随談第557回 私家版・BC級映画名鑑 第6回 映画の中のプロ野球(5)『エノケンのホームラン王』(その2)

(第555回から続く)
ところで肝心の野球の場面だが、大別して3種類に分類できる。

(1)グラウンドでの練習場面(先に言った平山がスライディングの手本を健吉に見せてくれるのもそのひとつ)


(2)控室や練習の場面などでの選手たちの会話(この部分は完全にシナリオ上の「セリフ」で、三原監督なら三原監督、川上なら川上、千葉なら千葉が役の上の自分自身として、たとえば「監督さん、健坊を何とか試合に出してやりましょうよ」といったセリフを言って演技をするのである。助監督だった中島治康と千葉がセリフも一番多く、また芝居心もあるかに見えるが、うまくはないが川上だって結構カワイイ。ここではあくまでも、後のV9のカワカミテツハル監督ではなく赤バットのカワカミテツジ選手である。)

(3)冒頭の巨人阪神戦に始まり随所に挿入される試合の実写映像。選手たちのプレーもさることながら、何度も映し出されるスタンド(観覧席と当時は言った)やグラウンドやダッグアウトなどの情景は、『野良犬』とまた別趣の興味をそそられ見飽きることがない。これほどつぶさに後楽園球場の模様を映像として記録したフィルムはおそらくないだろう。

練習風景の中で、三原のノックを一塁手川上、二塁手千葉、三塁手山川、ショート白石、レフト平山、センター青田、ライト呉(戦前巨人、戦後は阪神で活躍した台湾出身の名選手呉昌征とは別のもう一人の呉で、後に萩原寛と日本名を名乗るようになった)というスタメンメンバーが受けるショットとか、藤本、中尾、小松原(まん丸眼鏡をかけたヌーボー然とした若手で、外野手も兼任する、つまり二刀流選手の一人だったが、それにしてもこの映像の姿はなつかしい)、多田(この人は捕手兼任の二刀流だった)、川崎といった投手陣の投球場面に和田信賢アナの声でナレーションが入って「これは高速度撮影による投球フォームであります。カーブは実際には曲らないとのアメリカの物理学者の説があるそうでありますが、これが中尾投手の直球、これがカーブ、その効果はご覧の通りであります」といった解説がついたりする。捕手の内堀は、前に『不滅の熱球』で書いた、かつて沢村栄治の球を受けたあの内堀保で。この時まだ現役の正捕手だった。キャッチャーのミットやマスク、プロテクターの形が現在とはまるで違うのも懐かしくも興味深い。

試合の場面では球審の池田豊、塁審の西垣、国友らも字幕で紹介される。この当時は審判も黒か紺の上下に蝶ネクタイに威儀を正し、特に名審判と言われた池田球審は、「プレイボーーーーール」と音吐朗々、満場に響き渡る声音で試合開始を宣言し、一球一球の判定にも「ストライーーーーク」と音声高らかに宣告するので有名だったが(ある意味では大相撲の行司に匹敵する)、それがそっくり、この映画の中に再現されているのはそれだけで大いなる価値がある。ろくに声も発しない(聞えない)審判の方が普通の今日では考えられない名調子で、『ベースボールマガジン』だったか『ホームラン』だったか、プレーボールを宣告する姿が野球雑誌の表紙を飾ったことさえあった。池田に限らずほとんどの審判は名の聞えた元選手で、おのずから権威があった。このときの塁審の西垣徳雄は二年後、二リーグ制開始の折に出来た新球団国鉄スワローズの初代監督になるのだし、中日が初の日本一になった時の名監督天地俊一も審判をしていた。(逆転本塁打を放った川上がホームインするとき、池田球審が「ホームラン賞」として金一封を渡すシーンが映っているのも、往時を語る一資料だろう。)

もうひとつ、冒頭の巨人阪神戦で若林や藤村,捕手の土井垣等阪神の選手の姿が見えるのも懐かしいが、七色の球を投げ分けると言われた若林の投球フォームが、いま見るとあんなものだったかと、正直、びっくりする。専門家はどう見るか知らないが、素人目には、立腰で手投げのように見えるのだ。そういえば藤村にしても川上にしても、今の常識からすると随分、不器用なフォームと映る。先頭打者の千葉がヒットを放って、途中から四球を選んだときのようにほとんど歩いて一塁へ行くのは、ウン、むかしはああだったよなと思わず笑ってしまう。全力疾走どころではない。それがプロ選手の貫録というものだったのである。(高校野球で殊更のように全力疾走が強調されるのは、「堕落した」プロ野球の真似をするなという意味合いがあったのは確かである。)

さらにもうひとつ書き落とすわけに行かないのは、NHKの名アナウンサーとして知らぬ者のなかった和田信賢が登場し実況放送をする場面が再三挿入されることで、プロ野球にせよ大相撲にせよ、当時のラジオの中継放送の果していた役割と影響力の甚大さは計り知れない。(それで思い出すのは、私の小学校時代の上級生で、通学の道々、野球の架空実況放送(のつもりであったろう、たぶん)を独り言のように小声で言いながら歩いている生徒がいた。ピッチャー投げました、打ちました、大きな当たり、レフトバックレフトバック、といった具合である。あの人、どうしているだろう、といまも時折思い出す。)和田信賢氏はこの4年後、日本が戦後初めて参加したヘルシンキのオリンピックの放送のため病を押して出張、病状悪化して彼の地で客死するという悲劇的な死を遂げている。

当時のスタンドが一人掛けの椅子ではなく、仕切りのない木のベンチだったことは前に『お茶漬の味』の折にも書いたが、ラスト近くに健吉が客のいないがらんとした球場でホームランを打つ夢を見る場面で、当時の観覧席(とその頃は言った)の様子がつぶさに写し出される。(木製のベンチは当時はどこの球場も同じで、神宮などは外野は芝生席だったから、六大学戦の入りの薄い試合の折などは、野球見物よりデートが目的の男女(アベック、と当時は言った)の姿もよく見かけたものだった。)客席以上に驚かされるのは、ダッグアウトのベンチの何とも粗末なことで、木製の粗末な腰掛が雑然と置いてあるだけである。昭和23年という時代の如何に貧しかったことか。

ところで戦後三年目のこの年のシーズンまで、現実の巨人軍はまだ一度も優勝していない。(にも拘らず人気は随一だった。)監督も中島治康、藤本英雄とめまぐるしく変わって、この年から三原修が就任し、翌24年にようやく戦後初の優勝を遂げる。『エノケンのホームラン王』及び『野良犬』に映し出された巨人軍はそういう時代の姿であり選手たちだったわけだが、まだ痩せて心もち頬のこけた三原の風貌は、私などにはこよなく懐かしいし、且つ好もしい。(エノケン、ではない健吉青年に話しかける声音といい、言葉遣いといい、何とやさしいことよ!)このちょうど10年後、西鉄の監督として巨人と日本シリーズで三年連続して戦い、三連覇した時代の、誰もが知る、そしていまも映像で時折見かけることがある(『一刀斎は背番号6』に登場するのはまさにその時代の姿である)恰幅のいい大監督の風貌と一風異なり、いかにも智将という気配が漂う。ところでその三原をやがて西鉄に追いやることになる一大原因となった水原円裕ならぬ水原茂は、まだこの『エノケンのホームラン王』の時点ではシベリアにいた。帰還したのは翌昭和24年7月のことである。(その情景はニュースフィルムとして残っている。)だから水原の姿は、『エノケンのホームラン王』は元より、その年の巨人南海第9戦を舞台にした『野良犬』にも出てこない。