随談第517回 勘三郎随想(その37)

46.「せ」の章

(談話・歌右衛門の教え、思い出の先輩たち)

―――このごろテレビの歌舞伎チャンネルっていうので昔の方の芝居をやってますけど、みんな大したもんだなと思いますねえ。こないだも『忠臣蔵』の「九段目」を見ましてね。歌右衛門のおじさんの戸無瀬でねえ、鴈治郎のおじさんが本蔵やってんですよ。よかったなあ。大星が寿海さん。これがまたいいのよ。それで神谷町のお義父さん(=中村芝翫)が、まだ若いときなんだろうね、お石。それから山城屋坂田藤十郎さんの小浪。いまと全然違う、若くてこんなに太ってんだけどさ。それで延若のおじさんの力弥。古風で、やっぱり凄いなと思いますね。

―――で、歌右衛門のおじさんの思い出というと、ひとつ挙げろと言われりゃあ、見て凄いとかいうよりも、教わったことの凄さだね。いろいろ教わってますけども、『鳴神』の絶間姫を教わったんですよ。おじさん、絶間なんてもうその頃はあんまりなさってなかったんだけど。で、そのときに、ボクが「アノ雨が降るかえ。雨が、テモマア不思議なことのお」ってセリフを言ったら、「あんた駄目だよ。全然不思議じゃないわ」って。あの歌右衛門のおじさんて人はね、ああこんな人なんだなあって、しみじみ思わせられるように、(声色で)「雨が降っ、てもまあ、ふしぎな、ことォ、のおお」って言わなきゃいけないって言うの。ほんとに不思議じゃなきゃいけないって。これ、うちの親父と一緒なんですね。古典であろうと、何であろうと、そういう気持がなきゃ駄目なんだっていうことを教えてくれたんです。

―――それから、まだボク、やってませんけど、玉手。(声色で)「干割れに洩れる細き声」っていうんだよ。ここのね、柱からひびが入ってる。そこからコウ、中へ、おかあさんのところへ、(声色で)「かかさん」っていう風に言わなければ、って。それから、三つおこついてこうやるところね、ビデオ見たって教えてくれないからねって。二日間、ほんとによく教えてくれました。(声色で)「寅の年、寅の日、寅の刻」。ぜんぶ音(おん)を変えなさい、って。とにかく怒られたんだ。

―――それでね、ものすごく怒られて、で、一週間か十日たったら、電話があって、ある役者さんに教えるから、それを見とくのも勉強になるからって呼ばれて、で、行ったんです。その方は、俺が怒られてるのと同じこと全部やってんだよ。ところが、おじさん何にもいわないの。(声色で)「いいよ、あんたいいよ」って。俺ねえ、これだけいまだに謎。なんでそれをいいよって言ったのかなあって、いまだにわかんない。だって俺がいつも怒られてたところを、その人も間違えてんですよ。それをほめてんだもん。よくやったよ、って。ずーっと、いまだにわかんない。これはわからない、いまだに謎。

―――やっぱり、厳しく教わったのが、いまになると、ありがたいと思いますね。だって怒られなかったらわからないもん。怒られたからこそ、わかるわけですよ、違いが。怒れられたときはこわいなとかいろいろ思うけど、やっぱりありがたいなと思いますよね。そういうの見ると、おじさん、あれほんとにうまいと思ってるの? いやそんなことないだろう、と。訊けないしねそれは。ほんとにあれがいいんですか、なんて訊いたら、ウルサイッなんて言われたらおしまいだからさ。それがなんというか、歌右衛門のミステリイというか、でしたねえ。

―――最後に言われたことは、舞台を大事にしてちょうだいねって。二人っきりのとき。ノリアキちゃん。ボクのこと、ノリアキちゃんて言ってたんですけどね。ほんとにね、舞台を大事にしてちょうだいよ、これからも、って。これは守ってる。ふざけない。ともすると家の親父なんか、投げたりなんかしたっていうけど、それはうまいから投げたんで、ボクはおじさんの、舞台を大事にしなさいっていうのはね、これは守っていますね。そりゃ、巧い拙いはわかりませんよ。けど、やっぱり、そりゃ疲れてるときだってある熱のあるときだってあるけれど、でも、大事にしろっていうことは、子供たちにも、ぼくがそれをやらなければ言えないですから。これはおじさんのあの歌舞伎座のあの大きな部屋で、二人っきりで。駒助さん(歌右衛門の門弟)がわざわざ呼びに来て、あれはもう、忘れられないですねえ。

           *

―――それから白鸚のおじさん。高麗屋。よく可愛がってくれた。大好きだった、小さいころ。こないだも染五郎が来たとき言いましたけど、年始回りが一時間半早くなりました。おじさん死んじゃったら。ま、一時間半はオーバー、一時間早くなった。おじさんのところ行くとね、オイオイ上がれっていうので、で、カティ・サークどぶどぶついじゃって。でもおじさんあんまり飲めないんですよ。そんなのがねえ、俺が行くとね、いろんな話を聞いてくれるの。いいおじさんでした。だから、今度のおじさんの(二十七回忌の)追善にボク出られないんで、それじゃあてんで、染五郎が教えてくれっていうんで、本当に一生懸命で、それで『鏡獅子』を教えようってことになったんです。

―――白鸚のおじさんの役のなかからひと役挙げるとしたら、やっぱり『関の扉』の関兵衛はいいねえ。あの博多人形みたいなの。

―――あのね、白鸚のおじさんに、ぼく、弁慶習ってるんですよ。ねえ、弁慶ですよ。『勧進帳』の弁慶。一日だけやったの。歌舞伎座で。あのね、子供歌舞伎教室ってのがございまして、富樫が歌六、義経が家橘、で私が弁慶。おじさんに手取り足取り教わりました。高校生のとき、いやもっとですよ、十七、八ぐらいだったかな。

―――いや、それ知ってたら朝早いのなんか構わず見に行ったのに。

―――ハハハ。いや、教わりましたよ。数珠の扱い方とか、いろいろこまかくね。

           *

―――それから鴈治郎のおじさん(=二代目)だねえ。いや、この万野なんてものはねえ。十兵衛、万野、『封印切』、『河庄』ももちろんだけど、あと、『桜時雨』じゃなくて『桜吹雪』という、何か、芝居が大阪で出たんですよ。何だかわかんない、こういう二つ折りの帽子かぶってね、瓢箪叩きながら出てくるだけの役。桜の花の中から。あんなの誰も出来ない。ハハハ。もっといやあ、俳優祭でやった『白雪姫』の七人の小人のねえ、小人。

           *

―――あの人のこの役、というようなの、ありますか?

―――ああ、浅尾奥山さんの義平次って、よかったですね。あれは家の親父が、女形なのに義平次させたんだろうけど。壮絶な感じでね。

それから、好きだったのは幸雀さん。松本幸雀。あの人がね、『刺青(いれずみ)奇遇(ちょうはん)』で、お仲がもう危ないって言うことをいうために、こう引っ張っていくんですよ、半次さん、半次さん、そんなに長くかかんのかっていうとね、小さい声で「・・・」ていうだけなんだけどね、それで全部わかるわけ。それから『瞼の母』の歳とった娼婦。よかったなあ。

―――それから(助高屋)小伝次さんの『一本刀土俵入』の老船頭。それから斧九太夫ね。『忠臣蔵』の。(声色で)「バカバカシイワエ」って、真似したもんなあ。

それから(坂東)弥五郎さん。番頭長九郎。『法界坊』の。ぼくが、やって下さいって言ったら、「じゃあ早く、あなたねえ、早く法界坊やって下さい」って。「秒を急ぎます」って言われた。もう、駕籠を持てないでしょ。駕籠なんか持てなくていいって。秒を急ぎますって言ってました。よかったなあ。

―――助五郎も惜しいねえ。こないだの山田洋二さんの演出の『文七元結』。彼を撮ってもらいたかったのもあるんだけど、間に合わなかったねえ。藤助さん、よかったんですよ。角海老から迎えに来る、藤助さん。いかにも吉原から来た人だったんだよねえ。芝居なんかしないんですよ。ガラガラって開けて、オッと入ってきて、「イヤどうもすみませんねえ」なんて。もう、なんか、一緒にやっててとっても楽しかった。若いのとやるとこっちがくたびれちゃうけど。

藤助は子団次さんのも、よかったねえ。

―――アッ(手を叩いて)、我童のおじさん。好きだったなあ。『封印切』のおえんとかね、一文字屋お才とか。それから夕霧、南座でやった。これはもう、絶品でしたよね。上等の、いいお人形。わかるでしょ? (声色で)「なんや知らんけども、あちらへ三歩、こちらへ三歩、うろうろしてたら、そのうち幕や」って。ははは。

随談第516回 今月の舞台から

新橋演舞場の花形歌舞伎『心謎解色糸』がなかなかよかった。大当り、とまでは敢えて言わずにおくが、将来への期待と見通しという観点からだったら、後日、その原点となったという意味で、大当りだったと言われるようになるかもしれない。少なくともこの狂言のこれまでの上演史の上で、今度の上演がひとつのエポックになる可能性は充分ある。

41年前の国立劇場上演版による白鸚・梅幸所演よりはるかに面白いことは間違いない。こういうものは、なまじエライ人たちがやるより、先入観に縛られていない若い連中でやった方がいいという、まさにその典型的な例といえる。70年代に起った南北ブームの中で『桜姫東文章』や『盟三五大切』が現代のレパートリーに甦った、というより、新たに参入した(と言った方が正しいだろう)が、その只中であわよくばこれも、と狙っ(たかどうかわからないが、けっきょく空振りに終わっ)た『心謎解色糸』が、それから四〇年、孫世代の手で新世代歌舞伎のレパートリーとして参入することになったなら、めでたしめでたしというものである。七〇年代と違うのは、『三五大切』にせよ『桜姫』にせよ、七〇年代という時代と関わるものを有していたが、平成の世の『心謎』にはそうしたメッセージ性は持っていない点だが、そこがまた、当世らしいと言えば言える。七〇年代には玉三郎の登場ということがあったが、現代の花形連には、時代と何らかの形で切り結べるキャラの持主は海老蔵ぐらいしか見当たらない。染五郎も、菊之助も、勘九郎も七之助も、皆、才能としては素晴らしいが、皆、オーソドックスな優等生の顔をしている。彼等の中ではやや異色な松緑も、今この文脈からするなら、該当しない。が、この話はいまは閑話休題としよう。

41年前と違うのは、白鸚にせよ梅幸にせよ、南北らしい、ということに対して、身構えたり、ちょっと引いたり、とにかくかなり神経質にな(らざるを得なくな)っていたが、そうしたコンプレックスから、当代の花形連は少なくとも自由らしく見えることである。七〇年代が遺したものでいまも続く最大のものは、「正統」という権威が崩壊し何でもアリという状態が瀰漫的に継続していることで(それで新劇は壊滅したが、歌舞伎には姿や実態は変わりつつもともかくも理念の上では「正統」は存在している。歌舞伎が腐っても鯛であり得ているのはそれ故である)、前代の大物たちの持っていなかったその自由さを、現代の花形たちは初めからそこにあったものの如くに、自由に、別に殊更な反逆も何もする必要もなく、享受出来ることである。前代の大物たちがあれほど苦労し、批評家たちから南北らしくないといった批判を散々された障碍を、現代の彼等はやすやすと乗り越えられる。

今度の一座には海老蔵も勘九郎も(猿之助も)入っていない。もし海老蔵がいたら、染五郎がお祭り佐七と半時九郎兵衛を二役兼ねるという配役はなかっただろう。そういう配役を空想するのも、それはそれでもちろん楽しいが、今度の一座でする以上、染五郎の九郎兵衛は本役ではないと言っても染五郎は困惑するだけだろう。むしろ、そんなことは承知の上で、自分の柄を考え、もう一役の佐七といかに演じ分けるかを工夫した上での染五郎の努力を、私は興味深く見た。(ついでに言うなら夜の部の『青砥稿』でも、日本駄右衛門は染五郎の仁ではあるまいが、たとえば「神輿ケ嶽」のだんまりで大きく見せる工夫と努力を、私は面白く見た。)それで思い出すのは、いまの仁左衛門が『お染の七役』の鬼門の喜兵衛を初めてした時、自分の役ではないと思ったが、勘彌のおじさんから恥をかくつもりでやれと言われてやったお蔭で、あゝいう強い役が出来るようになったと語っていたことである。もちろん仁左衛門と染五郎では個性はまた違うが、他山の石として聞いてもよいことではあるだろう。

松緑の本庄綱五郎と役を入替えたら、というのも、当然、誰しも考えるところだろうが、それはそれとして、私は松禄が、先月の釣天井の柴田勝重といい、実事系の役でじっくり実力を蓄えてきたのを興味深く見ているところなので、この綱五郎も(染五郎の九郎兵衛と補完し合うという意味も含めて)かなりの点を入れたくなっている。ただこの人の何とかすべきなのは、夜の南郷でもそうだが、七・五で切れるセリフの尻が全部同じ調子で同じ音程のところへ落ちてゆくことで、同じ調子が何度も繰り返されることになり、単調で妙味というものがないことだ。

菊之助の小糸ももちろんいいが、今の菊之助の力からすればこのぐらいよくて当たり前というべきだろう。41年前の祖父梅幸の敵討ちをしたようなものだ。

七之助がお房とお時の二役で、得難い素質を見せたのも、新世代歌舞伎の今後を考える上からも頼もしい。玉三郎と感触を違えながら、引き受ける役はほぼ同じところを引き受けてゆくことになるのだろうか。

(それにしても、いまこの文脈からは外れることになるが、歌六の安野屋重兵衛を見ながら私はほとほと感服した。することなすこと、常間常間でことごとく寸法正しく、すぱりすぱりとツボに入ってゆく。この種の役の仕事としてほぼ理想的といってよい。こういう役でのこういう本寸法の芸というのは、勘彌以来だろう。)

        *

『青砥稿』もなかなかよかった。新世代版五人男、みなそれぞれによかったが、何といっても菊之助の弁天というのは天性この人に嵌めて作られたようなものだ(と感じさせるところが、絶対の強味というべきである。)極楽寺山門の立ち回りの飛燕のごとき具合など、私がこれまで見た限り、誰のよりも素敵に素晴らしい。三年前、自ら企画した東北地震被災者救援の舞踊会で踊った『浮かれ坊主』を思い出す。白く塗った素足の筋肉がまるで陸上競技の選手のようだった。

後は(いまのままでも充分、一級品ではあるが)、後ろにいる駄右衛門や浜松屋等の存在を意識しながらの南郷とのやりとりなどで、時代と世話、硬軟取り混ぜてた運びの面白さを見せてくれるようになったら、泉下の黙阿弥翁も目を細めるに違いない。

今度の、久しぶりの、そうして新世代に面々にとっては初めての全段通しで、ひとつ言うとすれば、胡蝶の香合とか、信田小太郎と千寿姫の関係とか、それにからむ赤星十三郎との関係とか、浜松屋が小山家の臣であったといった因果の糸を、客席の万人にもっとわかりやすく、明確に見せるべきだというである。繰り返すうちに、段々、いつの間にか刈り込まれ(以前は十三郎の伯父さんというのが出てきたはずだ)、前菜扱いみたいになってきたような気がする。前段の時代、後段の世話と、二つの世界が大詰で渾然となって大団円を迎えるというのが、作者黙阿弥のこしらえた構想なのではあるまいか。

        *

今月の文楽がなかなか面白い。三部制で十一時開演の夜九時終演という盛り沢山で少々草臥れるが、それだけのことはあるから見て損はない。第一部の『近頃河原の建引』、第二部の『染模様妹背門松』と、大坂の町人世界のさまざまな人情の模様がねっとりと語られて、これこそ文楽ならではという思いで、堪能した。歌舞伎では到底、こうは行かない。大作のいわゆる名作よりも、こういうものにこそ、文楽の真骨頂が発揮される。

『河原建引』の猿回しの件など、歌舞伎だと、猿回しの猿のおかしみも、ほろりとさせる味付け以上にはならないが、文楽だと、本物のお俊伝兵衛も人形、猿のお俊伝兵衛も人形だから、人間と猿の二組のお俊伝兵衛が重なり合って見えてくる。作者の卓抜な趣向、卓抜な人間観が浮かび上がってくる。かつて、あの若太夫の語りで見た時の圧倒的な感動を、ちょっぴりだが偲ぶことが出来た。(それにしても、当代寛治が、風貌風格、先代にそっくりになってきたのに驚く。)

何と言っても堪能したのは『妹背門松』で咲太夫の語った「油店の段」である。今が盛りの咲太夫がたっぷりと語って、文楽でなければ味わえない面白さを心ゆくまで愉しんだ。文楽を聴いてこういう満足感というのは、いつ以来だったろう? 「蔵前の段」も、文字久がお染の親の太郎兵衛をじっくりと語る。人の世の情理を尽くし、お染がそれをじっと受け止めつつそれでも心中に至る具合が、語られる世界は古めかしい町人倫理でありながら、それを超えてもっと普遍的な、大人の良識と若者の情熱の相関関係へと、聴く者の思念を昇華させることになる。こうして初めて、菅専助作の一見古めかしい浄瑠璃が、広く高い普遍性を獲得することになる・・・などと、つい青臭いような理屈を捏ねてしまったが、そういう気にさせてくれるだけのものだったといえる。

ずい分前に見た歌舞伎の『ちょいのせ』はこの作の「質店」と「蔵前」を、番頭の善六をチャリ敵にして喜劇化したものだが、文楽でのこの醍醐味とはまったく異質のものだが、それはそれで、別種の面白さがある捨てがたいものだ。二代目鴈治郎も十三代目仁左衛門も亡き今、誰もやらなければ消滅してしまう絶滅危惧狂言のひとつである。私は実は、当代の、つまり十五代目仁左衛門に、このチャリ敵の善六をやってもらえまいものかと期待しているのだが。あの仁左衛門が善六をやって、女性ファンたちが、上辺では「いやあね」と苦笑しながら、実は腹の中で「仁左衛門さん、カワイー」と喜ぶ様子が目に見えるような気がするのだ。仁左衛門としても、いつもいつも格好いい役ばかりでなく、善六などをやってアッと言わせてみるのも、また役者冥利に尽きるのではないだろうか?

第三部の『廿四孝』は蓑助と文雀が八重垣姫と濡衣を遣う眼福を愉しむものだろう。

随談第515回 勘三郎随想(その36)

45.「も」の章 

再び再開、続けることにする。

歌舞伎とは何か、という問いは、歌舞伎の根元を問いつつ、ひとびとに常識や通念の変更を迫っている。およそ、歌舞伎を一度も見たこともない者が漠然と抱いている想像としての「歌舞伎」から、型とか約束事とか呼ばれるものの細部まで通暁している歌舞伎通の考える「歌舞伎」まで、さまざまな「歌舞伎」が、社会のなかに乱立し瀰漫する形で存在している。初心者に歌舞伎とは何かを教える解説書や入門書は、「歌舞伎的」とか「歌舞伎らしい」とおぼしい特徴的な事象を取り上げて説明・解説するが、それは、両刃の剣のように、著者の意図とは裏腹に、歌舞伎を特殊なもの、解説がないと理解しがたいもの、と読者に思い込ませることにもつながってしまいかねない。

花道、女形、隈取・・・という風に、歌舞伎のさまざまな事象を取り上げて初心者に向けて歌舞伎を語る、という方法は、題名も『歌舞伎への招待』という本で、著者の戸板康二がはじめて試みたことだった。それは一九五〇年という終戦後間もない新時代に、それまでの歌舞伎通とはまったく異なる戦後(アプレ)世代(ゲール)の読者に向かって、歌舞伎を客観的に分析して見せるという斬新で、知的で、機知に富んだ、おしゃれな方法だった。『歌舞伎への招待』という題名も、ウェーバーの『舞踏への勧誘』という、クラシック音楽のファンにおなじみの曲名から思いついたものだった。「戦後」という新時代の観客たちは、歌舞伎に対する常識は、従来の歌舞伎通に比すべくもなかった代わり、旧世代の持ち合わせなかったような知識や趣味を、はるかに広範囲な分野にまたがって持っていた。そういう読者を想定できたところに、戸板の卓抜なセンスと独創があったのだ。

だが実は、これには先達があって、戦争前の一九三八年に、その当時最も多数の読者を持つ批評家だった三宅周太郎が、外国人に歌舞伎を紹介するために英文で出版した『KABUKI DRAMA』という本で試みた方法を、さらに洗練された形で進化させたものだった。三宅も戸板も、それまでの歌舞伎通の狭い世界から、歌舞伎を、もっと広い世界へ向けて発信して、幅広い読者を獲得した批評家である。(話が脱線するが、前に述べた六代目菊五郎の『鏡獅子』を小津安二郎が撮影した映画も、元来は、海外へ日本の文化の象徴としての歌舞伎を紹介するのが目的で作られたものである。その制作が一九三五年。三宅周太郎の『KABUKI DRAMA』とほぼ同時代である。日中戦争が、十五年戦争という長いスパンで見た場合すでに始まっている時点でのことなのにも驚くが、歌舞伎はこうした形でも、時代と微妙な関わり方をしていたことがわかる。が、いまは閑話休題だ。)

戸板康二がはじめた(開発した、という方がふさわしいかもしれない)こうした方法は、現在もつぎつぎに刊行される歌舞伎の解説書・入門書にも踏襲されている。歌舞伎という現象を目に見える形で具体的に呈示して見せるには、いまなお、これにまさる名案を、まだ誰も思いついていない証拠かも知れない。

一方、歌舞伎をいかにして「保存」すべきか、ということを考えた人々もいた。一九二〇年といえば大正九年だが、当時新進の批評家だった浜村米蔵は、歌舞伎を「正しく保存」するための研究所を設けることを提案している。浜村の説くところによると、この研究所はあくまでも理想的な演劇を実践するためのものだから、まず絶対に必要なのは舞台監督である。舞台監督は光線・大道具・小道具・衣裳・音楽・戯曲・俳優などすべてを支配し、指揮するすぐれた技術家であると同時に思想家でなければならない。劇場は過去の戯曲の住家であり、興行方法は、鑑賞力をもたない観客は一人も内部へ侵入させない一方、あくまでも観客に対して親切であるようにする。劇場は周囲の雑踏から守るために郊外か近県のさびしいところに建て、開場時間を正確にして遅刻した者はいかなる理由があっても入場させず、一切のアルコールを禁ずる。一日の興行時間は三時間ないし四時間とし、長い戯曲を演出する場合は幾日にも分節して上場する。劇場の経済は国家の補助と、富豪が人生になしうる唯一の光栄ある事業としての寄付、それに作者・批評家・選ばれた観客・劇場内部の者などの関係者が応分の努力をしてまかなう。拍手と雑談を厳禁した「深林のような日本戯曲の住家」で、歌舞伎劇の科学的演出をする厳粛な思索研究の場とする・・・・というのだが、これが決して冗談として言っているのではないことは、今日でも、歌舞伎は古典であるべきだという意見の人の話をよく聞いてみると、つまるところは、浜村米蔵が九十余年前に考えたこの「ユートピア劇場」と大差ないところに行き着くのに気がつく。いまの国立劇場にしても、こうした「思想」をどことなく反映しているような気もするし、舞台監督のあり方などは、(一見しての印象とは裏腹に)他ならぬ野田秀樹や串田和美がそれなりに実現・実践しているようにも見える。それもそのはずで、浜村のこうした発想の根底には、前にも言った、「演出」というヨーロッパの近代劇とともに生まれた思想が横たわっているからで、その意味で、国立劇場という形に結実したユートピア劇場と、野田や串田の演劇世界とは、遠く祖先を共通にする間柄ともいえるのだ。(兄弟、というほどではなくとも、孫同士かひ孫同士ぐらいとは言えるだろう。)

だがそれにしても、浜村の唱道するこのユートピア劇場で実際に歌舞伎を見てみたいと思う人は、どのぐらいいるだろう? そもそもこの劇場で、たとえば『助六』の股くぐりなど、どうやって演じ、どういう空気のなかで「鑑賞」されるのだろう?

もっとも浜村米蔵にしても、「保存」といっても、歌舞伎をそのまま冷凍保存してしまおうといっているわけではない。理想の劇場で過去の歌舞伎の本来あるべき姿を研究した上で「保存」し、一方で、つねに流動して止まない歌舞伎を「進行形歌舞伎」として、時代とともに進化させるべきだというのが、その主張するところだった。歌舞伎は興行として大々的にやるよりも、むしろ小規模に、本来のあるべき姿を追求して見せる場であるべきだ、という意見の人もいる。それもたしかに、ひとつの考えではあるだろう。金丸座を知って、これこそが歌舞伎を盛る理想的な器であると考えた識者も少なくない。

しかし、十九歳だった勘九郎青年が、唐十郎のテント芝居を見て、これが歌舞伎だと思ったという時、それは取りも直さず、これこそ歌舞伎が本来あるべき姿、という意味であった筈である。だがその、言葉にすれば同じそれぞれの「歌舞伎が本来あるべき姿」には、なんという隔たりがあることだろう。少なくとも、十九歳の勘九郎青年の胸にともった火は、熱く燃え上がるものであったに違いない。いまも(と言っても、その「いま」はそのまま永遠に冷凍保存されてしまったわけだが)、勘三郎は言う。歌舞伎をつまらない、わからないという奴を黙らせたいのだ、黙らせるような歌舞伎をやりたいのだ、と。こういう演者の思いを、それは間違いだと言えるだろうか? 勘三郎が、自分の考える歌舞伎を盛る器として作った平成中村座もまた、金丸座に発想の原点があることは、勘三郎自身が語っているところである。

歌舞伎とは何か。歌舞伎はどうあるべきなのか。歌舞伎をどうすればいいのか。つまりはいまなお、誰も正解など持っていないのだ。それはおそらく、近代以降の歌舞伎が背負い込んだ、永遠の問いであるに違いない。

「異邦人」であるはずの、串田は言う。「この芝居がどうなったら歌舞伎になるんだろう。どうすれば成り立つのだろう。そもそも歌舞伎らしくする必要があるのか? 歌舞伎らしくってどういうこと? 歌舞伎らしくない歌舞伎ってどういうもの? ・・・もちろん演劇人としての僕個人は、何だってやって良いと思っている。やったほうが良いと思っている・・・・だけど歌舞伎となると、なぜか慎重になる自分がいて、その自分にちょっと戸惑う。そういう自分と折り合いをつけるのに手間取る。なぜかというと、そもそも歌舞伎というものの定義が自分の中で明確でないんだ。」

この、何とナイーヴな正直さ! そうしてその問いは、野田秀樹に尋ねても、おそらく似たような返事が返ってくるのではあるまいか?

随談第514回 吉之丞追悼

勘三郎随想を一回休みにして書く。

このところ顔を見ないからどうしたかと案じていた中村吉之丞が死んだ。八十一歳という享年はともかく、もうしばらく、見ておきたかった。名手と呼んでよかったと思う。長身で、背を盗むためだったろうが少し猫背になった姿態といい、声音や、少しうねうねする感じのセリフの言い様といい、品格の中に愛嬌をにじませた具合といい、ちょっと歌右衛門に似ていたが、もちろん、立場から言ってもあれほど強烈に主張したりはしなかったから、こちらは微笑ましくも懐かしく、歌右衛門を偲ぶのを隠し味として吉之丞ぶりを、その自在な舞台ぶりを愉しむことが出来た。

昭和一桁世代というのは、いまや最長老クラスだが、身分から言って加賀屋歌江と、御神酒徳利というのとも違うが、よくペアになった。何の芝居だったか、二人が芸者だか何だかの形(なり)で、ただ舞台を歩いて横切っただけで、芝居の味がぐいと濃くなって、大人の芝居になったのに驚いたのも、今となってはいい思い出である。

柄からいっても、芸の質(たち)から言っても、もちろん世話物だってよかったが、時代物の方がドンピシャリと他の追随を許さなかった。芸に遊びが感じられるようになってから、銀器のような鈍い光を放って照り返るようになった。代表作を一つ挙げろと言われれば、『毛谷村』のお幸を挙げよう。もっとも、この役はしばしば入込みをカットされてしまうから、もちろんそれでも、白の鬘が似合って、品格あり、由緒ある武家の妻としての貫目と、狂言の中での役の重みのバランスといい、立派なものであったには違いないが、しかし吉之丞の真骨頂を知るには、入込みから見ないとわからない。六助と虚々実々の探り合いをするうち、小柄をヒョウと投げるのをハッシと受けて、ヒョウと投げ返す辺りの面白さというものは、ちょいと真似手のないものだったと思う。さっき、「品格の中に愛嬌をにじませた具合」と言ったのはここらのことである。何だろう?あのお婆さん?と、初心の観客でも惹きつけられたに違いない。(果たして、場内からウームと唸り、ホッと笑いさざめくようなジワが来た。)

いまスクラップを確かめてみたら2009年の四月とあるが(もう、そんなに経ってしまったのか!)、旧歌舞伎座で吉右衛門の六助で『毛谷村』を出したときのお幸に私はいたく感じ入って、その年の年末に恒例の「今年の回顧」のベストスリーに挙げたことがある。

それにしても吉之丞があれほど自在の境に入った舞台ぶりを見せるようになったのは、いつごろからだったろう。迂闊にも明確に、あの時、と指し示すことが出来ないのが残念だが、吉之丞という、播磨屋の一門に由緒ある名前を貰うことになって、ああよかったなと思うと同時に、でもそれも当然だよなと、内心思ったことは覚えている。彼のような地位や立場にある場合、大きな名前を名乗らせるとか、扱いのランクを上げてやるように上の者が配慮してやることが是非とも大切である。

前名の万之丞といった当初のころは、それほどとは実は思っていなかった。白鸚が一家一門を率いて東宝に移籍した後、いろいろ改革を試みたひとつとして、万之丞を立女形格に抜擢しようとしたことがあった。新天地でまず手掛けた『桑名屋徳蔵』で傾城桧垣という大役につけたのだったが、評価はいまひとつだった。高麗屋の一門にはこれといった女形がいなかったから、絶好のチャンスであったわけだが、まあ、ものにし損なったわけである。一門にはほかに幸雀とか吉之助といった同年輩の女形がいて、当時の染五郎・万之助兄弟がやっていた木の芽会という勉強会や、国立劇場が「青年歌舞伎祭」と称して毎夏開いていた若手の研究会などでは、それぞれにかなりいい役をさせてもらっている。それを思うにつけても、歌舞伎を演じる機会の少なかった東宝時代が、修行段階の役者にとって一番大切な時期だったろうが、よくもあれだけの名手になったものだと思わずにいられない。

吉之丞世代の女形はもう歌江ぐらいになってしまったが、昨秋の歌舞伎座での二ヵ月続きの『仮名手本』の通しで何が愉しかったかと言えば、「七段目」の一力の仲居達の熟女ぶりだった。11月と12月でメンバーが入れ替わっていたが、時蝶・扇禄辺りを姉さん株として歌女之丞だ芝喜松だ京蔵だ、芝のぶだだ京紫だ、その他その他、(小山三はこの際、別格中の別格だから別座に座ってもらう)更にもっと若い妹たちに至るまで、なかなかの壮観であった。目下のところ、現在の歌舞伎で一番層の厚いのは「彼女たち」であるかもしれない。雀右衛門女子大とか芝翫女子大とか、学校はいろいろだが、世情を反映するかのように歌舞伎界も女性上位の世の中である。この上は、万之丞を吉之丞にしてやったような配慮や待遇がどれだけなされるかということも、育てた仏に魂を入れるという上からも、肝心なことであろう。

随談第513回 勘三郎随想(その35)

暮から中断していた勘三郎随想を再開します。あと数回で終了のつもりです。

43.「ゑ」の章 (その34から続く) 

野田秀樹と勘三郎の場合も、作者野田という存在が、まず勘三郎の中にあったに違いない。当然、演出者野田と作者野田とは切っても切り離せない以上、それは、野田に歌舞伎を作らせ野田の演出でそれを演じる、ということとイコールになる。だが、最初に勘三郎が野田に与えたのは、極めて慎重な「作戦」だった。既存の歌舞伎の作品を野田秀樹の芝居として再生するという方法である。シアター・コクーンや平成中村座で串田和美に託したのは、名作、もしくは人気作として著名な歌舞伎の古典に、演出という近代劇の発想と方法で手を入れさせ、それによって現代の観客の感性にストレートにアピールする芝居として再生することだったが、野田に託したのは、はじめが『研(とぎ)辰(たつ)の討たれ』という、大正の末に作られた新作歌舞伎の作品であり、次に託したのが、黙阿弥の『鼠小僧』という、名は知られていても、実際には上演されることが稀な、上演しても成功させることが難しい作品だった。勘三郎の、作者野田への配慮と、事を起こすに当っての熟慮を窺うに足る選択といえる。

『研辰』は、大正の末に初演された新作物の佳作として、いまも通常の歌舞伎のレパートリーのなかに入っている作品である。勘三郎自身も既に何度も演じて手に入っている、いわば安定銘柄だった。作者の木村錦花は松竹の要職にあった幕内の人間としていわば玄人中の玄人であり、作者としても、たとえば昭和初年の数年にわたって、毎夏の人気シリーズとして『弥次喜多道中記』を連作して、家族連れで歌舞伎を楽しむという新しいファン拡大に貢献した手だれであり、また一方では『近世劇壇史』のような著書もある知識人でもあった。さらに言うなら、近代演劇の狼煙を上げたというので名高いあの二代目左團次と小山内薫の「自由劇場」にも、そのはじめから終わりまで関わっている。その時点での、申し分なくハイカラな近代人である。

ところでその『弥次喜多』が、当時宝塚少女歌劇で大ヒットした『モンパリ』をヒントに生まれたように、『研辰』の初演された大正十四年といえば、都会的な新感覚が風靡したモダニズムの時代であり、武士道だの仇討だのを批判し、軽妙に茶化してみせるというナンセンスは、当時の流行でもあって、歌舞伎ばかりでなく、そのころ新興の大衆娯楽として隆盛を迎えていた映画でも、仇討批判の作が無数に作られている。有名なバンツマ、阪東妻三郎の若き日の大ヒット作『雄呂血』などというのもそのワン・オブ・ゼムであって、その種のものを「傾向映画」と言った。つまり時代の「傾向」だったわけで、歌舞伎でも、いまでもちょくちょく出る、かの谷崎の『お国と五平』だって、菊池寛の『恩讐の彼方に』だって、仇討批判劇という「傾向」を借りた上に作られた、そのワン・オブ・ゼムだったわけで、要するに『研辰』は近代作家による近代俳優のための近代的新作物なのである。

つまり、ここで野田のなすべき仕事は、仇討芝居に託した社会批判や諷刺を、いまとなっては古色の漂う大正・昭和初年のモダニズムのハイカラ・ムードから、現代の寵児としての野田の芝居の世界に組み替え、再創造してみせることにあった。それなら、野田秀樹の世界そのものであって、野田自身が臆せず取り組みさえすれば、成功は疑いない。第一作を成功裡に収めたいとする、勘三郎の慎重な配慮が窺われる。

第二作の『鼠小僧』は、黙阿弥の名作といわれながら、その実、実際に上演しても成功させることはむずかしい、すでに賞味期限が切れたも同然の作である。現にそれより数年前、国立劇場が復活上演をして、どう見ても成功だったとは言いかねる結果に終っている。しかし鼠小僧という近世の庶民社会が生んだ伝説的な存在は、いまなお、現代の社会にも充分有効性を持っている。黙阿弥の作をそのまま、国立劇場がやったような方法で復活上演しても成功率は低いが、黙阿弥の作に借りて野田に新たに作らせるなら、現代にアピールする鼠小僧の芝居を創造することは充分に可能だろう。勘三郎の思考がこの通りの筋道を辿ったかどうかは別として、私なりにその意図を読みほぐせば、こういうことになる。いうまでもなく、鼠小僧の「義賊」というモチーフを梃子にすることによって、野田は新しい鼠小僧の芝居を作って見せたのだったが、そこに「野田版」という文字を添えて、黙阿弥の野田的再創造というスタンスを明示することも忘れなかった。ここにも、勘三郎の頭脳プレイがある。

歌舞伎から外に出て、野田と組んで芝居をするのなら、何もむずかしいことではない。だが勘三郎の求めたのは、歌舞伎座で歌舞伎として野田の作品を演じることだった。この発想のなかには、歌舞伎とは何かという問いが、強烈に問いかけられている。歌舞伎とは、何をもって歌舞伎と呼ぶのか? 何をどうすれば歌舞伎であり、何をどうすれば歌舞伎でなくなるのか?

歌舞伎座にこだわったのは、「歌舞伎の大本営みたいなイメージ」と串田がいうように、まさに歌舞伎のシンボルとしての殿堂だからだが、そのシンボルとは、勘三郎にとっては単なる抽象的な意味でのシンボルではない。たとえば初役で『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官をつとめたとき、かつて判官の役を何度も演じ、教えてもくれた「梅幸のおじさん」が、その判官の役で、いま自分が立っている同じ舞台の同じ場所で、いま自分のしているのと同じことをしていたのだと思うと感極まって涙がこぼれてきた、というような、何十年経とうと失われることのない記憶と、そこに籠められた実在感に裏打ちされた、それは「歌舞伎の殿堂」なのだ。

その歌舞伎座で、野田と組んで新作の歌舞伎をする。そんなことをしていいのだろうか? 犯罪者のような気持に襲われたと野田が言い、その犯罪の共犯者のような気持と勘三郎が言うとき、その言を疑ったり、揶揄したりするのは、よほどの遠距離から遠望する者にしか不可能だろう。

一方、その歌舞伎座で、歌舞伎役者がやればそれはすでに歌舞伎なのだと言いながら、勘三郎は、野田の作品『カノン』を串田の演出で上演するための具体的な準備に取り掛かりながら、これは歌舞伎にならないといって破棄している。歌舞伎とは何か、ふつう想像しがちな域を遥かに超えて、緻密に、勘三郎が考えて抜いていたことがわかる。

44.「ひ」の章 (談話。串田、野田との仕事について2)

―――串田さんは、ぼくは演出家として頼んでますから、彼が何か意見を出してきたときには彼に従います。ただ、これは従えないなっていうようなのが来たときは頼みません、はじめから。だから、いつも笑うんですけど、あなたに絶対『鏡獅子』は触らせませんと。するとかれは「ソーオ」って言うんだけど、ハハ。『仮名手本忠臣蔵』も普通のまんまやりたい。串田さんでやったらやれるよ。けど、それはいいですよ、まだ。

―――これは彼に頼んだ方がいい、という判断ですか。それが『法界坊』であり

『夏祭』であったと。

―――そうそうそう。たとえばね、もっと言うと、あれも串田さんでやってみたいんですよ。どういう風に変わるか。『筆屋幸兵衛』。ちょっと興味がある。やるかもしれません、いつか。

―――そういう場合、普通バージョンと串田バージョンと、ふたつ出来たわけだ

けど。たとえば『夏祭』なんかは?

―――もう普通バージョンはやりたくないですね。『法界坊』もやりたくない。『法界坊』は普通のはつまんないよね。あれをやって、何を見るのかと思う。そう思いません? 見るものないですよ、あれ。ただ役者の愛嬌だけでしょ? 

『夏祭』はねえ、もう一回、歌舞伎座でどうかなあ。『四谷怪談』は普通のもやります。『夏祭』は、暗闇の快感を覚えちゃったからねえ。普通のは、あんなところで舅殺しをやるのはねえ。嘘くさいですよね、なんか。どうです? しかも「長町裏」でチョンでしょ、いつも。あれ、やっぱり最後までやると面白いですよ。でも、普通のあのやり方で最後までやっても駄目なんですよ。だってバカみたいなもんですよ。あれはほんとに串田さんの傑作だと思うよ。楽しませるわ。よく考えてる。あの街を小さくしたり、暗いところからバーンと移るところね。串田でかした、と思うなあ。あそこまでやっちゃったら、もう普通のはやりにくいってことですわね。

でも、そんなこと言ってても、またやるかもしれません。そのときにまたお話したいですね。どういう風になるかね。うちの親父もやってたしね。

―――『三人吉三』もね、普通のつまんないですよ。普通の人が見たら、あのやり方だと駄目だと思うよ。だってさあ、役者の貫録がどうのこうのいう話ばっかりになるし、「大川端」だけ出したりするようになるでしょ? ああいうことするからね。やっぱりドラマとして見ると、串田さんのあれ、よく出来た『三人吉三』だと思うんですよね。

まあ、お嬢はね。でも、お嬢だけやってもねえ。いや通しだったら、ぼくはやりたくないです、逆に。なぜかって、女形がやった方がおもしろいですよ、お嬢は。だから玉さんにすすめたんだから。やったらいいって。アレは『弁天小僧』とは違うから。もっというと、『弁天小僧』はやりたくないですから、串田さんでは。やったらだめですよ。やったら失敗しますよ。

―――『封印切』なんかは、串田さんでやっても面白いかなと思ってるんです。ただ、『近松心中物語』みたいなのをもうやられてるからね。その色がついちゃうのがいやなんでね。それだったら充分ですからね、あれで。ただ、最後の裸馬に乗っていくところ。堀川弘通監督の映画よかったですからね。あんなのもやりたいなあ。

―――串田さんだったらあそこまでやらないと。

―――そりゃ、やらないと駄目駄目。

―――普通のやり方だと最後までできませんからね。『三人吉三』でも普通のやり方だと、三人が巴になって死ぬところまでできないってことはありますね。

 ―――そうなんですよ。こんど『夏祭』をベルリンへ持っていくんですけど、五月に。「道具屋」の場を出そうかっていってるんですよ。それをまた凱旋公演でやれたらね、どうなるか。

―――野田、串田の違い? あのね、野田秀樹はね、大人ですね。逆に見えるでしょ。串田さんの方が子供。野田は世の中のことをわかってますね。やっぱり作家なんだね。だから、ここはやめといたほうがいい、ここは、っていうのが、とっても、わかってる。やはりね。串田さんは、なんか生まれっぱなしみたいな、駄々っ子みたいなところがある。そこがまたあの人のおもしろいとこ。年上の人にこんなこといっちゃ失礼なんだけど。だけど両方とも少年みたいなとこあるわなあ。その中での、どっちかっていやあっていうことよ。両方とも、演劇少年だね。

―――勘三郎さんの方から、二人を仕分けるというか、野田さんのときはこう、串田さんならこういということはありますか?

―――大きな違いは、野田秀樹は書けますからね。串田さんは書けないですから、その違いがありますね。だから野田さんとも・・・野田さんなんて言っちゃった。野田とも今年また新作をやるんですけども、作品に対して意見を言って、参加しながら、作っていく。こっちは、掘り起こす。既にあるものをどうやろうかっていうことですね。来年ちょっと面白いことを二人でやるんですけどね。

随談第512回 新春おせち料理(増補改訂版)

例年通り三日の浅草歌舞伎が仕事始めだが、新年早々、有楽町駅近隣の火事騒ぎで山手線が止まったため地下鉄を乗り継ぐのに大汗をかく。接続に大江戸線など都営地下鉄が混じると接続の具合がどうにもよろしくなくなる。猪瀬都知事の遺した最大の善政が九段下駅の都営線と営団線を仕切っていた壁を取り払った一件に尽きることが、こういうことがあってみるとよくわかる。まあ、どうにか開演には間に合った。

猿之助と愛之助が二枚看板。猿之助にとっては襲名公演を終えての初仕事。愛之助にとっては半沢直樹人気で知名度何層倍かしての初芝居。手応えを感じ取っての自信はオーラとなり、それは見る者にも伝播する。実はこれまで、愛之助の実力は認めても、手応えがコチンと優等生風に小さいのが気になっていた。関西では大変な人気と聞いても、もひとつピンと来なかったのだが、『義賢最期』はイキ良し、口跡よし、クールな二枚目の愛之助にとっては、実力魅力兼備のさまを見せるには最適の役かもしれない。甲冑を着ずに討手を迎えるダンディズムにも適っている。もう一役の『新口村』の忠兵衛の方は、これに比べると、適役であるという以上の印象はまだない。もっともこの芝居は孫右衛門の芝居であって、梅川はともかく忠兵衛はたいした為どころもないから無理はないが。

九郎助と孫右衛門をやった嵐橘三郎は、富十郎の門下から自立して幹部になったばかりだが、先月の『弥作の鎌腹』の代官といい、きちんとした仕事をするなかなかの実力の持ち主と見た。こうした経歴の人といえば近年では吉之亟とか幸右衛門あたりが思い当るが、もう一世代前に八百蔵という人がいた。八代目中車が中車になる時にその前名を襲うという栄誉を担ったわけだが、門閥外から出て何でもござれの達者な人で、東横ホールのようなマイナーな劇場でなら『太功記』の光秀など主役もやっている。橘三郎にも頑張ってもらいたい。上村吉弥が葵御前と『新口村』のしゃべりの女房をやっているが、この人もなかなかの腕っこきである。

壱太郎が小万と梅川をやっていて、前者では俊敏、後者では姿のよさに情を乗せる才気のよさを見せる。ただの鼠ではなさそうである。

猿之助は『上州土産百両首』に『博奕十王』と、今回は腕よりも企画力で小手調べというところか。『百両首』は脚本に手を入れ下座をふんだんに使うなど、擬古典調を強化している。それに乗って男女蔵がしきりにセリフを時代に言うのはいいが、世話に戻す緩急がないから妙な具合になる。亀鶴という人はもう十年もしたら歌六の後に行けるかもしれない。門之助が、こういう中に入ると、一日、どころか二日ぐらいの長があることがよくわかる。尻を端折ってスッと束に立った姿の良さなど、ちょっぴりだが勘彌ばりである。この人の子役時代の『め組の喧嘩』だの『幡随長兵衛』だのを見ている私としては、長い間の鳴かず飛ばずが不思議でならなかったが、ようやく地に足がついてきたか。

一番のヒットは巳之助で、準主役ともいうべき大役(20年前には勘三郎がやった役だ)を立派にやってのけた。巧いとは言えまいが、自分の足で立った芝居をしているのが偉い。

         *

三日に浅草、四日に歌舞伎座というのは二十年来変わらぬ恒例だが(もっとも再建中の三年間は控え櫓の演舞場だったが)、その歌舞伎座の初芝居のお薦めは一に『松浦の太鼓』、二に『時平の七笑い』、三に現在ただ一人の立女形の芸という意味で『九段目』の藤十郎である。第四に橋之助の大庭に錦之助の俣野という『石切梶原』の敵役兄弟。如何にも時代物役者らしくて大立派。とくに錦之助にとってはこれが最高傑作ではあるまいか。

『松浦の太鼓』はもう何度もやっているが、今度が播磨屋が一番の大乗り気、上機嫌、こういう芝居はこういう風にやるものだという手本のよう。これを愚劇だと決めつけるのはやさしいことだろうが、しかしWELL MADE という言葉を文字通りに受け取るなら

これほど「うまくこしらえられた」芝居もない。愚劇と決めつける賢人よりも笑って愉しむ愚者の方が却って賢明であるという逆説も成り立つかもしれない。米吉のお縫いがまさしくお米がそこにいるよう。こういう役はエライ人がするより、若い人がした方がいい。

『時平の七笑い』は我当という人の気概に打たれる。器用な人ではない。道真を見送って、もはや辺りに人がいなくなって思わずプット吹き出すところなど不器用そのもので、つまりそういう巧さを期待しても駄目なのであって、それにもかかわらず感動があるのは、一にも二にも、片岡家に伝わるこの芝居この役を、片岡家の長子として演じるのだという気概の他にはない。よしそれが、若干時代錯誤であろうとも、その孤高さは感動に値する。

『松浦の太鼓』で其角だった歌六が今度は道真と文化人の役を一手引受け。歌六自身が文化人であるか否かは別として、文化人の役が良く映る役者というものはあるものだ。

『九段目』は、これが立女形の芸であるという藤十郎を見ておくということに尽きるが、併せて、梅玉の力弥というものをわれわれはどれだけ見てきただろうという感慨が湧く。かつては小浪を共にしてきた魁春が今度はお石をしている。『松浦の太鼓』の源吾にしてもだが、この人の二枚目としての風情の深まりというものはいまやただならぬものがある。

戸無瀬を迎える下女のりんを扇之丞がしている。浅草の『新口村』の喋りの女房をやっている吉弥のことは先に言ったが、こうした役どころに人がいるということの意味を、時代の潮目の変わろうとしている今、大切に考えたい。

話題の新作『東慶寺花だより』は、題材も世界もまるで違うが連作小説の劇化という意味では昨秋の『陰陽師』と同じ、劇化の難しさという意味でも共通するものがある。よくいえば随筆歌舞伎、ずばりいえばお茶漬け歌舞伎。ドラマと思ってみると肩透かしを喰ったような感じになるが、こういう行き方の新作歌舞伎もこれからの傾向になるのかも知れない。しかし孝太郎にせよ翫雀にせよ、更には秀太郎にせよ、芝喜松、幸雀エトセトラエトセトラまで、出演者一同みな大乗でやっているから、個人芸の競演と見れば、これはこれで面白くはある。

         *

新橋演舞場の海老蔵新作『寿三升景清』はよかった。この際絶賛しよう。海老蔵はやはり、神に愛された男、か? 詳しくは『演劇界』三月号に書いたからそちらを見ていただくことにして、書かなかったことをちょっぴり。

津軽三味線を大歌舞伎の舞台に乗せるなど、昔なら考えられなかったろうが、それをあっさりやってのけてしまうところが海老蔵流。いまや津軽三味線こそ、三味線のあらゆるジャンルで最もよく知られている三味線音楽である。何でも取り込むのがむかしから歌舞伎の歌舞伎たるところ、結構なことである。

大詰で舞台上に観客席出現。ナントカも山の賑わい、なんて言ったら叱れるかな?

         *

国立劇場『三千両初春駒曳』。松平長七郎の馬切りとか、宇都宮釣天井とか、徳川三代・四代といったPAX TOKUGAWANA揺籃期を彩る様々な物語伝説は、かつては万民共通の雑学知識だったが、いまでは、番隨長兵衛と水野十郎左衛門、一心太助と大久保彦左衛門ぐらいがせいぜいで、由井正雪などでさえ、イマドキノワカイモンへの知名度はどの程度なのだろう? 辰岡万作の作を原作とするというこの作について、そうした興味を除けば私は知るところいくばくもない。世界を小田の跡目相続の物語に変えて、菊五郎演ずる松平長七郎ならぬ三七信孝の馬切りと、松禄つとめる本多正純ならぬ柴田勝重の釣天井と、要はこの二つが見どころになるわけだが、芝居としては勝重こそが座頭役だろう。菊五郎は大蔵卿的自由人信孝役で仁よし風情よしで儲けるが、一日の演目としての重心は松禄の双肩に掛ることになる。そう考えると、今回この芝居をともかくも持ちこたえた松禄の努力と、これまで苦労の末積み上げてきた役者としての力量を認めなければならないだろう。かつて祖父の先々代松禄がこの劇団で担っていた役割を、当代がともかくも支えて見せたのである。この月の国立劇場について、言うべきことはほとんどそれに尽きているようなものだ。

それにしても、釣天井の場面が終わった後、これが猿翁だったらどういう風に見せただろうという声が私の周辺で上がったのは面白かった。澤瀉屋流のこれでもかこれでもかと香辛料を振りかけた、激辛だか激甘だかの濃い味、音羽屋流の超さっぱりの薄味、お好み次第と言ってしまえばそれまでだが・・・

         *

三越劇場の新派は、今年は松竹大船映画路線はお休みで、『明治一代女』を久里子のお梅、八重子の秀吉、春猿の澤村仙糸という顔ぶれで出したが、問題は、というか面白いのは、己之吉を佐藤B作という配役である。なるほど、名案のようではある。適役と言ってもいいだろう。但し、新派狂言『明治一代女』としてではなく、川口松太郎作の脚本をいただいた一演劇としてならば、である。久里子は、徹頭徹尾先代八重子にまねび、学んだお梅を演じる。何のと言って、当節これだけ出来る者はないだろう。B作も、懸命につとめて、その限りではよくやっている。が、やればやるほど、久里子とは、あるいは新派名狂言の『明治一代女』からは離れて行く。B作を責めているのではない。昔風にいうなら、学校が違う、というやつである。己之吉の設定を江州の篤農家の二男坊でなく、現にB作自身がそうであるように東北人にでもして、別な一座別の顔ぶれでだったら、立派に成立するだろう。ということはつまり、新派の原点の壮士芝居に戻ればいいのだ、ということか? つまりは本卦返りというわけか。

それで思い出した。中学生だった昔、伊藤大輔監督の新東宝映画『明治一代女』というのがあったっけ。お梅が木暮実千代、己之吉は田崎潤だった。

         *

映画と言えば、新年早々、淡路恵子が死んだ。最後まで現役感覚を失わず、イマドキノワカイモンでも知っている存在であり続けたのだから天晴れである。訃報を聞いたその日も、電車の車内広告でどこやらの女性探偵社の所長とおぼしき風情で、あやしげな雰囲気を漂わせているのを見たばかりだった。

デビュー作の『野良犬』は、こちらがまだ子供だったからリアルタイムでは見ていない。見知ったのは松竹時代で、髪をふり乱したいかれたような役をよくやっていた。と思うと、『この世の花』(つまり、その主題歌を歌ったのがこの間亡くなった島倉千代子というわけだ)などといった、『君の名は』の二番煎じ三番煎じのようなすれ違いメロドラマのヒロインをやったり、つまり岸恵子だ有馬稲子だといったところに比べると、ややランクの劣る位置にいた。若くしてデビューした割には遅咲きだったともいえる。フィリピン人の歌手と結婚など云う経歴も、その当時の感覚からすると、かなり「異端」的に見えた。

それが、錦之助の『丹下左膳』で櫛巻お藤をしてあれよという間に結婚したころには、もうすっかり、水際立った女ぶりを見せるようになっていた。『若い季節』といったっけ、NHKのテレビで、その頃の人気タレントが社員の役で続々出てくるなかなか気の利いた連続ドラマがあって、そこで女性社長の役でスーツを鮮やかに着こなした姿が、何とも鮮やかなものだった。同年輩にはいい女優がいろいろ輩出しているが、「いい女」という表現が一番ぴったりくるのは淡路恵子であったろう。

訃を伝えるテレビが当時の映像を流していたが、錦之介も、やっぱりいいなあと思わずにいられない男ぶりで写っている。三人の錦之介夫人のなかで一番長く、その座にいたのだろうか? こういうときに「往時茫々」という言葉を使うのは何とも安直のようだが、訃を聞いてその言葉がまっ先に浮かんだのは、彼女の波乱の人生がそう思わせるためだろう。

随談第511回 新年あれこれ

あけましておめでとうございます。本年もよろしく。

      *

ここ数年来、年賀状を大晦日に書くようになっている。もろもろの事情からそうするのが目下のところ一番好適なのでそうしているに過ぎないが、古いCDを引っ張り出して聴きながらの作業が何とも気持ちがいいので、しばらくはこのやり方を続けることになるだろう。

歳末の雑用を何とか始末をつけて、午後になると、気のせいか街から聞こえてくる騒音もそれなりにひっそりとして、年越しを迎える気持ちもそれなりに定まってくる。まず、今年の新年に戴いた賀状の束を解いて、それから取りかかるのだが、この時に聴くCDをどれにしようか、咄嗟の判断で決める。すべからく、こうした選択は直感的に決めるに限る。いろいろ迷ったりあれこれ考え出すと、妙な儀式めいたものが出来上がってしまい、結局は自分で決めた儀式に自分で縛られるという馬鹿げたことになる。

とはいえ、例年のことだから、今度はあれを聴きたいなといった「おたのしみ」みたいなものは自ずと浮かんでくる。クラシックも落語もシャンソンも、どれもLP時代に愛聴した版をCD化したものばかりで、完全に菊吉爺イや歌團婆アの世界である。アルチュール・グリュミオーの弾くバッハの無伴奏パルティータだのヴァイオリン弾きのメニューインがリードするブラームスの弦楽六重奏曲といったたぐいで、録音の年月日を見ると大概は1960年代のもので、うっかりすると50年代なんていうのもある。こういうものは銀座の山野楽器あたりで廉く売っているのを、ふいと気が向いた時に買っておいたもので、新しい演奏家のコンサートを追いかけて聴くということをしなくなって絶えて久しいから、そもそも今どんな人が活躍していて今年はどんな演奏が評判だったかなどということは、たまたま何かの拍子に耳に入るか目に触れるかしたものしか、知らない。今を時めく海老蔵のことを昔の海老様とごっちゃにしているようなものだ。しかし、これがじつにいい、のである。

ひとしきり聴いて倦んでくると、今度は落語のCDだがこれも歌團爺イの世界で、まず馬生の「柳田格之進」を聴く。今聴いても涙がこぼれる。いや今だからこそ、むかし気がつかなかったところにふと心づいて、目が涙で潤んでくるのだ。このCDの録音はまた別の時のものだが、まだ改築前の新橋演舞場の古い畳敷きの稽古場で馬生が独演会をした時に聴いたのを今更のように思い出す。方々の落語会でちょいちょい顔を見かけて顔は見覚えているがが縁もゆかりもないままの、ちょっと齢の行きかけたOLといった風情の女性が、「あたし、落語を聴いて初めて泣いたわ」と連れの友達と話しているのが耳に入った。同感だった。あのころの馬生は本当によかった。ちょうど芝翫が、もう歌右衛門だ梅幸だと言っていられなくなるのではないかと思わせた時期と、ちょうど重なり合っていたこともあって、われわれも馬生にそれに似た期待を抱いたものだった。

つぎに文楽の「富久」と「愛宕山」を聴き圓生の「三十石」を聴き、彦六の正蔵の「淀五郎」と「年枝の怪談」を聴く。こういう世界があるのだ、いや、あったのだなあ、とつくづく思わないわけに行かない。

途中、年越しそばを食べ家族につき合って紅白歌合戦の終いの処をちょいと覗き、「行く年来る年」の最初の十五分、各地の除夜の鐘をしめやかに聞かせてくれるまで聴いてから、また取りかかる。今度は気分を変えてシャンソンにするが、これも歌團爺イの世界だから、コラ・ヴォケールだのイヴェット・ジローだのという、むかし中高生の頃、こういう世界もあるのだなあと知り染めた頃の、典型的な曲ばかりだ。だいぶ草臥れてきているのであまり刺激の強くない方がいいから、ジローの歌う「シャンソン・ベスト・コレクション」というのを聴く。ジローという人は強烈な個性を打ち出さず、典型を高いレベルで典型として聴かせてくれるところに値打ちがある。昔、ときどき、もう歌舞伎なんか見るのをよそうと思い決めて、しばらく見に行くのをやめたりしたことが何度かあるが、そういうときでも、ふっとなつかしさに襲われて見に行きたくなることがある。そういうときに見た梅幸の「娘道成寺」に心現われる思いがしたことを、いまも時々思い出す。梅幸という人も、そういう人だった。ピアフは死んでからドラマになるが、ジローのドラマなど誰も作ったりしない。しかしそれはそれで、立派な価値があるのだ。梅幸もきっと・・・

同じときに『乗合船』で三代目左団次の通人を見たのも、ああいうものはあの時でなければ見られまいと思う眼福だった。通人というものはまさにあゝいうものだという他はない。十七代目勘三郎だの、九代目宗十郎だの、その後にも、こういう通人は二度とは見られまいというような通人を見たが、左団次のは、それらとも更に次元を異にしたものだった。見ておいてよかった、とつくづく思う。『乗合船』の通人のような役にでも、そういうことはあるのだ。

話がどこやら菊吉爺めいてきたので、この一夕話はこのぐらいにしよう。ついでながら賀状は無事、元日の昼前には投函した。

と、まずは賀状代わりの雑文から、今年の第一報と行くことにしよう。