随談第554回 今月の舞台から(その2)&今月のあれこれ

偶然の重なり以外の何ものでもないが、各種の原稿5本に(当然ながらその校正も)、秋に出る著書の再校などが2週間ほどのところに集中したあおりで、心ならずも今月の舞台(その1)を掛け流しのまゝにしてしまった。BC級映画名鑑が中断のまゝなのも気になるが、渋滞解消の法則に従って一車線ずつ、順を追って掲載して行くことにしよう。まずは今月の舞台からその2、及びその他のあれこれから。

もっとも、「お知らせ」の欄に載せたように、歌舞伎座の納涼歌舞伎評は「演劇界」の10月号に書いたから、ここでは斜め読み風に幾つか、ピンポイントにつまんでおくことにしよう。以下、順不同で箇条書き。

1.『おちくぼ物語』で左近少将役の隼人がこれ、誰だ?と筋書の配役を確かめ直させる大びっくり、大殊勲、大立派。(但し、近頃の通弊で照明が暗いのでろくに読めず。怪談ものならいざ知らず、こんな典雅な、メルヘンのような芝居に、何故あんなに暗くするのか?) 

2.同じく『おちくぼ物語』で、七之助はじめ当節の若手たちが(弥十郎・高麗蔵クラスに至るまで)、現代語のセリフをスラスラスイっと、水を得た河童のように愉しげに喋っている。これって、どう考えればいいのだろう? (かつての歌右衛門たちは、もっと苦労して苦労して、現代語のセリフを言っていたような気がする。)

3.勘九郎と七之助の今月に関して言えば、七之助が目立って勘九郎があまり際立たないかに見える。これはひとつには、ここ最近の七之助がぐいと伸びる盛りに当り、勘九郎は安定期に入っているということであって、つまり七之助の成長をほめればいいのであって、勘九郎が悪いわけでも何でもない。あまり話題になる材料がない分、ちょっと損の卦が出ただけに過ぎない。まあ、長い人生にはそういういっときもあるのだ。

4.急に伸びるというのは若い時に限らない。『祇園恋尽くし』の扇雀も、筋書の配役を確かめ直した口である。隼人と違ってこちらは、あれ、誰だ?というわけではない、扇雀と分ってはいても確かめたくなるのである。見直した、と書いたら、ちょっと直せませんかというので、お見それしました、と書き直したが、却ってよくないのであるまいか? 『逆櫓』のお筆だって、なかなかのものだった。これは本物、ひと皮剥けたのだ。

5.これは新聞にも「演劇界」にも書いたが、己之助の急成長のことは、やはりきちんと書いておくべきであろう。『棒しばり』も『芋掘り長者』も、亡き父に何よりの供養をした。

6.いろいろ言いはするものの、橋之助の樋口の役者ぶりというものは、当節、それだけでももっと言われて然るべきであろう。私自身、いろいろこむずかしい批評をしておきながらこんなことを言うのも何だが、いっとき、何をしても充分に褒めてもらえない時期とか、褒めてもらえない人、というのが、かつてを振り返っても、あの優、この優と、何本も指を折って数えることが出来る。そういうことが暫く続いて、その内、何かのきっかけをつかむと、いままでのことが嘘のように、好評嘖々の時節が訪れたりする。もちろん、ご本人の成長とか円熟とか、理由はあるのだが、批評する側にも、少し心すべき点はあるように思う。

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月末になって、尾上右近の「研の會」、歌昇・種之助兄弟の「双蝶会」と立て続けにあって、なかなか面白かった。芝雀にお園に出てもらって歌昇の六助で『毛谷村』、染五郎が義経、又五郎が弁慶(こういう中に入るとなかなか立派に見えるのは、お父さんとして頑張ったのだろう)、歌昇が三保大夫をつき合った種之助の『船弁慶』という「双蝶会」も好感のもてる良き会であったが、ある人が、女形の方はよかったけど、男の方は何もしていない間が持ち切れないね、と言っていた。仕事をするより何もしない時の方が難しいという、とりわけ義太夫狂言の難しさを指摘した炯眼というべきだが、ところで、もしかしてこの人、「女形の方」などという言い方をするところを見ると、芝雀とは思わずに、あるいは芝雀の何たるかも知らずに、見たのだろうか? とすれば、ひょっとして野に遺賢ありか?

一方「研の會」の右近には驚嘆した。猿之助を静に迎え、全曲を清元オンリーで踊る『吉野山』(猿翁・雀右衛門で歌舞伎座の本興行で踊ったのはまだ昭和の頃だった。あれ以来か。さすがに延寿太夫も頑張っていましたね)の忠信の伸びやかにしてゆとりのある踊りぶり(切り口鋭く間のいい踊り手は、ともするとやや間がつまり気味になるものだが)も心憎いが、『鏡獅子』の、前ジテは、若いがゆえに却ってやや老けて見えるという、ありがちな弊もあるにせよ、腋の締め具合や中溜めの見事さは舌を巻く。後ジテは、正直、こんなのは見たことがないと思わされた。毛振りもさることながら、本舞台にかかってから、一睡して胡蝶と戯れる辺りの息の詰み方、間合いの伸びやかさ。このところは、私は誰のよりも芝翫のが好きだったが、右近はそれに似て、更にひと回り大きく、伸びやかである。これだ、と思った。(さる人曰く。勘三郎が生きていてこれを見たら、今夜眠れないだろう、と。同感である。)

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前進座が三越劇場に出て、終戦70年特別企画として『南の島に雪が降る』を出したのがなかなか良かった。原作者で映画でも主演した加東大介が、前進座俳優市川莚司として出征、ニューギニアでの実体験が題材という事実は、何と言っても前進座で劇化するのにふさわしいし、それより何より、こういう題材こそ、現在の前進座に最もふさわしい。現在の、と言わず、かつてだって、前進座はこうした「現代劇」をやってきたのだ。

(やはり終戦70年というので、日本映画チャンネルで昭和36年制作の東宝映画を放映したので久しぶりに見たが、昭和36年ともなると、俳優諸氏、栄養状態ももよくなっていて、主役の加東大介といい、元ピアニスト役のフランキー堺にせよ、偽如月寛太役の渥美清にせよ、森繁も小林桂樹も、食べ物がなくトカゲまで食ったというニューギニア戦線だというのに、みな栄養満点のようなかっちりとしたいい体格をしているのが何だかおかしい。良心的作品には違いないが、いま見ると、少々タガが緩んでいるようにも見える。

とはいうものの、やはりおそらく全員が何らかの形で戦争を体験していると思われる世代の俳優たちのこと、争われぬ臨場感と真実味があるのは間違いない。後の演劇評論家杉山誠の役の細川俊夫は、たしか立教大学で競歩の選手だった筈だが、俳優としてはアマチュアっぽくてお世辞にも巧いとは言えなかったが、加東大介に向かって「君の舞台を見たことがあるよ。前進座の市川莚司君だね」と言ってニッコリ笑う感じが、アヽ、昔はこういうインテリがいたっけと、思わず涙がこみ上げてきたほど懐かしいし(こういう俳優の持ち味こそ、本来アマチュアだった人ならではのもので、この種の俳優も昨今あまり見なくなった)、一方、節劇の役者だったという鯉之助役の伴淳三郎(つまり、バンジュンである)が、こちらは玄人中の玄人らしく、兵隊たちの前で演じる『瞼の母』で、加東大介の演じる番場の忠太郎にからむやくざ者の役で、戦前には剣戟の役者だったという昔取った杵柄で本息で斬りかかるのを、加東大介もむかしの市川莚司に戻って本息で受ける。ここらが、この映画ならではのご馳走というものだろう。)

前進座の舞台は、スタッフも役者も、それこそもう戦争を知らない世代ばかりであるはずだが、その割りには、嘘っぽさがないのに敬服する。嵐芳三郎以下、俳優たちも皆、良い意味で前進座的真面目さが生きている。台本も、映画版のシナリオより、的確なところをつかんでいるが、それにしても、軍隊というところにはあらゆる職業職種の人間が集まっているわけだが、東大出で劇評家をしていたという演芸分隊長の大尉がのちの杉山誠で、加東大介と同じ部隊にいたとは、これこそ嘘のような真の話ではある。

前進座は、吉祥寺の自前の劇場を失って困難が思いやられたが、この三越劇場の公演は、いかにもつきづきしい。定着することを願う。

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その『南の国に雪が降る』の劇化の協力者として名を連ねている文学座の加藤武氏が、初日直前に亡くなったのには驚かされた。スポーツジムのサウナで斃れたとの由だが、それで思い当ったのは、私が同人仲間と30年来続けている連句の会の雑誌に、かれこれ10年あまり前になるか、ゲストコーナーと称して、面識やらツテやらを頼って、各界の著名の方々にエッセイを書いてもらう欄に、執筆をお願いしたことがあった。快く引き受けて加藤氏が寄せてくれたのは、種々様々な健康増進のための器具を次々に買い込んでは試している内にはまり込んでしまったという、やや自虐的なシャイネスに東京人らしさの浮かび上がる好文章だった。

健康器具とスポーツジム。そんなにムキにならなくても、と他人に言われるまでもなく自覚していた筈にもかかわらず、結局ムキになって健康増進に励んでいた姿を思い浮かべると、可笑しくも哀しい。

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シアターコクーンの『貴婦人の訪問』は、期待外れの凡作だった。そもそも、原作(は読んでも見てもいないが)、察するところ)その寓意や風刺が生きているようには受け取れない。作曲もウイットがなく妙にものものしい。劇としていいところは原作の良さであり、何故ミュージカル化したのか、最後まで見えてこなかった。いつも堂々たる時代物俳優の山口祐一郎が、少々つっころばし的要素もある世話物の役に懸命に取り組んでいる姿を見る楽しみが、せめても終いまで見続ける興味をつないでくれた。

随談第553回 今月の舞台から(8月・その1)

(1)

新橋演舞場の『もとの黙阿弥』を見たが一向に弾まない。三日目の夜の部だというのにこの有様では先が思いやられる。原因は結構深いところにあるようなので、少々の「手直し」という対処療法では片がつくまい。一生懸命、面白おかしそうに振る舞うのがことごとく空振りに終わり、客席からはくすりとも反応がない。まれに小さな笑い声があったとしても、表層的な笑いに留まって、舞台を弾ませるような力には到底ならない。役者たちは皆、内心焦っているに違いない。

根本的には演出の誤算だろう。配役から行くと、まず狂言回しというか、独楽の芯棒の役である坂東飛鶴(という名前の役者が実際に昭和30年代半ばまで菊五郎劇団にいた。東横ホールの若手歌舞伎で『石切梶原』が出れば六郎太夫辺りをつとめる相当の腕達者だったが、作者はまたどうしてこの名前を登場人物に使ったのだろう? 単に知らなかっただけか、ひとつの謎だが、私は気になっている)の役に波乃久里子を選んだのが、誤算の程を象徴している。気の毒になるほど空回りしている。バットにかすりもしない、あるいは、投げるボールがことごとくコースを外れる、といった趣きである。この役に久里子を使ったことがそもそも間違いなのだが、もっとも自分からやりたいと言った久里子自身にも責任の一端はあると言わなくてはならない。

もちろん久里子は新派古典の演技者として優れた女優である。名優と言ったっておかしくない。今度だって普通の意味では拙いわけではない。それにもかかわらず客席からウンともスンとも反応がないのは、彼女がするべき役ではないからで、どんなに力のある役者でも自分の持てるもので勝負の出来ない芝居は如何とも仕様がない。観客は敏感にそれを察知するから、本当はワーワー言って笑いたいのだが笑えないのである。ここに久里子自身の、より根本的には演出者栗山民也の誤算がある。更に根本的には作者井上ひさしに対する思い違いがある。

時は明治20年。滔々たる欧化の波に足元の砂が崩れそうになる中で頑張っている女役者坂東飛鶴、とくればば久里子にぴったりではないか、と思うだろうが、それがそうでないことにどうして気が付かなかったのだろう。作者の井上ひさしの台本の文体は、新派古典で身につけた久里子の演技大系にはない種類のものであることに、本人も演出も、思いを遣らなかったのだろうか。私は初演は実は見ていないのだが、数年前の再演の時の高畑淳子は悪くなかった。へえ、こういうものもこれだけやるんだなと、ちょっと感心したほどだ・・・というところに、鍵はあるのであって、逆に高畑淳子が『明治一代女』や『鶴八鶴次郎』をやったらどうにもサマにならないだろう。つまり井上ひさしの戯曲の文体というものは、あくまで、新劇あるいは現代劇の系統の演技術を基本とするもので(現に、今度の出演者の中では内務省国事探偵の役の酒向芳が一番井上戯曲の言葉が言え、井上戯曲の人物になっている)、一見、七五調めいた言葉遣いがあったとしても、それは高畑淳子には言えても波乃久里子には言えない種類の(性質の)ものなのだ。久里子に限らない。現に、(井上戯曲の必ずしも熱心な観客ではない私はその上演されたすべてを見ているわけではないが)これまで歌舞伎や新派の俳優が演じた井上戯曲で成功した例があっただろうか? 少なくとも私は、出会ったことがない。(今回の愛之助にしても、最初の自転車に乗っての出が空振りだった以外は大きな破綻はないにせよ、愛之助でなければ、というほどのものではない。)それにもかかわらず、歌舞伎や新派の役者たち、あるいは歌舞伎や新派の愛好者たちのかなりのパーセンテージの人たちが、井上ひさしという作者は歌舞伎や新派の「味方」であると思い込んでいる・・・。久里子ばかりか栗山民也までが、そこに気が付かないというのが、私にはどうにも解せない。

『もとの黙阿弥』という戯曲は、煎ずるところ、井上ひさしの演劇論の論文である、と私には見える。一見、面白おかしげにこしらえてあって、その作劇術や言葉遊びの術は、もちろん、劇作の技法として大したものだが、しかしそれは(自身語っている通り)800本の歌舞伎脚本を読み黙阿弥全集を3回通読したという「知識」のなせるものであり、語られる内容はことごとく論理また論理である。つまり「難しいことを易しく」述べているのであって、もちろん劇作家井上ひさしとしてはそれでいいのだが、問題は歌舞伎や新派の俳優の側が、井上先生は歌舞伎や新派の味方だ、と思い違いをすることにある。更には、栗山のような演出家までが、浪乃久里子や片岡愛之助にさせればうまく行くだろうと思い違いをするところにある。

確かに井上ひさしは、むかしの(たとえば千田是也のような)新劇のセンセイたちと違って歌舞伎を新劇の下に見るような言辞を弄したりはしない。だがだからといって、井上戯曲が、「旧派」の俳優術に向いた(向けた)言葉で書かれているわけではない、ということにどうして気が付かないのだろう。久里子が言ったのでは立ってこない「井上ひさし語」が高畑淳子が言えば立ちあがるのだ。「ナニナニですよぉ」という言い方が久里子扮する女役者坂東飛鶴の口から幾度となく出てくるのが耳につくが、かんぺら門兵衛ではないが、その「よぉ」が気に食わない、ではなく、気になって仕方がないのは、井上戯曲のコトバにうまく取り付けない久里子が、あの「よぉ」に取りすがっているように聞こえるからだ。

ナンノダレソレじつはナンノダレガシ、といった黙阿弥が駆使したような作劇法が、演劇改良会が唱えるような「文明的」な作劇法よりじつは古今東西に通じる作劇法であり、ギリシャ劇の作者もシェイクスピアもモリエールもそういう方法で脚本を書いて来たのだ、というところを捕まえたのが井上戯曲の働きなわけだが、だからといって井上ひさしの持っている言葉が黙阿弥(やその他の旧劇の作者たち)のような、(マア早い話が)糸に乗る,乗せられるような文体ではなかった、ということに話は尽きるのだ(というのが私の井上ひさし論のリクツである)。蛇足を加えるなら、お嬢さんに成りすましていた女中のお繁が元に戻れなくなってしまった、というオチに現代作家としての肝があるということだろう。

(2)

中村富十郎の遺児の鷹之資と愛子の兄妹が「翔の会」を一昨年に引き続く第二回として国立能楽堂で催した。富十郎が亡くなった時、小学6年生と1年生であった兄妹は、既に高校1年生と小学校6年生になっている。まさに光陰は矢の如しである。鷹之資は、もう髭を剃るのだそうだ。亡父そっくりの体形だが、おそらくサイズは父より大きくなっていると思われる。舞台に立てば亡父の大きさが圧倒的に感じられるのが、芸の力によるもので、これから生涯かかってその差をどれだけ縮めて行けるかを、私たちは見てゆくことになる。

鷹之資が『藤娘』と能の『安宅』から富樫との盃の件を舞囃子として、さらに清元の『玉屋』を、愛子が『雨の五郎』を、いずれもいささかの外連味もなくしっかりと踊り、舞って、確かな修行のさまを窺わせる。とりわけ「片山幽雪先生に捧ぐ」という詞書きを添えた『安宅』は、亡父のよしみで幼少の折から指導を受けた幽雪師の後、九朗右衛門師の指導で舞うもので、『勧進帳』のための基礎訓練という位置づけという。こうした指導を受けられるのも父の遺徳だが、その父の若き日、安宅英一の助力による英才教育を受けたことを連想させる。思えば一高校生と一小学生のために、国立能楽堂という場に、一杯の人が集まるというだけでも大変なことである。