随談第504回 人生いろいろ(修正版)

岩谷時子、川上哲治、島倉千代子と、さまざまな訃を伝える報が聞えてくる。どれも、永きに亘って親しんだ名前だが、何と言っても感慨が深いのは川上のそれである。

九十三歳という生涯の、どの時代に最も親しく接したかで、世代論もできれば野球論もできれば、その他さまざまな「私と川上」論が成り立つだろう。マスコミがまず「巨人軍V9監督」と見出しに掲げたのは、現代のマスコミとしては、まあ、当然のことだろう。次いで「打撃の神様」というのが来る。これもまあ、当然というべきだろう。九十三年という時間は、既にその生涯を歴史の中に位置づけて揺るぎないものにしてしまってあったとも言える。おそらくどこの新聞も放送局も、見出しの文句をどうしようかと迷うということはなかったに違いない。つまり、野球人川上の歴史的評価は、第一に巨人軍V9監督であり、第二に打撃の神様と既に定まっているのだ。わずかに、「亡くなっていたことがわかった」という第一報のされ方に、息を引き取ってからマスコミがそれを知るまでに約一日のタイムラグがあった分だけ、この人の晩年にはマスコミに常時監視されていない「私人」としての日常があったのだということを察することが出来る。

だが、一野球ファンとして見るとき、そうした出来合いの歴史的評価とは別の、さまざまな「私の川上」があり得るのもまた当然というべきである。紙面を大きく割いて載った数々の記事の中で、私が最も心を打たれたのは、投稿欄の一番下に載っていた、79歳という女性の投書である。私なりに要旨をパラフレーズさせてもらうと、

私は(とその女性は言う)大下選手のファンだったので川上選手は敵でした。憎らしいほどよく打っていました。でも大下選手が亡くなったとき、赤バットの川上と青バットの大下と、この二人が、戦争が終わって新しい時代の野球を作ったのだという記事を読んで、本当にそうだと思いました。私にとって、川上選手はV9の監督ではなく、「四番ファースト川上」であり「赤バットの川上」なのです。

というのである。これなるかな、と私は感動してその小さな記事を切り抜いた。79歳といえば私から見れば姉世代の方だが、戦後のまだ1リーグ時代のプロ野球の記憶を持っておいでに相違ない。そう、私にとっての川上も、V9監督などでなく、赤バットの川上、四番ファースト川上、なのだ。川上は戦前すでに一流の強打者だったが、その全盛時代はちょうど私の小・中学生時代に重なる。実働21年という息の長い現役生活だったから、引退したとき私は高校の最上級生だった。

私にとってのプロ野球は、まだ1リーグ時代の、ジャイアンツの四番赤バットの川上と、セネタースからフライヤーズと名を変えたチームの紺のユニフォームを着た、スマートな青バットの大下の記憶を原点とする。戦前のホームラン記録が九本だったというのが、大下がポンポン打って一挙に二〇本を超えた。紺のユニフォームに青く塗ったバットの大下の打撃フォームは子供心にも優雅で美しかった。その大下を抜いて、赤バットの川上が、青田昇と並んで25本という新記録でホームラン王となると、当時「ベースボールマガジン」と競合していた「ホームラン」誌の表紙を、川上と青田と2人、バットを肩にかついだポーズで飾ったのは、そのまん中にエノケンをはさんで左右に立てばそのまま『エノケンのホームラン王』という映画の宣伝ポスターさながらだった。笠置シツ子が「ホームラン・ヴギ」を歌った。

世はたちまちホームラン時代となって、野球連盟はラビット・ボールというよく飛ぶボールに切り替えたため(思えば、野球連盟のすることは当時もいまも変わらないネ)、翌年、ホームランは一気に量産されるようになって、物干し竿と仇名された長いバットを振り回して、阪神の4番打者藤村が前年の倍近くの46本も打ってホームラン王になる。その年の暮れ、親に買ってもらった「野球いろはカルタ」の「い」は、一打よく川上満塁ホームラン、「ほ」は、ホームラン別当藤村ともに打ち、というのだった。タイガースの3番と4番を打っていた別当と藤村が競い合ってホームランを量産したのを詠んだのだが、川上のは、その年の4月、対南海戦で、5対2で負けていた巨人が9回裏に川上の満塁ホームランで逆転勝ちしたのを読み札にしたのだった。しかしこの年、川上は本塁打を24本しか打てず、以後、長距離砲をめざすことを諦めて、戦前以来の「弾丸ライナー」に徹する打法を追及することになり、この辺りから、ボールが止まって見えただのという「御託宣」を垂れて「打撃の神様」へと、遠ざかって行ってしまったのだった。

そもそも、あの頃私たちは皆、「彼」の名を、カワカミテツジであって、本当はカワカミテツハルと読むのだなどとは知らなかった。だから、赤バットの4番ファーストのカワカミテツジ選手に親しんだ者にとっては、読売巨人軍監督のカワカミテツハル氏は、同一人にしてちょっと別人格のような気がしてならないところがある。

それにしても、ファン・サービスということを一切しなかった川上が、それにもかかわらず子供の人気者になった(なれた)のは何故だったろう。打った瞬間、踵から頭のてっぺんまで定規を当てたように一直線になる打撃フォームは迫力があったし、打席に入ると微動だにせず相手投手の投球を待つ姿は、貫録があった。しかし、ライバルと目されたタイガースの藤村が、ラジオに出演すれば気さくに歌を歌ったり、試合前の肩慣らしやトスバッテイングの時、イチローの背面キャッチではないがわざと背中向きで取ったり、投げ返すと見せて隣の選手に背中から球をトスしたり、観衆を喜ばすということを常に心掛けていたのに対し、川上ときたら、藤村が一曲歌った後、アナに川上さん、如何ですかと水を向けられても、イヤー、私は、などと口ごもるばかりだった。(ファン・サービスといえば藤村ともうひとり、スタルヒンもそうだった。当時は、いまでいう変則ダブルヘッダーが普通だったから、一試合終ると今度は別の2チームの選手たちが飛び出してきて、グラウンドを一周した後、こうした肩慣らしをするのを見るのが楽しみだったのだ。) 

もう監督も引退して大分たってからだった。テレビの番組で、ヨーヨーのことがテーマになっていて、あの川上さんが少年時代ヨーヨーの達人だったそうです、というようなコメントがあって、久しぶりに見るすっかり白髪になった川上が、映像だけの出演だったが、ヨーヨーを鮮やかに操って見せる姿が画面に映った。たしかに見事な腕前で、少年時代に戻ったようないい笑顔だった。「神様」をもう卒業したのちの姿を伝える「ちょっといい光景」だった。

訃報が入った晩の日本シリーズの試合中、巨人のベンチの壁に背番号16を付けたユニフォームを飾ってあったが、してみると、いまの巨人の選手たちにとっても、川上は背番号77の川上監督である以上に、背番号16の川上選手であるのだろうか? そうだとすれば、ちょっとばかりほっとするというか、嬉しい話である。

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島倉千代子の熱心なファンであったということは遂になかった。しかし、他の歌手には感じたことのないある種の親しみのようなものを覚えるのは、そのデビューから最後までを、ごくひと通りにせよ、ずっと見てきた、ほとんど唯一の歌手だからだろうか。もう一人、美空ひばりもそれに近いが、流石に、デビュー当初のことはこちらが幼すぎて、たしかに覚えているとは言い難い。もっとも島倉の場合だって、見てきたと言ってもコンサートに通ったわけではない。ただ、よくヒットした曲や、実人生にいろいろあったらしい曲折をマスコミが報じるのを見ていただけに過ぎないが、そうした中から見えてくる、人としての好ましさに、いつのまにか関心をもつようになっていたからである。

はじめは、ごくごくか細い声で、歌い方も素人くさく、それほど大した歌手になるとは思えなかった。しかしある頃から、なかなか上手いなと思うようになってきて、紅白歌合戦に興味がなくなってからも、彼女の出番のときだけはテレビを覗きに行ったりするようになった。誰しもご存じの「人生いろいろ」なんてのは、声も艶があって、ほとんど自在の境地のごとくに見える。

天才でもなく、知性派とかなんとかでもなく、終生、歌謡曲の一歌手であったところに、偉大ならざる偉大があるといえる。美空ひばりの代表作は、私は、「川の流れのように」でも「哀しい酒」でもなく、つまるところ「東京キッド」に勝るものはないと信じているが、島倉の場合は、「人生いろいろ」という歌手として後半生に歌った歌で残ることになる。これはつまり、彼女が美空ひばりのような、始めにすべてがあるような天才ではなかったために、成熟という、凡人の道を歩み続けた果実を手にすることが出来た、ということであろう。

「非凡なる凡人」というのは国木田独歩(だったっけ?)の小説の題名だが、小説の内容よりも、このタイトルの方を時々思い出す。島倉千代子は、むしろ、平凡なる非凡人というべきかもしれない。

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これは訃報とは別の話。三日目の大相撲中継を見ていたら、今場所限りで定年退職する元増位山の三保ヶ関親方がゲストで出ていて、退職後は相撲界から離れて別の仕事をするというから何かと思ったら、歌手になるのだそうだ。道理で、つい先達ても、CDの広告に増位山大志郎全集なんてのが出ていたのを見たばかりだった。現役時代、次々と新曲を出すので、「歌謡界で一番相撲の強い男」などという陰口もあったほどの玄人はだしだった。それにしても、65歳にして本職の歌手になるとは、まさしく人生いろいろに違いない。