞台からその他何やかにやら、森光子の体臭が染み付いてしまっているので、それを、これからどう自分のものに洗い直し、染め変え、着こなして行くかで、たとえば芙美子の行く先々で、男どもから、あの拙い面といった雑言を浴びる。脚本は別に森光子に当込んだわけではなく、実際に林芙美子がそう言われたことを踏まえているわけだろう。森光子だってちっとも拙い面だったわけではないが、そこをうまく自分と重ね合わせて(観客に)実感させるように見せていた。ここらが千回も演じ込んだ年輪であって、いわば森光子と観客の間で共犯関係を成立させていたから、そうあり得たのだ。仲間由紀恵には、当然だがまだそれがない。ばかりか、顔立ちから言って、はるかに「美貌」という印象が表に立つ。むしろ苦労して、なかなかよくそれを目立たせないでいるのは褒められて然るべきかも知れない。にもかかわらず、脚本の上の男どもの雑言と、舞台の上の芙美子の間にウソっぽいものが流れてしまう。これは如何ともし難いことであって、今後演じ重ねる内にどれだけそれが解消されていくか、言い方を変えれば、仲間由紀恵と観客の間にどれだけ共犯関係が成立してゆくかに掛かることになる。

成瀬巳喜男監督、高峰秀子の芙美子役による映画『放浪記』は、同じ菊田一夫脚本に基いていて、部分部分には舞台よりもいいところもいろいろある優れた作で、高峰自身も、一番好きな作品と言ったとかいう話も聞いた気がするほどだが、流石の名映画女優高峰秀子もこればかりは舞台の森光子の名声の陰に光を奪われてしまった。これも結局は、観客との共犯関係の成立の度合いの問題であるだろう。実際の森光子が(高峰秀子が仲間由紀恵が)実際の林芙美子にどれだけ似ていたか否かの問題ではない・・・筈なのだが。 

瀬戸内寂聴師が先頃東京新聞に面白いことを書いておられたのをちょっと拝借させていただくのだが、かつて瀬戸内晴美の名でようやく作家として認められるようになった頃、折から舞台の『放浪記』もようやく盛名高くなって、あるとき森光子の方から、女流作家連を劇場に招待するということがあった。平林たい子だ佐多稲子だ円地文子だといった錚々たる人たちがまだ健在で、瀬戸内女史はようやくその驥尾に付して見物させてもらったという。さてその終了後、大御所連の批評の凄まじかったこと、あんなの林芙美子と全然違うわよ、あの人せいぜい『放浪記』ひとつ読んだだけでやってるんじゃないの、といった調子であったという。

まあ、そういうものなのだ。平林たい子に至っては。生き証人も生き証人、自身が村野やす子なる役名で登場人物として舞台に出てくるのだから、つまり初演から10年、20年ぐらいまでの『放浪記』は、往時を身を以って知る人たちにとってはいわば「同時代劇」だったわけだ。それを思えば森光子も、そうした生き証人達がいなくなるまで長命して演じ続けたればこそ獲得した、あの「勝利」だったのだとも言える。翻って仲間由紀恵の場合は、森光子をずっと見続けてきたという「生き証人」たちと戦わなければならないわけだ。そうした生き証人たちを「共犯者」としてグルにしてしまえるかどうか? かかってすべてはそこにある。舞台は観客との格闘技なのだ。

『放浪記』で仲間由紀恵よりも気になったのは、芙美子を取り巻く男たちになる男優たちが、総じてこれまでとはガタッと落ちることだ。演技の巧い下手よりも、時代の雰囲気がないのと、役のキャラの表現にエスプリのないのが、芝居全体を痩せさせている。今度の一番の弱点はそこだろう。大昔のことは言うまいが、大出俊だ米倉斉加年だ山本学だ、いま思えば皆、なかなかのものだったことが改めて思われる。

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熊倉一雄、宝生あや子、庄司永健、八木昌子といった古くからの新劇人の訃報を、この秋になってから立て続けに聞いた。古くからの、といっても皆戦後派で、大なり小なり、ラジオやテレビで一般にも馴染の顔となったというひとつの世代として、ある種の感慨を抱かせる。

この中で八木昌子にはちょっぴり格別の感慨があって、久保田万太郎が死んだのが私が大学4年の5月のことだったが、その年の初冬のある日、久保田先生の母校に追善の奉納、といった感じで文学座の連中が三田の校舎にやってきて、大教室で『釣堀にて』を立稽古形式で上演したことがあった。演出の戌井市郎に中村伸郎、夏原夏子その他といったれっきとしたメンバーだったが、万太郎の戯曲の言葉の面白さを堪能するためには、なまじ衣装を着け装置を飾った舞台で見るよりも良き体験であったといまも思っている。ところでこの時に、新人として売り出したばかりの八木昌子が楚々たる風情で、女中か何かの役で出ていたのだった。新劇の若手女優にはちょいと類のない、といって新派の女優ともまた違う、しっとりとしたいい風情で、その後、紀伊国屋ホールだったかで万太郎のものをした時に、フームと感心したことがあって、ちょいとした隠れファンの自覚もあったのだった。それから何十年か相経っての後、ふとした縁でご本人と話をする機会があったのでこの時の話をしたところが、まるで記憶にないようだったというのがこの話のサゲとなる。恰幅もよくなってそれはそれでよろしかったが、かつての楚々たる風情はもうなかった。隠れファンとはいえまんざらでもなかった人、ご冥福を祈りたい。

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目に止まった訃報がもうふたつある。まず橘屋円蔵から。

最晩年に鬼気迫るような『お直し』を三越落語会でやって、評判が良くてもう一回、開場したばかりの国立演芸場でやって間もなく死んでしまった先代の名を継ぐまでの、月の家円鏡だった時分の円蔵が、テレビをつければどこにでも出ているといった人気者だった時分というのは、思えばもう40年からの昔になる。それにしてもきれいさっぱり、当節のテレビからは寸毫もその名は聞えてこなくなっていた。私自身が、誰それがどこで何をするから聴きに行く、と言ったことをしなくなってしまって久しいから、時折、思い出してはどうしているんだろうと思うことはあっても、それなりになっていたから、久しぶりにその名を聞いたのが訃報であったことになる。

それにしても、盛んな当時の円鏡がこういうことを言っていたのが忘れがたい。自分たちの世代の噺家で、いい噺家といえば志ん朝さん、巧い噺家といえば談志さんだ、あたしはそのどちらにもなれないからお客様に可愛がられる噺家になろうと思う、というのだった。とにもかくにも、志ん朝・談志と三幅対になろうという、そういうことを言って、また客の方もそう聞かされて許していたのである。
    

もうひとつの訃報は野球の石井連蔵である。小学生時分の私にとっては早稲田の名選手としてラジオでその名を聴き(当時は六大学野球の実況中継を当然のこととしてラジオで放送していた)、学生時代には早稲田の監督としての姿を神宮球場で見ていた。長身で、真っ黒に日焼けして名前の通り石のように意志が固そうで、あの早稲田のユニフォームがよく似合う、いかにもワセダの人というイメージ通りの人だった。もうひとり、早稲田の両石井として、石井藤吉郎という人がいて、こちらはふっくらとした体格で大人(たいじん)の風があった。

長嶋茂雄氏などよりもう一世代前の、古き良き六大学野球が存在し得た時代の人と言える。その意味では、最後の人であるのかもしれない。