随談第548回 今月の舞台から

原稿の締切だの大部の校正だのが続いたので大分遅くなったが、今月の各座の評判と行こう。もっとも、もう歌舞伎座は楽日を迎えてしまった今頃、お坊吉三ではないが効かぬ辛子と出遅れたお化けと並んで、出そびれた劇評というのも気が利かないから、なるべく簡略にすませることとしよう。

もっとも歌舞伎座については、総評としては新聞に書いたことでほぼ尽きている。黙阿弥が二本出ているからといって『浜松屋』でも『髪結新三』でもなく『天一坊』に『丸橋忠弥』というのは、よく言えば何かが変ろうとしている前表のようにも見える。どちらも徳川幕府転覆・乗っ取りの犯人の話だから、同工異曲を二本並べるのは昔なら気が利かない、「つく」と言って嫌ったものだが、その種の「美学」はもはや「古風」ですらなく、ハア? ソレガドウシテイケナインデスカ、といぶかしがられるだけだろう。国立劇場なら「徳川幕府を揺るがした二大事件を扱った二大作品」とでもテーマを「こじつける」かも知れないが、ここは歌舞伎座、たまたまそうなってしまっただけに違いない。

菊之助の天一坊、海老蔵の伊賀亮、配役としてはうまい配役だが、菊五郎の越前守と三幅対になるには役者が小さい。これがれっきとした「古典名作」だったら、それはそれとして見ていられるのだが、却ってこういう狂言だと年功がもろに出てしまうのは、「典型」の組み合わせで成り立っている芝居だからだろう。『合邦』の玉手ではあれだけの存在感を見せる菊之助が、決して悪い出来ではないにも拘らず天一坊だと役者が小さくなる。この前の『菅原』でも、桜丸なら不足は気にならないのに判官代輝国となると、大曲『道明寺』を締め括る役としての大きさに不足が見える。ここらが歌舞伎の難しいところで、演技の良し悪しだけでは片が付かない。7月に国立劇場の鑑賞教室で知盛をするそうだが、果たしてどういうことになるか? 海老蔵に伊賀亮というのはプラスアルファが期待できそうななかなか味な配役で、その期待は半ばは実現されるのだが、相変わらずセリフをこねくり回すのは、癖というよりどうやら確信犯的に意図してのこととおぼしく、そうだとすれば、こりゃよろしくないなと自覚して改めてくれる日まで待つしかないことになる。眠り姫は王子様にキスをしてもらって目を開くが、海老蔵王子を開眼させるのは、いつ、誰だろうか?

松緑が『丸橋忠弥』を出したのは名案である。有名な酔態のセリフの口跡の固いのはどうにかしてほしいが、後段の実録風立ち回りで大いに盛り返した。巧拙ではなくこうした芝居の色に合っているのである。この狂言は「團菊」ならぬ「團菊左」の「左」、すなわち初代左団次以来の高島屋の演目で、「菊吉」の流れに押しやられていまや絶滅危惧種に等しいが、その保存更には復興という意味からも、翻って松緑自身のためにも、この種の歌舞伎の中の「益荒男ぶり」復興の旗手になるのは、ひとつの活路を拓くことになるだろう。今度の上演を瀬踏みとして、次には通し狂言『慶安太平記』復活上演にトライしてもらいたい。御大菊五郎を担いで国立劇場で出すのにふさわしいではないか。時は今、ぼやいてなどいる場合ではない。

『合邦』については、新聞に書いた以上のことを書くのは難しい。5年前の玉手御前デビューを受けての今回であり、将来へかけ、おそらくライフワークとして演じてゆく役であろう。その一つの、「いま」なりの玉手であったと言うよりほかはない。ひと言、一口評を添えておくなら、今回のは、なるほどよくわかりました、という玉手御前であった。

というわけで、去年は「菊五郎の孤独」を思い遣った團菊祭だったが、今年は「新生」團菊祭をそれなりに楽しむこととなった。越前守には多少その気配もないでもないが、め組の辰五郎の菊五郎には孤影はない。むしろめ組を菊五郎劇団に、辰五郎を菊五郎自身になぞらえながら、私は楽しく見た。

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明治座歌舞伎は、何と言っても中車に注目が集まるのは、猿之助には申し訳ないがやむを得ない。聞くところによると先人の映像を寸分違わず完全コピーすることを目指しているとの由だが、『男の花道』の土生玄碩を段四郎なら段四郎をセリフから仕草から、コンマ何秒まで正確に写したとしても、中車が段四郎になる筈もない。もっとも「学ぶ」は「真似ぶ」、良きお手本を敷き写しに、なぞってなぞってなぞり抜くのも修行の一過程として間違った方法ではないが、それを、いわゆる古典名作の型の定まった役ならともかく、『男の花道』にまで持ち込もうとするところに、中車の苦しさが察しられる。かつて長谷川一夫が歌舞伎のテクニックをふんだんに持ち込んで作り上げたこの大衆劇は、芸から技から、身のこなしから、体に染みついたいわゆる歌舞伎味を生かすことを前提にして出来上がっている。中車にとってはまさにそのことが自分に一番欠けているものであることを思わずにはいられない。ではどうすればいいか? 完全コピーを目指すしかない、というのが中車がみずから出した答えなのであろう。トンネルを反対側から掘り進めるようなものだが、うまく掘り当て、向こう側の入口につなげることが出来るか否かはおなぐさみということか? 

『あんまと泥棒』となると、17代目勘三郎が初演は竹之丞時代の富十郎、次いで長谷川一夫を相手に作った、これもじつは歌舞伎の芸をくずし書きにしてお茶づけをさらさらとかっ込むように演じた代物だが、それはまず真似ようがなかろうし、となれば、それ以後の他優による上演件数もそう幾らもないから、中車としては「歌舞伎」を『男の花道』ほどには意識しないですむとも言える。果してこのあんまさんは土生玄碩に比べると肩の力が大分抜けて、良い意味で「香川照之」の才能を生かす余地が生じてくる。襲名以来足掛け三年、目下のところ一番の上出来、九代目中車の代表作!ということになる。

さてそこで、猿之助にぜひ勧めたい提案がある。中車と二人で、『恩讐の彼方に』だの『研辰の討たれ』だの、初代猿翁のこしらえた澤瀉屋の新作歌舞伎を、いまこそ、次々と掘り出して行ってはどうかということである。『研辰』だって中村屋に取られっ放しにしておくことはない。中村屋版は中村屋版でいいけれど、猿翁版だって面白いんだぞということを立証して見せてもらいたい。他にも『父帰る』だの『屋上の狂人』(は13代目勘彌だが、初代猿翁とは若き日のライバル、共に「新人」と言われた人だ、決して無縁ではないどころか、同じ時代、同じ志向の中で作られた姉妹、じゃなかった兄弟演目のようなものだ。勘彌なら『お国と五平』などという手もあるか)だの、猿之助も生き、中車も生かすことが出来るのは、まず自分の家の蔵の中にいっぱい眠っている、いや、蔵から出してくれるのを待っている遺産がいろいろあるのではないかということである。

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前進座の確立劇場公演は、このところの新歌舞伎シリーズで今年は『番町皿屋敷』に『文七元結』だったが、『文七』はともかく『皿屋敷』のような新歌舞伎中の「型物」を女形でなく女優でやると、思わぬ発見をすることになる。とかく論議の種となる、お菊は播磨が次々と割ってゆく皿を一枚、二枚と差し出す時に、女形だと殊更にしないと見えにくい、播磨の愛が確かめられたがゆえの恍惚が、自然に現われて見えるということである。つまりそこに、この新歌舞伎の「新しい女」たる所以があるわけで、かつての二代目左団次の相手をつとめた先代松蔦はどういう風に演じていたのか、今となっては確かめようがないが、少なくとも戦後歌舞伎の女形たちにはついぞ気の付かなかった、生身の女性の演じるお菊にそれが見えたというのは、発見であった。もっとも、今村文美のお菊がどういう「性根」で演じていたかは、それとはまた別の話しだろうが。

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文楽は吉田玉女が玉男になるというので『一谷婌軍記』と『桂川連理柵』を出して熊谷と長右衛門を遣った。熊谷はいいと思う。時代物の大きな人形の量感とたくましさがある。それが先ずあっての上での肚である、というところがしっかりしている。咲大夫の前段も、いまはもうこの人しか不可能な時代物らしい時空を語り出していて、よかった。こちらもまた、この現実を超えるスケールが語り出された上での、熊谷の肚であり性根である筈である。

玉男はもちろん比類ない名人だったが、私は今になって、玉男よりもう一世代(二世代かも知れない)上の吉田玉助を見ることが出来たことをよかったと思っている。玉男の描き出す熊谷はいわば知勇兼備だったが、人はとかくその「知」の部分を取り出して褒める。もちろんそれで間違いなわけではないが、しかし私は玉男は熊谷よりも盛綱の方が好きだった。「荒物遣い」という、近頃あまり聞かない(ような気がする)評語が、玉助にはいつも冠せられていた。昔の横綱の鏡里みたいな風貌で、たくましい人形だった。

新玉男の『帯屋』の長右衛門は、歌舞伎で言う辛抱立役の形が、もう一つ身に沁みないような気がした。世話の辛抱立役という、弱い男の美が、時代物となって盛綱のような「知」の美として照り返るところ文楽の人形の美学があるのだが。

それにしても、文楽で見る『祇園祭礼信仰記』というのは、どうも不思議な代物で、歌舞伎の『金閣寺』の松永大膳の造形がいかに卓抜であったかを改めて思い遣ることになる。藤吉が慶寿院を救出するために金閣の三層まで上るのがミソだが、桂文楽十八番の『愛宕山』の幇間一八よろしく、慶寿院(歌舞伎だとかつては我童がよくやったように、残んの色香をどことなく偲ばせる女性(にょしょう)だったが文楽では「婆」の首なのはちょっぴりがっかりだ)竹のしなりを利用してダイビングをするのは歌舞伎では不可能な面白さだが、しかし藤吉は途中で見張りの兵を血祭りに上げているのだから、あんなことをしなくとも階下に降りられるものを、などいうのは変知己論か?

玉男襲名で文楽の「口上」を久しぶりに見たが、歌舞伎と違って皆々四角四面の大真面目の中に、寛治がごくごく構えない平談の口調で語るのがとてもよかった。これは、じつはお父さんの先代もそうだった。私は先代寛治の飄然とした風格が大好きだったが、ここ数年来、当代が驚くばかりにそっくりになってきた。

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劇団「若獅子」が山本周五郎の『おたふく物語』を出したのを見ながら、かつては当り前のように演じられていたこういう芝居が、いまやこの劇団ぐらいでしか見ることが出来なくなっていることが、改めて思い遣られた。『おたふく物語』はつい先頃、前進座でも見たが、若獅子の方がおとなの芝居のゆとりがあるのに感心した。これもまた、かつて島田正吾が演じた、新国劇の財産なのだ。年に何回かという(それもほんの数日である)ごくごく限られた機会に、演目をいろいろ工夫しているのがよくわかる。

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新国立のイプセン『海の夫人』を見る。イプセンとしては主題と設定がぎごちないところがあって、麻実れいの演じている主人公が何を求めてあゝもヒステリックになっているのか、理屈としてはわかっても、心情として素直に伝わってこないのが、悪しき意味での「新劇」だという感じがする。あれほど夫を困憊させながら、求めていた愛人が現われると夫の許へ戻ってしまうと言うのが、如何にも作り物なっているから、全体が空疎に見えてしまうのだ。(ふと思ったのだが)これを麻実れいのような容姿抜群のスターが、拭おうとしても拭い切れないスター風の演技でするのではなく、もっと地味で所帯じみた女くさい女優にさせていたら、まるで印象の違う劇になったのではあるまいか? (むかし黒沢映画の常連で千石規子という女優がいたっけ。)演出が、イプセンどうもだからというので、どうも「思想的」にしようとし過ぎたのではあるまいか?

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私はどうも『嵐が丘』というのが苦手なのだが、こんど日生でしているG2の脚本は、原作小説に戻ってその全貌を劇化しようとしたので、大分救われた。原作ダイジェストと言えないこともないが、少なくとも、よくありがちな「嵐が丘調」を大分免れているのが有難い。もっともそれも、語り手役の戸田恵子のお蔭で、彼女ひとりが生きた人物になっている。それにしてもキャサリンというのはあんなに子供なのだろうか? テレビで人気の出た女優を連れてきて主役をさせている限り、このレベルから抜け出せないだろう。