随談第536回 歳末あれこれ

随分永らく掛け流しのままにしてしまった。まあ、それ相応の理由があってのこととはいえ、とんだ新記録?を作ってしまった。ネタにしようと思ったこともいろいろあったのだが、タイミングが遅れると自ずから感興も薄れ、結局出しそびれることにもなる。借金返済と御礼とブログは、やはり出し遅れないことが肝要である。

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まずはやはり、今月の舞台からということになる。何と言っても国立劇場の『伊賀越』である。今年のベストワンというだけでなく、よくぞ今の時点で「岡崎」を、しかもこういうレベルで出してくれたということの方がもっと大きい。

成功の理由の第一は、眼目の政右衛門が赤子の首を切って土間に放り出すという件を吉右衛門が逃げずに真っ向から堂々と演じ切った点にある。先代でさえ、首を放り出さずに脇に置いたとか、昭和45年の時の二代目鴈治郎が、こつんと音のしないように小道具へ注文をつけたとかいう話が残っているが、言うなら余計な賢しらだったことが、今度を見れば明らかだ。眼目の、眼に一滴の涙云々という山田幸兵衛の歌六のセリフが見事だった。仇討物という枠をはるかに超えて、人間関係そのものが本質的に持つ非情さ、不条理が浮き彫りにされ、人間ドラマの普遍性が文字通り立ち上がった。青臭い言い方をするようだが、これが青臭いリクツとしてでなく、実体あるものとして立ちあがってきたのには驚かされた。

即ち成功の理由の第二は、山田幸兵衛の歌六が堂々と吉右衛門とがっぷり四つ相撲相撲を取り、見事に渡り合ったことである。今回の殊勲の第一を挙げるなら、吉右衛門もさることながら、歌六を挙げるべきであろう。

第三に、岡崎に集ってくる人物たちが、作者の趣向を越えて運命の糸につながれてドラマを織りなしているという、古典劇ならではの運命感となって感じられたことである。「情」とか「心理」とかいう、今日人(こんにちじん)の理解しやすいものでなく、人間の存在そのもののもつ「運命」が手応えを以て実在するかのようだった。(又しても青臭い言葉遣いになって恐縮だが、解ってもらうためにはこういう言い方になるのはやむを得ない。)

第四に、その、岡崎のこの場に集ってくる人物たちがすべて、適役であったことである。芝雀のお谷は「饅頭娘」の件が出ないのはさぞやりにくかったであろうがよく任に堪えた。(序幕の「行家館」に登場させたのは上演脚本としてせめてもの配慮であろう。少なくとも、彼女の置かれている立場・人物関係は明確になった。但し細かいことだが、股五郎の行家殺しが行われたのを上手の部屋にいる(筈の?)お谷が気が付かないように見えるのは、見ていてひっかかる。これは演出上の処理で何とかなる筈である。)東蔵はこの秋、ずっと国立劇場にまるで専属俳優のごとく居座って『引窓』のお幸をし栄御前をし、いままた幸兵衛女房おつやを立派につとめて、いまや脇の女形としての要衝を独りで守る人となった。又五郎も、誉田大内記が仁違いなのはやむを得ないが助平は好演だったし、錦之助の股五郎が男前の良さもなかなかの敵役振りであった。存在感があったのは役者が挙がった証拠である。さてそこへ、志津馬に菊之助というのは、音羽屋播磨屋両家に絆を結んだあの結婚がもたらした天の恵みというべきで、これといい、時分の花を開花させる寸前の莟の如き米吉のお袖といい、それぞれ事情は別だがいまこのときならではの配役の妙という意味では、天の配剤というべきであろう。これが、もう一年前だったら,志津馬に菊之助という配役はなかったろうし、米吉のお袖はこれほどの効果を上げられなかったであろう。(米吉はここまで来れば、もうひと頑張りで『矢口渡』のお舟ができるところまで来たと言ってよい。)すなわち吉右衛門以下すべての配役が、いまこのときにこの狂言と出会えたのがベスト・タイミングであったというのは、まさしく天の配剤というべきであろう。

第五に、「岡崎」に関する限り、今度の上演台本で原作に戻したという三点、すなわち上記の赤子の首の扱い、お谷がわが子の死を見とどけること、お袖が有髪の尼となること、以上がすべて効果を挙げたことである。すなわち、彼女等も単なるわき役でなく、ドラマを構成する一人一人として、自分の運命を知り、受け容れる主体的な人間としての場面を観客の前で持ったために、劇全体が「運命劇」として一層全き形で成立することになったのである。

と、かねてから折あるごとに「岡崎」上演を叫んできた私としても、めでたく「本懐」というところだが、さてこうなると更に欲が出て、歌舞伎座でも上演しようというところまで行くかどうか?

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つい『伊賀越』が長講釈になってしまったから、後は簡略に行こう。歌舞伎座は「玉三郎とその仲間たち」といった顔ぶれで、「大歌舞伎」とは称したものの、これは玉三郎が座頭なのか、それとも海老蔵その他の「花形歌舞伎」に玉三郎が上置きで出たのか、と某氏から問われて、ウームと返事に詰まったのは事実である。

まあそれはいいとして、昼の部は大きな器にほんのぽっちり、菜箸でつまんだように料理が盛りつけられているという、肥満だの糖尿病だのを患っている向きにはお薦めのようなボリュームだから、よほど絶妙なシェフの味付けがないと苦情も出かねない。眼目の『幻武蔵』の幕が開幕から50分後に下りてきたとき、「エ? これでお終い?」と思わず隣席の某氏に囁いてしまった。いつ芝居が始まるのか、何が何だかわからないうちに終ってしまった、というのが忌憚のないところ。玉三郎の小刑部明神と獅童の宮本武蔵の難しげな対話は、正直、よく理解できなかった。せめて舞踊仕立てにでもすればもうちょっとは何とかはなったのでは?とだけ言っておこう。

新振付で見せる『二人椀久』も、海老蔵の椀久が抜身をぶら下げたようでどうもしっくりせず、不発に終わった感じ。途中、脱いだ裲襠を、普通は松の枝に掛けるところを、根方に置いたつもりだろうが、そのまま見えなくなってしまうからゴミでも捨てたように見えるのは、一考なくては叶わぬとところだろう。

と、先頭打者愛之助の『義賢最期』がクリーンヒットで出塁したものの(梅枝の小万が曾祖父三代目時蔵の若き日もかくもやと思うよう。もし株だったら絶対、買いである)、後続続かず、せめて夜の部も併せて一本、と行きたいところだが、さて? その『北山桜』も、歌舞伎十八番の三役にプラス2の五役をつとめるという趣向は、景清の四役をひと流れの狂言に仕組んで『壽三升景清』を生み出した着想に通じる面白さはあるものの、なまじ「毛抜」と「鳴神」という確固たるものがあるだけに動きが取れない悩みがある。「毛抜」をいろいろいじくってみたものの、丸本物でもない『毛抜』に「大序」もどきの口上人形をつけるなどは、水と油の思いつきの域を出ないのはくたびれもうけだ。一方「鳴神」の方は玉三郎が絶間姫をつき合ってくれるためイジクルわけに行かず、それが却って救いとなったのは皮肉といおうか。但し、玉三郎の名誉のために言っておくと、この「鳴神」で演じた雲の絶間姫は、さすがと言わせるだけの見事なものであった。玉三郎の真骨頂を久々に見た思いである。敗色濃厚となってから出た快打一番の大ホームランというところ。

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立命館大学の赤間亮教授から予期せぬお座敷がかかって、小人数ながら、学生と一般の方々をこき混ぜた聴衆を相手に『忠臣蔵』の話をしに、暮の一日、京都まで出かけるという思わぬ旅をした。以前に出した『仮名手本忠臣蔵』という著書を、赤間教授のゼミ生たちが読んで、暮から正月にかけて学内で催す「いろは忠臣蔵」というキャンペーンの一環としてのミニ講演に白羽の矢を立ててくれたのだという。実はあの本の基になったのは、当時の『演劇界』にこちらから企画を持ち込んで一年間連載したもので、「鑑賞案内」の欄に表向きそれらしい体裁を取りつつ、私としては、人があまり言わない隙間を狙った「忠臣蔵論」をした、ちょっぴりユニークな「野心作」のつもりであったのだが、書いた欄が欄だったせいか、ちょっと変り型の鑑賞案内というぐらいにしか読んでもらえなかったような気がして、ちと無念にも心外にも思っていたのだったから、ささやか企画ではあっても、私にとっては嬉しい仕事ではあったわけである。

寒風吹きすさぶ、抜けるような碧空の日だったが、時間の合間にせめて等持院を久しぶりに見ることが出来たのもまさに余禄というものだったが、帰宅して翌日のテレビを見ると金閣寺に大雪が降っている。一日違いで大変な目にあう処だった。

せっかくの京都行きなので、お互い、死ぬ前に一度飲みたいねと年賀状に書いたのが五年ほど前、大学時代の同期で、その男のドイツ留学中に訪ねて行って丸ひと月、欧州旅行を共にした友人がいて、帰国後独逸語学者として京大教授になって、元々関東者にも拘らずそのまま彼の地に土着した男と35年ぶりに逢ったり、どうせならと南座を見たり、月並みな表現ながら、ちょいと乙な忙中閑の三日間を持つことが出来たのは幸せであった。

それにしても南座で『七段目』や『鳥辺山心中』を見るのは、いまさらながら何とも言えない感慨がある。表に出ればつい百メートルかそこらの距離に実物があるというこの臨場感は、京都ならではだ。舞台は勘九郎と七之助の『七段目』の平右衛門とおかるの意欲充実ぶりが抜きん出ている感じだった。

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他にもいろいろ、言うべき舞台はあったのだが、いまさら証文の出し遅れ、年賀状も書かなければならないし、まず本年はこれ切りとさせていただくことにしたい。来年もよろしくご愛読ください。

随談第535回 今月のあれこれ

今月というより、このところしばらくと考えると、それにかこつけて(過去付けて)なつかしい名前が引き合いに出されるということがいろいろあって、私のような追憶を喰って生きている、あるいは過去の記憶を飯の種にしている(!)ような者にとっては、オヽと叫び出したくなるようなことが多々あった。

中日の山本昌が史上最多年齢で勝ち投手になったというので往年の浜崎真二が引き合いに出される。テニスの錦織選手の活躍のお蔭で、熊谷一也だの清水善造だの佐藤次郎だのといった名前が引き合いに出される、といった具合である。もっとも、浜崎は確かにこの目でみているが、テニスの3選手は戦前の、まだ古き良き時代といって差支えない頃の人だから、チルデンというアメリカの強豪と対戦した折、相手が滑ったか転んだかしたときに、武士の情けで緩い球を返してやったという「スポーツ美談」を読んで知っていたに過ぎない。この3人のうちの誰かの手記が6年生の国語の教科書に載っていたが、先生がこういうことには疎い人で、これ、誰のことかしらね、という調子だった。佐藤は帰国途中の船から身を投げて死んだが、熊谷も清水も戦後まで健在だったのはリアルタイムで覚えている。

浜崎はそれに比べれば、体躯風貌までよく覚えている。ひと際の小兵で、おそらく150センチ代だったろう。もっとも、投手としては、まあ時には登板したという程度で、記憶としては阪急ブレーブズの監督としての方がはるかに鮮明である。同じように40過ぎまで監督兼任の現役で、阪神のエースだった若林の方が、投手としてはるかに忘れがたい。それにしても、こちらが子供だったせいだけでなく、二人とも、山本よりはるかに年取って見えた。浜崎など老人のように思えたから、今度の山本がその浜崎の年齢を越えての記録達成というのが何となく腑に落ちない感じだ。

怪物の新入幕というので引き合いに出された若秩父のことはこの前書いたが、旭天鵬がこれも史上最多年齢で白星を挙げたというので、まず名寄岩が出てきて、これはもうよく覚えているが、次いで藤ノ里と能代潟という名前が出てきたのには、さすがに恐れ入った。これも最前のテニスの3選手と同じく、こちらが生まれる前に活躍した力士だから、名のみ知っていたに過ぎない。しかし能代潟は大関まで行った名力士伝中の人として、その名はごく子供の頃から聞いてはいた。藤ノ里は、藤里まゆみというSKD出身の女優の名前と重ねてなんとなく優形の相撲取りかと思っていたら、後に写真を見るといかつい禿頭力士だったのを知った。相撲界の前進座みたいな存在だった天龍一派に参加し、解散後復帰して双葉山時代まで取った力士という。

他愛のない話が続くようだが、実はこうした、他愛があろうがあるまいが、さまざまな連想の連なりが記憶を支えているのであって、よく、日記やメモを綿密につけているのだろうと言われるが、むしろ、そういうものをつけないからこそ、些細なことをいつまでも覚えていられるのだ。要は、なんらかの興味の糸でつながっているから、何か一つ、きっかけで表に浮かび上がれば、それからそれと蘇ってくるのである。

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NHKの朝ドラの「マッサン」とうのがなかなか面白いが、あの中でヒロインの女優がスコットランドの民謡を口ずさむのがなかなかよく利いている。夕空晴れて秋風吹き・・・という歌詞で知られた「故郷の空」という歌は、替え歌として、誰かさんと誰かさんが麦畑・・・というのが、なんとなく戯れ唄めいた感じで、つまり学校では教わらない民間伝承の歌詞として、子供の頃から聞いていたが、実はこちらの方がロバート・バーンズの原曲の詩に基いている。つまりこちらが本家で、家元のような顔をしている「夕空晴れて」の方は文部省制定の日本製なのだが(それにしても「故郷を離るる歌」とか何とか、あのころのあの手の歌というと故郷離脱者の思いを歌った歌が実に多いのは面白い)、ヘルシンキのオリンピックというのは日本が戦後初めて参加した大会で、ガーガーガーガー、雑音の彼方から聞こえて来るラジオの中継放送通じて小学生だった私が最初に知ったオリンピックとして、後のどの大会よりも懐かしいが(東京大会などメではない)、ダ・シルバというブラジルの三段跳びの大選手がいて、日本びいきで、俺は日本の歌を知っているといって「夕空晴れて」を歌ったのが、ガーガーピーピーいうラジオで聞えてきたのが、いま思い出してもなんとも言えない気持ちになる。人間の存在というのは、つまるところ、こうした(他人にとっては取るに足らない)記憶が支えているのではあるまいか。

ところで「マッサン」だが、ヒロインの外国女性を見つけてきたプロデューサーが殊勲の第一、中島みゆきの主題歌が殊勲の第二であろう。もっともこれも、彼女を起用したプロデューサーの功の内か。独特のクセの強い歌いっぷりも、あれだけ素っ頓狂も度が外れるといっそ悪くいう気にならないのが一得、一種豪快の風が歌の内容に適っている。名曲と呼んで然るべきであろう。癖が強いと言っても、発音は明瞭、一度聞いただけで歌詞がよくわかる。メッセージとしての機能と意味をちゃんと心得ているのがプロフェッショナルの仕事らしくて気持ちがいい。(前にも書いたが「アンと花」はついに最後まで歌詞が聞き取れないまま終わった。ちゃんと聞えさえすれば結構いい歌であったろうに、独りでよがっているかのようなあの歌唱は、所詮アマチュア芸であったというべきだろう。)

いまのところ、演出上気になることもさほどなし、そういう話はもうちょっと見てからまた書こう。

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と、NHKを大分ほめたが、今度はイチャモンをつける。夜中に放送する大相撲の「幕の内全取組」の放送時刻が、今度の九州場所は全日、深夜午前3時40分だった。前にも書いたが、こういう時間設定をする担当者は、相撲の放送など見る奴は真夜中に寝付けなくて悩んでいる高齢の爺イに決まっているという「思想」の持主に違いない。若い担当者から見ればかく言う私も爺イに違いなかろうが、これでも朝は(勤め人ほどではないにせよ)ちゃんと起床し、外出・在宅は日によって違うが、とにかく日中から仕事をしている人間として、放送が終われば午前4時を回っているというのでは翌日に差支えざるを得ず、非常に困窮する。(私のように芝居を見るのが仕事の者は、寝不足だからと言って開演中に居眠りするわけには行かない。)

前にも書いたが、基本的にこの手の番組というのは、日中の(相撲の場合は夕方の)放送時間には見られない者へのサービスというのが第一義にある筈である。日によってまちまちだった放送時間を一定にしたのは改善と言っていいが、いかに録画が自在になった時代とはいえ、こういう放送はその日の内に見なければ意味と興趣の大半を失う。その点、一種のニュースとしての性格を持っているのだ。録画して後日にご覧になればよろしいではござんせんか、ということにはならない。(現に、いつぞやの不祥事で中継放送をしなかった折には、この番組がその日の取組の結果を伝える「報道」としての役割を担ったではないか。)

今場所は止むを得ず、在宅して中継を見ることの出来た日は夜中に「全取組」でもう一度見る愉しみは諦め、外出して中継を見られなかった日だけ夜中に見ることにしたが、14日目はその夜、長野の地震があったため遂に見ることが出来なかった。地震の報道のため放送時間が不規則になるだろうからと、念の為午前2時ごろからテレビをつけていたのだがが、地震の報道は既に終り、古いドラマの再放送などをやっている。本来の放送時刻である3時40分になっても別番組が続き、4時になったら放送終了になってしまった。その間、何の断りもないままである。たぶん、地震の報道のために時間がずれ込んだまま、機械的に番組を順送りして、終了時刻になったから終わった、というのであろう。なんという無頓着!

機械的と言えば、10月に時ならぬ大きな台風が襲来した時も、大阪湾の岸和田付近に上陸しました、と1時間も経って台風は既に名古屋辺りまで進んでいるというのに同じ原稿を繰り返し読むだけだった。無頓着というより無神経に近い。

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高倉健と菅原文太が相次いで逝って賛辞が溢れている中に私などの出る幕はまったくないが、いわゆる70年代にいわゆるやくざ物の路線で売り出したという共通項もさることながら、二人とも、そうなる前にかなり長い期間、半煮えのような、スターになり切れない時期があって、そういう時期の彼等を見ているということぐらいが、せめても私が彼らについて語ることが出来る残された余白だろう。片や東映の現代劇、片や新東宝と、昭和30年代初頭の日本映画界で一番冴えなかった場所で出発したというのが、彼等を語る上で忘れてはならない共通項だろう。といっても、菅原のことはあまり多くは知らない。当時の東映大泉で作った二本立て用の、題名さえも覚えていない見るからにチャチな現代劇に、学生服姿でそれが癖で口元を少し歪めるように微笑とも苦笑ともつかぬ笑みを浮かべ、それをせめてもの愛嬌としていた、役者としてはまったく未熟だった時代の高倉健というのは、10代だった私のなかで、ひとつの場所を確かに占めている。

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二人の死の間にはさまるように、呉清源が死んだ。百歳と聞いて、エ、そんなものだったのか、と軽い驚きを覚える。双葉山と呉清源、終戦直後に二人の崇高な天才が関わった「あの事件」は、思えばまだ未就学児だった私が初めて接し、いまも記憶の片隅に忘れずにいる、戦争は別として社会というものへ初めて私の目を向けさせた「事件」だったことになる。二人とも、ただの相撲取り、ただの碁打ちではなく、ある種の求道者であったことは間違いない。折から白鵬が優勝して大きな記録を達成し、次には双葉山の境地を目指すかのごときことを語ったという。

随談第534回 今月の舞台から

>丸ひと月、更新なしになってしまった。書くべきことがなかったのではなく、割くべき時間が甚だ欠乏していたためである。その間に、プロ野球はクライマックス・シリーズも日本シリーズも終わって、ストーブ:リーグ(などという言葉が、冷暖房完備が当り前になって久しい今でも通用するのかどうか)が始まってしまった。今更出そびれた幽霊でもあるまいから、いずれ何かの折に何かの話題に引っ掛けて出すことにして、先ずは今月各劇場の評判記としよう。< 歌舞伎座は、何と言っても染五郎の弁慶如何に、ということだろう。ひと言でいうなら、立派な弁慶だった。立派、というのは、見たさまの貫目とか、貫録とかいう意味でのそれではない。全身全霊、能得る限りのものを出し尽くしての成果であったという意味で立派だった。何としても成し遂げようという意志と気力、正攻法で真っ向から取り組んだ芸の姿の正しさ、ひいてはそれが、義経を守り抜こうとする弁慶の心に通じることになったところに、この弁慶の生命がある。性根がどうのということより先に、それがあった。そこが立派だったという表現につながる。この順序が逆ではないところが肝要である。だからこそ、歌舞伎の芸として、丈の高い、姿の正しい弁慶になったのだ。富樫の幸四郎と義経の吉右衛門の間に立って、貧弱弁慶とは思わせなかったのだ。 仁から言うなら、染五郎は『勧進帳』なら義経役者である、弁慶が出来なくたって役者として恥ではない、いくら高麗屋の家に生まれたからと言って無理をすることはないのだ、と思い、いろいろなところで言いもした。今だって、そう思っている。これで成功したからと言って、染五郎は、今後も、ああ、ぼくにも弁慶が出来るんだ、というように考えて、あまりしょっちゅう、弁慶をしない方がいいと思う。今後、平素の公演で、海老蔵だ松緑だ菊之助だといった面々と『勧進帳』をするときは義経かせいぜい富樫までにしておいて、弁慶は、何か特別の時に、いまこそ伝家の宝刀を抜くとき、という時だけにした方がいいと思う。今度のこの弁慶を、これだけの弁慶を演じ切ったというこの感動を大切にするためにもだ。それでこそ、高麗屋の弁慶になる。 今年、歌舞伎座で『勧進帳』はこれで三回出たことになる。それぞれ、理由があってしたことだから、「またかの関」などとは言うまい。むしろ、そうまでして敢えて出した特別の『勧進帳』、特別の弁慶なのだと、考えた方がいいと思う。 ところでそれはそれとして、吉右衛門の義経にはほとほと感服した。これこそ、お見それ申上げました、というものである。何と、歌右衛門に教わったのだそうな。そう言われれば、なるほど、と思う義経である。セリフの音使いと、ほんのわずかな身のこなし、とくに肩の線ひとつで、見事に義経になっている。30数年ぶりと聞いて思い出した。昭和52年9月、亡き團十郎、亡き辰之助と三人で三役、日替わりで出したことがあったが、あれ以来ということか。(それ見て御覧、よく教え、よく学んだ芸は、30年経っても、いや30年経ったからこそ、こんなに立派に出来るのだ。30前の吉右衛門の義経は、おそらく今度ほど見事なものではなかった筈だ。) 今月の歌舞伎座でもうひとつ心に残ったのは菊五郎の権太である。特にいつもと、どこがどう、違うわけではない。敢えて言うなら、気力充実の具合である。菊五郎は今年、既に書いたが、3月の菊吉での『身替座禅』が良かった。『勧進帳』がよかった。5月團菊祭で海老蔵の長兵衛以下、回りがすっかり若くなった配役での水野に、何とも言えぬ感銘を覚えた。それから、半年ご無沙汰してのこの権太である。こういう言い方をしてもし失礼だったら許してもらいたいが、團十郎を失ったことが、菊五郎の心境に何か大きなものを及ぼしているような気が、私はしてならない。團十郎の死後まもなく、菊五郎としては珍しくテレビに登場して、ごく寡言に、故人への思いを語る姿が印象的だった。語ることの少なさが、却って思いの深さ、語るべきことの多さを語っているかに思われた。尤もそれと、実際の舞台を関連づけて考えるのは、私の独善に過ぎないかも知れない。しかし、よし独善にせよ、このところの菊五郎の舞台に、深く感じさせられるものがあるのは、如何ともしがたいことである。 もう少しさりげないことだが、幸四郎の『熊谷陣屋』で、魁春の相模にも、心打たれるものがあった。この人の実力をもっと認めるべき、と声高に叫ぶよりも、そっと、大切にして見守りたいと思わせるような良さである。『井伊大老』での芝雀のお静の方にも似たことが言えるが、しかしこちらは、いまこそ雀右衛門襲名を、と叫ぶべきだろう。 井伊大老』といえば、大老と若き日に共に学んだ仲でありながら、いまはテロリストとなって直弼を襲おうとして捕えられる水無瀬六臣という役がある。重要な役のひとつだが、今度は錦之助がやっていて、懸命の努力をしているが当然ながら無理があって充分とはいかない。もちろん錦之助の責任ではない。かつて白鸚が初演したときは中村芝鶴が演じて評判を取ったという役である。いわばかつてのクラスメイトで、はるかに秀才だった男が過激思想の運動家となって零落し、むしろ鈍才だった男がいまは宰相となっているといった、人生の皮肉が歴史の皮肉と重なり合う所に、この場面、この役の急所がある。そもそも年配から言っても、直弼と同年輩でなければ、理屈にも合わないし、劇としても効果が挙がらない。それがある時から妙な配役になった。まだ白鸚健在だった頃だが、いまの梅玉がまだ福助で当然ながらもっと若輩だった当時にこの役をさせられ(?)て、まるで総理大臣と過激派の大学生みたいだったが(総理の方も、イマドキの総理とはわけが違う)、それからどうもおかしなことになったように思う。ひところ東蔵が何度かしていたが、いかに巧者の東蔵といえども役違いは如何ともし難かった。誰が、とは言わないが、間違い続きの役選びの連鎖は何とかすべきだ。 どうかな、と案じたが案外によかったのが『鈴ケ森』。菊之助の権八ははまり役だからあのぐらいよくて当り前だが、松緑の長兵衛が、年配からくる貫目不足は余儀ないこととして、マッチョな男っぽさ、兄貴ぶりが役に適っているのが取柄である。「兄貴」が「叔父貴」ぐらいになればしめたものだが、いずれそうなれそうだということを示したのが今回ということだろう。 考えてみれば、『源氏物語』の頭中将が、すでにあの頃かあらよかったわけだが、あの役は、祖父二世松緑は十一代目團十郎の光源氏に、父辰之助は十二代目團十郎に、それぞれつとめた三代相伝の役なわけで、この男っぽさ、マッチョな兄貴ぶりというのも「家の芸」だということになる。冗談ではない、男伊達に通じるこの感覚こそ、歌舞伎の立役の根元にあるものなのだ。           * 明治座に場を移しての猿之助連続奮闘公演だが、『四天王楓江戸粧』もさることながら、『女團七』が面白かった。本興行としては三世時蔵以来というが、じつは田圃の太夫源之助以来の「伝統」としては、半世紀前の時蔵ですでに終わっているのであって、今度猿之助のしたことは、連綿たる伝統の継続の上に立とうとするのではなく(亡き九代目宗十郎がさまざま試みた悪婆物の数々はそれであったと考えてよいであろう)、一旦、伝統の連続性が切れたことを自覚したうえで、異星人のような新奇な目で作品を見、この手の狂言にまとわりついている、やれ小芝居種だ何だと言った、所詮はマイナー視しようとする通念から自由な感覚からこの作を読み直している。いうなら、猿翁が諸々の復活物を作ったのと同じスタンスで『女團七』を甦らせたのだ。それには、ここに竹三郎という存在がある。竹三郎の会に自ら望んで客演し、ノウハウをつぶさに学んだ。それを、奮闘公演の一演目として、「三代猿之助四十八選」の作と対等に並べて見せた、というわけだ。面白かった。團七縞の衣裳を着て、小体にきりきりしゃんと、小股の切れ上がった立ち姿が実にいい。あの立ち姿に、この役、この狂言の生命が凝縮している。 『四天王』その他については、来月発売の『演劇界』新年号を見ていただきたいと思うが、ひとつだけ、発売前にリークするのを許していただくなら、『四天王』に七織姫の役で客演している尾上右近が実に素晴らしい。大詰の大立回りで、着込みを着た男装での獅子奮迅ぶりから立ちのぼってくるオーラには目を瞠る。右近は、子供の頃は踊りに天才的な卓抜さを見せたり、中供になってからは『高野聖』の阿呆の役で木曽節を唄って唖然とさせたり、凡ならぬところはいろいろ見せては来たが、いよいよ大人の役者になってからはこれという役、これという機会に恵まれないままでいた。ともあれ今すぐにも、『宮島のだんまり』と『八犬伝』の犬坂毛野を右近にさせてみたい。(それにしても、七織姫に右近の出演を求めたのは猿之助自身なのだろうか。そうだとすれば、プロデューサーとしての猿之助の眼力と見識というものは、端倪すべからざるものと言わねばなるまい。)           * 国立劇場の『先代萩』については、新聞に書いたことで要点はほぼ尽きている。「対決」が面白かったのが、予期せぬ拾い物であった。梅玉の勝元がいいのと(あの梅玉独特の物言いも、いまや「梅玉調」として認められてしかるべきではなかろうか)、橋之助の仁木が、その明快な役者ぶりの良さが生きるのが、主たる理由であろう。           * もう一つ、先月から引き続いての十七世・十八世、二代の勘三郎の追善が新橋演舞場で行なわれている。思えば、八重子・久里子両人によって、新派は歌舞伎といよいよ固く結ばれていることが、この追善興行によって改めて思われる。所も懐かしの新橋演舞場である。現在の建物が出来た頃もなお、新派の毎月の公演はここで行われていたのだ。(だからと言って、今更もう、無理に演舞場にこだわらない方がいい。それにしても、三越劇場でもときに空席の気になる当今の新派が、今度は見事に新橋演舞場を一杯にしているのを、どう考えればいいのだろう?) 期待と危惧の入り混じった『京舞』だったが、さすがに当代八重子も役者である。見事なものだった。思えば、十七世が念願を果たそうとして病いに倒れ、代りに初役で見事に演じたという因縁の『京舞』である。これぞ追善の名にふさわしい。久里子の片山愛子は、おそらく当の四世八千代さん以上にその人らしいのではあるまいか。波乃久里子一代の当り役といって差支えない。勘九郎の博通も、円山公園の場の三高生の制服制帽姿がサマになっていたのは偉い。(これは来花柳武始が七〇歳で見事に三高生になったという先達がある以上、こうでなくては落第なのだ。) それにしても、こういうものをさせると新派の役者たちというのは、改めて大したものだと思わないわけに行かない。松本佐多の伊藤みどりをはじめとする女優達はみごとに祇園の、京都の女になっているし、「手打ち」の場その他何度か出る舞妓たちも、ちゃんと祇園の舞妓になっている。こういうことが可能なのは、新派以外にはあり得ない。祇園の取締役の柳田豊が、モーニング姿での立居振舞だけで、いかにもあの時代、あの世界の人物である。これらはみな、ただそれらしい扮装をし、衣裳を着ただけでは如何ともし難いことである。ここにはまさしく、プロの役者がいる。 本来一本立てでするように書かれた芝居だから、今度のように二本立てだと、少しカットしなければならないのが、やむを得ないことだが惜しい。青柳喜伊子のやっている第一幕の大正八年円山公園の茶店のおばさんが、第三幕の昭和三三年のたつみ橋に出てきたり、さりげない小場面の一々が、捨てがたいのだが。 勘九郎と七之助による『鶴八鶴次郎』もなかなかのものだった。二人とも、とりわけ七之助が、こういう芝居、こういう役をこれだけやれるとは、立派に大人の役者になったのだとつくづく思わせられる。さらさらと書いあるから何でもないようだが、鶴八と鶴次郎の他愛ない喧嘩を、未熟な役者が本当に他愛なくやってしまったら、芝居にも何もなりはしない。まさしくこれは、大人の芝居なのだ。それにしても、北条秀司にせよ川口松太郎にせよ、今度の二作品を見ただけでも、こういう作者がいて、こういう芝居があったのだと、つくづく思わないわけには行かない。          * 新国立の「二人芝居、vol.2」の『ご臨終』が、vol.1の『ブレス・オブ・ライフ』が思わせぶりばかりでつまらなかったので(但し舞台装置はよかった。ああいう書斎のある家に住みたいと思うようだった)、あまり期待しなかったのだが、なかなか悪くない。とくに凡でなく、且つ奇を衒わないノゾエ征爾の演出の、とりわけ音楽の使い方が絶妙であった。あの演出がなかったら、それほどに思わなかったかもしれない。

随談第533回 今月の舞台から

勘三郎追善の歌舞伎座。兼ねる役者二代のこと、ゆかりの演目には事欠かないが、中で『伊勢音頭』がちょっと異色なのにまず目が行った。十七代目ならむしろお鹿、十八代目ならまず喜助、でなければ万野というのが思い浮かぶ。貢はともに一度、しているようだが私はどちらも見ていない。十八代目は東京ではしていない筈。十七代目は、万野などもしていそうでしていない。そういう『伊勢音頭』を祖父・父、ふたりの追善に出そうという勘九郎の自負にホオと思ったのだ。もっとも仁左衛門の弁によると十八代目から勘九郎に教えてくれと頼まれた由、理由はそれで明らかなわけだが、勘九郎の自負と意欲の表われであることに変りはない。そこに興味を覚えた。今月はまずこれ、と目をつけた。

果してなかなかよかった。これでもう少し、和事の味が身について、とろりとした感覚が出てくれば、将来、よき「ぴんとこな」になるだろう。(元は武士、ということはあまり強調しない方がいいと思う。わざわざ「御師」に設定してあるところがこの狂言のミソなのだ。ピントコナの「ピン」に、元は武士という前身が隠し味になっているのだ。)

そもそもこの「ぴんとこな」というのをどう考えればいいのか? 仁左衛門だって、十三代目のような油壺から抜け出たようなトロリ感はずっと薄味なわけで、衣装も十三代目のような上方流の浅葱でなく、東京式の白絣だし感触も東京風に近い。おそらく自分の柄を考えてそうしているのだろう。私の目にある貢では、宗十郎のが一番それらしかったように思っているが、あれは紀伊国屋ならでは不可能だとすれば、東京の江戸前二枚目の中から選ぶなら、十一代目團十郎もだが、「ぴんとこな」というやや軽薄感漂う語感からすると、勘彌の軽みの方がぴったりくるような感じがしている。(それにつけても、十七代目のを見ておきたかった。)それとは別に、延若の上方ムード濃厚な貢も忘れがたく、この辺が私などの目にある前世代のなつかしき貢たち、ということになる。(当代の大物世代でいえば、菊五郎よりむしろ團十郎、というところに、トロリ感の多寡に関わる微妙な感触があるのだろう。)

お紺という役は、同じ愛想づかしをする役でも、八ッ橋とも逢州ともまた違うから、難しい割には儲かるところの少ない、女形の辛抱役みたいな難しい役と思う。若手がやると面白くも何ともないお紺になることが多い。これは梅幸のを一番見たし、他の梅幸の佳作たちと同じく、その時にはそれほどとも思わずに見て、後で考えると梅幸が一番よかったなあということになる、まさしく、拍手は幕が下りてから起る、これもその一典型だろう。七之助はなかなかよくやったと思う。(今月の七之助は、四役どれもヒットの十割打者、猛打賞である。)

玉三郎の万野は楽しんでやっているし巧いものだが、この役も、歌右衛門といい玉三郎といい、それぞれの一代の芸としてはもちろん認めるが、私の目にある、これぞ万野というのは、やはり多賀之丞である。あの夏姿の涼しげな様子といい、ナニッと振り返った貢にぷーっと煙管の煙を吐きかけるイキといい、それよりなにより、やはりこの役は、多賀之丞ぐらいの人がするべき役だろう。歌右衛門だって当然承知しているから、誰かの襲名とか何かの特別の折に、いわばご馳走としてしかしなかった筈だ。(それにつけても、先頃亡くなった吉之丞の万野を見ておきたかった。)

尋常な見方から行けば追善の目玉は、松王夫婦が仁・玉、源蔵夫婦が勘・七の『寺子屋』ということになる。初めの夫婦二人のひそひそ話を義太夫物の息の詰んだ遣り取りにしようとする努力など、いかにもこの兄弟らしい真面目な取組みようで好感度抜群、やがてよき物となるのは疑いない。玉三郎が千代だが、この手の芝居に取り組むのは随分久しぶりのような気がする。丁寧で心がこもっているのはひとえに故人への思い遣りであろう。仁左衛門は、園生の前を門口に蹲り手をついて迎えるといった、本文を読みつくして細かな配慮の届いた工夫を随所に見せ、もちろんいいのだが、半面、ここまで行くと、義太夫物の厚手さ、手強さが失われるという声も出てこよう。熊谷で小次郎の首を相模に見せる件の気配りなどと同じ伝で、これが「仁左衛門歌舞伎」なのだと認めるべきなのであろう。(私の見た日には、園生の前を呼び招くのに扇をかざしたが、これは後に聞くと、普通に呼子を吹くつもりが懐を探っても笛が見つからなかったので咄嗟の応急措置であった由。しかしこれだって、うっかり呼子など吹いて敵方の誰かに聞き咎められないものでなし、扇で招く方がよいという理屈も成り立たぬではない。あの時松島屋のおじさんが扇を使ったのがとてもよかった、などといって後世、型にならないとも限らない。)

亀蔵の玄蕃は仁よし柄よし、もっと仕出かしてくれていい筈だ。国生が涎くりをするようになったのには、感慨ひとしおという他はない。

『野崎村』のお光というのは、三〇有余年経った今も鮮明に覚えている十八代目若き日の秀作であり出世作のひとつだが、それを七之助がしてこれも結構である。(本来なら十八代目が久作をするところだったのだろう。)老母の件を出すのは六代目菊五郎以来、勘三郎家にとっては遺訓のようなものであろう。その老母を歌女之丞がしている。この人、国立の研修生から遂に幹部に昇格した。歌女之丞一人のことではない。つまり、道を拓いたのだ。腕の確かさは夙に人の知るところ、この人の「九段目」の戸無瀬に唸ったことがある。かれこれ三十有余年も前のことである。

お染を児太郎がするので如何にと思って見たが、これがちょいとしたヒットだった。何より、出ただけでお染になっている。あの衣裳が身についている。この手の役、この種の芝居は、まずそれだけで大したことなのだ。これなら児太郎は大丈夫だ、きっと一人前の女形として立って行けるだろう、ということである。

ところで、今度の『野崎村』の背景がいつものような書割でなく(つまり、遠見の上手下手に折れ目がなく)、円形のホリゾントに沿って描かれているように見えたが何か理由があってのことなのだろうか? 場面、ドラマの内容から見て、それによって何らかの効果が上がる(あるいは上がった)とも思われないのだが。(『俊寛』でだったら、遠見の船が水平線を渡ってくるところで、地球が丸い、ということを実感させる効用があるかも知れないが!?) このことと関わりがあるのかどうか、秀太郎のお常がいきなり家の裏手から出てきたのも、はじめから立ち聞きしていたみたいでちょっと変な気がした。

『鰯売恋曳網』。七之助の蛍火が三塁打。玉三郎との差はオーラがあるかどうかの違いだが、これがじつは百里の懸隔になるやも知れないのが、芝居道のオソロシイところである。もっとも、蛍火は玉三郎生涯の三傑と言ってもいいというのが私の考えだから、七之助たるもの、落胆するには及ばない。

藤・梅の『吉野山』その他の踊り三題は、預かりとしよう。橋之助が『三社祭』の悪玉、『吉野山』の早見藤太、『伊勢音頭』でお鹿と、場合によってはひと興行攫ってしまえそうな味な役を引き受けているのだが・・・。いまはまあ、来月の国立劇場の『先代萩』の仁木に期待することにしよう。

    *

新橋演舞場の猿之助。歌舞伎座に出ない記録を作ろうか、などとうそぶいているとやらいないとやら。冗談かと思っていたら満更そうでもないのかもしれない、と思わせるノリの良さであり、出来栄えである。俺はこれでやっていくのだ、と肚を決めているような肝の座り方である。

誤解のないように断っておくが、猿之助が妙なことを言っているぞ、などと吹聴するつもりで言っているのではない。またその真偽を知っているわけでも、真偽は如何に、ということを問題にしているわけでもない。要するに、猿之助のこの公演にかける意気込みと肚の据え方が並みではなく、それが出来栄えに反映している、と言おうがためのレトリックである。猿之助の舞台ぶりを蔽っているのは、不退転の覚悟、という奴だということである。

いきおい、舞台はアクが強くなる。拒否反応を示す向きがあっても、驚かない。所詮、それは好みの問題であって、翻って言えば猿之助は、万人に愛されることを求めていない、ということである。それよりもひたすら、俺流で押して行こう、ということであろう。来月の明治座に掛けて、四十八選の中から復活通し狂言ばかり三篇、選び出したところに、先代の嚢中から戴ける限りのものを戴こうという気働きが見える。

おのずと猿翁と比較することになるが、当代がまさっている、というか有利な点は女形が利くことで、『金幣猿島郡』はひとえに清姫で猿之助スペシャルぶりを発揮出来るが故に、先代まさりと言える。(亀治郎若き日の傑作『小栗判官』の青墓長者の娘お駒を思い出す。)当然だが逆もまた真なりで、『獨道中五十三次』では江戸兵衛の役者ぶりが先代とは比較にならない。もっとも、こんな比較をしても、いまのいま、大して意味のあることではないかも知れぬ。とにかく、昼夜十時間を超える長時間、退屈することなく堪能したことは事実である。ただ、少々日が経ってから思い出そうとしても、どこを切っても金太郎飴みたいに同じような印象に塗り込められてしまうのは、じつは猿翁もそうだった。が、こういうものはそれでいいのかもしれない。要するに、エンノスケが満載なのだ。(ただひとつ、『獨道中』の野路の玉川での丹波与八郎は、あゝ見えて猿翁にはもっと「詩情」があったぞ、ということだけつけ加えておこう。)

門之助が亀治郎の会以来ずっと付き合っているが、文殊丸のような役に無技巧で嵌まれるのは、今や貴重な存在といえる。猿翁に於ける九代目宗十郎と言ったら褒め過ぎのようだが、猿之助にとっての存在の在り方という限りでなら、宗十郎になぞらえてもおかしくない。亀鶴も亀治郎の会以来のつき合いだが、今後も縁を切らずに協力関係を続けるなら、かつての猿翁における歌六の働きをすることになるであろう。

その歌六が久し振りに澤瀉屋歌舞伎に応援出演しているのは良き光景である。如月尼で、米吉の七綾姫をいたぶるのを見ながら、父子で『時鳥殺し』を見たいと思った。少年老い易し、米吉のいまの初々しさの賞味期限が失われない内に、是非やるといい。如月尼などという役は、猿之助歌舞伎にいたればこそ回ってきた役だろうから、役者人生におけるひとつの記念にもなる。米吉が『猿島郡』では七綾姫、『獨道中』ではお袖と、赤姫と娘という「典型」をつとめて役柄の感覚をきちんと備えているのがいい。先月の皆鶴姫と初菊もそうだった。さっき児太郎について言ったのと同じ理由である。もちろん米吉は児太郎より先へ進んでいて、既に若女形としてひとつの足場を築いていると言ってもいいだろう。

錦之助も、かつての猿之助歌舞伎の同窓会組だが、『獨道中』でむかし二代目鴈治郎や宗十郎がやった作者の南北役にしても、『猿島郡』の押戻しの田原藤太にしても、こういう(これも典型である)役がサマになるだけ役者ぶりが上ったのが目出度いが、一方こういう人材に目をつけてスカウトしてくる猿之助の才覚は、まさしく猿翁そっくりである。来月明治座でやる『女團七』の伝授を乞うた竹三郎(『獨道中』に女小屋頭の役でちょっと出るが、俄然、他の連中とは物が違う)に目をつけたのなども、猿翁が、既に誰にも顧みられなくなっていた雛助に目をつけたのと、一脈、通じている。

開幕に右近以下の往年の21世紀歌舞伎組が同窓会よろしく、皆で『俊寛』を出しているが、右近も渋くなったものだなあ、と感慨ひとしおで拝観(!)した。サシスセソがシャシシュシェショになるような(たとえば『吉野山』の忠信なら、シェメテハウシャヲ、ウム、シャイワイとやるわけだ)師の悪癖まで学びに真似んで「わが物」にしてしまう師匠の影法師ぶりはそのままなりに、しかし右近は右近なりに、決して無駄に年を食ったわけではない、ということがよくわかる。(この春のスーパー歌舞伎Ⅱなど、右近がいなかったらどれだけ味気なくなっていたろう。)

笑也が20年前からちっとも進歩していないかのような千鳥をしていて(それはそれで、今となっては懐かしい)、一方『獨道中』で重ノ井姫などで出てくると、こういう「笑也ぶり」も悪くないよなあ、という気にさせる。不思議な役者と言うべきか。昔の二代目左団次の一門などには(初代猿翁一門にも)、古典だとさっぱりだが新歌舞伎をさせるとなかなかのものだという役者がいたが(そういう存在の生き残りみたいな人が、私などが歌舞伎を知るようになった頃にもまだいたから、多少は知っている)、この人もそういう類の、戦前風に言えば「新人」なのであろう。(いま普通に言う意味の「新人」とは意味が違うからご注意の程。)

国立劇場で高麗屋父子で『双蝶々』を通しで出しているが、長くもなるし、『演劇界』12月号にも書いたので、詳しくはそちらをご覧いただくことにしたい。幸四郎の濡髪を見て改めて思うのは、角力取りとか、『毛剃』の海賊九右衛門とか、異風の偉丈夫の役をさせると、この人のスケール感が有効に発揮されて、「幸四郎ぶり」もなかなかのものだと感心する。染五郎の三役もそれぞれいそいそと芝居をしている感じが、それぞれの役に適っているのがなかなかカワイくて、悪くない。濡髪も与兵衛(十次兵衛)も、「新清水」が出ると「角力場」から「引窓」への整合性が問題になってくる。そこらへの綾の掛け方に、高麗屋版『双蝶々』のミソがある。国立も悪くないよ、といったノリで推奨しょう。

随談第532回 逸ノ城はモンスターか(改訂・増補版)

(お詫び)昨日更新したブログには、貼り付け作業の際の不手際で後半部分が掲載されませんでした。改めて全文を掲載し、ついでに、既に掲載した前半部分にも手を加えました。お読み直し願えれば幸いです。

秋場所がああいう事態になろうとは、予期していた人はおそらくゼロに違いない。白鵬が31回目の優勝を遂げて千代の富士の記録に並ぶという「予定調和」は守られたが、以前なら下位の力士が大勝ちをしても横綱と対戦させるということはなかったから、従来なら逸ノ城が平幕優勝を遂げていたに違いない。それを白鵬と対戦させたのは、番付の序列にこだわらず対戦させるという最近の協会の方針の故でもあるが、逸ノ城が単にスイスイと白星を並べるだけではない、ただならぬ強さを示したからであるのは間違いない。つまりそこがモンスターなわけだが、これまでの常識が通用しなくなってしまうのでは、と一種の恐慌状態にまで陥らせるほどの騒ぎというのは、私の知る限りでは小錦の出現のとき以来だろう。

もっともあの時の小錦は新入幕ではなかったが、千代の富士が当てられたのではなかったかしらん。(病み上がりでもあったので、猪突する小錦の前にあっさり土俵を割った。千代の富士だってそうだったのだから、鶴竜関、がっくりすることはありませんぞ。)とにかくあんなデカい力士というものはそれまでいなかったから、こんなのに出てこられてはこれからの大相撲はどうなるのだろう、などと、誰しもつい考えてしまった・・・という意味で、今度の逸ノ城騒ぎはそれ以来、ということになる。(小錦のときは大関の琴風が必死で頑張ってなんとか土をつけたのだったっけ。高見山がはじめて上位と対戦した時は佐田の山と琴桜の両横綱がやられている。特に猛牛といわれた琴桜が立会いの突進をはね返された時は唖然とした。)

身体のサイズからいえば、逸ノ城は小錦みたいな意味での規格外というわけではない。しかし大陸人の巨漢独特のガカイの大きさ、底知れなさを感じさせるのが、小錦や把瑠都とはひと味もふた味も違う。(ちょっと習近平のデカさに通じるような感じもある。)そもそも出てきた頃の小錦や把瑠都は相撲をあまり知っているようには見えなかったが、逸ノ城は既に相撲をよく知っているらしいところが、不気味さを増幅させるわけだ。一年前の今頃はまだアマチュアで、まだ髷を結っていないというところが更に脅威を倍増するのだが、単なる力任せではなく、幕の内の名だたる力士たちを放り捨てるように投げ飛ばす技は理に適っているから、タイミング良く鮮やかに決まる。既に横綱相撲を取っているかに見える。上手になった腕を相手の首に巻いて投げるのが悪癖と指摘されているが、中日の大相撲放送のゲストに出演したやくみつる氏が、彼に限っては「逸ノ城スペシャル」として認められるようになるのではと言っていたのに、私も半ば同感する。自分より巨漢の相手には無理だが、稀勢の里クラス以下なら、あの形からでも投げ飛ばせるだろう。

七日目、勢が大熱戦の末、逸ノ城を仕留めた一番はまさに今場所の白眉というべき素晴らしさだったが(私は今場所は一日しか国技館に行けなかったが、この一番に出会えたのは幸せであった)、しかしあの負けた一番以後、逸ノ城に対する怪物視は却って強まったような気がするのは、世間の注目が前半戦よりはるかに増したためだろう。それにしても、あの眼の細さといい、本人はまったく屈託のないところ、寛政力士伝中の大童山という子供大関の錦絵みたいだ。大童山は看板大関だが、逸ノ城はひょっとして、谷風梶之助の再来になるかもしれぬ。(谷風も目が細い!)

稀勢の里の一回目の「待った」は明らかに稀勢の里が気遅れしたせいで、神経質な弱気をさらけ出してしまったのは、勝負師として致命的なドジを踏んでしまったことになる。あれを境に、逸ノ城は本当にモンスターと化してしまったのだ。同じ立会いの変化でも、鶴竜に対してのそれと、稀勢の里に対してのそれとでは意味が違っていて、対鶴竜の場合は初めからの作戦だろうが、対稀勢の里の場合は、稀勢の里の方が逸ノ城に変化をさせてしまったのであって、逸ノ城に非難される筋合いはない。初日に、照ノ富士が琴奨菊に変化をして勝った後、前から狙っていましたと答えて驚かせたが、モンゴル力士だからというより、それが現代風合理主義というものと考えた方が当っているだろう。対鶴竜については、逸ノ城もその意味で照ノ富士と同じ現代青年なのだと考えるべきであろう。白鵬が、テレビで、「この頃はお相撲さんというよりアスリートという感じが多くなってきましたからね」と言っていたが、なかなか奥行のある言である。

白鵬は他にもいろいろ、含みのある言葉を残したが、千秋楽の夜の番組で、場所前に逸ノ城に稽古をつけてやったときはこれで八番勝てるだろうかと思った程度だった、まあ、来場所でしょうと語っていたのは、意味深い言葉である。逸ノ城を、このまま本当にモンスターにさせてしまうかどうか、すべては来場所というわけだ。

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モンスター云々はともかくとして、新入幕でとんでもないのが出てきたと驚かせたという意味では、大鵬の出現した時とも共通する。大鵬は11日目まで勝ち続けたところで、既に三役力士だった柏戸に当てられて(当時は上位との対戦はこのぐらいが限度だった。現に翌年、佐田の山が上位との対戦なしで平幕優勝している)初黒星、結局その場所は12勝3敗だった。あとの2敗は、当時関脇の北葉山と、もう一敗はベテランの名人鶴ケ嶺(つまり逆鉾・寺尾兄弟の父である)だったが、もう来場所からは勝てなくなるだろうと、鶴ヶ嶺が勝利の弁の中で語ったのを印象深く覚えている。(今度も、千秋楽の安美錦にこの時の鶴ヶ嶺を重ね合わせたのだったが・・・。)

昭和35年初場所というその場所は、栃錦の最後の優勝の場所で、その頃恒例だった、楽日の翌日、優勝力士と三賞受賞者が出演して座談会をする番組で、司会者から、もし大鵬関と対戦していたらどうでしたかと問われて、イヤー、カタくなったでしょうねと和気藹々の裡に答えたのが、いかにも横綱の風格と思わせた。(栃錦と大鵬はその翌場所対戦し、電車道で栃錦が押し出してしまったのが、両者唯一の対戦となった。)

横綱の風格といえば、白鵬が土俵下での優勝力士インタビューで、もう一回で大鵬の優勝回数と並びますねと司会者に水を向けられて、何も答えず、じっとしている時の風情はなかなか良かった。愚問に対して、無言と微笑で答えたのである。その無言は、多くのことを語っていた。

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怪物といえば、先日亡くなった元関脇の若秩父も怪物と言われた一人だった。昭和33年秋場所に、のちの横綱の柏戸、豊ノ海(どうしてるかなあ)とハイティーン・トリオといわれて同時入幕したが(ハイテーィンというのが当時の流行語で、團子・染五郎・萬之助も梨園のハイティーン・トリオと言われたものだった。誰のことか、判りますね?)、まず話題を浚ったのが、柏戸以上に若秩父だった。塩を鷲づかみにして景気良く撒く力士の第一号だろう。戦前派のベテラン力士出羽錦が、それを揶揄するかのように、二人の対戦のときは殊更に、それも若秩父が盛大に撒いた直後、絶妙のタイミングで、ぽちっと、指先でつまむようにして撒くのが、評判の見ものになっていた。

このハイティーン・トリオを含めて「七人の侍」と呼ばれた若手集団が相次いで入幕し、最早戦後ではなくなり、皇太子さんは民間からお嫁さんを貰うし、タフ・ガイというのを売り物にした素人丸出しのセリフを言うスターが登場したり、世の中変ってきたなあと思わせた時代、若秩父が相撲界ではそうした代表のような役回りだった。しかしこの七人の内、役相撲以上になったのは、柏戸が横綱、北葉山が大関、若秩父ともう一人、若三杉のちに大豪となった力士が関脇になっただけだった。(野球でもそうだが、鳴り物入りで騒がれた新人も、現実に出世できるのはそんなものなのだ。)その七人からひと足遅れて、お一人様で登場したのが大鵬だったことになる。

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ざんばら髪で土俵に上がって旋風を起こした先輩の遠藤は、すっかり逸ノ城の影に隠れてしまったのは気の毒だったが、そろそろこういうことがあってもおかしくない段階にぶつかったのであって、今までがうまうまと来過ぎていたに過ぎないだろう。「天才的」ではあっても「怪物」ではない遠藤としては、これからが本当の勝負ということか。(モンスターだって、小錦や把瑠都のその後を思えば、今後どうなるか知れたものではない。)

小結まで行きながら、膝の怪我で三段目まで陥落し、毎場所各段優勝をして復活してきた栃ノ心が、来場所再入幕するのが見ものである。従来さほど興味を感じなかった力士だが、この初場所だったか、幕下まで復活してきた土俵を見て、面構えといい一段とたくましくなった身体から発するオーラといい、前とは別人の如くなのに、これはと思った。今度も十両優勝してインタビューを聞いたが、なかなかいい風格である。

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この頃、土俵上で気になること。

(その1)白鵬が制限時間一杯で塩を取りに行くとき、ヒョコヒョコッという感じで小走りになるのは、天下の横綱としてミットモナイ。ご当人としては、ヨシッと気合を入れているつもりなのだろうが、見たさまが安っぽくってよろしくない。一考ありたい。(勢がどうやら真似をしている様子なのも気になる。)

(その2)同じく時間一杯の仕切で、碧山が、相手がまだ仕切っている内に、クルリッと、片足を軸にして尻を向けて塩に行くのも、ちょっと失礼ではあるまいか。

(その3)これらはまあ、マナーというより見たさまの問題だが、近頃の一部の行司の土俵上の挙措は、ときに勝敗に関わりかねない。今場所は幸いなかったが、先場所など、土俵上で転んだ例が私の気づいただけで3件もあった。その内ひとつは明らかに勝敗の帰趨に関わるものだった。

(よかったこと)技能賞を5場所も続けて該当者なしを続けた異常事態を終わらせて受賞者を出したこと。受賞した安美錦に限らず、今場所は負け越しだったが嘉風にせよ豪風にせよ、豊ノ島にせよ、技をもって立つ技能賞に値する名手は決して少なくない。こう該当者なしが続くと、うっかりすると後世の人は、この時代、よほど名手不在の時代だったかと勘違いしかねないであろう。

随談第531回 今月のあれこれ

今月の秀山祭で『法界坊』に『絵本太功記』というのは、ちょっぴり異色のお膳が出た感じだ。輝虎配膳ならぬ播磨屋配膳。もっとも私は越路ではないから、せっかくのお膳を蹴飛ばしたりはしないけれど。

『絵本太功記』は吉右衛門としては今度が三演目、それも一度は大阪でだから見ていないし、残るただ一度の所演も平成4年というひと昔以上の昔、吉右衛門の丸本時代物としてはかなり珍しいものだ。他の諸優の光秀に比べ、顔のこしらえが大時代で、顔面から血の気が引いたかのように白い顔なのが特徴的だった。以来、20余年ぶりという上演は、何か理由があるのだろうか?(初代も光秀というと専ら『馬盥』の方で、『太功記』の方はあまり好きでない役の内に数えている。)今度光秀も前回同様、やはり顔面蒼白といった感じで凄愴の気がひと際強い。いいのだが、ムムム、という感じでどこか一点、吉右衛門と反りが合い切らないものがあるような気もして、じつはまだ急所を探り当てられずにいるのがもどかしくてならない。これが法界坊だと、法界坊の愛嬌と吉右衛門の芸の愛嬌は反りが合う上、「三囲土手」になってにわかに法界坊に陰惨・強欲の気が現われて野分姫を殺しにかかる「矛盾」も吉右衛門の芸の振幅の間に納まるのだが。結局光秀は、吉右衛門の時代物としてややユニークな一篇というべきか。

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『太功記』で米吉の初菊がよく見かける鴇色の衣裳でなく赤姫の姿で出る。それだけのことで俄然、舞台の闇が深くなり、単に時代物らしいというだけでなく、みすぼらしい百姓家に大時代な姿をしたさまざまな人物が登場する夢幻性が、この芝居の悲劇性を深める上で効果的である。『鎌倉三代記』も同じ趣向だが、だからこういう芝居は時代に、時代にと芝居をしないと面白くならない。それぞれの人物が皆、役柄のツボにはまっていることがそのためにも肝要で、その意味で今回の配役は悪くないが、一番のヒットは又五郎の正清かも知れない。東蔵の皐月に魁春の操というのも、いまや貴重品だ。

米吉の初菊の初々しさがいかにも初菊だが、同じく赤姫姿で登場する『菊畑』にしても、時代物の衣装に負けていないのは頼もしい。となると、さて染五郎が『太功記』では十次郎、『菊畑』では虎蔵と、それがこの人本来の役どころである筈の時代物の二枚目の役で出てくると、珍しい、とうっかり言いそうになるほど珍しく見えるのを、どう考えればいいのだろう? 十次郎はともかくとしても、虎蔵のあの極彩色の衣裳がしっくり身につかない。(たしかにあれは、なんとも不思議な衣裳であるには違いない。)初役かと思って上演記録を確かめると、経験してはいるようだ。どちらも米吉とカップルの役だが、それがいかにも好一対のカップルに見える。もちろん役の上では好一対の役には違いないが、中堅陣のリーダー格たる染五郎が、今度初めて本格的な役らしい役をつとめている米吉と、ストレートに好一対に見えるというのは、さてどういうものだろうということである。

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染五郎はまた、『菊畑』では虎蔵と智恵内、『御所五郎蔵』では五郎蔵と土右衛門と、松緑と役の上でつっかい合っているが、どちらも、ストレートな共感をドラマの内容に求めようとしても難しい狂言である。と、そんなことは二人とも、頭では理解しているようだが、それと、また実際の舞台とは別物だから、そこがなかなか難しい。

もっとも、今度の『菊畑』は、その意味で皆、よく理解してつとめているから、実に明快である。それが証拠に客席の反応も、ちゃんとあるべきところで手応えがある。若者たちの一行が実習先で快適なドライヴを愉しんでいるような趣きもあって、これはこれで悪くない。歌六の鬼一は、学生たちの実態をよく把握して噛み砕いた明晰な講義をするので、あの先生の授業は分かりやすいと評判のいいプロフェッサーのようでもある。

『御所五郎蔵』という芝居は、本来『浅間嶽』という世界を背景に凝りに凝って作ってあるものだから、いつもの三場だけで見ると、よほどワッとならないと、時代世話の七五調のdecorativeなセリフが延々と続くのに耐えられないことになる。同じ黙阿弥でも「五人男」や「三人吉三」とは似て非なるものなのだ。染五郎にしても松緑にしても、とくに拙いわけではないのだが。もっとも、前代のエライ人達のことを思い出しても、この芝居で面白かったという思い出はあまりないのも事実だ。

土右衛門という役は、白鸚がかつて「言っていることをよく読んでみても、どうも大した奴じゃないね」と言っていたのを妙な共感を以って読んだ覚えがある。亡き先代権十郎のが、あの扮装に敵役の色気が滴るようで素敵だったのと、国立劇場で勘彌と延若で『曽我綉侠御所染』として通しで出したとき(「時鳥殺し」で初日にはほとんど無名だった17歳の玉三郎が、楽日にはスターとなっていたという、スター誕生伝説を作ったあの時である)の延若のが、権十郎の錦絵美とはまた違った男の色気が素敵だったのと、まずこの二人が何と言っても、私の中での別格である。

今度は、その前の松島屋爺孫共演の『連獅子』がお目当てのお客が、それだけ見て帰ってしまうので空席が目立つという噂を聞いたが、真偽は知らないがそうだとすれば、ちょっと気の毒だ。『連獅子』は千之助にとっては、この体験がさまざまな意味で、生涯のよき体験となることだろう。

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演舞場の舟木一夫公演に松也が出て『八百万石に挑む男』という天一坊の芝居に客演している。かつての東映時代劇映画爛熟時代に、市川右太右衛門と中村嘉葎雄(などという難しい字はその頃は使っていなかった。賀津雄と平たく書いていた)でやった橋本忍のシナリオの脚本化というが、ちと物々しいが上手くできている。額田六福の書いた『天一坊と伊賀亮』というのを、十三代目仁左衛門の伊賀亮、勘彌の吉宗と天一坊、八代目三津五郎の越前守という、往年の青年歌舞伎の同窓会みたいな顔合わせでやったのを見たのを思い出した。戦後間もない昭和23年に阪妻の伊賀亮に勘彌が吉宗役で映画出演した、伊藤大輔監督の『素浪人罷り通る』という映画を(もちろんリバイバル上映で)見たことがあるが、どれも共通するのは、天一坊が本当に吉宗の子であると知りつつ天下の安泰のため偽物として密かに追放し、伊賀亮だけを処罰するという筋になっている。この前勘九郎たちがコクーンでやった「天日坊」にしても、みな大元は黙阿弥であるようだ。

それにしても、その数日前に明治座で見た北島三郎の公演にしても(こちらは『国定忠治』だった)、昔ながらの時代劇らしい時代劇というのは、かつて「歌手芝居」と呼ばれて蔑視さえされたこういう人たちによって、わずかに支えられているわけで、かつて錦之助や橋蔵が映画に「走った」(という言い方をされた)昔とは、まさに今昔の感という他はない。(今度も林与一が越前守で出ているが、関西歌舞伎ならぬ大衆時代劇の「最後の人」になるというのも不思議な巡り合わせというべきか。)

それにしても、当の「歌手芝居」という言葉もいまや死語と化した感があるが(北島三郎は今回が最終公演と謳っている)、第二部のヒットパレードというのが私は結構好きで楽しんでいる。北島サブちゃんは、ああいう感じの芸能人が大家になるとよくあることだが、人生とか何とかの道とかを唄うということがどうしても多くなって、「山」だの「川」だのと象徴的な題をつけた道歌のような歌を好んで歌う中に、「はるばる来たぜ、はーこだてー」などというのが始まると、こちらは逆に越し方に思いを馳せたりして、オオ、いいなあ、と思ったりする。舟木は、もともと、そうした勿体ぶりを照れている気配があるのが私の好みに合うのだが、それでも、「銭形平次」だの「高校三年生」などが始まると(当時は愚劣な歌だと思っていたものだが)、なんともいえずいい心持ちになる。これはおそらく、流行歌(とか歌謡曲という言葉も死語になったが)というものの持つ、最大の価値であり意味であり効用であるだろう。それにしても(前にも書いたが)舟木がファンが客席から手渡しする花束やプレゼントを、歌いながら片端から受取ってゆく手際はまさしく名人芸というべきで、それを見るだけでも価値がある。

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新国立の『三文オペラ』を見た。なかなかよかった。新国立近来のヒットと言っていい。何より演出に衒いのないのがいい。本家本元のブレヒト大先生の前で異化作用よろしくハッタリ沢山の衒った演出をしても始まらないと観念(したのかどうか知らないが)、近頃よくある、演出家がしゃしゃり出て事壊しをするたぐいの舞台でなかったのが何よりである。

近年、原作のジョン・ゲイに基いてミュージカルにした『ベガーズ・オペラ』が世に出て、元のこちらの方が面白いではないかと思ったりもしたが、やはりブレヒトはブレヒトで面白いことを再認識できたのは何よりであった。

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シェイクスピアのフォルスタフを文楽にした『不破留寿之太夫』なる新作文楽が9月公演の第3部として初演された。この前の『テンペスト』に比べれば、はるかによく出来ている。願わくは、一部インテリ人士のスノビズムを満足させて終わるようなことにはなってくれるな、というのが感想である。

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しばらく前にローレン・バコールが死に、今度山口淑子が死んだ。もちろん、活躍した時代が重なるという以外、両者に何の関係もないが、受け取るこちらには、こちらの人生と重なるものを通じた思いがあるのも、また当然だろう。それにしても、訃を伝えるテレビから『夜来香』の歌声が聞こえて来るだけで何とも言えない心持ちになるが、これが『蘇州夜曲』でなく『夜来香』であるところがわれわれの年代故であって、もう「李香蘭」ではなくなってからの彼女が「時代の重なり合った」同時代人なのである。

(生まれが1920年、大正9年という。してみると、雀右衛門と同年だったんだ!)

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朝ドラの『花子とアン』がなかなか面白いので、途中からはなるべく心掛けて見はぐらないように心掛けているが、二つ、気になることがある。

(その一)、冒頭に唄う主題歌の歌詞がどうしても聞き取れない。ああでもあろうか、こうでもあろうかと類推しながら耳をすましても、途中の何カ所かで見当がつかなくなるのだ。原因の一つは、歌い手の発音・発声と息継ぎにあるらしいが、もうひとつには、どうも歌詞そのものにも、私などの理解の及ばない言葉遣いや論理(というのも大袈裟だが)の飛躍というか整合性に原因があるらしい。

歌詞の意味と息継ぎの関係というのは昔からよく問題になって、『君が代』でも、「さざれ石の巌となりて」という処で、あの節だとどうしたって「さざれー・いしのー・いわおとなーりてー」と唄いたくなる。これは作曲と歌詞の整合性に難があるからで、ひと頃、大相撲の千秋楽などで自衛隊の楽隊が国歌斉唱の伴奏の際、「いーしーのー」というところでドンドンドンと三つ、太鼓を叩いていたものだったっけ。でもあれは「さざれ石」が「巌」となるのでなければ、意味をなさないわけだ。

と、『君が代』まで引き合いに出したが、「花子のアン」の歌詞、最終回までには聞き取れるようになって、あゝ、そういうことだったのか、と得心できるようになりたいものだと思っている。

(その2)全体としては時代の感覚もかなりよく出していると思うが、よくあることだが、電話が出てくる場面になるとどうも引っ掛かることが多くなる。明治の末か大正の初めごろ、東京から博多まで直通電話が通じたのだろうか、とか、戦前の一般家庭で、卓上の電話機というのは、ごくごく一部にしか普及していなかったのではあるまいか、とか。私が実際に覚えているのはもちろん戦後だが、一般家庭はもちろん、そこらの事務所や学校などでも、壁掛式が普通だった。(小津安二郎の『東京物語』で原節子が勤め先の事務所から電話をする場面を思い出してみれば、誰しも納得がいく筈だ。)卓上の方が多くなったのは、多分、昭和30年代以降だろう。

それよりなにより、そもそも、大概の家で電話を持つようになったのは40年代以降で、それまでは、同級生で電話のある家など、一クラスにせいぜい3,4人もいればましな学校だった。近所に電話のある家があると貸してもらう(つまり、使わせてもらう)だけでなく、知人友人にもその家の番号を教えておいて、掛かってくると「○○さん、電話ですよー」と呼んでもらう。名簿や名刺の電話の欄に(呼)として、呼出しをしてくれる他人の番号を書いて当り前の顔をしていたのだから、いま考えると不思議なようなものだ。(『呼出電話』という新作落語があって先代の三遊亭円歌の十八番だった。)

30年代、いや40年代になってもしばらくは、23区内から市外に(たとえば杉並区からお隣の吉祥寺市に)電話をする場合、赤電話と称する電話機を使うのに、先ず店の人に言って鍵を開けてもらい、話をすませて一旦、受話器を置いてしばし待っていると、チリリンと電話が鳴って、電話局からかかってくる。これに応待するのは赤電話を設置している店の人で、その人に電話局の係が「ただいまの通話料金はこれこれ」ということを(多分)通知すると、今度は店の人が利用者であるわれわれに「今のは幾らいくらです」と教えてくれるので、それから店の人に料金を払う、と、これだけの手間ひまがかかったのである。公衆電話から長電話をする場合には10円玉をジャラジャラ用意しておくとか、いまからみれば嘘のようなことが、ついこの間まで普通だったのだ。山梨の花の実家に電話が引けたのは、もしかすると、村岡花子さんの生前ではなかったかもしれない。

脚本を書く人も、演出をする人も、スマホ世代に育った人は気をつけないとね。

随談第530回 趣向の華ファイナル公演

市川染五郎、尾上菊之丞、藤間勘十郎の三人で始めた趣向の華のことを和田尚久さんから教えてもらって見るようになったのは何回目からだったろうか。どこかの名門私立一貫校の文化祭か何かのような雰囲気でもあり、「花形」未満の「莟形」御曹司諸君の勉強会のようでもあり、とりとめもなさそうでいながら、なかなかのアイデアも随所にピカリと光ったりして気を引かれる。日本橋劇場という場もふさわしい。(それにしても区立の公会堂のくせに(!)こんな気の利いたものを作ったというのは、バブル経済の奇跡の遺産というものであろう。)

「袴歌舞伎」と称して「素踊り」ならぬ「素芝居」、つまり衣裳も化粧もなしで演技をする。台本はというと、既成の作品ではなく、いろいろな作から場や趣向やモチーフをピンポイントに拾い集め、構成した一種の新作物。作品としての良しあしを問うのでなく、歌舞伎の典型を散りばめた各場面各場面を演じることで、「莟形」たちが歌舞伎演技の基本的なことを知り、覚え、身につけるようになっている。なーるほど、と見ていて頷いたり、ニヤリとしたりするところがいろいろ出てくる。近頃の大歌舞伎ではまずやらないような、しかし歌舞伎のエッセンスを体得するにはやっぱり必要だと思われるような場面だの、それに伴う演技技術だの、演じる「莟形」たちにとっての勉強だけでなく、こういう筋立てをこしらえる方もそれなりの勉強が必要だろうと思わせられたり、(何だか褒めてばかりいるようだが)、とにかく見ていてなかなか面白い。東蔵、魁春、友右衛門、芝雀辺りがPTA,亀三郎、亀寿あたりがOB,梅枝、壱太郎、歌昇あたりが兄貴分の上級生、新悟、米吉、種之助あたりが在校生中の花形といったところか。

七年目の今年はファイナルというので三日間、昼夜併せて五回公演の内、同一メニューは一回だけだから、スタッフも出演者も相当忙しい。何よりいいのは出演者一同、みな真剣なことで、先に文化祭の様と言ったのは母親連、更にはお祖母様連がロビーで切符のモギリや何やら、忙しく裏方をつとめているのが、華やぎを添えているからである。

今回私が見たのは二日目の昼夜で、昼が今藤政太郎作曲の「六斎念仏」の演奏、(勘十郎の三味線で染五郎、菊之丞、新悟、壱太郎らが囃子方をつとめる)に、苫舟(というのは誰やらの偽名である)作の袴歌舞伎『東海道仇討絵巻』三幕五十三場というもので、芝雀演じる岡崎の化け猫だの、梅枝演じる女助六の雁金お七だの、種之助と梅丸の又平・お徳夫婦だの、岡崎の猫騒動やら吃又やらの吹寄せで、これに取り組んでいるうちに自ずと、歌舞伎の雑学的エッセンスが身につく(であろう)カリキュラムになっている。なるほど、趣向の華に違いない。

PTA組から特別出演といった格の、化け猫をつとめた芝雀は、つい三日前に雀右衛門の追善舞踊会を国立劇場で開催、昼夜二回、初役で『鏡獅子』を踊ったばかりである。私が見たのは昼の部だったから文字通りの初物だったわけだが、前ジテの弥生と後ジテの獅子の落差のない、バランスのよく取れた踊りで、これは雀右衛門のもそうだった。高齢になってからの活躍が強烈な印象なので、つい忘れられがちだが、雀右衛門は『鏡獅子』を何度も踊っている。歌舞伎座で芝翫と延若と三人一日替わりで踊った時の劇評を書いたのが私のいわば劇評家デビューだが、あの時はもう五十を過ぎていた筈だ。(妙な言い方だが、雀右衛門もやっぱり男なのだなあと、その獅子の狂いを見ながら思ったのを思い出す。)追善舞踊会のことをもう一つ書くと、友右衛門が『鐘の岬』を踊ったが、これもなかなかのものだった。自ら望んでのこの曲だったそうだが、よほど期するところがあったのだろう。袴歌舞伎にも毎回出演していて、(この顔ぶれの中でなら当然には違いないが)大概は大敵のような役どころを受け持って、なかなか立派に見える。大歌舞伎でもひと花、咲かせてくれることを期待したい。

さてしかし、今回とりわけ感心したのは夜の部で、これは今度はじめての試みだと思うが、真山青果の『仮名屋小梅』からそのクライマックスのところを梅枝の一重、壱太郎の小梅、歌昇の銀之助、小米の蝶次等々といった配役で見せる「小梅と一重」と、亀三郎の辰の市と徳の市、亀寿の孝次郎、壱太郎の菊次等々という配役での宇野信夫の『怪談蚊喰鳥』とで、これはどちらも、袴歌舞伎でなく衣裳も化粧もして、大道具こそ簡略版なれ、本格で演じたのが、どちらもなかなかの出来栄えだったことである。

『蚊喰鳥』の方は亀三郎と亀寿だからある程度、予測も期待も出来たことだが、「小梅と一重」の方はそもそも物が物である。本家本物の新派でも、もしやるとすれば、八重子と久里子がよほど頑張って、それでも銀之助役には今月の三越劇場のように歌舞伎から誰か助っ人を仰ぐより仕方がないだろう。歌舞伎としたってあんな大芝居、いまどきあるものではない。それをこの顔ぶれで、天晴れやってのけたのだから大したものである。

何より感心したのは、ちゃんと大人の芸、大人の芝居になっていたことだ。出演者の誰ひとり、お手本にする現実の舞台を見たことがない筈だ。PTAとして見に来ていた歌六の話だと、久里子たちの映像を見て勉強したのらしいが、それにしても、単なる精巧なコピーという域を超えている。とりわけ梅枝の一重が、ちょっと玉三郎ではあるとしても、あの場を仕切る姐さん株として舞台の上に呼吸している。昼の雁金お七でも、一頭地を抜いて芸が大人だった。今月、一番の見ものであったかもしれない。

三日目は、これは袴歌舞伎で義士外伝の「赤垣源蔵特利の別れ」をするというのにも気を引かれたが、これは見はぐった。

随談第530回 今月の舞台から

今月は歌舞伎座と三越の新派からとしよう。

歌舞伎座の納涼歌舞伎は第三部の売行きが圧倒的だそうだが、それはまあ、プログラムを見れば当然予測されたところだろう。お目当ての『乳房榎』は歌舞伎座&#26478;落し直前の昨年三月に赤坂ACTシアターで現メンバーで初挑戦し、今度はニューヨークから凱旋公演というのだから、まったく世の中変わったものという他ないが(まずサンフランシスコに「上陸」し、各地を公演して回っていよいよニューヨークに乗り込む、などという昔懐かしいような旅公演ではなく、ピンポイントでニューヨークへ降り立って、サッとやってサッと帰ってくるというこの身軽さ!)、しかし思えばこれも、亡き勘三郎がそれだけの地歩を築いてあったればこそだろうから、これも誰(た)が蔭、親父さま、と言うまでもあるまいが勘九郎・七之助はじめ一同、親の恩に感謝しなくては。

私としては、このメンバーでの歌舞伎座上演が実現できたことを喜びたい。番付を見ると、「訪米歌舞伎凱旋記念」の他に「三世実川延若より伝授されたる十八世中村勘三郎から習い覚えし」という、足引きの山鳥の尾のしだり尾の如き、柿本人麻呂も真っ青という長々しい詞書きがついているが、延若から伝授を受けたということをこういう形で明記・明言したことを、私は嬉しく思う。このフェアな姿勢を今後もくれぐれも忘れないでもらいたい。

今更、いちいち評するにも及ぶまいが、勘九郎は、ことに正助が、ときにハッと、というか、ぎょっと、というか、するほど勘三郎をよく写していて、時々、勘三郎そのものを見ているような錯覚に陥る。声柄とか肉親だからとかいうレベルを超えて、早変わりで三次なり重信なりから変って出る、その微妙な間が、そっくりそのままと言っていい。これは偉とすべきことであろうし、少なくとも今は文句なしだが、しかし一方、こんなに似てしまっていいのだろうか、などと余計な老婆心まで駆り立てられる。

七之助のお関、獅童の浪江、どちらも当然ながらACTシアターの時より手に入っているが、半面、七之助には初々しさがやや薄れ、獅童には自分流が色濃くなったような気がする、というのはままありがちなことで、仕方がないところなのかもしれない。獅童はこういう色悪の姿恰好はなかなか悪くないが、お関を口説くところなどあまりに直截過ぎないか、と、これは前回も「演劇界」にも書いたことだが、もしかすると敢えてそうしているのかも知れない。よく言えばハードボイルド、有体に言えば、曲がない。

大詰の仇討の場を蹴(く)ったのは時間の都合だろうが、代りに勘九郎が四役目として円朝で出て高座の口演で締め括るのは『大西版・牡丹灯篭』などでもよくやった手でそれ自体は結構だが、「円朝」であることにこだわってか、「伊藤侯」だの「汽車」で大陸横断しただのと言うのは、却って時代錯誤を招くだけでなく、今回のこの上演の時代、いや時間設定の土台を揺るがせる大ミスである。再三幕間に登場するつなぎの説明役がスマホを操っているように、「現代」いや「現在いまこの時」でよろしい。いや、そうでなければいけないのだ。だからといって「円朝」でなく「喬太郎」にしなくては?などと考える必要はないのであって、勘三郎が野田秀樹と組んで「野田版」の『研辰』だの『鼠小僧』だのを作ったりしたことの意味も、煎じ詰めれば同じところへ行きつく筈だ。いまこのときこその歌舞伎、である。(ところでその幕間のつなぎ役だが、ニューヨーク仕込みだそうだが、変てこな英語を交えたりするのはご愛嬌としても、とにかくもうちょっと粋とかスマートとは言わずとも、背中がむずがゆくならないレベルでありたい。あれではお江戸の芝居ではない。)

ところで『乳房榎』に、三津五郎以下今月の出演者全員揃っての『勢獅子』と来れば、人気の上ばかりか、出し物の上からも第三部が一番「納涼」らしいのは確かだ。巳之助が勘九郎と二人で仕抜きの獅子舞をしているのを見ながら、ようやくここまで来たなあと、しばし感慨に耽った。第一部で『龍虎』を曾祖父八代目三津五郎以来、大和屋四代で踊ったことといい、己之助にとって今回の納涼歌舞伎は深い意味を持つことになるだろう。

三津五郎の鳶頭は言うも更なり、橋之助の見伊達の良さというのは、つくづく、いい役者なんだがなアと改めて思わないわけに行かない。これほど、柄と言い容子と言い、歌舞伎役者らしい役者ぶりというのは、それだけで文化財になってもいいぐらいのものなのだが、もしかするとこの人、生まれてくるのが半世紀ほど、いやもっとか、遅すぎたのかも知れない。やれ肚だの、まして心理だのと、やいのやいの言われなくとも済んだ時代に生まれ合わせていたなら、この人はもっと幸福であったに違いない。

そういう橋之助だからなお、久しぶりの『輝虎配膳』に期待したのだが、そうしてみずから語るところを仄聞するに、十三代目仁左衛門から嘱望されての役との由と聞けば尚更なのだが、その願いの達成度は七分目、という処か。もっとも今度の『輝虎配膳』が生煮えなものに終わったのは橋之助一人の責任ではない。どの役もそれなりの適役を集めてあるのだが、みなそれぞれに手探りで役を撫でさすっている状態から抜け出せていない。稽古不足、でもあるだろうがもうひとつ、この手の芝居は、どれだけドンピシャリの仁を持った役者がツボを押さえた芝居が出来るかにかかっているわけで、思えば十三代目仁左衛門の輝虎、二代目鴈治郎の越路、歌右衛門のお勝、勘彌の直江山城、芝翫の唐衣という顔を揃えることが出来た昭和四十七年一月の歌舞伎座などというのは、まさにあれは『輝虎配膳』上演史上の奇跡のようなものだったということになる。もっとも上演リストをつらつら通覧しても、あれは夢のような別格であって、前回平成17年6月の梅玉・秀太郎・時蔵・歌六・東蔵というのだって、それなりにちょいとしたものだった。(五人とも皆健在であるのは頼もしい。)

上演史を見ると、十三代目仁左衛門がくり返し手がけていなかったらこの芝居は疾うに廃絶していた可能性があったことが推察できるが、思うに上演時間46分という現在の上演台本もまた、十三代目が小一時間で上演できるように切り詰め、整理したものと推測できる。つまり、最小限必要なことはセリフなり竹本なりに一応なりとも盛り込まれているのだが、今日の観客にそれだけで芝居の筋から綾から趣向から、理解し鑑賞しろというには、ちとバリアが高すぎるとも言える。もう一度、当代仁左衛門などがそこら辺りにひと工夫あった上でつとめてくれたなら、絶滅危惧演目から脱却できるかもしれないのだが。いや、わが橋之助にだって、それを期待して何不足があるだろうか?

今度の三部の内、どれがお薦めですかと問われて、まあ常識的にみて「安全」なのは第三部だろうが、観劇経験がある程度ある人ならむしろ第二部を薦めたいと答えた。『輝虎配膳』だって、「歌舞伎」好きなら、「歌舞伎」の愉しみに泥んだ人なら、それ相応に面白いと(インタレスチングであると)思う人も必ずしも少なくはないのである。

加えるに『たぬき』である。三津五郎のセリフを聞いているだけで、これが芝居なのだと得心する。いや、安心する。いろいろなタイプの芝居があってもちろんいいのだが、何といっても土台はセリフであって、ハムレットの昔から芝居は「言葉、言葉、言葉」なのである。ということを、三津五郎を見ていると、いや聞いていると、改めて思わせられる。大佛作品の中でも、この『たぬき』が一番、作者が自然体で書いている作品であろう。あの柏屋金兵衛という人物は『帰郷』の守屋恭吾と同類の人物、すなわち大佛次郎の分身なのだ。ここにあるのは大人の芝居を見る快さである。結局、見終わっての結論も、今月の私のお薦めはこれということになる。

それにしても、ここでも勘九郎が、こんなに親父そっくりでいいのだろうかと心配になるくらいに、セリフの息なり間なり、勘三郎本人が出てきたような芝居を見せる。

第一部は、例年、一番初心者向きというか、予備知識なしの無手勝流でもわかるような演目を並べるのが通例のようだが、『恐怖時代』も『龍虎』も、なるほど予備知識なしでもOKの作に違いはない。(それにしても今回の納涼歌舞伎は、上演頻度という観点からするなら超低空飛行のようなもので、筋書巻末の上演リストを見ると六演目が六頁に収まってしまう。初心者にわかりやすい演目を選んだら上演頻度の低いものが集まったというのは、考えてみると、皮肉とや言わむ想定外とや言わむ、真面目に考えてみるに値することかもしれない。)

『恐怖時代』は私としても見るのは三回目(他に日生劇場で浅岡ルリ子がやったのもあったが)、その割には印象が強いのは、むかし谷崎に熱中していた頃、まず脚本を「文学」として読んだせいかもしれない。旧新橋演舞場で花形歌舞伎をやっていた頃、一度出たことがあって、いまの田之助が梅野で、伊織之介に切られると臓物がぞろぞろ懐から出てきたのを覚えている。(この時の伊織之介は澤村精四郎だったとばかり思っていたら、今度上演リストを見て現・菊五郎だったのを知った。こういう記憶違いというものは、やはり気をつけないといけない。)

もう一回、昭和五十六年八月だったということも今度確かめたが、武智鉄二さんの古稀の記念に歌舞伎座を一日借り切って延若の『俊寛』とか、武智歌舞伎として音にのみ聞いて実際には見たことのなかったようなものをいろいろ見ることが出来た最後に、当時扇雀の坂田藤十郎の伊織之介、歌右衛門のお銀の方、十三代目仁左衛門の春藤靭負、二代目鴈治郎の珍斎、富十郎の玄沢その他その他という豪華配役で見たのが、何と言っても壮観であったが、但し珍物ともいうべく、一回だけの上演だから皆々セリフは怪しげだし、鴈治郎の珍斎などというのは、どこまでが演技でどこからが忘れたセリフをごまかすための「間」なのか不分明なところが絶妙、という、まあそういった名演技の数々であった。申し次の侍の役の某優が、出てきて坐った途端に絶句、まわりはエライ人ばかりだから誰も教えてくれず、さて、一分以上は優にあったであろう(少なくも三分ぐらいには感じた)、あんなに長い絶句は後にも先にも見たことがない。だがそのとき武智氏少しも騒がず、身じろぎもしないでじっと舞台に目をやったままだったと、近くの席から「観察」していたという知人から、後で聞いたっけ。

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三越劇場の八月の新派公演がどうやら定着したかの感があるのはめでたいが、『狐狸狐狸ばなし』はまあ、どうなりとしこなせるだけの腕を持っている面々だからよしとして、どうかなあと案じた『蛍』が、やはりむずかしかった。なかなか良くやっている、という評も書いて書けないことはない。少なくとも、みんなよく頑張っているね、と激励してあげるのは少しもやぶさかではない。それだけのレベルの舞台であることは間違いない。

として、さあ、という話である。久保田万太郎の戯曲の言葉、などと新劇講座みたいなことを言うより先に、もうあゝいう言葉遣いで日常を送っていた人たちというのは、「種」としてもはや絶滅してしまったのだということを、改めて思い知ったということである。つまり、そういう、「むかしの東京」の市井の人たちの日常の言葉の上に万太郎戯曲というものは成立していたのだということである。そのリアリティ。そんなことは今更言うまでもない、それはそれとして、万太郎の戯曲というのは、『蛍』という作品は良いものではないか、という論法ももちろん成り立つ。成り立つどころか、もうこれからは、その手で行くしかないのかも知れない、というのが、今度の舞台を見ての、私のやや絶望的な感想の一方の極にあるものである。(現に、新劇の人たちは既にそういうやり方でやっているのではあるまいか。だが、新派でそれをやったのでは・・・という、これは話である。)

私もこの芝居をそんなに数多く見ているわけではない。むしろ、先代八重子と大矢市次郎と柳永二郎とで前の演舞場でやったのを見ることが出来てよかった、などという程度の端くれに過ぎない。とはいえそれは、まさに「言葉、言葉、言葉」の芝居であって、幕切れに、若き日の波乃久里子が今度瀬戸摩純がやっている小娘の役で出てきて、八重子のしげと行き違う、あの瞬間の、「と胸」を突かれた(という表現も、もう近頃聞かなくなった)小さな鋭い衝撃というものは、いま思っても、これぞ万太郎芝居の真骨頂というものだろうと確信している。大矢もさることながら、柳永二郎の重一のせりふというものは、まさに、戦前の東京の市井の人間の言葉であって、言葉遣いだけでなく、声の錆びや、言葉を選ぶ間や、調子や・・・といったさまざまなものが縒り合された上に成り立っているものだった。

翻って、ついしばらく前、そう、(コーツト、というのが、こうした、ちょっと考えをまとめようという場合に出る合の手であって、当世の人はこういう場合、ナンダロウ、というのであるらしい)二,三〇年前までは、つまり昭和といった頃までは、東京に古く棲む一定の年配の人たちから、こうした物言いを聞くことは稀ではなかったと思う。あゝこの人は東京の人だなあ、と懐かしく思うような初老の紳士とか町場の人たちである。

栄吉の月之助も重一の永島敏行もよく頑張っている。その苦心、努力を察すれば、無碍なことは言いかねる。波乃久里子に至っては、久里子自体が絶滅危機に瀕した人間国宝である。最後の人である。しかし正直に言うなら、久里子を見ながら、私はその胸中を思い遣らずにはいられなかった。絶望? まさか?

《蛇足》それにしても、月之助にしても永島敏行にしても何てデカイんだろう。三越の舞台の寸法からすると、ガリバーが出現したようだ。

随談第529回 OSK

八朔とは八月一日のこと、その午後四時開演で、和物と洋物のレビューが二本、終って外に出ればまだ薄暮の状態に入ったばかり。空はまだ青みが残っていて、雷が潜んでいるやも知れない白い雲に夕日が当って薄い橙色に染まっている。だいだい色、という言葉をこの頃ほとんど聞かなくなった、どころか目にもしなくなった。快適というにはちと暑すぎるが、たそがれ時の銀座というのはいいものだ。これがもう少し秋の気配が漂う頃になるとなおいいが、しかしこの温気(うんき)のなかでさえも、悪くない。わが東京八景というものを選ぶなら、初秋の銀座の黄昏というのは、必ず入れよう。

新橋演舞場にOSKがたった三日間かかって、その初日。去年、日生劇場にかかったのが73年ぶりの東京公演だったという。73年前と言えば戦前である。東京にはSKDというものがれっきとしてあったのだから、当然と言えば当然の話で、そのSKDもとうになくなり、大阪に行くとたまたまOSKのポスターを見かけたりして、ああ、まだ頑張ってるんだなと思ったりする、という程度の知識しか、関心しか持ち合わせていなかった。感動(と言っていいであろう)したのは、昔ながらのレビューをやって(くれて)いることだった。

宝塚が一人勝ちして、独り隆盛を誇っているが、昭和という時代があった頃までは、SKDもOSKも健在だった。もっと前は隆盛だった。宝塚もスターをたくさん出しているが、こちらもたくさん出している。笠置シヅ子や京マチ子はOSK、淡路恵子や草笛光子や倍賞姉妹はSKD。まあそんなことより、73年ぶり東上公演なるOSKが、いまふうのアレンジは当然あるものの、基本的には昔ながらのレビューをいまなおやっているのを見て、まるで昭和30年代か40年代ごろにタイムスリップしたような既視感に襲われる如き舞台に、私は驚き、呆れ、ものの哀れはここじゃわやいと膝を打ち、感動したのだった。誰ひとり名前も知らなかったスターたちである。その男役、娘役のスター達、わんさガールたちの漂わせている感触にも、感動に値するものがあった。最近の宝塚というものを私はまったく知らないが、たぶん、こういう雰囲気、たたずまいというものはあるまいと思われる。

同慶の至りにも好評だったらしく、今年は、たった三日とはいえ、新橋演舞場である。その独特の古色は日生よりも新橋演舞場の古色の方がふさわしい。二本立てのうちの和物の方は、まあこんなものとして、レビューはやはり洋物がつきずきしい。くり返すが、昭和30年代を見るような既視感に襲われる。レビューとはやっぱりこういうものなのだ。古色といったのは必ずしも皮肉でも批判でもない。レビューというものは、(戦前から始まり伝承されつつ)戦後10年、20年(すなわち昭和20~30年代)の間に型が確立したのだから、この古色は古格とすらいってもいいのである。

なまじなストーリーのないのがいい。無内容なのがいい。ただ男役娘役のスターたち、わんさガールたちが奏で、紡ぎ出す夢と華やぎがおのずから醸し出す、留まるところのない哀感こそがレビューの神髄である。わけてもラインダンスの、ただひたすらに無内容で、可愛らしくはつらつとした感覚、その醸し出す儚さ、ものの哀れこそが、レビューの精華なのだ。

現在のメンバーが、往年に比べどういうレベルにあるのかは知らない。たぶん、昔はこんなものではなかった、といった声もあるに違いない。それに通じるなにがしかを、私もまったく覚えなかったわけではない。だがそれはそれ、私はこの舞台に満足した。銀座の夕映えを綺麗だと思ったのも、きっとそれがもたらした感傷に違いない。

随談第528回 今月の舞台から

今月もずいぶん遅くなってしまった。7月の二十日というのは、むかしから小学校が夏休みに入る日で、そのことが呼び覚ます子供の頃の追憶の感覚というものは、幾つになっても薄らぐことはない。

こと東京周辺の気候に関する限り、この二、三日の気候はいかにも小、中学生の頃の追憶を誘うのにふさわしいものだった。晴れれば昼時分の気温は30度を超すが、せいぜい31、2度どまり、曇天だったりすると30度に届かない。昭和30年代頃までの東京の夏というのは、大体、こんなものだったと思う。猛暑でも33、4度どまり、35度を超えるなど何年に一度という珍事だった。そうした、今日は凌ぎやすいだの、ひどい暑さだのと、大人たちが交わす挨拶をよそに聞きながら、子供なりの日常の中にさまざまな記憶が蓄えられる。別に大したことをするわけでもない。ごく普通の日常と結びついて、その時々の暑さ涼しさ、風のそよぎ木々や草の匂い等々と結びついた皮膚感覚の記憶は、都会でも自然が身近までやってくるこの季節ならではのものだ。そうした記憶の感覚ほど、今になっていとしいものはない。

         *

さて、今月の芝居の話である。歌舞伎座は玉三郎と海老蔵と中車と、目玉が三つあって、それぞれてんでんばらばらのようで、うまく噛み合わせているという、製作部としてはおそらく苦心の座組み、苦心のプログラムであろう。中車にせよ、実質上の中枢を占めている澤瀉屋の一門の面々にせよ、例年7月は「猿之助」の持ち分という「恒例」は、猿翁が40年続け、倒れてからも既に十年の余、経った今なお威力を保っているのは前代未聞のことと言っていい。偉大な師を持った一門の者どもは感謝しなければなるまいが、それにつけても。当代猿之助が顔を出さないのはどういうことだろう?

海老蔵の『夏祭』も玉三郎の『天守物語』もさることながら、何と言っても目が行くのは中車である。襲名ということを抜きにした、いよいよ一本立ちしての事実上最初の仕事であることが、まず注目の理由の第一だし、自分の出し物として夜叉王をし、海老蔵の團七に一寸徳兵衛ではなく義平次をするというのも、既にして「曲者」ぶりを見せるかのようでもある。どちらもそんじょそこらの役ではない大役。『天守物語』のつき合い役も含めひと興行に三役も勤めると言うのも、歌舞伎では当り前だが、中車にとっては当り前といえるかどうか・

順序から言って、まず夜叉王をほめるのが筋だろうが、好演だの何だのというより、どこがいいとか良くないとかいうより、全体としてさしたる違和感もなく演じ切ってしまったことに驚く。と、書いて、襲名の時の『将軍江戸を去る』の山岡のときにも同じようなことを書いたのを思い出した。批評のしにくい演技だとも言える。個性とか特徴とかいうものをつかみ難い、とも言える。翻って言えば、中車という役者の魅力は何か、と問われて答えようがない、とも言える。厳しく言えば、局面局面を追って行けば無難無難で通る、減点法で採点しようとすれば特にマイナス点をつけるところはない、にも拘らず、無難という以上の賛辞を呈する理由も見つけにくい。まあそこが、学ぶは真似ぶ、真似ぶも「模写」の段階の中車としては余儀ないところなのかも知れない。今はこれでいいのだ、というべきかもしれない。よくできた模写と言ったら、意地が悪い批評ということになるだろう。肝心なのは、歌舞伎の『修禅寺物語』として違和感がない、ということであり、考えてみればそれはもっと驚いて然るべきことかもしれない。

義平次についても同じことを言うことになる。どこがどう巧いとか拙いとかいうところがない。ただ少なくとも、コクーン歌舞伎の笹野高史よりは「歌舞伎」である、とは言える。常識からするなら、海老蔵・中車で『夏祭浪花鑑』を出そうというなら、海老蔵の團七に中車の徳兵衛というのが、真っ当な配役というものだろう(しかも通しで出せば徳兵衛の活躍する場面は倍増するのだ)が、そうしないのは何故か? 義平次は体当たりでできるが、徳兵衛は、仕草のキマリキマリ、角々の様式等々、「歌舞伎」が身についていないとサマにならないだけ難しい、ということか?

(それで思い出すのは、猿翁がまだ二十代の若さで義平次をつとめたことがあったっけ。昭和四〇年八月の旧・新橋演舞場。竹之丞時代の富十郎の團七に、徳兵衛と二役、それも「道具屋」まで出したのだった。その後は、徳兵衛よりもっぱら團七をつとめるようになったが、通しで出すなど、この時の経験が猿翁にとって大きな財産になっているのは間違いない。それはそれとして、「三代目猿之助」としての良きものとして、私にとってはこのときの徳兵衛は忘れがたいものの一つである。あのころの「猿之助」は、何とも爽やかな役者だった。)

それにしても、笑三郎の桂といい、月之助の頼家といい、春猿の楓といい、春彦の亀鶴以外、今度の『修禅寺物語』はまったくかつての二十一世紀歌舞伎組である。かつての寿海の頼家はどうだった、等と言い出せば格別、今現在の歌舞伎として、特に何の不足もあるわけではない。(そういう中での中車の夜叉王なわけだが。)笑三郎の『草摺引』の舞鶴など、芝翫・宗十郎亡き後、これだけの古典的女形美を他に誰が見せてくれるか、というほどのものではないか。

聞くところによると、中車は、香川照之としての仕事の予定がまだまだぎっしり詰まっているらしい。それがすむまでは、まだ、中車が半分香川照之が半分のようなものともいえるが、歌舞伎役者中車としての助走期間とも考えられる。それまでは、多大な努力が窺われるその努力を多とするしか、言い様がないのかもしれない。

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『天守物語』については、もし「玉三郎十種」の如きものを選ぶとすれば富姫はまず第一に指を屈すべきものであろうということを、今更でもないが改めて確信したと言えば充分であろう。図書之助に海老蔵を得れば天下無敵というものだが、それよりも、団七のセリフがあんなにひょろつく海老蔵が、図書之助のセリフをあんなに立派に言えるのは何故だろう? 当代歌舞伎三不思議の一に数えられて然るべきではあるまいか?

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『天守物語』でもうひとつ。我當の桃六がよかった。あの神韻縹渺たるセリフといい、たたずまいといい、(十三代目仁左衛門のも見ているがその父を越えて)歴代の桃六中、最上ではあるまいか。私はカーテンコールというものがどうも苦手で、少なくとも歌舞伎ではやってほしくないと考える者だが、今度の、初めの一回だけは、我當のために喜びたいと思った。

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しかし今月の東京各劇場を通じて随一のお薦めはと言えば、新橋演舞場の松竹新喜劇だった。希少価値という意味合いも含めてのことだが、まさしくここには芝居がある、これが芝居なのだ、と涙を流して笑いながら、何度も思った。茂林寺文福(こと曾我廼家十吾)、館直志(こと渋谷天外)という作者たちこそ、ある意味では、昭和演劇で一番の作者だということが出来る。ある意味で、とは、舞台というものが全世界であり、すべてのことは舞台という世界の中で起こり、発展し、終る、という作劇法こそが、もし演劇の究極であるとするならば、という意味である。つまりこれこそ、すなわちフランス古典劇の作劇法ではないか。現に、茂林寺文福・館直志合作による『裏町の友情』などというものは、ラシーヌが見たらびっくり、というほど見事に三一致の法則に則っている。そこにふんだんにある涙と笑いは、端倪すべからざる人間観察に裏打ちされている。しかも、今回上演された四作品、『朗らかな嘘』は初演が昭和二八年、『裏町の友情』は二六年、『船場の子守唄』は二九年、『お祭り提灯』は二四年と、どれも半世紀の余も昔の作でありながら、必要に応じて手直しして(手直ししても骨格は揺るぐことなく)見事に現代の社会に適応させている。ラシーヌはともかく、北条秀司や菊田一夫ばかりが昭和の名作者ではないとは、言っても少しも可笑しくない。天外の「口上」での言によれば、新喜劇のレパートリーは一四〇〇篇あるのだという。すべてが名作というわけではないにしても、だ。

渋谷天外も、曾我廼家寛太郎もいい役者になった。風貌といい、身体中から大阪人の匂いが沸き立っている。曾我廼家文童、大津領子、出てきただけでその世界のひとである。しかも歌舞伎と違って、特別な扮装をするわけではない。『朗らかな嘘』で渋谷天外の社長が三つ揃いの背広の上着を脱いだ姿で応接間に現われただけで、その人物、その世界が雄弁に語られる。目指すものが違うからとはいえ、もしこれが芝居、いや演劇というものだとすれば、新国立劇場でしばしば見せられるあれらは何なのだろう?と、(真面目に)考えさせられることになる。

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その新国立劇場だが、今月のドナルド・マーグリーズ作『永遠の一瞬』はどうして、悪くなかった。戦場カメラマンの夫婦と、雑誌編集者の夫婦という登場人物四人だけの会話で成立するという無駄のない構成、少しずつ時日の経過をにじらせて行く間に、それぞれの人物とその関係が微妙に変化してゆく在り様が納得できるように書かれている。とりわけ、いちばん凡庸な存在と見えた人物が案外にも懐の深いところを見せる辺り、作者の人間洞察の柔軟さが窺えて秀逸であった。

現代劇のシリーズの一環だから、毎回せめてこのレベルの作を、とはなかなか行くまいが、このところ低打率に喘いでいた新国立としては、久しぶりに走者が塁に出た、というところか。

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劇団「若獅子」が前回の前篇に続いて『大菩薩峠』の後編を出して、これがなかなかよかった。もともと、『大菩薩峠』では「間の山」の件が小説でも芝居でもいちばんコクがあって面白いのだが、新国劇の灯を燃やし続けるという劇団の目的に最も適った舞台だと言っていい。こういうものをしている時は、笠原章もなかなかいい役者に見えるから不思議なようなものだが、終演後に挨拶をしている顔が師匠の辰巳柳太郎を彷彿とさせたのは、これこそ師の導きか、摩訶不思議というものだろう。かつての片岡千恵蔵の映画で、お玉の役で星美智子が間の山節を唄うのがなかなかの名場面だったのを思い出すが、もしかしたらお玉という役が、『大菩薩峠』の人物中、最もよく描けている人物なのではないだろうか?

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幸四郎が早稲田大学芸術功労者として顕彰された記念に大隈講堂でトークをしたのが、なかなか面白かった。上機嫌でいろいろなことを語る、内容のことはここでは触れている暇がないが、舞台を通じて知る幸四郎と重なりつつも微妙な揺れと共にブレが生じて意外な顔が二重写しのように重なり合う具合が、何とも興味深い。ある意味で、舞台で見ている時以上に「役者」を感じさせた。

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国立劇場の鑑賞教室『吃又』については「演劇界」九月号に書いたので、そちらを見ていただくことにしたい。