随談第507回 勘三郎随想(その32)修正版

41.「み」の章

さっきもちょっと言ったが、勘三郎と仕事をする上での串田和美の姿勢は、歌舞伎をも普通一般の演劇と同等のスタンスで取り扱おうという一点にあったように、私には見える。もちろん、良識家である串田が、歌舞伎への配慮を持たないわけではないし、歌舞伎のもつある種の特殊性を思わないわけでもない。むしろそうであればこそ、他ならぬ勘三郎の側から接近して来ての提携であるならば、新劇人としてこれまで歩んできたそのスタンスで歌舞伎にも対しようとすることは、当然の判断であるともいえる。そうでなければ、自分が歌舞伎に関わる意味がないし、そもそも勘三郎の方から求めてくる理由もない。その一点以外に串田が歌舞伎に関わる方法も意義もないといってもいい。その一点をはずせば、それは門外漢のお道楽と異なるところはなくなってしまうに違いないし、そもそも串田にそんな趣味も興味もないだろう。

歌舞伎を敢えて特別視せず、普通一般の演劇と同等のスタンスで扱おうとするとき、串田が何よりも拠って立つところは、脚本の読み以外にはないだろう。脚本を独立したひとつの作品として白紙の状態で読もうとするとき、おそらく串田を一番苛立たせるのは、「仁」とか「役柄」とか「型」とかいう、歌舞伎独特のコンヴェンションが介在してくることであるのは、容易に想像がつく。

和尚吉三でも薩摩源五兵衛でも直助権兵衛でも、また団七九郎兵衛でも、まず脚本があって、それと向かい合う演出家なり役者なりがいる。演出家と役者は、立場も役割も違うが、脚本と直接に向かい合うべきものであることに変わりはない。それが、新劇人串田にとっての常識であるだろう。だが歌舞伎を相手にすると、仁とか役柄とか型とかいう「不純物」がその中間に介在してくる。中にはそれを絶対視して、それなくして歌舞伎は成立せず、それを無視した演出は認めがたいという論者も出てくる。

「歌舞伎というものは、そういう過激に思える筋立てでも、いいの、いいの、歌舞伎なんだからこういうものなの!と、なんだか強引に思わせてしまう力があるんだね。変な疑問を持つほうが間違っているような。ストーリーを知っている観客は、なおさらそんな疑問を持とうとしない。これはかなりもったいないことだと思う。芝居にとっても、観客にとっても。僕のこの場の演出意図としては、出来るだけそういう素直な疑問を誘発することだったと思う」と串田が書いているのは、『三人吉三』の大川端庚申塚の場、お嬢・お坊・和尚の三人の吉三郎が出会う場面の演出についての文章の一節だが、もちろん、串田のこのスタンスの取り方は『三人吉三』だけに限ったことではない。というより、結局はこの一点にあるといっても、決して強引な要約ではないだろう。ストーリーとここで串田が言うのは、もちろん直接的には話の筋のことであり、ここの件の文脈に沿って言っていることだが、文脈をもっと大きく取れば、「仁」や「型」や「役柄」という歌舞伎のコンヴェンションとしての、いわゆる「約束事」のことだと考えて差し支えない。

「かなりもったいないこと」と串田が言う意味は、歌舞伎に興味はあるが深くは馴染んでいない、現代の普通の、知的興味も知識教養も持ち合わせている人々に取っては、非常にわかりやすい言い方であるに違いない。歌舞伎に興味を感じて歌舞伎座の舞台を覗いてみると、それなりに面白くも興味をそそられもするが、それ以上に、何だかよく分からないいろいろなことに遭遇する。「いいの、いいの、歌舞伎なんだからこういうものなの!となんだか強引に思わせてしまう力」を受け容れてそれなりに納得できた者は、歌舞伎ファンとしての「狭き門」を潜り抜けることができるが、受け容れられなかった者は、「狭き門」に阻まれた縁なき衆生としてさ迷うこととなる。

歌舞伎に対するこの串田のスタンスの取り方は、かつて夏目漱石が自分の小説の読者を、「文壇の路地裏を覗いたことのない尋常普通の教養のある人士」と言ったスタンスの取り方を思い出させる。つまり漱石は、文壇の事情通になる気はないが、尋常普通の人間としての興味を満足させてくれる文学には関心のある読者に向けて、小説を書いたのである。漱石のいう「文壇」を「歌舞伎」と置きかえてみれば、スタンスの取り方という一点においては、漱石も串田和美も変わりはないことがわかる。

歌舞伎に通じている者が、中村勘三郎とか尾上菊五郎と姓名で呼ばずに、勘三郎とか菊五郎というふうに名だけで呼んだり、中村屋とか音羽屋と「屋号」を代名詞のようにして呼ぶことすら、「歌舞伎界の路地裏を覗いたことのない尋常普通」の現代人から見れば、内々の者同士だけで通じる合言葉のように聞こえる。まして、「六代目」だの「十七代目」だのということになれば、ほとんど暗号も同然だろう。そういった、歌舞伎の「外郭」に属する事柄からはじまって、ストーリーの展開や登場人物のキャラクターの有り様といった芝居そのものに関することまで、「強引な力」を受け容れて狭き門をくぐることは、フリーメーソンの結社に入会することにも似た「秘儀」のようにも見える。(実はこれに類する現象は、どこの社会、どこの業界にもある筈なのだが、「梨園」とか「相撲界」とかいった世界のこととなると、ことさらに「特殊」なものとして見るという構図が出来上がっているのも、本当は考えてみるべき問題に違いない。)

いま書店の棚には歌舞伎の入門書や解説書が呆れるばかりにあふれているが、その秘儀を通過すればいかにすばらしい世界が開けているかを説いたかに見えて、ではどうすればそこへ行き着けるのかを説くことに成功したものはない。なぜなら、世のすべての入門書や解説書がそうであるごとく、その著者は既に秘儀を通過した者ばかりであるからで、狭き門の内側のことは巧みに説明してあるが、肝心の、如何にすれば狭き門を通り抜けられるかについては書いていない。曰く言いがたいことは書きようがないからである。こうして、世にあるかぎりの歌舞伎解説書や入門書は、神父・牧師や信者の説く宗教の入門書に似てくる。すでに神を信じている者が、信じていない者に向かって、いかに神の栄光を説いても無効なのと同じである。

串田の言う「かなりもったいないこと」とは、歌舞伎という狭き門の中を覗いてはみたが、中に入ろうという誘惑には捕われなかった者の視点で見た、門の中の様子を評した言である。歌舞伎を約束事というコンヴェンションから解体して、尋常一般の戯曲として見た者の言といってもいい。これまで串田が幾多の戯曲を読み、俳優としても演じ、演出者として演出してきた、そういう視点で歌舞伎を見るとき、歌舞伎のコンヴェンションが捉えていない、あるいは取り落としたりはじめから目を向けていない、いろいろなことが目に映る。

なぜ歌舞伎では、こうは演じず、ああ演じるのか? なぜ、ああ演じれば歌舞伎で、こう演じれば歌舞伎でないのか? なぜ、こう演じればおもしろいと自分は思うのに、ああ演じないと歌舞伎好きはいいと認めないのか? それにもかかわらず、ああ演じる歌舞伎をわからないと言う者も世の中にはたくさんいるではないか? それはなぜか?

串田は言う。三人吉三のような、本来なら、社会からはじき出されたちっぽけな悪党でしかない、愚かしくも切ない、そのままでは見ていられないような存在でも、歌舞伎という様式で演じられると、深く受け入れられる。興味深く鑑賞することが出来る。カッコいいと感じる。この場合カッコいいとは、何か心に響くものがある、いま生きている自分にとって無関係でない、心を揺さぶられる何ものかを感じるということである。そういう意味で、歌舞伎はこの世の醜悪なものやグロテスクなもの、奇怪なもの、見るに堪えないほど惨めなもの、みっともないものを、カッコよく見せてしまう力を持っている、と。だから歌舞伎とはつくづく凄い芸能だなと思う、とも言う。

『三人吉三』の序幕「大川端庚申塚」の場は、通常、三人のスター役者が動く錦絵のように見せる黙阿弥様式美の華と考えられている。百両包みを奪ったお嬢吉三が「月も朧に白魚の篝火(かがり)も霞む春の空」と謳いあげる七五調の名セリフは、いまでも歌舞伎好きが宴会の余興に声色でやってみせる、おそらく歌舞伎のセリフのなかでも最もよく知られたものだろうし、まったくの初心の観客がこれを見せられれば、なるほど歌舞伎を見たと実感して満足するに違いない。つまり不特定多数が抱く歌舞伎イメージの典型といってもいい。本来は、長丁場の世話狂言の発端の場面であるにもかかわらず、今日でも、この場だけを短い一幕物のように上演することも絶えないのは、そのためであるだろう。

実際には、作者の黙阿弥から数えて四代目に当る河竹家当主の河竹登志夫氏が、後に展開する陰惨なドラマの序章としての極彩色の口絵にたとえたように、観客は様式美の中にあとに続くドラマを予感しながら見ているわけで、決して単なる様式美だけを鑑賞しているのではない。その様式にしても、お嬢吉三は女形、お坊吉三は二枚目、和尚吉三は実事の座頭役者と、それぞれの役柄にはまった仁の中にも、それぞれの役の背負った宿命的な人生や性格を反映して、ひと筋縄ではいかない複雑微妙なニュアンスが掛け合わされることになる。そういう感覚のおもしろさは、歌舞伎に通暁している観客でなければわからないというものでもないだろう。

だがその一方で、こういうこともある。現行の「大川端庚申塚」の場が、独立した一幕物の人気狂言のように頻繁に上演されるようになったのは、おそらく、大正以降、十五世市村羽左衛門という天性の二枚目役者が加役で演じたお嬢吉三が極めつけの名物のように見做されるようになって以後、慣行となったことで、それとともに、現在「型」となっている演出が固定されたものと考えられる。その演出は、少なくとも、幕末の安政七年正月に(つまり、それから間もない雛の節句の日に井伊大老が桜田門外で暗殺されたあの年の正月である)初演されたときとは、かなり違うものになっているはずで、簡単に言えば、下座を多用し、様式化が進んだに相違ないことは容易に想像がつく。すなわち、現行の歌舞伎で普通に演じられている『三人吉三』大川端庚申塚の場は、大正・昭和以降の近代の歌舞伎が作り変えたものなのだ。もちろんそれは、大正・昭和の観客に愛され、支持されたからこそ、そうなったのであり、その意味で、現行の演出は大正・昭和の観客が作ったのだともいえる。

だが、時の経過とともに、はじめは、この場がじつは以後に続く長いドラマの発端の一幕であることを役者も観客も周知であることを前提として演じられたものが、やがて、後のドラマを知らない者が多数を占める客席の前で演じられるようになる、という事態が生じてくる。そうした客席から舞台に投げかけられる眼差しの変化は、いきおい、演じる側にもある変化を及ぼさずにはおかなくなる。万人が共有していたひとつの仕草、ひとつの行為の持つ意味は、リアルな実感を失い始めるのとともに、様式として受けとめられるようになる。見る者だけでなく、演じる者にでさえも。様式化が進めば、やがて仕草の一挙手一投足は踊りの所作に近づいてゆく。そこには、歌舞伎の様式というものを考えるとき、見落とすべきではない鍵がひそんでいる。絶対普遍のように思われがちな様式も、じつは、その時どきの観客との関係のなかで作られ、変容しているのだということである。(この項つづく)