随談第518回 勘三郎随想(その38・最終回)

47.「す」の巻

勘三郎の談話を取材していて何よりも痛切に感じるのは、先輩の俳優たちへの思いの深さである。それは、いわゆる身分の高下を問わない。実父の十七代目と時代を共にした俳優たち、十八代目自身が舞台を共に出来た役者たち。そうした人びとの思い出を語るとき、勘三郎は一番楽しげだった。私もまた、その話を聞くときが、ひと際愉快だった。勘三郎が私のために割いてくれた限られた時間のなかでも、さらに限られたいっときだったが、それは、格別な稠密さをもった、取って置きのいっときだった。

中村歌右衛門は、何といっても、十七代目と時代をともにした最大の存在である。「歌右衛門のおじさん」に言われたこと、教わったこと。勘三郎の語る歌右衛門は、言われた教訓や教わった内容以上に、その存在感、そのときの在り様が、印象的である。『鳴神』の雲の絶間姫で、龍神を滝壷に封じ込めた注連縄を切ると雨が降り出すという、絶間姫にとっての最大の性根どころのセリフの言い方を、噛んで含めるように移してくれる歌右衛門の有様を、勘三郎は、歌右衛門の声色によって一瞬にして描き出す。遠い昔に見た歌右衛門の絶間姫が彷彿とするかのようでもあり、すぐれた画家が、たったひと筆でその人物の全貌を描き出すのにも似た面白さに、思わず笑い出さずにはいられない。

歌右衛門の芸談というものを、活字になったものを読んだり、テレビなどで聞いたことは何度もあるが、そういう時、歌右衛門は必ずのように「お役の性根」ということを繰り返し強調し、具体的なことを例を挙げて述べるということをほとんどしなかったように思う。芸談というと、大概は、自分の当たり役などのおなじみのセリフなり仕草なりを例にとって芸を語るということをするものだが、歌右衛門はそれをしない。曰く言いがたいということなのだろうと忖度するものの、正直なところ、素人には面白みは薄い。

だが、勘三郎の語る歌右衛門は、それとは別な横顔を見せている。歌右衛門が、口写しのように絶間姫のセリフを教えるように、勘三郎もまた、口写しのように、歌右衛門の口真似をして語る。「写す」は同時に「移す」でもあって、まさしく「真似ぶ」ことが「学ぶ」ことなのだ。それはまさに言葉による一筆書きだが、一筆描きというものが、本質的に一種の批評にならざるを得ない以上、それは同時にカリカチュアでもある。歌右衛門だけではない。勘三郎が一筆で描いてみせた片岡我童の姿は、いかなる我童論にもはるかにまさってあざやかであった。

役の上で、勘三郎が一番多くの教えを受けたのは尾上梅幸だった。若衆方から和事味のある二枚目という、勘三郎が若いときにつとめた多くの役が、梅幸の役どころと重なっていたからでもあるだろうが、それだけに、勘三郎の梅幸への思いの深さが、言外からも伝わってくる。梅幸という人は、ことに二枚目の役を演じるときの舞台ぶりでも、素顔を見せるときの印象でも、おっとりと悠揚迫らぬ温厚な紳士というイメージで知られていたが、勘三郎の語る、『忠臣蔵』の塩冶判官をはじめてつとめたときの舞台稽古の模様は、そのイメージを裏切ることなく、同時に、われわれの知らないある一面を見せた梅幸像として、貴重な卓抜さをもっている。聞きながら私は、梅幸という人を改めて、蘇えるなつかしさとともに、好きになったことを告白しなければならない。

吉右衛門劇団で父十七代目と盟友だった松本白鸚にも、勘三郎はひときわの親密感を抱いているようだった。年始まわりに白鸚宅を訪れると必ず、時間が倍はかかる。酒を出してくれるからだが、ただそれだけのことを語るだけで、勘三郎の白鸚への思いは言外のうちに伝わってくる。

勘三郎がとりわけての思いをこめて語った故人をもうひとり挙げるなら、父十七代目の文字通りの竹馬の友であり、終生の心許した友であった守田勘弥だろう。幼かった勘三郎に、子供心にも格別な美しさで映ったふたりの友情の在り方は、ひるがえって、その子である十八代目と玉三郎の関係にまで影響を及ぼしているという。近代歌舞伎の温床としての市村座については多くの証言によって語られているが、父親同士が幼い日々を共にした市村座で培われたものが、形を変えて、勘三郎と玉三郎という、子の代である現代にまで生き続けていることを、勘三郎によって私ははじめて知った。勘弥といい、もうひとりの父十七代目の盟友として忘れがたい松本白鸚といい、ふたりとも、比較的早くに世を去っただけに、それを語る勘三郎にも、ひとしおの思いが感じられる。

こうした大立者ばかりではない。それぞれに独自の芸の味を持った脇役者たちを、私の求めに応じてひと口評のように、そのユニークな特徴をヴィヴィッドに描き出しながら、追憶はフラッシュバックのように次々と蘇る。とりわけ、父の代からの門人だった中村助五郎を語るとき、その死がまだごく近い過去のことであっただけに、哀切さが思いやられた。

勘三郎にとって、こうしたなつかしい先達たちのひとりひとりが、歌舞伎の命そのものなのである。

48.「ん」の章

いま一般の社会が歌舞伎に対して抱いている誤解の最大なのは、現在歌舞伎座などで演じられている歌舞伎が、江戸の昔から少しも変わらず、そのまま演じ続けられていると、「何となく」思い込んでいることであるかも知れない。一方で「伝統歌舞伎」ということが盛んに言われ、また一方で、新しい試みをする者があるとマスコミなどが大きく取り上げるのが、ふだん歌舞伎に関心のない人たちの耳目に触れやすい、ということもそうした錯覚を醸成する上でひと役買っているかもしれない。まさしく勘三郎も、そうした話題でマスコミに登場することの最も多かったひとりであり、果敢に新しい試みにチャレンジする歌舞伎界の旗手というのが、マスコミの話題だけで歌舞伎を見ている者の目に映る勘三郎像であったに違いない。両極端ばかりが伝わって、その割には実態が知られていないということが、いま、社会一般に向かって歌舞伎を語ることを、非常に難しくしている。

伝統歌舞伎といっても、その伝統を実際に演じるのは、現代という時代に生きている生身の役者であり、誰に向かって演じているかといえば、現代人である生身の観客である。この、少し考えてみれば当り前のことが、意外なほど、当り前として通用しない。そういう、不思議な常識や通念のなかに、歌舞伎は、もうずいぶん永いこと置かれている。今年二〇一四年は明治一四七年だが、その近代日本百四十年余の間に日本の社会が、日本人そのものが、どれだけ変わったか? その過激なまでの変化と変貌の中で、歌舞伎だけが変わらずにいるなどということが、あり得るだろうか? 

変わらないと思うが故に、歌舞伎を買いかぶる者がいる。変わらないと思うが故に、歌舞伎に見向きもしない者がいる。どちらも、思い込みの上に立っている点で変わりはない。だが、歌舞伎の伝統とは、歌舞伎の進化とは、そのいずれにあるのでもない。歌舞伎とは何か? 勘三郎がしようとしていることの根底に常にあるのは、自他に向かって放つ、この問いかけであるように、私には見える。

勘三郎がいまなお強く憧憬と敬意を抱き続けている、父十七代目勘三郎や、父と同時代に活躍していた六代目歌右衛門や七代目梅幸たちの歌舞伎もまた、そうした近代歌舞伎の中の、戦後というひとつの時代の歌舞伎である。彼らは彼らで、そのまた父の世代である六代目菊五郎や初代吉右衛門等に代表される歌舞伎の芸を規範としていたが、それもまた、大正から昭和前期というひとつの時代の歌舞伎であることに変わりはない。戦後といい、大正・昭和前期といい、それぞれの時代をよく生きたからこそ、歌舞伎はそれぞれの時代にかけがえのない喜びを同時代の観客に与えることが出来たのであり、それはその時代にあってこその喜びであり、意味を持つものであった筈である。伝統だから時代を超えるのではなく、それぞれの時代をよく生きたからこそ、伝統に連なることができたのだ。人はまず、いまを生きるのであって、いまを抜きにして歴史に生きることはできない。歌舞伎もまた、同じだろう。

「規範」という考え方のなかには、指標とするべきものを求める意志が感じられるが、意志によって選び取られてはじめて、規範は学ばれるべきものとしての意味を持つ。かくのごときものでありたい、あろうとする意志をどれだけ明確に持つか。高校生だった勘三郎が、祖父である六代目菊五郎の踊る『鏡獅子』の映画を見るために日参して、首の振り方を写し取ったというとき、そこにあるのは、かくありたいという意志であり、憧憬と尊敬がそれを支えている。獅子の首の振り方を写すのと、革新を恐れずし遂げたその生き方にまねぶのとは、勘三郎にあっては少しも矛盾することではない。

コクーン歌舞伎や、野田歌舞伎といった活動によって、勘三郎が何を、どういうことをしようとしていたのか、実を言うと私には充分に分かり切れずにいるものがある。懼れずに言えば、勘三郎自身にも、充分に分かり切らずにいた部分があるのではないかという気が、実はしてならない。少なくとも猿翁と比べる時、猿翁ほど明確に見えているものがなかったのではあるまいかという気がする。だがこれは、決して勘三郎を貶める意味でも、猿翁と比べて優劣を云々することでもない。むしろそれ故に、俳優勘三郎の、人間勘三郎の魅力も真価もあるのだという気が、私はしているのだ。ただ何かが、勘三郎を突き動かしていたのだ、と私は思う。

両方をやるのだ、あっちがあってこそこっちがある、と勘三郎自身、明快に語っているように、先人の教えを尊重する念と、我こそ、誰もしなかったことをしているのだという気概とが、勘三郎の中に同時にあるのであって、勘三郎の歌舞伎を双頭の鷲のごとくに先導している。それを、どうして否定できるだろうか?

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一昨年末に勘三郎の訃を聞いたのをきっかけにはじめた『勘三郎随想』でしたが、この回をもって終了します。その時どきの話題や問題に関わるのが生命ともいえるこうした場では、連載は断続的にならざるを得ず、遂に足掛け3年という長きに亘ってしまう結果となりました。ご愛読くださった方々に御礼申し上げます。