(随談第537回・初荷の舞台から)訂正・修正版

新春御慶。本年もよろしくお付き合い下さい。またまた大分ご無沙汰してしまったが、ともあれ、正月各座総覧のお噂を伺うことにしよう。

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まず顕著なのは、いままではある程度深いところで進行していた世代交代の潮目が、俄かに、表層近く目に見えて露わになったことであろう。浅草歌舞伎の主力メンバーが総入れ替えになったのはその最も顕著且つシンボリックな表われで、松也が座頭とはつい半年前のコクーン歌舞伎の『三人吉三』後の大ブレークまでは、誰も考えなかったことだろう。(なにしろ紅白歌合戦の審査員としてかのノ-ベル賞の博士と同列にならぶ有名人なのだ!)松也の勘平に児太郎のおかるの『五・六段目』にせよ歌昇の大蔵卿に米吉の常盤御前の『大蔵譚』にせよ、よくやっているとはいっても、新入幕というより新十両の相撲を見る新鮮さが生命である。とにかく今ほど10代・20代の若手が揃ったのも珍しい一大エポックであることは確かで、今回はこの七人だが、歌舞伎座に出ている廣太郎、国立に出ている梅枝、右近、松竹座に出ている壱太郎等々、同年輩の若手はまだまだいるわけだ。(もっとも強いて年齢別に横並びにすることもないのであって、『八犬伝』の梅枝の浜路など、新十両どころか優に幕の内で取らせたい実力で、「大塚村蟇六内」での菊之助の信乃との色模様など、今月の全座を通じての出色の見ものと言ってよい。)

ことはそれだけではない。もう少し視野を広げれば、歌舞伎座の玉三郎の二演目を見ても、『蜘蛛拍子舞』は勘九郎の綱に七之助の頼光、染五郎の金時、『女暫』は歌六のウケに又五郎の鯰に七之助の女鯰、錦之助の太刀下という顔ぶれは(腹出しの頭分の成田五郎に男女蔵が昇格人事よろしく就任したのはめでたいが、男女蔵といえば、暮も押し詰まった午後、さる民放の番組に男女蔵が登場したのをたまたま目撃して、そのいかにも無防備な善人ぶりに唖然としながら、つい終いまで見てしまった。何とも不思議な番組だった)、若さも若し、改築前の旧・歌舞伎座時代には考えられなかった配役である。何はともあれ、時代の潮目が変わったのである。開幕劇の『金閣寺』はその最突出部分と言ってよく、染五郎の大膳に勘九郎の藤吉、七之助の雪姫でなかなかの上出来である。(ここでも男女蔵が正清で出てくる、鬼藤太の廣太郎というのも初物であろう)。こうした中で新・歌舞伎座初登場の猿之助に勘九郎が阿闍梨祐慶をつき合う『黒塚』などは、むしろ当然坐るべきところに坐ったというべきだろう。

もっとも、こうした潮目は誰の目にも見えては居ながら、しかし表面はいまだ波静かであって、歌舞伎座は幸四郎・吉右衛門両御大の出し物が『一本刀土俵入』に『番町皿屋敷』という新歌舞伎だったので、正月早々サンドイッチにおにぎりかという声もあったが、メンバーはいつもの幸四郎一座・吉右衛門一座で、むしろ無風状態とも見え、玉三郎が昼に『蜘蛛拍子舞』、夜に『女暫』と立女形格の役を引き受けて奮闘しているとはいえ、わずかに吉右衛門が舞台番をつき合うだけで(それも、ちとお疲れのご様子だった)大顔合せの演目がなく、玉さんは立女形というより女王といった方が似つかわしい独り天下の趣きとも見える。昨年大英帝国UNITED KINGDOMを驚かせたスコットランド独立運動の如き動きはいまだ起らず、ユニオンジャックならぬ大歌舞伎連合王国の旗は何ごともないかのように翩翻と翻っている。現に、夜の部最後の演目が終わって帰り支度を始める客席から、色んな狂言が並んで目先が変わって面白かったねという声も聞いた。してみると、正月なのにお雑煮もおせちもないのかといった批判とは別に、まずはめでたき春であったということであろうか。

確かに、幸四郎が、「演劇としての歌舞伎」という持論の反映であろうか、いろいろ工夫を凝らすのは結構だが、かつての船戸の弥ァ公が船戸の弥八親分に成りあがった姿で登場させるなど、ちと薬の効きすぎもあるが(おかげで由次郎の役がよくなった、と言えるかどうか?かつて勘彌が辰三郎と弥ア公を二役変ったことがあったが、これなら変るだけの意味も効果もあろうというものだ。もっともそう思わせるかどうかは、由次郎の腕次第ということでもあるだろう)、しかし茂兵衛の相撲取りぶりがなかなかいいので、後ジテ(?)の博徒ぶりと別人のように見せない幸四郎の配慮には得心が行く。魁春のお蔦も(雀右衛門風と言っていいのかどうかは知らないが)べたつかずに演じてなかなかの好演である。歌六の波一里儀十の田舎相撲上りの具合と言い、正月のおせちとしてどうかという議論は別とすれば、悪くない一本刀ではあった。吉右衛門・芝雀の『皿屋敷』も、声を巧く遣って若やいで見せるなど、芸で見せる播磨とお菊として見る分には興深くもある。玉三郎の二役にしても玉三郎ワールドを愉しむには言うことがない。(もっとも、今回に限ったことではないが、かつて歌右衛門が復活したころを思い出すと、随分とさらりとしたものだなあと思うのは、正直なところといわねばなるまい。)『黒塚』ももちろん結構だし、なるほど、終演後に耳にした一観客の感想は、それはそれで得心が行くには違いない。

国立劇場の菊五郎劇団の正月芝居も、菊五郎、時蔵に左団次、彦三郎、萬次郎、團蔵と数えると、あとはもう菊之助・松緑以下の中堅・若手が大勢を占めているが、考えてみれば、この体制はすでに数年前からのことで、むしろ国立劇場が正月芝居として一番安定しているように見えるのは、劇団内世代交代が既に落着し安定期に入っているからと考えた方がよさそうだ。

座頭菊五郎の犬山道節、立女形時蔵の犬坂毛野、書出しに菊之助の犬塚信乃、中軸に松緑の犬飼現八に色悪網干左母次郎という布陣は、ともかくもチームとしての形を整えている。『八犬伝』というストーリー・テリングの狂言を、「国立恒例の正月芝居」という重箱におせちとして程よく詰め合わて、やれ腹八分だの薄味だのと言ったところでそれはそれ、個々人の好みの問題、この座で正月を楽しもうという人たちの求めるところにちゃんと応えている。名作ダイジェストとして淡々としがちな渥美清太郎版脚本に菊五郎演出と銘打って加えた味付けも程よく、亀三郎の小文吾、亀寿の荘助の中堅の座り具合など、あまりに納まりが良すぎてもっと活躍させたいと贔屓したくなるほどだ。

こうして今月の各座を一望すると、そう称しているか否かは別として、菊五郎劇団に幸四郎一座、吉右衛門一座、玉三郎王国(もっとも、この王国は構成員は必ずしも一定していないようだが)、それに鴈治郎襲名で松竹座に集っている関西各優の集合体という、歌舞伎界今日の状況が端的に現われているかに見える。さっきは連合王国といったが、歌舞伎国の現状は共和国連邦といった方がふさわしいかもしれない。スコットランド独立運動どころか、新橋演舞場で独り天下を愉しんでいるかに見える海老蔵といえども、やんちゃ坊主が強がっているだけで、かつての猿翁、近くの勘三郎のような反乱軍的動きをするつもりではないだろう。それよりも、それぞれの「共和国」の中で起こりつつある世代交代への地殻変動の方が、近い将来の実現を確実に予測させるものと言える。

(それにしても、新橋演舞場の『石川五右衛門』にはちと当てが外れた。昨年の『壽三升景清』と同じチームの作とも思えない。前作を圧縮した序幕はまあまあとして、五右衛門が大陸に渡って清国を樹立したヌルハチになるという構想はともかく、妙に東洋史のお勉強をしたのが裏目に出て、つじつま合わせに手古摺って荒唐無稽の痛快さを売りにするには稚気と奔放さに欠ける。そもそもあのストーリーでは、秀吉と五右衛門の父子二代で大明国征服をし遂げたように見えかねない。危うい哉。)