随談第538回 このところのいろいろ

前回の文中で「亀寿」氏の名前を「亀蔵」と打ってしまうというミスを犯してしまった。指摘を受けて、三日後には他の部分の修正も併せて訂正・修正版に差し替えたが、改めてお詫びを申上げたいと思う。亀寿君、ごめんなさい。

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ちょっと言い訳めくが、この数年来(首筋や肩・腋などのしこりが原因なのだそうだが)左手、とりわけ左手指が少々不自由な状態になり、小さなボタンをはめたり(とりわけシャツの右手首のボタンをはめるたりはずしたりに難渋する)紙をめくったりといった、普通ならほとんど無意識裡にすませてしまう作業に手古摺ることが多くなった。(どうせなら分厚い札束を繰るのに苦労したいものだと思うが残念ながらその機会にはまだ恵まれない。)パソコンのキーを打つのも例外ではなく、気がつかないうちに左手の小指なり薬指なりが思ってもいないキーに触れると見え、変換すると思いも寄らない文字や読解不能な言葉が画面に現れて唖然・愕然・呆然とするという事態もしばしば生じるようになった。「さて」と打ったつもりが「さあて」となっていて、これがメールだったりすると相手によっては「ふざけるな」と叱られてもやむを得ないという事態も生じる。今回のミスは、思うに「亀寿」の「寿」を打ち出すために「ju」と打ったつもりが「zou」と打っていたのに違いない。もちろん見直しはしたのだが、頭では当然「寿」と打ったつもりでいるために見過ごしたものと思われる。

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もうひとつ、これも生まれて初めての体験で、先日眼科へ行って検査をするのに眩むような光線を当てられて、表へ出ると、このところの冬晴れの晴天の下、見慣れた駅前の広場が色彩を失ったように、やたらに明るく白茶けている。原爆投下直後の街というのはこうもあったろうかと思うようだった。

これがケチのつきはじめというわけでもなかろうが、二日目に見に行った時、かの逸ノ城を鮮やかな肩透かしに切って捨てて名人芸を堪能させ、前半戦を二敗で乗り切って技能賞と来場所の関脇復帰は確実と思われた安美錦が、その日鶴竜との一戦が物言い取り直しになって勝てた勝負を失うということがあってから、あろうことか7連敗をして負越したり(白鵬の言によると、その前日の天覧相撲の安美錦戦からギアを入れ直したという)、事の大小を問わず何かと乱高下の大きい月末ではあった。(「あのニュース」が飛び込んできたのもその翌日だった。)

ところで、白鵬が優勝回数で大鵬を上回ったのはめでたいが、優勝を決めた稀勢の里戦での物言い取り直しの判定について審判の批判をしたというのは、因幡の白兎の余計な一言の類であろう。(尤も、千秋楽の翌日の優勝力士談話でだから、鰐鮫の最後の一匹を残していた因幡の白兎の軽率に較べれば賢かったわけだが。)

その白鵬談話と引き比べて、あゝいう際どい負け方をしたこちらが悪いのだと言ったという、かつて連勝記録更新中の大鵬が審判の誤審で負けとされた折の名言が引き合いに出されたが、差違えとされた行司の軍配の方が正しかったわけで、その時の「誤審」がきっかけで写真判定が導入されるようになったのだから、相撲協会というのはそういう点ではなかなか開明的なのである。(あの一番を捌いた当時の庄之助の風貌・風格、朝日新聞の投書欄に能の名人桜間道雄がその挙措の美しさを絶賛する投稿をしたほどの見事さだった。絶後というべきだろうが、それにしてもむかしの行司の顔は放送を見ていると自然に見覚えたものだが、いまの行司の顔がさっぱり覚わらないのは、単にこちらが齢を取ったせいなのか、それともイマドキの行司の風貌に個性がないからなのか?) ところでその世紀の大誤審の後、大鵬は途中休場、場所後、オーストラリアへ遊びに行き、ビヤホールでの飲みっぷりに呆れた隣席の豪州人から飲み較べの挑戦をされたのを受けて立ち、圧勝したという豆ニュースが後日談として報道された。その記事に曰く。カンガルーいずくんぞ大鵬の志を知らんや、というのだった。昭和40年代の当時、こういう記事を書ける記者が(朝日にも)いたのである。

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サッカーとテニスの話題の陰に埋もれていた野球のニュースが聞え出し、イチローの去就がようやく定まって、日本で入団会見をしたというニュースの中で、イチローが、応援よろしくお願いします、とはぼくは絶対に言いませんと言っていたのが面白い。もちろん以前からの持論だが、実際、野球選手の談話といえば「応援よろしくお願いしまーす」の一点張りなのは(勝ち力士インタビューの「ウレシイデス」というのも、天下の関取が小学生みたいでおかしい)、選手や力士の側の語彙の乏しさもさることながら、そういう紋切り型の返事しか引き出せない、あるいは引き出そうとしない、更には引き出さなくてもすんでしまう、聞き手の側の問題の方が大きいのではあるまいか。政治家の記者会見などでも、外国の記者に比べ、型通りの質問しかしないことが多いような気がする。想定した通りの記事にまとめれば能事終わりというのが多すぎるのだ。イチローほどの「曲者」でもなければ、インタビューされる側からその幣を破ろうとすることなど、まずないであろう。

もうひとつ野球のはなし。メジャーから古巣の広島に復帰した黒田の行動が話題になって、契約金の多寡を問わずに「復帰」した「おとこ気」が賞賛されているが、黒田の言っていることをよく読むと、今度の復帰は普通の「出戻り」ではなく、はじめから自身の選手としての道程を見通した上での、ある意味予定された「回帰」であるらしい。そこが面白い。こういう「展望」をもってメジャー入りした選手が他にもいるのかどうか知らないが、「おとこ気」もさることながら、日・米の球界をこうした「複眼」をもって見据えてプレイをしていた選手というのは、実にユニークである。

メジャー・リーグへ行った意義というものを感じさせる選手として、これまで野茂とイチロー(ちょっと別な意味で長谷川滋利と新庄を加えていいか)ぐらいと思っていたが、新たに黒田も加える価値がありそうだ。

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中村京蔵の舞踊の会を見た。今度は数年ぶりだったが、前は隔年ぐらいには開いていたのではなかったか。場所も、今度は日本橋劇場だったが、青山の銕仙会など歴としたところばかり、客席を一望しても錚々たる顔がそちこちに見える。努力と苦労の程も察しられるが、それだけの関心と評価を獲得するだけの実績を重ねて来たればこそでもある。

ひところは随分難解なものを試みたりしていたが、今回は、師の雀右衛門の当り役から『豊後道成寺』と『二人椀久』。どちらも、師の間近に居て教えを受け、後年は後見もつとめた演目である。京蔵の踊りは、立腰でスケーターのような動きのよさとスピード感で幻惑させる当世流と異なり、腰の入った練りのある踊りぶりと、役者の踊りとしての思い入れの巧さが身上だが、今度の二演目とも、その長所が生きている。『豊後道成寺』は師の雀右衛門自らが創演したものであり、『二人椀久』は、椀久役の富十郎も松山役の雀右衛門も亡き今、別の行き方を目指すなら格別、あのイキ、あの踊りぶりを見ることが出来るのは、他にはないとも言える。京蔵が雀右衛門と同じ域に達しているというわけではない。しかしまた単にその影法師たることに甘んじているのでもない。師を範としつつ、自分を見失うことなく、わがものとして踊っている。そこに意義がある。(椀久役の花ノ本海もよくつとめた。)かなりの数の観客を集めているとは言っても、まだ知る人ぞ知るという存在の域を出ていないともいえる。もっと知られてよい会である。

配布されたパンフレットに京蔵自身が、両演目についての師との思い出を溢れる思いを留めかねるかのように、この種の文章としては異例ともいえる長文の文章を載せている。普通、こういう立場の者がこの種の文を詳しく綴るということはあまりない。資料としても一読の価値がある。

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「想定外」という言葉が、じつは誰もが内心密かに「予期」していながら、現実にはないこととしていたことが現実に起ったことを指すのだとすれば、4年前の大震災及び原発事故が「想定外」の出来事であったように、今度の「あのこと」も、やはり「想定外」の出来事であったと言えるであろう。

立場も思考心情もレベルも異なる3人の人が、3人それぞれの行き方からそれぞれの行動をし、3人それぞれに地雷を踏んでしまったということであろうか。