随談第522回 今月の舞台から

またしても大分、間遠になってしまった。それと、今月の歌舞伎座評を来月早々発行の「演劇界」6月号に書いたので、発売前にあまり書くのは遠慮したい。そこで、今月のお薦めは三津五郎の『靫猿』ということだけを言っておこう。

それにしても、これは本当によかった。古典芸術でなければ味わえない喜びというものが、ここにある。現代における歌舞伎の在り方をめぐって、あゝあるべき、こうするべき、さまざまあるわけだが、少なくとも、歌舞伎は何を以って歌舞伎であり得るのか、何を以って歌舞伎と呼び得るのか、ということを問う時の、これがひとつの欠かすことの出来ない答えであるのは間違いないであろう。

それにつけても、三津五郎健在をこうした形で示してくれたことは、何よりという他はない。亡き九代目が猿曳、当代がまだ八十助で女大名、奴は梅玉だったが小猿を現已之助がつとめて親子三代による『靫猿』と話題にもなり、また素敵な出来でいまなお印象深い舞台だったのが、もう19年前になっていたのだ。

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いままでミュージカルのことを書いたことはあまりなかったが、今月は、帝劇で初演の『レディ・ベス』を見ながらあれこれ思ったことがあるのでそれを書いてみよう。

まあ、面白かったと言っていい。主役がダブルキャストなので、中三日おいて(今どきのプロ野球の投手の登板よりも間隔が狭い)二度見て、二度とも面白いと思ったのだから、というより、二度目を見ながらはじめ気が付かなかったいろいろなことに気が付く面白さがあったのだから、よく出来た作であるのは間違いない。それにしても、まず思うのは、こういう、いわば西洋史を題材にした作品が日本主導で欧米の作者・作曲者によって作られ本邦初演が世界初演になるというようなことが、(もちろん当事者の苦労や苦心は多々あるにせよ)いうなら当り前のような顔をして実際に行われる時代になったのだということである。何をいまさら、と言われるかも知れないが、しかしこれは改めて驚く(ことを忘れてはいけない)ことである筈だ。これは、制作、演技・演出、観客の受容、さまざまな位相・レベルで言えることである。

西洋史を背景・題材にした作品を日本人が作り、大ヒットしたといえば、例の『ベルばら』がすぐ思い当るわけだが、事実あの辺りから、ジャンルとして「こういうのもあり」ということになったのだったと思う。まあそれには、宝塚歌劇というものが久しい以前から種を蒔いてあったわけだが、(「ホフマン物語」だの、タイトルは忘れたが例の「エリザベート」と同じテーマのものだのが、春日野八千代といった人たちの時代からやっていたのは覚えている)、どうしても「疑似西洋」めいたものを志向する感が強かったのを、そういう遠慮を取り払ってグイと日本人の好みに引きつけたという意味で、『ベルばら』の存在・作り方というのが画期的だったのは間違いない。だがここへきて、ミヒャエル・クンツェの作、シルヴェスター・リーヴァイの曲と結んでの一連の作が出来るようになって、『ベルばら』レベルの「日本人臭」をひとつ抜けた作品群が出来、馴染まれるようになった。この辺は、日本人の日常と西欧の距離の作り出す微妙な感覚の変化が背景にあるのだと思うが、まあ、すっ飛ばして言えば、遂にこういうところまで来たか、という感慨を抱かないわけには行かない。

とはいうものの、正直なところ、これまでの『エリザベート』『モーツァルト!』その他その他の諸作は、(私の胃の腑には、という意味だが)ちとこなれの悪い部分があって世評ほどには乗れなかったのだが、今度の『レデイ・ベス』を見て、ああここまで(あるいは、あゝ、こんなにも)こなれのいい西洋種芝居が出来てしまったのだ(作れちゃったのだ)という思いを抱かざるを得なかった、というわけなのだ。

この作を、今までの諸作に勝る名作だというのではない。評価は人さまざまにあるであろう。しかし16世紀50~60年代前後の、イギリス・チューダー王朝時代の(せめて高校の世界史程度のことをある程度真面目に勉強していないと、まず馴染みのない時代だ)、宗教と外交と王権と王族相互の婚姻関係といった事情が王位継承の問題と複雑に絡まりあってのもろもろを、あるいはすっ飛ばし、あるいは短絡させるなどして、3時間程度のミュージカル・ドラマに仕立てた手際というもの大したものだ。当然、英国史の知識のある人から見れば、気になる部分はいろいろあるわけだが、(たとえばイギリスの国教会=アングリカンというのは信仰上の理由からローマ法王庁と断絶したわけではないから、他の欧州諸国の旧教と新教の対立・確執とは様相が違うはずだとか、何だかんだといった事ども)煩雑に入り組んだそれらの事象を、枝を落し葉を刈り込む、その大鉈・小鉈の使い分けがなかなかうまい。現女王のメアリ・チューダーがカトリックに復帰させるために宗教的圧政をし、市民が反発してベス、つまりエリザベス一世を担ごうとするという、ドラマの展開の主軸になる経緯など、日本の観客にとってはあれぐらいが、少なくとも頭が痛くならずに済むぎりぎり一杯だろう。もっとも、舞台の本場であるイギリスの観客が見たらどう思うだろう?とか、他人の疝気を気に病むようなことを始めれば、切りがないことになる。

日本人から見たって、ロンドン市民がメアリ女王に反発して自由を叫ぶところなど、『レ・ミゼラブル』のパリ市民蜂起の場面と瓜二つだったり(16世紀のロンドン市民ってあんなにデモクラチックだったのだろうか?)、ベスと惹かれ合うロビンなる青年がロック・ミュージシャン風だったり、こうした割り切り方が「東宝ミュージカル」のテイストということでもある。ロビンとの恋がエリザベス一世が終生独身で通した理由の種明かしになっているのがミソであり、この種のドラマの作劇術の黄金律とも言える。

それにしても、こういう風に、歴史を娯楽ドラマに仕立てる手際は、向こうの人たちにとってはシェイクスピアの歴史劇以来、作る側・見る側双方に自ずからなるノウハウがDNAに擦り込まれているかのようである。ベスとロビンがロミオとジュリエットみたに忍び逢ったり、その現場からロンドン塔に連行されたり、といった大胆不敵に枝葉を払ってドラマを展開させる手際は天晴れというべきである。ついこの間新橋演舞場の滝澤歌舞伎をしばらくぶりに見たが、第二部で毎回趣向を変えてやる「義経」の物語が、やたらに心情的だったり、かと思うと妙に歴史新解釈みたいだったり、どうも面白くない。もっと、昔から伝わっている義経伝説の正統を、現代のテイストも加味しながら(つまり、ロビンである)、面白く運んでゆく方法がありそうなものだと思う。テレビの韓流時代劇を見ても、人物の造形と筋立ての組み合わせがうまいので、興味を次々と引っ張ってゆく。典型的人物でありながら、そこに端倪すべからざる人間洞察が窺われる。そこが面白い。歴史ドラマのおもしろさは、つまるところ、史実と絡みながら人間模様が如何に描かれるれているかに掛かっている。

ダブルキャストのベス役は、舞台俳優としてのキャリアからいって花總まりの方にはるかに安定感がある、つまり舞台の演技としてサマになっているのは当然というべきだろうが、平野綾にはその代わりに役と等身大の初々しさと実感があるのと、もうひとつ、ロビンと抱き合っているところへメアリ女王崩御の報が届き、ベスがあれよという間にエリザベス一世として奉られてしまうところで、『千本桜』の弥助が「たちまち変わる御装い」というわずか数秒の竹本の語りの間に、平維盛になってしまうみたいに、見事に女王になって見せたのに感心した。わずかな身のこなし、仕草ひとつ、つまり「位取り」という技法だが、舞台俳優として、ちょいとお見それ申し上げたと言っていい。

姥桜のメアリ女王と国際的政略結婚をするスペイン皇太子のフェリペというのが、端倪すべからざる遊び人という儲け役で、こういうキャラクターの掴まえ方にも脚本の巧さがあるが、海老蔵がやったら面白かろうと思った。(今度の平方元基や古川雄大もそれなりに良くやっているが。)そういう、舞台俳優としての演技という意味では、大司教ガ-ディナーになる石川禅がなかなか巧者である。花總まりにせよ、石川禅にせよ、石丸幹二にせよ、この前見た『モンテ・クリスト伯』にも出ていたのにたいして印象に残っていないのは、彼等の演技よりも、作品の出来により多くの理由があるだろう。つまりみんな、今度の方がいい役者に見えるのである。

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新国立劇場では、この春以降、『アルトナの幽閉者』『マニラ瑞穂記』といった、かねて音に聞こえていながら見る機会のなかった問題作に接することが出来た。そのこと自体は新国立劇場に感謝すべきだが、それと、実際に見ての思いというものはまた別と言わなければない。どちらについても今更ながら思うのは、こういう劇はあくまでも時代と共にあるべきもので、そうした「時」が過ぎ去った今、どうしてこれがあれほどまでに当時の人の心を捉えたのかということを、まず思わないわけに行かない。サルトルなどは、ちょうど私などの学生時代が「サルトルに非ずんば哲学に非ず」、だれそれさん曰く「猫も杓子もサルトル佐助」の時代だったわけで、そういうのを横目に見ながらほとんど無縁に過してきた私などは、往時熱心に実存主義に「かぶれた」人たちがいまこの作を見て抱くであろう感慨とはまた一種別の感慨をもつことになる。

『マニラ瑞穂記』の方は、ひとつの「日本人の記録」という意味で、『アルトナ』に比べれば、ある種の迫真的なものを今なお、まったく感じないというわけには行かない。秋岡伝次郎と高崎碌郎というドラマの芯になる二人の人物の設定がこの戯曲の肝で、今の日本では忘れ去られてしまったに等しいフィリピン独立戦争の周辺に係わった日本人の在り様が、今もまったく無縁になってしまったわけではないことを現代の観客に訴えるだけの力を失っていない。ただ、いわゆる「からゆきさん」に係わる筋はいまなお普遍性を失わないのに比べ、にほんじん義勇兵士と革命軍との関係など今となっては分かりにくいことが、過去の名作の鑑賞、という以上にはなりにくくしていることは否めない。

とはいえ私などには、個々の作品の評価は別にして、『アルトナの幽閉者』にせよ『マニラ瑞穂記』にせよ、このシリーズのようなものが、新国立劇場の仕事として一番ありがたいことは間違いない。