随談第527回 W杯なるもの

前にも書いたことがあるが、私はサッカーというものに概して冷淡である。しかしJリーグというものが出来て以来、20年この方の「サッカー」という社会的存在については関心を持っている。

競技としてのサッカーというものは、今度に限らずW杯などで外国選手の凄いプレーを見ればなるほど大したものだと思うけれども、大相撲やプロ野球のように毎日毎日の戦績にまで目を配るというほどの熱意も関心も持ち合わせていない。Jリーグが出来た時に、この機会にサッカーにも興味を持てるようになるかと思った(みずから期待した)こともあるが、結局は、サポーターという人たちのあのハイテンションのノリノリぶりを見るにつけ、別の星から来た異種を見るようで、サッカーそのものより、それを取り巻くものの方に気が行くことになった。あれはしかし、時代の潮目の変わる、紛れもなくひとつの象徴だったのだ。

明治生まれの私の父などは、戦前以来のラグビーファンだったが、サッカーに対しては、五体満足でありながら手を使ってはいけないなんて××だ、などと今なら差別発言と取られかねないことを嘯いていたもので、べつにその影響を受けたわけでもないが、随分まどろっこしい競技だと思っていたことは確かだ。事実、以前の日本のサッカーというのはパス回しばかりにかまけていて、たまに思い出したようにシュートをする、といった感じに、少なくとも素人目には見えたものだ。それから見れば、当今のW杯代表クラスの進化ぶりというものは大変なものだが、全体から見ると、日本サッカーの宿亜ともいえる昔の後遺症は完治したとは言えないような気がする。ザック・ジャパンが攻めに行くチームを目指したところで、そう簡単に変わるものではなかったことは、私程度の目にも見て取れた。いやむしろ、なまじいろいろな新情報を知らない素人の方が、本質はちっとも変っていないことがわかったのかも知れない。

さて、そうした「冷淡な」目から見ると、四年ごとのW杯のたびに繰り広げられる大騒動というものは、何かと物思う種にならざるを得ない。前々回だったか、やはり一勝も出来ずに敗退したことがあったが(中田が7分間、仰のけになって寝たときのあれだ)、わが蹴鞠山(けまりやま)関はようやく前頭5枚目ぐらいに上ったところ、とこのブログに書いたことがある。つまり、辛うじて上位と対戦のチャンスがある地位になったがまず歯が立たない程度のぽっと出、イヤサ新進力士、と見たわけだ。それから八年経って、番付はもう少し上がったようだが、もしかすると小結ぐらいには届いたか、などというのは所詮、身びいきのお手盛り番付で、やっぱりまだ平幕だったとわかった、というのが今度突きつけられた現実というものだろう。(もっとも、常に上位にいて番付を落とさないというだけでも大変なことで、そうした地位に居続けて大物食いといわれたり名人芸を披歴したりした名だたる名力士のあれこれが思い浮かぶ。むしろそうした中にさまざまな味わいを見出すのが愉しみを豊かにするのだ。今度日本が対戦した3チームにしても、おそらくそうしたレベルなのではないだろうか。)

私などよりもっと真っ当なファンだって、今度の結果を、残念だがまあ、こんなものだろうと受け止めた人は実は少なくない筈だ。ひいき目も含めて想定内の「中」か「下」、下というと悪いが松竹梅なら「梅」である。出場できるだけだって、昔を思えば、大したことではないか。前頭5枚目力士でもよほど諸条件そろえば白鵬に勝つこともあり得るが、この一番と締めてかかられればまず勝つことは難しい。そんな実情の中で優勝を目指すなどと発言するビッグマウスは、前頭5枚目の相撲取りが優勝宣言するようなもので嗤われても仕方がないが、しかし本田選手のあの発言については、実は私は必ずしもそうとばかりは思っていない。敗退が決まった後の本田のインタビューというものは、なかなかの見ものであった。今までしてきたことを全否定してやり直すというあの発言もまた、裏返したビッグマウスなわけだが、(それまではギョロ目が気になるだけだった)本田のあの折の人相・人品骨柄から、コノオトコハオモシロイ、と思(ってしま)ったのである。

それより問題は、十に一つあるかどうかという勝ち目の中から、自分に都合のいい要素だけを取り上げて並べ立て、さも勝てそうに言い立てる、マスコミや専門家やサッカー通の論法である。この前のオリンピックのときに比べれば、NHKなどは大分控えめだったようにも見えたが、大風呂敷を広げるようだが、あの手の論法を敷衍していくと、オイドンが立てば全国の不平士族が立ちあがると読んだ西南戦争の西郷軍の戦略も、初戦の奇襲で得た勝利から次々と戦線拡大しようとした「大東亜戦争」の日本軍部の作戦も、みな同じ図式に見えてくるのが気になろうというものだ。まあ、あれを真に受けた××もそう多くはいないであろうけれど。

ザッケローニ監督は、敗戦は自分の責任といって辞任を申し出たという。これは潔い態度だろうが、後任を、今度もやはり外人監督に求めるらしいという。ということは、日本のサッカーはまだ発展途上にあって外国に学ぶことが多い、とサッカー連盟(というのかな?)が考えているということだろう。そうとも言えるが、いつまでも「御雇い外国人」に頼って、4年ごとにやれ「ザックジャパン」だ「誰それジャパン」だと、シェフが変るたびに調理法が変る店というのもどういうものか、という気もする。(ま、日本のプロ野球だってそうだけどね。)

それにつけてもつくづく思うのは、社会的な観点から見る限り、今や日本はサッカー国になったのだなあということである。大相撲よりも、野球よりも、いまや「国技」とは言うまいが、最も支持されたスポーツであることは間違いない。Jリーグが出来て20年、それがそこにあるのを当然と思って育った世代がそれだけ存在するということだが、翻って思えば、巨人=西鉄の対決が始まった昭和31年というのが、ちょうどプロ野球発祥20年だったと思えば、フームと唸らざるを得ない。つまり、長嶋も王もまだプロ選手になっていないのだ。しかし当時の貧弱な中学校の校庭にゴールポストが立てられるようになり(体育館などという「贅沢な」ものを備えている学校は例外に過ぎなかったから、バレーボールもバスケットボールも校庭の隅っこにコートを白線で画いて、つまり土の上でやっていたのだ)、マッチョな志向の男子生徒が大喜びでサッカー好きになったのが下地のひとつ。もう一つの下地は、折から普及し始めたテレビが、連日ごろ寝でビールを飲みながらナイター観戦の亭主族にうんざりする主婦層を量産したこと、この二つが下地となって(たぶん二世代以上にわたるだろう)、Jリーグ開始とともに、新しい風を求めてサッカーに雪崩れ打ったのだ、というのが私の見立てである。

サッカー連盟も、先発・先行する野球連盟の犯した失敗や運営の拙さ等々、要するにダサさを、自分たちはあゝはやるまいという反面教師として観察し研究した上で出発したから、万事につけ野球よりもすることがスマートである。時代の風に乗ったのも無理はないのだ。サポーターも、負け勝負にもめげずゴミを集めて帰ったり、負けて帰国した選手たちを温かく出迎えたり(もちろんどちらもいいことに違いない)、異なる星から来た人たちの如くに清潔で寛大なのである。だとすれば、不思議なのは何故、テレビのサッカー番組(の多く)は、あんなにダサい解説をするのだろう? 何故、W杯を見ぬ奴ァ非国民、などという声が聞こえてくるのだろう?

随談第526回 今月の舞台から

歌舞伎座については新聞に書いたことにほぼ尽きている。このところの菊五郎の心境と、それを映した舞台の充実ぶり。持ち前の薄口の味付けの中にも心機充実とともにコクがたっぷりと醸してきた。松禄の蘭平につき合って行平で出ているのを見ているだけで、まさしく「出ただけはある」という劇評常套句そのままの値打ちがある。

吉右衛門がせっかく縮屋新助をやるなら黙阿弥の『八幡祭小望月賑』をしてくれればと思い、人にも言い、その思いが今もあるのは事実だが(国立劇場でするのがふさわしかろう。芝雀の美代吉、歌六の新三郎でベストメンバーが組める。このごろは老け役ばかりさせられているが歌六の白塗りというのは、じつはなかなかの隠し玉である)、それはそれとして、今度の『名月八幡祭』には文字通り堪能した。大詰の美代吉殺しの狂気は近代歌舞伎劇の演技のひとつの極北といってもいいだろう。が、それもさることながら、その前の「美代吉の家」の芝雀の美代吉とのやりとりの綾は当節稀な、大人の芝居というものである。芝雀の健闘も同時に讃えられて然るべきであろう。

『名月八幡祭』というと、旧新橋演舞場の夏芝居で勘彌と雀右衛門でやったのがまさしく大人の情痴の劇として思い出されるが、それ以来の面白さだった。その後玉三郎が美代吉を専らにするようになってから美代吉像も新助像もちょっと変わって、清涼飲料みたいにスーッとライトな感覚になり、それはそれで現代的で悪くないのだが、同じビールでも麒麟の瓶ビールではないが、こういうヘヴィーな味はやっぱりコクがあっていい。

(いま言った勘彌・雀右衛門の『名月八幡祭』だが、このときはこの二人で昼に『名月八幡祭』をし、夜に『十六夜清心』を清心が腹を切って死ぬ大詰まで通して出したのだった。勘彌もよかったし、雀右衛門の十六夜のあでやかさ、美代吉のしどけなさというものはなかった。晩年の名女形雀右衛門ももちろん立派だが、あの当時の、頬っぺたの大きな雀右衛門の、艶な風情が、私は妙になつかしい。実はこの程、雀右衛門丈の後援会から追悼文集が出され、お声が掛って私も一文を寄せさせていただいた。機会があればお読みください。)

幸四郎も『最後の一日』はよかった。いかにも、統率者として一年有半の苦楽を経てのまさに「最後の一日」の大石らしい。何度もやっているが、今度が一番、それも抜群にいいのは、これも幸四郎の心境の反映のような気もする。

大御所連以外では、松禄の蘭平が、祖父・父と、この家系のDNA中、最も濃厚に伝わっているマッチョなますらおぶりが、何よりも役に適っているのがいい。但し、本人は筋書の中で、ただの色奴でなく肚に一物あるのを色奴のオブラートに包みたいと、乙な芸談を語っている。腹に一物という以上にきつい執念か何かのようにも見えたが、つまりは、実は伴義雄としての肚をもって、偽物狂いや大立ち回りの背後にあるものを表したいという考えであろう。たしかに『倭仮名在原系図』全編を読めば単に立ち回りを見せるだけの狂言ではないわけだが、それには、この幕だけで伝承と型が出来てしまった経緯から考え直す必要が出てくるだろう。

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勘三郎没してのち初のコクーン歌舞伎。今回を第二期と位置付けるとプログラムの巻頭で串田和美が言っているが、たしかこの前の『大日坊』の時にもそんなことを言っていなかったっけ? まあ、考えが変わったところで咎めるには及ばないが、仄聞するところでは、勘九郎たちは最初、『大日坊』のような路線を考えていて『三人吉三』をするのは反対だったとも聞くから、串田が今度『三人吉三』にしようと思い決めて、これを第二期の初めと考え定めたのだとすれば、何か思うところがあるのに違いない。

ズバリ言って、今度の『三人吉三』はこれが第14弾というコクーン歌舞伎の中で一番よかった。理由は一言でいえば、串田がこれまでで一番、自分の思う通りのことを自由にやっているように見えることだ。これをもって有終の美を飾るのにふさわしいと思うほどだ。(別に、もうやめちまえ、という意味で言っているのではないから、これがもし串田さん、あなたの耳に入ったとしても、怒るには当たらない。それほどによかったと言っているのです。)

勘九郎の和尚、七之助のお嬢、松也のお坊、三人ともよかった。ある意味では、勘三郎・福助・橋之助のトリオよりよかったと言ってもいい。もちろん、うまい下手の意味ではない。コクーン歌舞伎の目指すところは、いやコクーン歌舞伎に意義ありとするならば、在来の歌舞伎にない何かを作り出すことに尽きる。とすれば、勘三郎トリオより今度の勘九郎トリオの方が、より新しいものを作ったと思うからだ。

あんなに若い和尚吉三というものを、私たちはこれまで知らなかった。なるほど和尚というのは、お嬢やお坊よりほんのちょっと兄貴という、このぐらいの男だったのだなということが実感される。要するに、街のヤンキーとしての吉三たちを舞台の上に躍動させたその一点で、今度の勘九郎トリオの方が勘三郎トリオより勝っている。生気横溢している。

それぞれ役にはまっている。勘九郎と七之助はある程度予測できたが、それがなかった分、松也には、オオ、という驚きがあってそれが素敵に新鮮である。黙阿弥の書いたセリフを七五調のリズム感を押さえながらテンポを上げて言うのが、なかなか格好いい。ヤッタゼ、というヤツである。

勘三郎の和尚は、自分は(かつて梅幸から教わった)お嬢をする役者だと思っていたのが、いわば冒険を犯して取り組んだもので、それはもちろん、勘三郎自身にとって新境地の開拓というに留まらない有形無形の得るところ多大なものがあったろうし、コクーン歌舞伎に出演したすべての俳優の演技としても最高のものと言ってもよかったろう。しかし翻っていうなら、勘三郎がやる以上、どう転んでもそこに揺るぎなくあるのは「歌舞伎」なのだ。(だからいいのだ、と人も我れも言い、たぶん串田だって、だからこそ安心していろんなことが出来たのだろう。その意味では、勘三郎は串田にとって免罪符だったとも言える。)

しかし翻って言えば、それは、勘三郎がある限り、串田はその枠の中から逃れられないということでもある。勘三郎の不在は、串田にとっては、勘三郎という呪縛から自由になれたということでもあったのだ。串田が勘三郎より力がないからというのではない。どう転んでも歌舞伎にしてしまう(なってしまう)勘三郎は、串田にとってはこれ以上はない頼もしい味方であったが、串田の目指すものにとってはこれ以上はない障壁でもあったという二律背反から、自由になれたということである。勘三郎がそこに存在する限り、串田の演出は、あそこをいじり、こちらを動かし、といったチマチマ感がつきまとわざるを得ない。なるほど、と思わせるいいアイデアももちろんあったが、無理に笑いを取らなくてもいいのにとか、何であんな隅っこをいじくっているのだとイライラさせられることもままあった。おそらくそれは、歌舞伎に対する串田の過剰な意識がさせていたのだろう。その過剰な意識が見ているこちらにも反応して、つまらないところが神経に触ったりするという、お互いにとって不毛なラリーの応酬を始めたりするアホなことにもなった。

かれこれ10年近くも前になるが、当時の(今の体制になる前の)『演劇界』の企画で、串田と座談会に同席したことがあったが、(もちろん他の出席者の発言も重なってのことだが)、こちらが本当に話したいと思うところまで話が軌道に乗って行かず、入口に入る前のところで話を噛み合せるのに苦労している間に時間切れになってしまった。その時にも感じたのは、歌舞伎の批評をする者に対する過剰な防衛意識だった。あるいは不信感だった。そこで引っ掛かってしまうと話は先へ進まない。それから先を話し合わなければ、実りある対話は出来ないのだが。(もっとも、そうはいっても二時間も話していればそれなりの親しみというものは湧いてくるもので、その翌月だったか、歌舞伎座で串田演出の(何だったっけ?)作を上演したその終演後のロビーの雑踏の中で、ポンと肩を叩くものがあるので振り向くと串田だったりして、以来、串田に対する好感度はぐっと上がったのだから、こちらも甘いものなのである。)

閑話休題、長くなったからあとは一瀉千里に片づけよう。歌舞伎に対する過剰な(不必要な)身構えや遠慮から自由になったために、逆に串田は、歌舞伎に対して柔軟に取り組めるようになった(というのが、私の見立てである)。その結果、打つ手が有効な一石一石となって、コクーンの舞台という碁盤の上になかなかいい布石がなされるようになった。すべてが好手妙手というわけではないにしろ、なるほどなるほどと得心しながら見ることが出来るようになった。黙阿弥の脚本の読みもなかなかのものだし、それをブレヒトの徒として現代につなげてくる方法論も、よくありがちな「絵解き」の味気なさに陥らない以上のレベルはキープしている。下座をやめてパーカッションにしたのが違和感をあまり感じさせなかったのはその証明ともいえる。要するに、串田の求めていた(と私が推測する)「現代劇としての歌舞伎」を、とにもかくにも成就したのだ。後は、批評家ではなく、見に来(てくれ)た限りの観客がどう評価するかである。

座標軸が、在来より歌舞伎サイドから大きく串田の求める(得意とする)方へ移動したので、様式という点から言うと(様式のない舞台というものはない、よね?)、土左衛門伝吉の笹野高史のところ辺りが中心になったので、笹野がこれまでよりぐっと巧く見える。(もちろん、努力も進歩もしているだろうが。)黙阿弥のセリフを自在に歌舞伎離れさせて言っているのが、劇全体の中でしっくり納まって見える。一方、真那胡敬二が八百屋久兵衛のセリフに苦労しているのは無理もないと思った。これは個々人の演技評として言っているのではなく、歌舞伎サイドと非歌舞伎サイドをいかに寄り合わせるか(縒り合わせるか)という演出の継ぎ目、ないしはバランスの話である。

さて私として興味があるのは、今回の成果は何と言っても勘三郎のよき遺産が前提にあってのこと、こうして「有終の美」を飾るかのような達成をし遂げてしまった串田が、今後、コクーン歌舞伎で何をするのかということだ。

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新橋演舞場の「熱海五郎一座」が面白かった。これまで彼等のいい観客ではなかったが、座長の三宅裕司の「東京の軽演劇の再興」という狙いがかなりいいレベルで実現されていると思った。一座の主立った面々もゲストも悪くなかったが、脇をつとめるメンバーの訓練が行き届いているのにも感心した。これも、大人の鑑賞に堪える舞台といえる。

明治座の『細雪』にしても、今更どうというほどのこともないと言ってしまえばそれまでだが、この手の芝居も今となっては貴重な存在といわねばなるまい。淡島千景が長女の雪子、新珠三千代が二女の幸子をしていた昔を偲んだりし始めては切りもないが、元番頭だの女中たちだのの役をつとめている俳優たちこそ、その良き時代に「商業演劇」という土壌で培われた貴重な名残りなのだ。

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猿之助と中車の襲名旅巡業については次号の『演劇界』に載せるのでそちらを見ていただくことにしたいが、改めて思ったのは、この二人が今後、程よく仲よくコンビとしてやって行くと、なかなか面白い存在になるのではないかということである。今回は『一本刀土俵入』だが、差し当り『研辰』とか『恩讐の彼方に』とか、初代猿翁ゆかりの澤瀉屋物をシリーズみたいにやっていくのも悪くない手だろう。『研辰』など、勘三郎バージョンに席巻されたかのように言う向きもあるが、本来の澤瀉屋バージョンの生命がそのために失われたわけではない。明治座あたりで、年に一度でも、二人を芯にした公演が持てるといいのだが。 

ところで、この巡業の初日がかかった大田区民ホール・アプリコというのはJR蒲田駅からものの3分あるかなしという距離だが、かつての蒲田撮影所の跡地なのだということを、今度知った。つまり「蒲田行進曲」のあれである。

随談第525回 今月のあれこれ

この月の公演が終わっての一夕、菊之助と吉右衛門令嬢の結婚披露宴があった。正しくは寺島家・波野家両家結婚披露宴というのだが、本来昨年秋に行なう筈だったものが出産に伴う新婦の体調のことから仕切り直しになって、このほど改めて、目出度く披露ということになったという経緯もあってか、両家結婚式といっても、菊五郎も吉右衛門も表には立たず、すでに生後半年の子の親となっている若い二人がもっぱらあるじもうけの役を司っている。そこが(式場の席の数から類推するにおそらく六、七百人は優にいようかという)盛大な宴にも係らず、若々しい雰囲気に包まれていて、なかなか良き宴であった。

どなたかのスピーチに、この結婚で歌舞伎俳優のほとんどが縁戚関係になったとあったが、たしか勘三郎の結婚の時にも同じようなことが言われたのではなかったか。歌舞伎が、「歌舞伎という一家」の家業の様相を呈するわけだが、もっとも世間はとうの昔にそういうイメージで見ているのかも知れない。

それはそれとして、思い出したのは今の菊五郎の結婚のときの大騒ぎである。緋牡丹お竜として絶頂期にあった当時の藤純子さんが引退して人妻になってしまうというのは、世の男どもに多大なショックを与える社会的事件と目された。緋牡丹お竜のファンは、AKB48に入れあげる若者とはわけが違って、みんなそれ相応にいい歳をした兄いだったりオジサンだったりの大人たちだったから、そういう男たちの見せる可憐な心根の迫力たるやちょいとしたもので、あゝいう事態は後にも先にも例を見ないものだった。と、どこやらの局が特集番組を組んで、有名無名を問わず、世のお竜さんファンたちに、この結婚をどう思うか語らせるという番組を作ったなかで、一番仕舞いに、当時現役の大関だった貴乃花が登場して(もちろん、親の方ですよ)、独特のぶすっとした調子で、「そりゃ変な男が相手じゃいやだけど、キクノスケでしょ? なら、しょうがないよ」と言ったのが妙に耳に残っている。(そう、あのときはまだ菊之助だったのだ!)

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その大相撲が、しばらく前から少しずつその兆候は見せていたが、この夏場所で一気に人気を取り戻して、満員御礼が十五日間の内、十日だか十一日だか出たという好況になった。もっとも満員御礼というのは一種の景気づけであって、すべての日が文字通りの満員札止めであったわけではない。納税の申告とはわけが違うから、そんなに精密なものではなく、「御礼」が出ているのにまだ空席があるではないかなどと目くじらを立てる筋合いのものではない。私は九日目に見たが、一階の桟敷席がほぼ埋まったかというタイミングで、満員御礼の幕がするすると下り出した。

しかし近年では、土日以外の週日に御礼が出るのは、場所も押し詰まった十三日目ぐらいなものだったから、今場所が久々の盛況であったことは間違いない。お蔭で、いつもは昼過ぎ頃にフリで出かけても一番廉い椅子席が楽々買えたのが、今度は疾うに売り切れで、ワンランク上げた席の切符を買う羽目になった。野球場にふいと出かけて、内野のBの自由席を一枚買ってひとりボケーッと(といっても、私はトイレにもあまり立たないで一球一球、見逃さない)見物する気分というのを私は愛するものだが、それと同じ伝で、国技館でも、東京場所の時は平日にそうやって一番安いいわば天井桟敷で、三段目か幕下の相撲から眺めるのを、このところ通例にしていたのだった。(以前、旧歌舞伎座の三階席に通ったのと、同じデンである。あのころの三階席の切符売り場は正面玄関左手にあって、開演5分前ぐらいに行っても、売り場の女性が銀行員が札束を数えるような慣れた手つきで、ぱらぱらっとチケットを捌いた中から適当な一枚を抜き出して渡してくれる。それをもって三階へ駆け上がって席に着くとちょうど昼の部一番目の幕が開くというタイミングだった。当時毎年二月は菊五郎劇団の公演で、客が詰まっているのは三階席の前三列ぐらいまでで、そういう、至極のんびりと平和な空気の中で、梅幸が「道成寺」や「藤娘」などを踊るのを見るのを、私はこよなく愛していたものだった。)

相撲の話の続きだが、三段目や幕下の相撲がだんだん取り進んできて(そういう中で、幕下格の行司に木村勘九郎と式守玉三郎という名前があることを知った。尤も玉三郎はこの初場所から十両格に出世して、立派な装束を着て名前も変わってしまったが、勘九郎の方は、まだ膝までの短い袴に素足というナリで頑張っている。おそらく次の昇進人事で十両格になれるに違いない。力士だけでなく行司が出世してゆくのを見るのも楽しみの内である)、やがて十両の土俵入りから取り組みが始まり、さらに幕の内の土俵入りが始まる頃になると、いつの間にか席も埋まってきて、力士たちも立派な体格や風情を漂わせる。幕の内の力士というものが如何に立派なものか、いきなりテレビをつけて幕内のお終いの方だけ見るのでは、到底わかるものではない。

もし朝の9時ごろから始まる一日の取組を全部見るならば、野球で言えば中学・高校レベルからプロ野球のトップクラスまでを、居ながらにしてまるでパノラマのように繰り広げられるのを一日の内に見ることが出来るわけだ。歌舞伎も江戸の昔は、朝早くの幕は下廻りの役者の出番で、段々偉い役者が登場してくるように、作られていたものだという。

ところで今場所のこの人気というのは、ひとつには例の遠藤がいよいよ髷を結ってサアこれから、といった期待もあるに違いないが、田中マー君クラスになるか斎藤ハンカチ王子程度で落ち着くのか、まだわかったものではないと私は思っている。たしかに取り口のセンスの良さは相当なものだが、ヤワなたちでもあるし、関脇あたりでとまってしまいそうな気もしないでもない。

いわゆる栃若時代に、成山(なるやま)という力士がいた。遠藤よりもう少しすらりとしていたが、前捌きと速攻の寄り身のセンスの良さは天才的で、その相撲振りと、活躍するときは一場所に大物を何人も喰うところから、「成山旋風」とマスコミが呼んだ。若乃花(もちろん初代である)なども何度かその速攻に苦杯を喫しているのを以てしても、凡庸な力士でなかったことがわかるだろう。だが、成山は結局、大関にはなれなかった。体があまり大きくなかったせいもあるが、「旋風」は毎場所吹き荒れるというわけには行かなかったのだ。特に似ているというわけでもないが、遠藤を見て、久しく忘れかけていた成山を思い出したのは、センスの良さと、相撲振りの綺麗さが連想を呼んだからだが、もうひとつ、その長所たるべき点が同時に、ある種の「ヤワ」な感じを与える点も、一脈、相似形のようなものを思わせるからだろう。

もっとも、栃錦だって若乃花だって、関脇になって人気沸騰してもなお、当時誰も、彼らが将来横綱になろうとは思いもしなかったのだから、玄人だの通だのの予想などというものほど実は当てにならないものはないのであって、先物買いをする人がいても止めようとは思わない。

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NHKのBSで昭和30年代の東映の「ひばり映画」が二本、放映されたので録画して見た。昭和37年、河野寿一監督の『花笠道中』と昭和33年、沢島忠監督の『ひばり捕物帖かんざし小判』の二作である。もうこの頃は東映も爛熟時代に入って大分タガが緩んできて、観客も戦後育ちの世代になっていたのと、一方で当時流行のヌーベルバーグを東映時代劇流に受け止めて、在来の時代劇映画のもっともらしさや重苦しさを取り去った新感覚時代劇が盛んだった頃で、「ひばり映画」というのはそうした方面を専ら受け持つものだった。つまり、一種のミュージカルで、ミュージカルを時代劇でやれるとなると、美空ひばりしかいないことになる。

ちょうど20代のいい年頃で、高音の綺麗な声が出た頃だったから、いま聞いても、なるほど巧い。残念ながら今度の二本とも曲の出来があまり良くないので、その点がちょっと物足りないが、『花笠道中』は相手役が若き日の里見浩太郎で、二人でオペレッタ風に掛け合いで唄う場面があったりする。売り出して間もない里見浩太郎というのは、ちょっぴりだが中村錦之助の売出しの頃に面差しが似たところがあって、色気の具合いも共通するものがある。水戸黄門だの、最近よく見かける、ワッハッハと笑いながら宅配便を届けて回るおじさんになるTVのコマ-シャルのような里見しか知らないイマドキノヒトには、同一人とは思われないに違いない。(片岡千恵蔵が新国劇の舞台と同じ行友李風の原作を映画にした『国定忠治』で、デビューまもない里見が板割りの浅太郎をやってなかなかいい役者ぶりだったのは、リアルタイムで見ている。)

『花笠道中』は37年の作だから、もうすっかり花形としてひばりの相手役を対等につとめているが、『ひばり捕物帖かんざし小判』の方は、ひばりの相手は東千代之介(随分と久しぶりのご対面だった!)で、里見は薄田研二演じる悪家老にだまされて悪の一味の手先になっている純真な若侍という、それでもなかなかいい役だが、もう一人、尾上鯉之助がひばりの兄の殿様の役で出てきたのにはアッと思った。菊五郎劇団の脇役の名手だった尾上鯉三郎の子で芸名を尾上雅章といって、『熊谷陣屋』なら四天王、『助六』なら意休の子分ぐらいの役をつとめていたのが、錦之助や橋蔵の刺激を受けたかして映画俳優になり、B級作品の主演ぐらいは勤めるスターになっていたのだが、その後どうなったのか、歌舞伎に戻ってくる手だてもなかったのか、消息を聞いたこともないままになっている。

これも新感覚の歌舞伎ミュージカルだが、沢島忠という人は、その新感覚派の旗手として売り出した監督で、いまの目で見ると、その新感覚が良くも悪くもやや浮いて見えてしまうのは、何のジャンルによらず、ヌーベルバーグというものの宿命的な悲哀なのだろう。つまりは、在来の正統派(という言葉が適切か否かはともかくとして、人も我もそのように思っている)の時代劇のパロデイでありつつ、それをそう過激に感じさせないように作っているところに苦心が察せられるわけだが、すべてのパロディがそうである如く、パロられる「正統派」がれっきとして成立していないところに、こういう芸当は成り立たない。という意味で、昭和30年当時の東映時代劇というものは見事にその条件を備えていたということになる。ひばりの役は老中だか何かの姫でありながら、市井に住んで女だてらに目明しをしているという役で、松江邸の河内山よろしく大名屋敷に乗り込んだり、といった歌舞伎仕立ての場面で堂に入った芝居を見せるのが一興なわけだが、それをまんまとやってのけてしまうところに、余人には出来ないひばり映画のミソがあるわけだ。

まあ、配役を見てもいま名前を挙げたような幾人かのほかは、随分弱体な顔ぶれで、あまり経費をかけないでもひばりの人気で収益が上がるのを見込んだのであろうような作りなのだが、それでも、当時の東映の、というか日本映画界の、というかが備えていた職人芸の集積のほどというものは、窺うことが出来る。要するに、「型の文化」の強みである。

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それに比べると、と、こんなところで突如、引き合いに出すのはお門違いもいいところのようだが、新国立劇場で見た『テンペスト』のお寒いことと言っても、まったく無関係の話をこじつけることにはならないのではないだろうか。半世紀も昔の美空ひばりの時代劇と(繰り返し言うが決して上等とは言えない作りの作品である)、いやしくも新国立劇場で制作のシャイクスピアを並べる無茶を承知で言うのだが、それにしてもあのツマラナサは、こりゃ御身はどうしたものじゃ、と言いたくなるほどのものだった。

新国立劇場にかつての東映時代劇の職人芸の如き蓄積がないのは当たり前には違いないが、舞台そのものがあゝも痩せていたのでは、良いも悪いも、面白いも何もあったものではない。よほど幕間に帰ってしまおうかという衝動に駆られたが、(休憩後になって何とか持ち直す芝居がこの頃よくあるので)まあまあと思い直して見続けたが、遂にぱっとしないままに終わった。

よろしくないのは、何やら演出をいじくり回せば新しいと思い込んでいるらしいことで、ボール箱を積み上げては崩すというのを、さも新しうござんしょうと言いたげに繰り返して見せる。(冒頭の嵐で難破する場面など、最近の韓国フェリーの転覆事件をパロッているのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。)まず脚本をきちんとおやり下さい、その上での新演出でござんしょうという他はない。困るのは、これが今回だけのこと、今回の演出スタッフだけのことでなく、こういうのが当世の趨勢とも見えることである。日本の現代の演劇というのはこんなものなのだろうか?

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この31日から、猿之助・中車の襲名披露の巡業中央コースというのが始まるという。(襲名披露の旅はまだ終わっていないのだ!)猿之助のお蔦に中車の茂兵衛で『一本刀土俵入』をやるのだそうだが、ところで先月から始まった『ルーズヴェルト・ゲーム』を見ていると、中車の現代大歌舞伎劇風演技はますます病膏肓に入ったかのようでもある。あんな大芝居は、いまどき歌舞伎の舞台では到底できないだろうから、ああいうところで役者気分を味わっておくのも悪いことではないかも知れない。7月にはいよいよ歌舞伎座で『修禅寺物語』の夜叉王に『夏祭浪花鑑』では義平次をやるのだという。思わずウームと唸らないわけに行かないが、ともあれ予断は禁物。まずは駒形茂兵衛を初日の蒲田まで見に行くことにしよう。

随談第524回 今月の舞台から・團十郎のいない團菊祭と染五郎汗の十二役

新しい歌舞伎座ではじめての、というよりも、團十郎がいなくなって初めての、という形容辞をつけた方が本当はふさわしい團菊祭である。團十郎がいて、菊五郎がいる――そういうことを、われわれは余りにも当然のこととして思っていた。そのことを、改めてしみじみと思った、というのが今回の團菊祭を見ての一番の感慨である。

團十郎が欠けた分、舞台に穴が開いた・・・といった話ではない。そこに当り前のようにいたものが、いるべきものがいないということ。喪失感は、ラディカルな形でよりも、むしろしみじみとした思いとして、深く感じられた。もちろんこれまでだって、團菊そろわない團菊祭は時にあったが、そういう話ではこれはない。

菊五郎の孤独というものを、私は今度の團菊祭を見ながら絶えず思っていた。目の前で海老蔵が目をぎろぎろさせながら弁慶を演じるのを、しかしこれはこれで本人は本人なりにちゃんと考えてやっていることなのだな、などと得心したり、なるほど子供があんなに小さいのだから幡隨長兵衛という男は本当は海老蔵ぐらいの若い男だったのだなと頷いたり、菊之助の富樫や弥生や獅子を見ながらどうして彼はこんなに隙のない芝居をしようとするのだろう、などと考えたりしながらも、私は常に、その奥に菊五郎の存在を思い遣っていた。やがて菊五郎自身が舞台に現われて水野を演じ、魚屋宗五郎を演じる。海老蔵や菊之助を見た目には、まさに大人の芸であり、揺るぐことのない安定感が私を包み込んでくれる。この安堵感! これぞ、歌舞伎であるという満足感。

吉右衛門と二人で『身替座禅』を演じ『勧進帳』を演じたのは早くも先々月になるが、あの時にも同じものを感じた。しかしあの時は、一方に吉右衛門がいたから、何と言うか、もう少し張り詰めたというか、理解し合った者同士で演じる喜びの中にも、一種、昂揚感とでもいうべきオーラが前に出ていたが、今度は、いま言った安堵や満足の奥に、菊五郎の孤独を思わずにいられなかった。團十郎がいない。そのことを、菊五郎は舞台の上で、改めて思い、噛みしめていたのではないだろうか。それは、むしろ宗五郎以上に、水野に於いて印象的だった。水野という男の孤独と、菊五郎の孤独とは、理由も性質もまるで違うものであるはずだが、まわりに大勢人がいながら実は孤独であるという一点で重なり合うものが、見ている私にそう思わせたのに違いない。

もちろんこんなことは、客席から眺めている私の心の中で起ったよしなしごとであって、当の菊五郎が何を思いながら水野や宗五郎を勤めていたか、私の知るところではない。しかし間違いなく言えるのは、このところの菊五郎の舞台の、何とも言えぬ豊かさであり気力の充実である。不遜な言い方になるかも知れないが、それは私に、菊五郎というものへの認識を改めることを迫るものであった、と、正確に言おうとすれば、いうことになる。

團十郎効果といったら非礼に当るだろうが、團十郎の死が、菊五郎の心境に与えたものが、こうした形で顕われたのであるように、私には思えてならない。

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少しすっきりし過ぎたきらいはあるが、悪くない團菊祭ではあった。親たちの時代なら、海老蔵でも菊之助でももう一役二役、持ったり付き合ったりして、てんこ盛りにしたところだろうが、血気の筈の若者であっても腹八分でやめておき、スリムな体型を維持する冷静さを失わないのが現代というものかも知れない。

海老蔵は弁慶よりもむしろ長兵衛で、男伊達として人に立てられる者の骨柄を実感させたのを面白いと思った。弁慶はつい二ヵ月前に吉右衛門のを見ている。それはまさしく、当代の歌舞伎における弁慶というものを、あらゆる意味において具現するものだった。長兵衛も、いまや吉右衛門のイメージが圧倒的である。だがそうした圧倒的ともいえる吉右衛門のイメージの下にありながら、海老蔵の弁慶は、長兵衛は、決して自分の光を失うことはない。海老蔵は海老蔵の弁慶、長兵衛として、そこに生きて光を放っている。そこに海老蔵の海老蔵たる所以がある。

弁慶は、さっきも言ったように、しきりに引目を引いて目をぎらつかせるが、この前みたいに無意味に目を剥くのではなく、それなりに理に適っている。目を剥くことの是非ではない。一事が万事、すべて海老蔵なりに考え、合理性があり、何故そこでそうするのかということを、海老蔵なりに考え尽くした上で演じている。そこが海老蔵の海老蔵たるところ、というべきであろう。海老蔵はあれで、なかなか「考える人」なのだ。

その考えたところが、うまくはまる場合とはまらない場合があるのは当然だが、少なくとも今度の弁慶は、なるほど、そういうことなのかと私は得心した。これが2014年のいま、海老蔵の演じる弁慶なのだという意味で。

長兵衛は、序幕の山村座はいまの海老蔵ではどうにもならない。いくら腰を低く、慇懃に振る舞ったところで、腹の中の顕示意識が見え見えである。が、まあ、それも含めての話だが、長兵衛内の、長兵衛が実は若きパパであることの実感に海老蔵ならではの真実味があって、それから水野邸へかけて、こういう、焼けばブルーだのグリーンだのパープルだの、さまざまな色の煙が立ちのぼりそうな、生木のような長兵衛の方が、むしろ本来の長兵衛であるのかもしれない、などと思わせられたりする。黙阿弥の書いた長兵衛としてどうかという話ではない。「異能の役者」たる所以がそこにある。

菊之助というものを、どう考えればいいのだろう? 普通の形での劇評としてなら、今度の富樫にせよ。『鏡獅子』の弥生にせよ獅子にせよ、まず文句なしにほめて差支えないだろう。清新の気溢れる富樫、清楚にして凛然たる『鏡獅子』と書いてしまえば、もうそれで足りる。その限りで少しの嘘もない。だが、富樫にせよ、弥生にせよ獅子にせよ、お前は充分に満足したか? もし私の中のメフィストテレスにそう問われたなら、私というへっぽこファウストは、充分に満足した、時よ止まれと答えることができるだろうか? 

充分の中の不足、と言おうか。満足の中の不満足、と言おうか。おそらくこの吹っ切れなさは、菊之助が何を考え、何をしようとして演じているのかを、私が捉え切れていないからに違いない。「非の打ちどころない」という言葉を字義通りに取ると、菊之助の「現在」を表すことになるかも知れない。

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左團次が、弁慶ではないが一期の思い出のような『毛抜』をやっている。30年の余も昔の襲名の時にやり、その後、かれこれ20年ばかり前にやったことがあったが、それ以来だろう。元々、左團次という名前の手前と、大まかでマッチョな仁や芸風にふさわしいという処から襲名の演目に選んだのだったろうが、爾来30有余年、器用さや含みというものがない芸風は相変わらずながら、そこはそれ、何とも言えないとぼけたヒューモアが漂ってこの狂言に似つかわしいムードに通じたところが年の功というべきである。

松禄が『矢の根』の五郎というのは、こういう時の松禄の現在でのポジションというものだろうが、この人に甲の声が出るようになれば、松禄の荒事というのもひとつの存在になれるだろう。田之助が十郎で出て、これが新しい歌舞伎座初出演。舞台の上にいる所要時間こそ短いが、紫の似合う風情と言い憂いの利いたセリフと言い、さすがに本格の芸を見せる。

(これでまだ歌舞伎座に出ていないのは〇之助だけだ、という声をロビーで聞いたが・・・)

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明治座で染五郎が10役+2役=12役という奮闘公演。とにかく先ず、その意気やよく、『伊達の十役』の冒頭、例の十役のパネルを掛け並べた前で、やや気負った早口で十人の人物を解説する裃姿でする口上が、私が女性だったらカワイイと表現したくなるような好もしさで、言うならこの姿が、今回の『伊達の十役』全体を、更には今度の明治座公演全体をシンボライズしているかのようだ。

十役では与右衛門が何と言っても本役である。あれでやつしなりにもう少し色気と陰影が深くなったら、和事風の二枚目として江戸歌舞伎の伝統に連なることになるであろう。はじめはちょっとデカイなあと思った累が、殺しのくだりになって与右衛門とめまぐるしく早変わりを繰り返しているうちに、与右衛門のムードがうまく累にも相乗効果したかのように、しっくりしてきて、この場が全篇で一番の出来、即ち与右衛門が、今回の十役の核となった。

勝元はもちろんいい。(これが駄目なら染五郎はないようなものだが。)仁木も努力してつとめているから悪い出来ではないが、染五郎は染五郎であって海老蔵ではないのだから、ひと睨みしてワッと浚ってしまうような仁木ではないのは是非もないことで、従って恥じたりがっかりしたりする必要はない。(宙乗りはなかなかよく頑張った。)同じく仁になくとも、努力によって早変わりの一役としてなら充分にアクセント役として勤まったのが道哲であり、全幕中の長丁場で早変わりで逃げるわけに行かない政岡を敢闘賞ものの成績で乗り切ったのが、今度の『伊達の十役』をともかくも成功の部に押し上げる根拠となった。

ひと頃、桜姫だの何だの、女形に色気を見せた時期があって、色気不足が致命傷かと言ったり書いたりしたものだが、それ専門でやるのは無理でも、こうして十役の一つ二つとしてする上でなら、女形体験は決して無駄ではなかったことになる。若い時には何でも経験しておくものである。

もっとも、以上は十役から染五郎の仁を探りながら見た結果で、別な観点から、たとえばフィギュアスケートの採点みたいに、ア、いまのトリプルナントカはちょっと回転不足でしたね、審判が微妙なところをどう採点するでしょうか、などという具合にやったら話はまた違ってくるだろう。もしかすると、どの役も多少の増減はあってもみな百点満点の七十点台に納まってしまいそうな気もする。それを、うまく取り収めたと見るか、もっと振幅がないとツマラナイと見るか。私としては、そういう風に物差しで測定するように見るよりも、染五郎が十役をどういう風に演じるかに興味があったというわけだ。

もう二役、『釣女』と『艪清の夢』も初役だから、染五郎としては汗の十役どころか十二役だったわけだが、この『艪清の夢』がちょっとした拾い物である。もともと上方にあった狂言を亡き宗十郎が復活したものだが、こういう芝居こういう役は体に和事味がないと出来ない相談で、これをこれだけ出来るというのは、なかなか頼もしいと言うべきである。宗十郎路線の後継者とまで言っては、まだ早計だとしても。

「御殿」の場は、秀太郎が栄御前、歌六が八汐と揃って、ちょっとしたものだったが、とくに秀太郎は、このところ世話狂言のおばさん役でじゃらじゃら、じゃらじゃら、どこまでがセリフでどこからが捨て台詞かわからないような芝居ばかりが続いたが、こういうお家狂言でちょっと皮肉な肚のある役だと、やっぱり大した地力である。

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文楽の住大夫の引退興行で、国立小劇場が大変な入りだが、ロビーの一画に贈り物の花が飾られている以外、格別なことは一切していない。口上もなし、普通に一段を語り終えると、盆が回って静かに消えてゆく。やれ『鮓屋』だ『寺子屋』だといった大曲でなく、

『恋女房染分手綱』の「沓掛村」というややマイナーな出し物を引退の演目に選んだいきさつについて、事情通の裏話も耳にしたが、こういう味な作を味わい深く語ってお仕舞いにするというのも、なかなか洒落ていて悪くない。「滋味」という言葉にふさわしい語り口だった。思い出深いものになるに違いない。

それにしても今回は、この『沓掛村』もだが、『本蔵下屋敷』だの『丗三間堂』だの、マイナー作品集みたいな演目が揃ったのは、偶然なのかどうか知らないが、これはこれで面白い。『丗三間堂』はマイナーといっても有名作・人気作だが、愚作の見本みたいに言われる『本蔵下屋敷』などというのも、たしかに感心した作ではないが、それでも、夜の部の切りに出ている『鳴響安宅新関』などが、曲もなく歌舞伎の『勧進帳』をなぞっただけのようなのに比べると、『仮名手本』の二段目・九段目の裏話としての綾、詞章の凝り方、伴内をもじったと思しい伴左衛門というチャリの悪侍のバカバカしさ、文楽以外の何ものでもない作品になっている。明治出来の「忠臣蔵外伝」の匂いの芬々とする、忠義忠義で凝り固めたような内容は閉口するが、おそらくこの作の作者は、知性は大したことはないが、文藻といい、作者として大変な教養の持主であったに違いない。

(かの橋本大阪府知事が視察に来て生まれて初めて文楽を見たのが、たしか『鳴響安宅新関』だったのではなかったかしらん。よりによってどうしてこんなものを見せたのか知らないが、私だって、もし生まれて初めてみた文楽がこれだったら、文楽ナンテツマラナイと思ったかもしれない。でもそれにしては、時々上演されるところを見ると、結構人気があるのだろうか?)

夜の部で咲大夫が『女殺油地獄』の「油店の段」を語る。この作も、世評と違って実は私はあまり有難くないのだが、咲大夫の語りはそんなことを忘れさせる見事なものだった。母親と父親の、煩雑ともいえる気の配りようやらおもんぱかりやらの一々が、言葉が立って、耳に、胸に届いてくる。なるほど、こういう風に語られれば、やはり名作には違いない。

(但し殺しの場で、競技中に転倒したスピードスケートの選手よろしく、ツーッとお吉と与兵衛の人形を滑らせるのを何度もやるのは、考え物ではあるまいか。せめて、一、二度に留めておかないと、あの大騒ぎに何故子供が目を覚まして起きてこないのかと、変痴気論みたいなことを言いたくなってしまう。十歳というあの姉娘、なかなか利発でオマセではないか。)

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前進座が恒例の国立劇場公演で国太郎の『お染の七役』を出している。祖父や親の代からの歌舞伎の出身といえば国太郎、圭史、矢之輔、芳三郎ぐらいのもので、かなりのベテランといえども座の養成所出身者という世代だが、とにかく一生懸命、「歌舞伎をやっている」のが、ほほえましくもあり、時に感心もする。これはこれで、以前とはまたちょっと違った意味で「前進座歌舞伎」と言っていいのではあるまいか。

随談第523回 近頃人間模様-カワチノカミ事件と小保方騒動-

ボクチャンみたいな政治家がトップの座に坐って、尊敬するお祖父チャンみたいなテンカビトになりたいなー、と支持率の高い今のうちに、オタク式勉強で習い覚えた「趣味の政策」を実現しようと躍起になっている(オヤ? どこの国の話をしているのだっけ?)のと関係があるのやらないのやら、このところ、ひとつがすめばまた一つ、この世のタガが外れたかのように、ケッタイな出来事が次々と浮かんでは消えてゆく。まあその中でも、ケッタイさに於いて、浮世を映す鏡とも、面白うてやがて哀しき人間模様が透けて見える出来事といえば、差当りこの二件だろう。

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柳生但馬守と書いてヤギウ・タジマノカミと読み、柳沢出羽守と書けばヤナギサワ・デワノカミと読む。だから佐村河内守とあればサムラ・カワチノカミと、おのずから読んだ。

それにしてもこの現代に河内守って何だ、というのが、あの「現代のベートーベン」なる難聴の作曲家を知って最初に思ったことだった。知って、といっても、あの荘重なるNHKの特集番組で見た「現代のベートーベン」以外のことは全く知らない。だから問題の、彼が作曲したことになっていた音楽そのものについては、あの番組に流れていた断片以外、聞いたこともない。(あ、それから高橋大輔選手のフィギュアの演技の時と。)

やがて、なんとも風采のあがらない、胃弱で胆力の乏しそうな人物が現われて、あれは自分の作曲した曲だと名乗り出ると、今度は強面風のスタイルをやめて長髪を切り落し、サングラスを取ったカワチノカミ自身が出てきて、謝罪だか反論だかどちらともつかないようなことを言い出すに及んで、興味は一気にしぼんだ。話が見え透いてしまったからである。

そもそも、ゴーストライターによる代作などというものは、どこまでが代作でどこからがそうでないか、わかったものではない。世の有名人の自伝めいた文章の多くは代作というなら代作であるに違いない。書いた者と書かせた者、あるいは書いてもらった者、当事者の間で納得し合っているか否かがすべてを決める。カワチノカミ氏の場合も、ほどほどのところで留めておいて、然るべき報酬をゴースト氏にきちんと納得ずくで渡していれば問題はなかったのだろうが、「現代のベートーベン」となってクラシック界の鬼才として社会に認知されようと欲を起したために、ゴースト氏からすれば、そりゃアないよということになったのだろう。

作曲業だの文筆業だのというのは、世間に認められるようにならない間は、これという社会的なポジションも、確かな収入もあるわけではない。かのゴースト氏も、初めは、まあ悪くないアルバイトとしてやっていたのに違いない。(私なども昔は、著名な翻訳家の下訳を散々やったものだ。親会社と下請け業者の関係とまったく同じである。)

残る問題があるとすれば、作曲家サムラゴウチ・マモルなる者が作曲したとされる曲は、どういうことになるのだろう?ということだが、名作説、駄作説、とりどりあるようだが、それもこれも、くだんの曲の世評がどれだけ高くなるか、それ次第というわけか。万が一、百年後にも残る曲があったなら、かのゴースト氏は大作曲家として後世に名を留めることとなり、カワチノカミの一件は、名曲にまつわる珍エピソードとしてクイズ問題のネタか何かとして、これも後世に伝わらないとも限らないが、そもそもそれだけの曲なのかどうか、私には何とも言えない。

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カワチノカミの一件と小保方女史の騒動とは、本来、同日に語るべき種類のものではない筈だが、世間の耳目を惹く現象としては共通するものがある。

1. 耳の聞こえない作曲家の名曲と、割烹着を着た女性理学博士の大発見。片方はそれで自ら売ろうとし、片方は理研という権威が組織のPRのタレントとして使おうとした。(スンナリいけば、理研も小保方女史も、双方メデタシメデタシ、ウィンウィンの形で落着するはずだった。割烹着はちょっと悪ノリがすぎたとしても。)

2. 売出しに成功したかと見えたところで、どちらにも、なんともケッタイな謎が露呈した。侃々諤々、甲論乙駁をやらかすのにこれほど格好の題材は、そう滅多にあるものではい。まず理研のエライ人たちが尻尾を切り捨て、イクラナンデモソレハナイデショとご本人が登場し、いつまでも頬かむりをしていられなくなって、彼女を担いだセンセイが登場する。しかしその彼女が頼りにしていた筈の秀才教授は、案の定、3時間半に及ぶ記者会見を、要するにワタクシは手を汚していませんと、考え抜いた台本で弁舌さわやかに切り抜けると、ミソギをすませたかのように逃げてしまった。げに頼み難きは人ごころ、である。

3. カワチノカミ氏の一件の方は既に勝負あっただが、小保方女史の一件の方は、STAP細胞という錦の御旗が掲げられている以上、無碍にはできないから、その真偽をめぐって、まだ当分は、ジャンヌダルクか女天一坊か、ドタバタはまだ当分、続くことになる。未熟な研究者のお粗末なやり方と冷笑していたエライ人が同じ墓穴を掘っていたことが分ったり、「悲喜劇・理研村騒動記」のようなドダバタ劇の様相も呈してきたが、理研をやめさせられてハーヴァードの研究所なりどこかへ流れて行ってから、一発大逆転、やっぱりありました、などということに万が一にでもなったら、現実は芝居などよりはるかにオモシロイということになるだろう。

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芝居といえば、つい先夜、入谷の入口にある小劇場でミハイル・ブルガーコフの『犬の心臓』という芝居を見た。1925年、ロシアに社会主義政権が出来て数年後という時代に書かれたこの劇は、常識的には、ソヴィエト革命後の社会の風刺劇ということになっているが、この際そういうことはどうでもよい。核となるのは、ソ連政権下のある医師が、飲んだくれて野垂れ死にしたどうしようもないダメ男から、脳下垂体と睾丸を摘出して、一匹の野良犬に移植すると、やがて犬が人間と化して、革命思想を叫び出したり、とんでもない言動を取り始め、生みの親の医師と助手が振り回されるというグロテスクな物語である。同じ犬が人間になる話でも、落語の『元犬』なら笑っていられるが、こちらのロシア版『元犬』は、うっかりすると夢にでも見てうなされそうなコワイ話になっている。

最後には、医師と助手が、再び男に手術を施して犬に戻してしまうのだが、これで本当にヤレヤレメダタシということになるのか、芝居はここで終りになるが、この元犬男は、一旦はちゃんと(医師の私生児として)戸籍に登録され、ナントカ委員会のちょっとした幹部にまで成り上がったりもしたのだから、そういう人物?が急にいなくなったとして、医師の弁明がどこまで社会的に通用するか、実は知れたものではない。現に医師は、犬に戻るための施術の記録は失われてしまったという、やや苦しい弁明もするのだ。(ア、オボカタだ、とまことに申し訳ないことだが、医師のこのセリフを聞きながら思い出してしまった。)

そうなのだ。小保方女史はすこしも嘘などついていないのに違いない。犬からヒトを作り、また犬に戻してしまった医師のプレオプラジェンスキー教授が「嘘」をついていないように。だがそれを、どうやって社会に信じてもらえばいいのだろう?

随談第522回 今月の舞台から

またしても大分、間遠になってしまった。それと、今月の歌舞伎座評を来月早々発行の「演劇界」6月号に書いたので、発売前にあまり書くのは遠慮したい。そこで、今月のお薦めは三津五郎の『靫猿』ということだけを言っておこう。

それにしても、これは本当によかった。古典芸術でなければ味わえない喜びというものが、ここにある。現代における歌舞伎の在り方をめぐって、あゝあるべき、こうするべき、さまざまあるわけだが、少なくとも、歌舞伎は何を以って歌舞伎であり得るのか、何を以って歌舞伎と呼び得るのか、ということを問う時の、これがひとつの欠かすことの出来ない答えであるのは間違いないであろう。

それにつけても、三津五郎健在をこうした形で示してくれたことは、何よりという他はない。亡き九代目が猿曳、当代がまだ八十助で女大名、奴は梅玉だったが小猿を現已之助がつとめて親子三代による『靫猿』と話題にもなり、また素敵な出来でいまなお印象深い舞台だったのが、もう19年前になっていたのだ。

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いままでミュージカルのことを書いたことはあまりなかったが、今月は、帝劇で初演の『レディ・ベス』を見ながらあれこれ思ったことがあるのでそれを書いてみよう。

まあ、面白かったと言っていい。主役がダブルキャストなので、中三日おいて(今どきのプロ野球の投手の登板よりも間隔が狭い)二度見て、二度とも面白いと思ったのだから、というより、二度目を見ながらはじめ気が付かなかったいろいろなことに気が付く面白さがあったのだから、よく出来た作であるのは間違いない。それにしても、まず思うのは、こういう、いわば西洋史を題材にした作品が日本主導で欧米の作者・作曲者によって作られ本邦初演が世界初演になるというようなことが、(もちろん当事者の苦労や苦心は多々あるにせよ)いうなら当り前のような顔をして実際に行われる時代になったのだということである。何をいまさら、と言われるかも知れないが、しかしこれは改めて驚く(ことを忘れてはいけない)ことである筈だ。これは、制作、演技・演出、観客の受容、さまざまな位相・レベルで言えることである。

西洋史を背景・題材にした作品を日本人が作り、大ヒットしたといえば、例の『ベルばら』がすぐ思い当るわけだが、事実あの辺りから、ジャンルとして「こういうのもあり」ということになったのだったと思う。まあそれには、宝塚歌劇というものが久しい以前から種を蒔いてあったわけだが、(「ホフマン物語」だの、タイトルは忘れたが例の「エリザベート」と同じテーマのものだのが、春日野八千代といった人たちの時代からやっていたのは覚えている)、どうしても「疑似西洋」めいたものを志向する感が強かったのを、そういう遠慮を取り払ってグイと日本人の好みに引きつけたという意味で、『ベルばら』の存在・作り方というのが画期的だったのは間違いない。だがここへきて、ミヒャエル・クンツェの作、シルヴェスター・リーヴァイの曲と結んでの一連の作が出来るようになって、『ベルばら』レベルの「日本人臭」をひとつ抜けた作品群が出来、馴染まれるようになった。この辺は、日本人の日常と西欧の距離の作り出す微妙な感覚の変化が背景にあるのだと思うが、まあ、すっ飛ばして言えば、遂にこういうところまで来たか、という感慨を抱かないわけには行かない。

とはいうものの、正直なところ、これまでの『エリザベート』『モーツァルト!』その他その他の諸作は、(私の胃の腑には、という意味だが)ちとこなれの悪い部分があって世評ほどには乗れなかったのだが、今度の『レデイ・ベス』を見て、ああここまで(あるいは、あゝ、こんなにも)こなれのいい西洋種芝居が出来てしまったのだ(作れちゃったのだ)という思いを抱かざるを得なかった、というわけなのだ。

この作を、今までの諸作に勝る名作だというのではない。評価は人さまざまにあるであろう。しかし16世紀50~60年代前後の、イギリス・チューダー王朝時代の(せめて高校の世界史程度のことをある程度真面目に勉強していないと、まず馴染みのない時代だ)、宗教と外交と王権と王族相互の婚姻関係といった事情が王位継承の問題と複雑に絡まりあってのもろもろを、あるいはすっ飛ばし、あるいは短絡させるなどして、3時間程度のミュージカル・ドラマに仕立てた手際というもの大したものだ。当然、英国史の知識のある人から見れば、気になる部分はいろいろあるわけだが、(たとえばイギリスの国教会=アングリカンというのは信仰上の理由からローマ法王庁と断絶したわけではないから、他の欧州諸国の旧教と新教の対立・確執とは様相が違うはずだとか、何だかんだといった事ども)煩雑に入り組んだそれらの事象を、枝を落し葉を刈り込む、その大鉈・小鉈の使い分けがなかなかうまい。現女王のメアリ・チューダーがカトリックに復帰させるために宗教的圧政をし、市民が反発してベス、つまりエリザベス一世を担ごうとするという、ドラマの展開の主軸になる経緯など、日本の観客にとってはあれぐらいが、少なくとも頭が痛くならずに済むぎりぎり一杯だろう。もっとも、舞台の本場であるイギリスの観客が見たらどう思うだろう?とか、他人の疝気を気に病むようなことを始めれば、切りがないことになる。

日本人から見たって、ロンドン市民がメアリ女王に反発して自由を叫ぶところなど、『レ・ミゼラブル』のパリ市民蜂起の場面と瓜二つだったり(16世紀のロンドン市民ってあんなにデモクラチックだったのだろうか?)、ベスと惹かれ合うロビンなる青年がロック・ミュージシャン風だったり、こうした割り切り方が「東宝ミュージカル」のテイストということでもある。ロビンとの恋がエリザベス一世が終生独身で通した理由の種明かしになっているのがミソであり、この種のドラマの作劇術の黄金律とも言える。

それにしても、こういう風に、歴史を娯楽ドラマに仕立てる手際は、向こうの人たちにとってはシェイクスピアの歴史劇以来、作る側・見る側双方に自ずからなるノウハウがDNAに擦り込まれているかのようである。ベスとロビンがロミオとジュリエットみたに忍び逢ったり、その現場からロンドン塔に連行されたり、といった大胆不敵に枝葉を払ってドラマを展開させる手際は天晴れというべきである。ついこの間新橋演舞場の滝澤歌舞伎をしばらくぶりに見たが、第二部で毎回趣向を変えてやる「義経」の物語が、やたらに心情的だったり、かと思うと妙に歴史新解釈みたいだったり、どうも面白くない。もっと、昔から伝わっている義経伝説の正統を、現代のテイストも加味しながら(つまり、ロビンである)、面白く運んでゆく方法がありそうなものだと思う。テレビの韓流時代劇を見ても、人物の造形と筋立ての組み合わせがうまいので、興味を次々と引っ張ってゆく。典型的人物でありながら、そこに端倪すべからざる人間洞察が窺われる。そこが面白い。歴史ドラマのおもしろさは、つまるところ、史実と絡みながら人間模様が如何に描かれるれているかに掛かっている。

ダブルキャストのベス役は、舞台俳優としてのキャリアからいって花總まりの方にはるかに安定感がある、つまり舞台の演技としてサマになっているのは当然というべきだろうが、平野綾にはその代わりに役と等身大の初々しさと実感があるのと、もうひとつ、ロビンと抱き合っているところへメアリ女王崩御の報が届き、ベスがあれよという間にエリザベス一世として奉られてしまうところで、『千本桜』の弥助が「たちまち変わる御装い」というわずか数秒の竹本の語りの間に、平維盛になってしまうみたいに、見事に女王になって見せたのに感心した。わずかな身のこなし、仕草ひとつ、つまり「位取り」という技法だが、舞台俳優として、ちょいとお見それ申し上げたと言っていい。

姥桜のメアリ女王と国際的政略結婚をするスペイン皇太子のフェリペというのが、端倪すべからざる遊び人という儲け役で、こういうキャラクターの掴まえ方にも脚本の巧さがあるが、海老蔵がやったら面白かろうと思った。(今度の平方元基や古川雄大もそれなりに良くやっているが。)そういう、舞台俳優としての演技という意味では、大司教ガ-ディナーになる石川禅がなかなか巧者である。花總まりにせよ、石川禅にせよ、石丸幹二にせよ、この前見た『モンテ・クリスト伯』にも出ていたのにたいして印象に残っていないのは、彼等の演技よりも、作品の出来により多くの理由があるだろう。つまりみんな、今度の方がいい役者に見えるのである。

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新国立劇場では、この春以降、『アルトナの幽閉者』『マニラ瑞穂記』といった、かねて音に聞こえていながら見る機会のなかった問題作に接することが出来た。そのこと自体は新国立劇場に感謝すべきだが、それと、実際に見ての思いというものはまた別と言わなければない。どちらについても今更ながら思うのは、こういう劇はあくまでも時代と共にあるべきもので、そうした「時」が過ぎ去った今、どうしてこれがあれほどまでに当時の人の心を捉えたのかということを、まず思わないわけに行かない。サルトルなどは、ちょうど私などの学生時代が「サルトルに非ずんば哲学に非ず」、だれそれさん曰く「猫も杓子もサルトル佐助」の時代だったわけで、そういうのを横目に見ながらほとんど無縁に過してきた私などは、往時熱心に実存主義に「かぶれた」人たちがいまこの作を見て抱くであろう感慨とはまた一種別の感慨をもつことになる。

『マニラ瑞穂記』の方は、ひとつの「日本人の記録」という意味で、『アルトナ』に比べれば、ある種の迫真的なものを今なお、まったく感じないというわけには行かない。秋岡伝次郎と高崎碌郎というドラマの芯になる二人の人物の設定がこの戯曲の肝で、今の日本では忘れ去られてしまったに等しいフィリピン独立戦争の周辺に係わった日本人の在り様が、今もまったく無縁になってしまったわけではないことを現代の観客に訴えるだけの力を失っていない。ただ、いわゆる「からゆきさん」に係わる筋はいまなお普遍性を失わないのに比べ、にほんじん義勇兵士と革命軍との関係など今となっては分かりにくいことが、過去の名作の鑑賞、という以上にはなりにくくしていることは否めない。

とはいえ私などには、個々の作品の評価は別にして、『アルトナの幽閉者』にせよ『マニラ瑞穂記』にせよ、このシリーズのようなものが、新国立劇場の仕事として一番ありがたいことは間違いない。

随談第521回 話題吹寄せ

またまた、掛け流し状態が永らく続いてしまった。3月は遂に更新が一回に留まった。書こうと思うことがあっても時期を失してしまったり、といったことが重なるときは重なるもの。そこで今回は、やや旧聞に属する話題が混じってもご容赦願うこととして、各種の話題吹寄せということにしよう。

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春場所は、鶴竜がめでたく横綱になって(鶴竜が白鵬を破った一番の気迫のこもり方を見ただけで、甲斐はあったといえる。琴奨菊が奮起して両横綱に勝った相撲もいい相撲だった)土俵入りは雲竜型だそうで、不知火型と両方見られるようになるのは結構なことだ。ひと頃は、不知火型というと、両手を広げるのは攻めだけで守りの姿勢がないから異端だの、短命に終わるから縁起が良くないだのと、妙なことが言われたこともあったのが、このところは形勢逆転、二人横綱が二人とも不知火型という珍しい「時代」であったわけだ。

不知火型短命説というのは吉葉山以降、たまたま、老齢で横綱になったために在位期間が短かった例がつづいたからの俗説で、その前は太刀山とか羽黒山とか、40歳近くまで取った大横綱が不知火型だった。太刀山はもちろん知る由もないが、羽黒山のは実に見事なものだったのを子供心に忘れない。ついでだが、日馬富士の土俵入りはリズム感と流れがあってなかなかいいが、白鵬のは、ひとつの所作ごとに間が途切れるのが気になる。双葉山の映像を見て研究したのだそうだから何か本人なりの理由があってしているのだろうが、何だか次の動作を忘れて、思い出しながらやっているみたいに見えることがある。

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話題の遠藤を白鵬が退けた一番で、立会いに白鵬が張り手を喰らわせて相手の出足を挫いた取り口へ、新聞の投書などでも非難が続出している。そもそも、近年では張り手という技に対する暗黙の禁忌という感覚が忘れ去られて久しいから、おそらく白鵬にしてみれば、初顔合わせの遠藤に対して横綱の厳しさを遠慮会釈なく示してやることが大切だと考えてしたことなのだろう。新人相手でも容赦なく張り手を使うことが、横綱としての権威保持につながっているわけだ。しかし張り手に対する禁忌は、むしろ相撲界あるいは力士たちの間でよりむしろ一般の間に今も伏流水の如くに伝承されていることが、はしなくも今度の白鵬-遠藤の一戦を機に、表に現れたと言える。もっとも、白鵬-遠藤戦当日の放送でも解説の舞の海氏が、横綱らしくきちんと受けて立ってもらいたかったと明言したが、大砂嵐と安美錦の取組でも、大砂嵐の張り手の連発に北の富士氏が強い口調で注意を促していた。つまり彼等の世代までは、(既に日本人の横綱でも立会いに張り手をかます取り口は珍しくなくなってはいたが)張り手への禁忌は生きていたことが分る。

張り手というと、かつて、前田山という大関が、同じ場所で双葉山と羽黒山を張り手まじりの突きで連破したというのが、それから終戦を距て何年も経った我々の少年時代までも語り伝えられていたものだった。前田山は後に横綱になり、本場所を途中休場中に日米野球(戦後初めて来日したサンフランシスコ・シールズという3Aのチームだった)を見物して問題となり詰腹を切らされて引退したが、高砂親方として、二代の朝潮だの高見山だの異色の力士を育てた。高砂部屋というのは近年の朝青龍に至るまで、波乱含みの力士が多いのも、その淵源は前田山の張り手にあるような気もする。

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波乱といえば、まったくの他人事ながら、今回の小保方騒動というものの気色の悪さというものはない。大発見をした割烹着の理学博士で売り出したのも、形勢芳しからずと見るや「体を成していない論文」を書いた未熟な研究者とこきおろしたのも、不正と捏造の単独犯と決めつけたのも、すべては理研の理研による理研のためのPRであり保身のためであったことは、既に誰の目にも明らかだが、いわゆるオトナ社会のおぞましさというものをこれほど赤裸々に見せてしまったところが、学者集団ならではのある種の「バカ正直さ」というものだろう。つまりは、組織というものの論理と構造というものが如何なるものか、というオハナシなわけだが、「大発見」も、おもしろうてやがて哀しき一場の夢ということか。

ところで中山千夏といえば、昭和30~40年代に芸術座の東宝現代劇の芝居で名子役として売り出したかと思うと、70年代のいわゆる政治の季節にあっという間に政治運動にのめり込み、運動家に転身、その後永いこと、私などの耳には音沙汰もなかったのが、つい最近、東京新聞の連載コラムの執筆者の一人になって、なかなか読ませる文章を書いている。その中山氏が、今度の小保方一件に関して書いていたコラムが、一番、機微をついているかに思われて面白かった。

かつてまだ20代だった彼女(当時、誰もが知る人気タレントだった)を政治集団のリーダーに担いだ男たちがいたように、今度の一件にも「彼女」を担いだ男たちがいるわけで、中山氏が幸いだったのは、氏を担いだ男たちが、形成どんなに不利になった時も少なくとも自分たちが担いだ神輿である中山氏を放り出すことだけはしなかったことである、どうか小保方氏を担いだ男たちもそうであることを願う、という趣旨であった(と私は読んだ)。「侠気(おとこぎ)」というタイトルだった。肝心要は、「彼女」を担いだ面々が、科学研究の厳しさなるものを楯にとり隠れ蓑にして、口を拭ってしまわないことであろう。つまり、あの方々に「おとこ気」がどれだけあるか、ということであろう。

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チャンネルNECOも日本映画チャンネルも、ここしばらくゆっくり見ている暇もなかったが、このところようやくひと息ついたのを幸い、60年ぶりの珍作品の数々にめぐり会うことが出来た。若き日の岡田茉利子主演の『芸者小夏』だの、香川京子が感化院の先生になり、売出し前の池内淳子や三ツ矢歌子が生徒になる『何故彼女らはそうなったか』だの、どれも昭和30年前後の作品だが、浪花千栄子や沢村貞子や、まだ純然たる脇役者だった森繁久弥が映画的演技としてやたらに巧いのに思わず笑ってしまう。ところでその中で、昭和32年の日活映画『川上哲治物語・背番号16』というのにめぐり会えた。

監督滝澤英輔といえば、前進座の『戦国群島伝』だの硬派の問題映画もたくさん撮った名監督列伝中のひとりだが、昭和32年の正月映画としてこの作が封切られた時、長嶋茂雄はまだ立教大学の3年生だったことになる。つまり二年後に巨人の4番打者の地位を長嶋に譲る前の、まだ川上が球界最大のスターであった最後の日々に作られた作品なわけで、前にも書いたが、この時点での「背番号16」は日本野球界最大のシンボルであり、川上は「カワカミテツハル」などではなく「カワカミテツジ」だった。(現に、映画の中でもナレーションがはっきりと「テツジ」と言っている。)川上自身も出演してセリフも多少あるが、出演場面のほとんどは、戦後のラビットボール(つまりよく飛ぶボールである)使用の生み出したホームラン量産時代に「弾丸ライナー」を身上とする川上は乗り遅れ、長期の不振にあえぐ中で黙々とバットの素振りに打ち込む、それを妻役の新珠三千代がはらはらしながらもじっと見守る、というもので、やがて球界最初の二千本安打を達成、というのが大団円となる。

じつは川上の出演場面は戦後以降の場面で、映画としては、熊本工業から巨人軍の新人時代の前半の方が真っ当な場面ということになる。若き日の哲治青年を牧真介(などという俳優がいたっけ!)、親友の名捕手吉原を若き日の宍戸錠(まだ豊頬手術など施していないいかにも純粋な青年らしかった頃の、何とも懐かしい細面の顔で出てくる)、藤本監督が二本柳寛、両親を河野秋武と高野由美等々、やや渋いがまずまずの出演者を揃えている。(高野由美は民芸の新劇女優だが、かつての六代目菊五郎の作った俳優学校の出身である。)

しかし何と言っても、今となってみると圧巻なのは、映像として何度も写される往年の後楽園球場のたたずまいである。グラウンドも狭く、いろいろ難点はあったものの、日本のプロ野球の球場としてあれほど似つかわしくも雰囲気のあった球場はなかったといまでも思う。もっともこれは、東京ドームになってからしか知らない方々には、言っても詮無いことには違いない。神宮休場を私はこよなく愛するが、しかしあの球場はやはり本来学生野球のために作られた球場であることは、良し悪しとは別に、否定し切れないものがあると思う。

その後楽園球場のスコアボードに、二千本安打を達成寸前の巨人のラインアップが何度も画面に映し出される。といっても、四番の川上を中心に、二番の坂崎、三番の宮本、五番の岩本、六番の藤尾とだけしか出てこないのだが。(そういえば、坂崎はつい先ごろ、訃報を聞いたのだったっけ。)

随談第520回 今月の舞台から

種々の原稿の締切や確定申告のことなどが重なって、随分間遠になってしまった。もっともその割には、憎まれ口まじりのオリンピック談義のアクセス数が案外目減りしないのを、ヘエーと思いながら横目に睨んでいたのだったが・・・

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さて今月は何と言っても歌舞伎座の「菊吉」共演にとどめを刺す。散々見慣れている筈の狂言が、こんなにも面白い芝居だったのかと、認識を改めることを迫られるようなことがあったりしたら、それは大変なことに違いない。『身替座禅』がまさしくそれだった。

『身替座禅』といえば、つい、あゝ、またあれね、などということになりやすいのだが、幕が開いて菊五郎の山蔭右京が出てきて名乗りの座についただけで、もう、いつもの『身替座禅』、いつもの菊五郎と違う。別に似ているわけではないが、先の十七代目の勘三郎に感じたような大きさと、それを大きく包んでいるような空気がある。

続いて吉右衛門の玉ノ井が出て、二人並ぶ。その舞台の大きさ。その、二人を包むオーラ。オッ、いいですね、と覚えず隣席の利根川裕さんに小声で言った。ウン、これはいい、と利根川さんも応じた。普通、こんなことはあまりしない。覚えず言い、思わず応じた、というのが実際だ。

芝居というのはこういうものなのだ。何が、どこがどういいのか、などということは、何をどう言ったところで、所詮は後から付けた理屈に過ぎない。そう言ってしまったら劇評などというものは成り立たなくなってしまうようなものだが、こういうことも、時にはあるのである。新聞に書いたことを繰り返しても仕様がないが、二人とも、あざといことをいっさいしない。先の勘三郎の凄かったのは、なんといっても朝帰りのところで、歌舞伎座の場内が花子の色香に包まれた右京の一身に蔽い尽くされるかのようだった。そういう凄さは、十七代目独特のもので、今度の菊五郎がそれにまさったというわけではない。しかし十七代目は、後段の玉ノ井とのやり取りのところになると、どうしても、持ち前のサービス精神がむくむくと湧いてきて、観客の反応を求めてしまう。ときにそれが、過剰に奔ることにもなりがちだった。もちろん、それを求める人もあるが、笑って許しながらも、さっきの陶酔との落差に少し、心が覚めるという人もあったろう。玉ノ井役者がことさらに怖い顔をしたりするのも、ありがちなことだった。

こんどの菊五郎も吉右衛門も、そういうことがない。また殊更に狂言めかしたようなセリフ回しにしたりすることもない。ただ尋常に、歌舞伎の狂言舞踊、つまり、狂言に材を取った、松羽目舞台で演じる歌舞伎狂言としての則を守って演じるだけだ。それで、充分に面白い。これは、二人がそれぞれの永い芸歴の中で、互いに認め合い、許しあう境地にあればこそ、あり得ることに違いない。そのことに、私は心打たれるものを覚える。偉とすべきは、はじめに二人を包んでいたオーラが、最後までそのまま、二人を包み続けていたことである。

『身替座禅』とは、こんなにいい作品だったのか、とつくづく思った。その思いが私自身を驚かせた。知っているつもりでいつもつい聞き流してしまう常磐津の文句にも、知らず知らず耳を傾け、その詞章のエスプリに改めて感じ入ったりもした。配役もよかった。又五郎の太郎冠者の程の良さはドンピシャリだし、壱太郎と尾上右近の千枝と小枝も、清楚にして可愛らしく、ほぼ理想的といっていい。

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こんな調子で続けていると長々し夜をひとりかも寝ることになってしまいそうだから、足を速めることにしよう。

菊吉共演のもう一作『勧進帳』についても、同じことが言える。もっともこちらは、『身替座禅』と違って忘れがたい思い出が人さまざま、私個人としてもいろいろあることだから、これによって『勧進帳』感が変ったというようなことは軽々に言えないにしても、なるほどな、と目を洗われるようなところは随所にあった。全体として心づいたのは、歌舞伎としての正統性ということである。荒事がどうの、能ガカリがどうの、芝居の弁慶か踊りの弁慶か、等々、議論はさまざまに尽きなかろうし、富樫の名乗りが舞台中央であったとか、花道の出で弁慶が義経の前に坐るとか、型の記録のような点からもいろいろ論ずべきことはあるだろうが、菊吉両優が心掛けたのは、ザ・歌舞伎「勧進帳」ということであるように、私には見えた。祖父七代目幸四郎を研究したというようなことを、果たして吉右衛門も語っているらしい。(團菊爺の代表といわれた遠藤為春のような人に言わせると、九代目團十郎の創ったのを七代目幸四郎が駄目にしたのだということになるのだが。)

ここでも、富樫の名乗りにせよ、花道での弁慶の諫言にせよ、勧進帳の読上げにせよ山伏問答にせよ、物々しかったり勿体ぶったり、逆に素読みのようだったり、といったことがなく、歌舞伎の正調にのっとりながら実に明晰である。劇としての流れも、殊更なところが少しもなく、それでいて、というより、それによって、両者の心情がくっきりと見えてくる。レベルの高い、正統的なよき『勧進帳』であったというべきであろう。

坂田藤十郎の義経が、花道の出などはやや不安も思わせたが、「判官御手」のしどころでは流石というところを見せて安心させてくれたのはめでたい。歌六が四天王の筆頭の亀井六郎で音調音程整った声で第一声を発するので、以下の四天王のセリフがきれいに揃う。

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義経ではオヤと思われた藤十郎も、『封印切』では流石という他はない。たまたま、元気な盛りの頃の忠兵衛のVTRを先頃見る機会があったばかりだが、八十歳超のいまなお少しも変わるところがないのは驚異的である。とはいうものの、もうこれだけの『封印切』を見られるのはこれが最後かもしれないという思いが、一入の感を抱かせる。成駒屋松島屋、上方勢で揃えたとはいうものの、翫雀扇雀に覚えさせようという配役であって、八右衛門に我当が元気だったら、などと言い出せば切りがない。それにしても、我当の足の不自由はかなりのものであるらしい。

玉三郎が勘三郎の遺児(という言葉は勘九郎・七之助にはもはやそぐわないが)二人を、おとうさまに代って小母様がお相手致しましょう、という感じで、うまく引き立てつつ玉三郎ワールドに見る者を誘ってうっとりさせたり、、幸四郎が数年来執心を見せて取り組んでいる黙阿弥物を幸四郎ぶりで見せたり、それぞれに当代歌舞伎の華というべきであろう。

どうかと思った『二人藤娘』だが、体形風貌が同型の七之助だと、どちらがどうと見分けがつかなくなる瞬間があって、予期以上に面白かった。ふたりで差しつ差されつするところなど、なかなか刺激的である。しかしまた同時に、玉三郎という人の孤独を思わずにはいられなかったのも事実だ。両作品を見ながらつくづく思ったのは、玉三郎の、若い人を引き立てる巧さと、同時に、それにもかかわらずこの人の世界は、結局のところ、ひとりで完結してしまうのだということである。

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国立劇場の『切られお富』については、新聞評に書いたことで尽きている。決して不成績の舞台なぞではない。しかし演目、顔ぶれ、あの陣容で大劇場一カ月公演のボリュームをもたせることには無理がある。あの空席の多さは、時蔵の切られお富の値打ちがわかる観客が払底しているからでは必ずしもない。一カ月の公演に見合ったボリュームに欠ける公演であることを、皆が察知しているからである。『切られお富』はどう見たってやや軽めの二番目狂言、若手に『車引』をさせるなら、もう一本、然るべき顔ぶれで『佐太村』を出すなりしてようやくつっかうところだろう。もともと三月の公演は小劇場での若手の勉強会の含みだったのだ。もう一度、その路線に戻すなり、時蔵クラスが出るにしても、希少価値のある演目を(『切られお富』などまさにそれだ)、むしろ希少価値を売りにして小劇場で見せるという公演があってもいいだろう。

かの先代河原崎国太郎がはじめて『切られお富』を見せたのは、まだ前進座劇場が建つ前、あの場所にあった木造の稽古場だった。みんな、脱いだ靴を手に持って板敷の上に坐って見た。だからこそ面白かったのだともいえるので、後に改築前の新橋演舞場で再演した時よりはるかに刺激的だったのは間違いない。やはり野に置け蓮華草、ということであろう。この昔話、国立劇場たるもの、もって他山の石とする価値はある筈だ。

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猿之助の「スーパー歌舞伎Ⅱ」が大賑わいだが、ひと落着きしたところでどういう声が観客の間から聞こえてくるか、興味がある。

なんだかややこしい理屈が多くて、禅問答みたい、という声も聞かれたが、仏とは何か、仏を刻む仏師とは何かといった議論をかなり念入りに繰り返す。一面としては、「コクーン歌舞伎Ⅱ」の趣きとも言える。芝居を見に行ったら説教をされたという声も聞こえた『オグリ』だの『カグヤ』だのの頃のスーパー歌舞伎に先祖がえりした感じとも言える。こうした作調になることは、前川知大を作者に選んだときに分かっていたことでもある筈だ。とすれば、猿之助たるもの、いわば確信犯として承知の上でしたことか、とも言えよう。

しかし少なくとも私は、このマジメさには好感を持った。どうでした?と問われるたびに、まあ第一作なので少し肩に力が入ったのでしょうね、と答えることにしている。

もっとも、仏とは、仏師とはという議論を、観客の胸にしみじみと通るだけに聞かせた右近の好演が無かったら、印象はかなり違っていたかも知れない、とは言える。右近があって、ようやく芝居になったのだとも言える。あれでこそ歌舞伎役者であって、その一方に佐々木蔵之介ら現代劇俳優たちがいる。

佐々木蔵之介の起用は、ひとまずは成功だったと私は見たい。蔵之介演じる一馬が、だんだん官僚の世界に染まり官僚の論理をもてあそぶようになる、それをセリフとして言えるところに、現代劇俳優としての長所があったことは間違いない。第三幕で宙乗りになったりスーパー歌舞伎的演出で大わらわの場面になってからは、美声だがあの腰のないセリフではどうにもならないこともまた、初めから分かっていた筈のことで、あれを以って歌舞伎俳優のセリフ術と比較して云々するのは佐々木に対して気の毒というものだ。

浅野和之がはじめから小劇場演劇の風で終始したのは、利口なやり方とも、すこしずるいとも言えるが、ドラマと観客を仲介するという役どころから考え出したものだろう。ひとつの正解として認めよう。すくなくとも、観客席からあれだけの共感の笑い声を貰ったのだ。福士誠治は、前に亀治郎の会でやった『上州土産百両首』で、ついこないだ已之助がやった役をやった、あの伝で通す。こちらはまずまず無難というところ。

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安井昌二が死んだ。新派がこのところ連作風に上演した、『麦秋』とか『お嬢さん乾杯』といった、小津安二郎や木下恵介の旧大船調映画を焼き直した一連の作で、なかなかいい味を見せていた。「昭和」を、ごく自然に演じていたのはこのひとだけだった。それの、おそらく延長線上に置かれるべきものとして、森本薫の『女の一生』では、出演者中ただひとり、大正と戦前を、ごく自然に演じていた。戦後の昭和二十年代の映画からスタートして、やがて新派の人となったが、同じような経路を辿って先に逝った菅原謙次とともに、見事に現代新派の俳優になり遂せて終わったのだと言っていい。

もっとも、この人の本当のスタートは、長谷川一夫の新演技座であって、長谷川の吹き替えなどもやっていたらしく、もう大分昔だが、長谷川がまだ盛んだった頃、長谷川をゲストにしたテレビ番組で、長谷川の銭形平次のそっくりをほんのちょっと、やって見せたことがあって、あまり器用な人とも思っていなかっただけに、ヘーエ、役者というものは大したものだと感心したことがあった。(こういう器用さは、だが遂に、本業としては発揮することがなかったのは不思議である。)それから映画に入って、もちろん一番知られたのは『ビルマの竪琴』だが(あのときの隊長の役が三国連太郎だったっけ)、個人的な懐かしさとしては、小津安二郎が脚本を書いて田中絹代が監督をした『月は上りぬ』とか、伊藤整の新聞小説を中平康が監督した『化粧』などというのが思い出深い。

といったところへ宇津井健が死んで、マスコミの扱いが安井の時とはまるで違う大名優逝去のような扱いである。宇津井健は宇津井健でもちろん結構であって、好感を持っていこそすれ悪くいう気は毛頭ないが、ただ、宇津井にこれだけの扱いをするなら安井昌二にだってもう少し、扱い方があって然るべきではないかとの思いは避けられない。もっとも理由はわかっている。活躍の場がテレビにあったか否か、それだけなのだが、それにしても・・・

随談第519回 嗚呼、オリムピックよ!

ソチ・オリンピックもようやく終わった。嫌いでも関心がないわけでもないから(思えばヘルシンキ大会からずっと、熱心不熱心の波はあったにせよ、見てきたのだ)私なりにテレビも見、目配りもしていたつもりだが、いま、マスコミから「オリンピック」が消えて見ると、この清々しさはどうだろう? 喧噪と人いきれと安酒の悪酔いにふらつきながら酒場から一歩、表に出て外気を吸ったときの気分である。

思うにこれは、オリンピックそのもの以上に、マスコミ、とりわけテレビの喧噪がなくなって知った静けさであり、NHKを主体としたオリンピック報道の、単に喧噪というだけではすまない、「感動をありがとう」の押付け演出に辟易した後の清爽感あることは確かである。

もちろん、選手たちの成功や失敗、歓喜や無念、誇りや屈辱、さまざまな姿に心打たれることはある。それを「感動」と呼ぶなら呼んでもいいだろう。だが、頭から尻尾まで、「感動をありがとう」というテーマだかメッセージだか、切り口だか演出だか、縦横・上下・左右・天地、どこを切っても金太郎飴のように押し付けてくる「善意の厚かましさ」にはうんざりする。(おそらくこの裏には、メダル獲得数ばかりを騒ぎ立てることへの批判に対する「つもり」もあるのだろうとは察するが、ともあれこの「べったり感」の気色悪さはたまらない。)

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浅田真央そのものは少しも嫌いではないが、世の金メダル・コールをはじめとする、他に人無きがごとき浅田浅田の一点張りにはいささかならずヘソを曲げたくなった。(むかし聞いた桂米丸の新作落語で、「オイ浅田、起きろ。朝だ、朝だ」というのがあったっけ、などと茶々を入れたくもなる。)真央ちゃん、感動をありがとう、みたいな感動大好きおばさんたちの大合唱はともかくとして、キム・ヨナ選手の演技をほめた解説者のブログが炎上したなどという噂を聞くと、ウームと唸らざるを得ない。もっともらしい顔をしたテレビのおじさんキャスターが、日本中が真央ちゃんの笑顔を見たいと願っているんですよ、などとしたり顔で言っているのを見ると、ウヘーと嘆声を上げたくなる。

そうした反発が半分と、これは本当に彼女のスケーターぶりがいいと思うのが半分とで、しばらく前から、浅田選手以上に鈴木明子選手を応援するようになっていた。前回のオリンピック前後のことだったが、ある国際大会で、1日目に浅田が5位か何かで鈴木が2位だったかにつけていたら、どこかの局のベテランらしい女性アナが、浅田選手に是非逆転して優勝してもらいたいですねとやっていたのに呆れ、義憤を覚えたのがきっかけだった。私が勝ってはいけないんでしょうか、と、もし鈴木選手が聞いたら言いたいだろうと思った。一寸の虫にも五分の魂ではないか。

くだんの女性アナはおそらく何の悪気もなしに口走ったのだろうが、こうした無神経がまかり通ってしまうというのも、過剰が当り前になって社会一般に瀰漫してしまっているからで、こういう異常な状況は、今なお少しも変わっていない。煽るだけ煽っておいて、さあとなると、オリンピックには魔物が棲む、とくる。その魔物に餌をやって太らせたのは誰なのだ?

真央ちゃんには気の毒だが、本番ですっ転んでしまったら面白いだろうな、などといった気持も、正直、なかったわけでもない。もちろん、浅田選手個人に対してではなく、あまりにも真央ちゃん一辺倒の大合唱に対してのことだが、真逆(マサカと読みます。マギャクではなく)、本当にその通りの光景を目前に見ようとは、神ならぬ身のもちろん思わなかったのは当り前である。

で、24時間後にはああいう次第で一件落着したわけだが、この一昼夜の間に社会のあちこちで起ったさまざまな反応は、なかなか興味深いものがあった。浅田選手自身にとってのことはさておいて、この急転直下の、一日の内に二度、天地がひっくり返ったような事態を、世間がどう受け止め、どう折り合いをつけたか、である。

すぐに思ったのは、これで浅田真央は伝説を作った、あるいは、伝説の存在となった、ということである。いまのところは、やっぱり金メダルが欲しかった、という方向へも振り子はかなり振れているようだが、いずれは、メダルよりも感動、即ち、「記録よりも記憶」という、あの黄金律のもとに集約されて行くに違いない。レジェンドの女、か!

その意味では、あの1日目の失敗と2日目の大逆転によって、なまじすんなりと金メダリストになり遂せるよりも、永遠に語り継がれる「ヒロイン伝説」として絶妙の筋書が作られたわけだが、もちろんそれは、浅田選手本人の意思とはまったく別の話である。

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これはもちろん、浅田選手の場合だけのことではない。マスコミはどうしてこうも偶像を特定し、事前に勝手にシナリオを作って、その想定通りに結果が現われてくることばかりを期待するのだろうか。

またフィギュアスケートの話になるが、競技直前まで、浅田の強敵はキム・ヨナと、もうひとり15歳のロシアの少女と二人しかいないかのような報道ぶりだったが、ナニ始まってみたら、一騎当千のツワモノがわんさといるではないか。あの激戦の中では入賞するだけだって容易なことではないだろう。

引退した安藤美姫さんがどこやらの局に解説者となって出てきて、浅田とキム・ヨナとリプニツカヤの他に選手はいないかのような司会者の口ぶりに、他にも素晴らしい選手が沢山いますから見てください、と言っていたのは天晴れである。(現役時代の彼女は、スポーツ選手というよりモデルかタレントみたいな感覚が少々気になったものだったが、解説者として出演したのを一、二度見て、ちょっと見直していたところだった。)リプニツカヤの陰に追いやられて事前には話題にしてもらえなかったのを見事、ストニコワは女でござると見返してのけたのにしても、3位になった、瀬川詠子さんのイタリア人の親戚みたいなコストナー選手にしても、真っ赤な口紅も赤々といかにも天真爛漫なアメリカ娘らしいゴールド選手にしても、間際になって浅田と鈴木の間の7位という順位に割り込んできたのはちと癪だったがこれもアメリカ的善良さに溢れたワグナー選手にしても、みな素晴らしいではないか。真央ちゃんが金メダルを取るかどうかだけに興味を特化してしまえば、こうした(日本の鈴木や村上も含めて)各国から選ばれてきた世界一流の名手たちの演技を愉しむという、それこそオリンピックならではの意義は無化されてしまう。

それにしても、結果的にああした破天荒なドラマがあっての6位だったからよかったようなものの、あんな派手な大失敗でなくもう少し平凡な形で「浅田選手、健闘しましたが6位でした」という結果だったら、どういうことになっただろう?

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ジャンプのあの高梨沙羅ちゃんの場合にしても、カナダに「もうひとりのサラ」という強敵がいるがこれは怪我をしているから目下敵なし、みたいな話だったが、実際始まってみるとやっぱり他にも凄い選手が何人もいた。二位になった何とかいうベテラン選手など、女子ジャンプ界の草分けで女王的存在だったということを、私などが知ったのは、本番直前になってからだった。あれだけ散々、事前に沙羅ちゃん沙羅ちゃんの大合唱をいやというほど聞かせる暇があったのなら、もう少しはそういう実のある情報を、われわれ素人の目や耳に入るように伝えてくれれば、ただ無暗に「感動をありがとう」の極まり文句を言うために画面を見るのでなく、素人なりに競技そのものを鑑賞したり、多少は通ぶった気分になったり、もっといろいろな楽しみ方が出来るというものではないか。(長野で英雄になったジャンプの船木選手が、「サンデーモーニング」なる番組にゲストで出演して、マスコミの報道に「喝」とやっていたのは、なかなかよかった。)

おしまい頃になって、スノーボードの種目で女子選手が二人ほど、健闘よくメダルを取ったが、彼女たちのことなど、よほどその道のオタクでないと知らなかった人がほとんどだろう。一人はもう4度目の出場というベテランだそうだが、上村愛子の顔はこの10年来いやというほど見せられたのに比べ、このあまりの違いは一体何なのだろう? スキーやスノーボードの日本選手といえば(もちろん種目の違いなど知る由もないままに)、上村愛子しかいないのかと思っていた人があっても少しも不思議はない。

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それにしても、沙羅ちゃんも、この間までのあどけない童顔に比べると、もうすっかり大人の顔になって、怖いものを知ってしまったのだね、きっと。ロシアのあの15歳のフィギュア少女選手だって、はじめの団体戦の時と個人戦の時とではまるで別人だったのは、わずか一週間でオソロシイものを知って大人になってしまったのに違いない。芝居でも、どんな名優も子供と動物には勝てないというが、こわいものを知らない無心ほど強いものはない。

むかし、夏の大会の体操の選手で、ルーマニアだかどこだったか、コマネチという少女選手がメダルを独占してしまったことがあって、あまりの小憎らしさに、あれではまるで角兵衛獅子だという声が上がったことがあった。親方に仕込まれた通り、ただひたすらに芸をすればよいわけだ。沙羅ちゃんも、オリンピックが一年早かったら、無心に飛んで金メダルを貰っていたかも知れない。団体戦では小憎らしいまでに、ミスをする姿など想像も出来なかったリプニツカヤも、個人戦ではもはや角兵衛獅子状態でいられなくなってしまったのだろう。

大人になるとは、怖いものを知るということである。浅田真央が一日にして別人(の如く)になれたのは、もちろん角兵衛獅子の無心とは違う。落ちるところまで落ちて得た無心の境、平たく言えば捨て身ゆえの開き直りだろうが、帰国してから外人の特派員クラブに招かれて質問に答えていたのをニュースで見たがなかなか面白かった。(それにつけても外人の記者の質問の率直さ、切れの良さというものはどうだろう。日本の記者やアナウンサーというのは、どうしてああ決り切った質問しかしないのだろう?)

それにしても、日本のフィギュアスケートといえば、ごく例外的な選手がやっとこさ、5位だの6位だのに食い込むのが精一杯だった昔を思えば、まさに隔世の感というものだ。欧米の選手を囲むコーチや監督が豪華な毛皮のコートを着ているのを見るだけで、彼我の違いを思わずにいられなかったものだが、まして日本男子選手がフィギュアスケートでメダルを取る日が来るなど、到底考えもしなかった。それだけ、日本人の体形やサイズが如何に変わったかということに尽きるとも言える。(歌舞伎でも最近はフィギュアスケートに転向できそうな、小顔の10頭身役者を見かけるが、先の鴈治郎みたいな体形でフィギュアの選手になったらなんて、想像するだにキモチワルイものね。)それやこれやを思えば、羽生選手などというのは、鶴が天から舞い降りたようなものだが、ちょうど今は心技体整った充実の盛り、上り坂の、当たるべからざる勢いの時期にあるのだろう。おそらく、同じ横綱でも大鵬とか白鵬とかのような、特急品になるべき素材に違いない。フィギュアスケートに限らない。むかしの冬季大会といえば、スキーのアルペン種目など、日本選手では○○選手が35位、××選手が38位でした、なんていうのがほとんどだった。

ジャンプで41歳という葛西選手が銀メダルを取って「感動をありがとう」の対象の随一になったが、どうしても金メダルをとこれからも執念を燃やし続けようという気持は、ご当人にしかわからないことだろう。それよりも私には、ジャンプの飛形を普通より心もち開いて飛ぶスタイルが、モモンガの飛ぶ姿から思いついたという話が気に入った。これこそまさに、ベテラン選手ならではの「芸談」である。

モモンガといえば、おたんこなすのこんこんちきみたいに気の利かない奴に向かって、このモモンガ野郎、というのが江戸以来の罵詈だが、こういうことを伝えるテレビ番組もなかったわけではない。テレビ局もモモンガ野郎ばかりではないわけだ。

随談第518回 勘三郎随想(その38・最終回)

47.「す」の巻

勘三郎の談話を取材していて何よりも痛切に感じるのは、先輩の俳優たちへの思いの深さである。それは、いわゆる身分の高下を問わない。実父の十七代目と時代を共にした俳優たち、十八代目自身が舞台を共に出来た役者たち。そうした人びとの思い出を語るとき、勘三郎は一番楽しげだった。私もまた、その話を聞くときが、ひと際愉快だった。勘三郎が私のために割いてくれた限られた時間のなかでも、さらに限られたいっときだったが、それは、格別な稠密さをもった、取って置きのいっときだった。

中村歌右衛門は、何といっても、十七代目と時代をともにした最大の存在である。「歌右衛門のおじさん」に言われたこと、教わったこと。勘三郎の語る歌右衛門は、言われた教訓や教わった内容以上に、その存在感、そのときの在り様が、印象的である。『鳴神』の雲の絶間姫で、龍神を滝壷に封じ込めた注連縄を切ると雨が降り出すという、絶間姫にとっての最大の性根どころのセリフの言い方を、噛んで含めるように移してくれる歌右衛門の有様を、勘三郎は、歌右衛門の声色によって一瞬にして描き出す。遠い昔に見た歌右衛門の絶間姫が彷彿とするかのようでもあり、すぐれた画家が、たったひと筆でその人物の全貌を描き出すのにも似た面白さに、思わず笑い出さずにはいられない。

歌右衛門の芸談というものを、活字になったものを読んだり、テレビなどで聞いたことは何度もあるが、そういう時、歌右衛門は必ずのように「お役の性根」ということを繰り返し強調し、具体的なことを例を挙げて述べるということをほとんどしなかったように思う。芸談というと、大概は、自分の当たり役などのおなじみのセリフなり仕草なりを例にとって芸を語るということをするものだが、歌右衛門はそれをしない。曰く言いがたいということなのだろうと忖度するものの、正直なところ、素人には面白みは薄い。

だが、勘三郎の語る歌右衛門は、それとは別な横顔を見せている。歌右衛門が、口写しのように絶間姫のセリフを教えるように、勘三郎もまた、口写しのように、歌右衛門の口真似をして語る。「写す」は同時に「移す」でもあって、まさしく「真似ぶ」ことが「学ぶ」ことなのだ。それはまさに言葉による一筆書きだが、一筆描きというものが、本質的に一種の批評にならざるを得ない以上、それは同時にカリカチュアでもある。歌右衛門だけではない。勘三郎が一筆で描いてみせた片岡我童の姿は、いかなる我童論にもはるかにまさってあざやかであった。

役の上で、勘三郎が一番多くの教えを受けたのは尾上梅幸だった。若衆方から和事味のある二枚目という、勘三郎が若いときにつとめた多くの役が、梅幸の役どころと重なっていたからでもあるだろうが、それだけに、勘三郎の梅幸への思いの深さが、言外からも伝わってくる。梅幸という人は、ことに二枚目の役を演じるときの舞台ぶりでも、素顔を見せるときの印象でも、おっとりと悠揚迫らぬ温厚な紳士というイメージで知られていたが、勘三郎の語る、『忠臣蔵』の塩冶判官をはじめてつとめたときの舞台稽古の模様は、そのイメージを裏切ることなく、同時に、われわれの知らないある一面を見せた梅幸像として、貴重な卓抜さをもっている。聞きながら私は、梅幸という人を改めて、蘇えるなつかしさとともに、好きになったことを告白しなければならない。

吉右衛門劇団で父十七代目と盟友だった松本白鸚にも、勘三郎はひときわの親密感を抱いているようだった。年始まわりに白鸚宅を訪れると必ず、時間が倍はかかる。酒を出してくれるからだが、ただそれだけのことを語るだけで、勘三郎の白鸚への思いは言外のうちに伝わってくる。

勘三郎がとりわけての思いをこめて語った故人をもうひとり挙げるなら、父十七代目の文字通りの竹馬の友であり、終生の心許した友であった守田勘弥だろう。幼かった勘三郎に、子供心にも格別な美しさで映ったふたりの友情の在り方は、ひるがえって、その子である十八代目と玉三郎の関係にまで影響を及ぼしているという。近代歌舞伎の温床としての市村座については多くの証言によって語られているが、父親同士が幼い日々を共にした市村座で培われたものが、形を変えて、勘三郎と玉三郎という、子の代である現代にまで生き続けていることを、勘三郎によって私ははじめて知った。勘弥といい、もうひとりの父十七代目の盟友として忘れがたい松本白鸚といい、ふたりとも、比較的早くに世を去っただけに、それを語る勘三郎にも、ひとしおの思いが感じられる。

こうした大立者ばかりではない。それぞれに独自の芸の味を持った脇役者たちを、私の求めに応じてひと口評のように、そのユニークな特徴をヴィヴィッドに描き出しながら、追憶はフラッシュバックのように次々と蘇る。とりわけ、父の代からの門人だった中村助五郎を語るとき、その死がまだごく近い過去のことであっただけに、哀切さが思いやられた。

勘三郎にとって、こうしたなつかしい先達たちのひとりひとりが、歌舞伎の命そのものなのである。

48.「ん」の章

いま一般の社会が歌舞伎に対して抱いている誤解の最大なのは、現在歌舞伎座などで演じられている歌舞伎が、江戸の昔から少しも変わらず、そのまま演じ続けられていると、「何となく」思い込んでいることであるかも知れない。一方で「伝統歌舞伎」ということが盛んに言われ、また一方で、新しい試みをする者があるとマスコミなどが大きく取り上げるのが、ふだん歌舞伎に関心のない人たちの耳目に触れやすい、ということもそうした錯覚を醸成する上でひと役買っているかもしれない。まさしく勘三郎も、そうした話題でマスコミに登場することの最も多かったひとりであり、果敢に新しい試みにチャレンジする歌舞伎界の旗手というのが、マスコミの話題だけで歌舞伎を見ている者の目に映る勘三郎像であったに違いない。両極端ばかりが伝わって、その割には実態が知られていないということが、いま、社会一般に向かって歌舞伎を語ることを、非常に難しくしている。

伝統歌舞伎といっても、その伝統を実際に演じるのは、現代という時代に生きている生身の役者であり、誰に向かって演じているかといえば、現代人である生身の観客である。この、少し考えてみれば当り前のことが、意外なほど、当り前として通用しない。そういう、不思議な常識や通念のなかに、歌舞伎は、もうずいぶん永いこと置かれている。今年二〇一四年は明治一四七年だが、その近代日本百四十年余の間に日本の社会が、日本人そのものが、どれだけ変わったか? その過激なまでの変化と変貌の中で、歌舞伎だけが変わらずにいるなどということが、あり得るだろうか? 

変わらないと思うが故に、歌舞伎を買いかぶる者がいる。変わらないと思うが故に、歌舞伎に見向きもしない者がいる。どちらも、思い込みの上に立っている点で変わりはない。だが、歌舞伎の伝統とは、歌舞伎の進化とは、そのいずれにあるのでもない。歌舞伎とは何か? 勘三郎がしようとしていることの根底に常にあるのは、自他に向かって放つ、この問いかけであるように、私には見える。

勘三郎がいまなお強く憧憬と敬意を抱き続けている、父十七代目勘三郎や、父と同時代に活躍していた六代目歌右衛門や七代目梅幸たちの歌舞伎もまた、そうした近代歌舞伎の中の、戦後というひとつの時代の歌舞伎である。彼らは彼らで、そのまた父の世代である六代目菊五郎や初代吉右衛門等に代表される歌舞伎の芸を規範としていたが、それもまた、大正から昭和前期というひとつの時代の歌舞伎であることに変わりはない。戦後といい、大正・昭和前期といい、それぞれの時代をよく生きたからこそ、歌舞伎はそれぞれの時代にかけがえのない喜びを同時代の観客に与えることが出来たのであり、それはその時代にあってこその喜びであり、意味を持つものであった筈である。伝統だから時代を超えるのではなく、それぞれの時代をよく生きたからこそ、伝統に連なることができたのだ。人はまず、いまを生きるのであって、いまを抜きにして歴史に生きることはできない。歌舞伎もまた、同じだろう。

「規範」という考え方のなかには、指標とするべきものを求める意志が感じられるが、意志によって選び取られてはじめて、規範は学ばれるべきものとしての意味を持つ。かくのごときものでありたい、あろうとする意志をどれだけ明確に持つか。高校生だった勘三郎が、祖父である六代目菊五郎の踊る『鏡獅子』の映画を見るために日参して、首の振り方を写し取ったというとき、そこにあるのは、かくありたいという意志であり、憧憬と尊敬がそれを支えている。獅子の首の振り方を写すのと、革新を恐れずし遂げたその生き方にまねぶのとは、勘三郎にあっては少しも矛盾することではない。

コクーン歌舞伎や、野田歌舞伎といった活動によって、勘三郎が何を、どういうことをしようとしていたのか、実を言うと私には充分に分かり切れずにいるものがある。懼れずに言えば、勘三郎自身にも、充分に分かり切らずにいた部分があるのではないかという気が、実はしてならない。少なくとも猿翁と比べる時、猿翁ほど明確に見えているものがなかったのではあるまいかという気がする。だがこれは、決して勘三郎を貶める意味でも、猿翁と比べて優劣を云々することでもない。むしろそれ故に、俳優勘三郎の、人間勘三郎の魅力も真価もあるのだという気が、私はしているのだ。ただ何かが、勘三郎を突き動かしていたのだ、と私は思う。

両方をやるのだ、あっちがあってこそこっちがある、と勘三郎自身、明快に語っているように、先人の教えを尊重する念と、我こそ、誰もしなかったことをしているのだという気概とが、勘三郎の中に同時にあるのであって、勘三郎の歌舞伎を双頭の鷲のごとくに先導している。それを、どうして否定できるだろうか?

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一昨年末に勘三郎の訃を聞いたのをきっかけにはじめた『勘三郎随想』でしたが、この回をもって終了します。その時どきの話題や問題に関わるのが生命ともいえるこうした場では、連載は断続的にならざるを得ず、遂に足掛け3年という長きに亘ってしまう結果となりました。ご愛読くださった方々に御礼申し上げます。