随談第514回 吉之丞追悼

勘三郎随想を一回休みにして書く。

このところ顔を見ないからどうしたかと案じていた中村吉之丞が死んだ。八十一歳という享年はともかく、もうしばらく、見ておきたかった。名手と呼んでよかったと思う。長身で、背を盗むためだったろうが少し猫背になった姿態といい、声音や、少しうねうねする感じのセリフの言い様といい、品格の中に愛嬌をにじませた具合といい、ちょっと歌右衛門に似ていたが、もちろん、立場から言ってもあれほど強烈に主張したりはしなかったから、こちらは微笑ましくも懐かしく、歌右衛門を偲ぶのを隠し味として吉之丞ぶりを、その自在な舞台ぶりを愉しむことが出来た。

昭和一桁世代というのは、いまや最長老クラスだが、身分から言って加賀屋歌江と、御神酒徳利というのとも違うが、よくペアになった。何の芝居だったか、二人が芸者だか何だかの形(なり)で、ただ舞台を歩いて横切っただけで、芝居の味がぐいと濃くなって、大人の芝居になったのに驚いたのも、今となってはいい思い出である。

柄からいっても、芸の質(たち)から言っても、もちろん世話物だってよかったが、時代物の方がドンピシャリと他の追随を許さなかった。芸に遊びが感じられるようになってから、銀器のような鈍い光を放って照り返るようになった。代表作を一つ挙げろと言われれば、『毛谷村』のお幸を挙げよう。もっとも、この役はしばしば入込みをカットされてしまうから、もちろんそれでも、白の鬘が似合って、品格あり、由緒ある武家の妻としての貫目と、狂言の中での役の重みのバランスといい、立派なものであったには違いないが、しかし吉之丞の真骨頂を知るには、入込みから見ないとわからない。六助と虚々実々の探り合いをするうち、小柄をヒョウと投げるのをハッシと受けて、ヒョウと投げ返す辺りの面白さというものは、ちょいと真似手のないものだったと思う。さっき、「品格の中に愛嬌をにじませた具合」と言ったのはここらのことである。何だろう?あのお婆さん?と、初心の観客でも惹きつけられたに違いない。(果たして、場内からウームと唸り、ホッと笑いさざめくようなジワが来た。)

いまスクラップを確かめてみたら2009年の四月とあるが(もう、そんなに経ってしまったのか!)、旧歌舞伎座で吉右衛門の六助で『毛谷村』を出したときのお幸に私はいたく感じ入って、その年の年末に恒例の「今年の回顧」のベストスリーに挙げたことがある。

それにしても吉之丞があれほど自在の境に入った舞台ぶりを見せるようになったのは、いつごろからだったろう。迂闊にも明確に、あの時、と指し示すことが出来ないのが残念だが、吉之丞という、播磨屋の一門に由緒ある名前を貰うことになって、ああよかったなと思うと同時に、でもそれも当然だよなと、内心思ったことは覚えている。彼のような地位や立場にある場合、大きな名前を名乗らせるとか、扱いのランクを上げてやるように上の者が配慮してやることが是非とも大切である。

前名の万之丞といった当初のころは、それほどとは実は思っていなかった。白鸚が一家一門を率いて東宝に移籍した後、いろいろ改革を試みたひとつとして、万之丞を立女形格に抜擢しようとしたことがあった。新天地でまず手掛けた『桑名屋徳蔵』で傾城桧垣という大役につけたのだったが、評価はいまひとつだった。高麗屋の一門にはこれといった女形がいなかったから、絶好のチャンスであったわけだが、まあ、ものにし損なったわけである。一門にはほかに幸雀とか吉之助といった同年輩の女形がいて、当時の染五郎・万之助兄弟がやっていた木の芽会という勉強会や、国立劇場が「青年歌舞伎祭」と称して毎夏開いていた若手の研究会などでは、それぞれにかなりいい役をさせてもらっている。それを思うにつけても、歌舞伎を演じる機会の少なかった東宝時代が、修行段階の役者にとって一番大切な時期だったろうが、よくもあれだけの名手になったものだと思わずにいられない。

吉之丞世代の女形はもう歌江ぐらいになってしまったが、昨秋の歌舞伎座での二ヵ月続きの『仮名手本』の通しで何が愉しかったかと言えば、「七段目」の一力の仲居達の熟女ぶりだった。11月と12月でメンバーが入れ替わっていたが、時蝶・扇禄辺りを姉さん株として歌女之丞だ芝喜松だ京蔵だ、芝のぶだだ京紫だ、その他その他、(小山三はこの際、別格中の別格だから別座に座ってもらう)更にもっと若い妹たちに至るまで、なかなかの壮観であった。目下のところ、現在の歌舞伎で一番層の厚いのは「彼女たち」であるかもしれない。雀右衛門女子大とか芝翫女子大とか、学校はいろいろだが、世情を反映するかのように歌舞伎界も女性上位の世の中である。この上は、万之丞を吉之丞にしてやったような配慮や待遇がどれだけなされるかということも、育てた仏に魂を入れるという上からも、肝心なことであろう。