随談第494回 勘三郎随想(その24) 補正版

24.「う」の章 

そろそろ、勘三郎随想を再開しよう。

『鏡獅子』と『京鹿子娘道成寺』という、勘三郎がみずからライフワークと位置づけている二大舞踊をひとつの象徴と見て、話をかなり大股に進めてきたので、ここらで、ふたたび時計の針を逆に回して、幼いころからの記憶に残る役々をたどりながら、「わが勘九郎史」を書き綴ることにしたい。

初舞台の『昔噺桃太郎』と、チビッコ歌舞伎の『白浪五人男』のことは前に言った。『五人男』の南郷力丸が八歳である。それ以前というと、十七代目がいかにも親子共演の幸福を味わったかと思われるものに、『親子燈篭』という新作がある。もともと作者の村上元三が十七代目に当てて、幇間の哀歓を手だれの筆で描いた一種の家庭劇だが、題名のとおり、子供の役が活躍し子役のかわいらしさで見物を喜ばせ、またしんみりさせる。十七代目の庶民的な愛嬌と、やりとりの間のよさ、うまさが生きて、初演のときから好評だったが、実はそのときまだ勘九郎は誕生していず、子役は慶三といったいまの秀調だった。だから親子共演による『親子燈篭』が演じられたのは再演以降ということになる。

昭和三十六年五月、六歳の勘九郎の大阪初お目見えに、『昔噺桃太郎』と合わせて出し

て人気嘖々、その秋に東京でもということになった。勘九郎オソルベシという評判の立つきっかけとなったのは、むしろこれによってであったかもしれない。父子が愛嬌を競い合って脚本のしゃれた空気を活かしており、夫婦喧嘩のあとで屈託する父子が醸し出すペーソスが中でも快い、などというその折の劇評をいま読むと、五十歳を過ぎた父と六歳になったばかりの子を、評者がまるで対等のような書き方をしているのがおもしろい。

夫婦喧嘩のあとの屈託、と劇評がいうくだりで、そっくりな顔をした五十男の十七代目と六歳の十八代目が、縁先で同じようにあぐらをかいて頬杖をつく姿のおかしさと勘九郎のかわいらしさを、当時の『演劇界』のグラビアが如実に伝えている。父子共演の幸せを十七代目がしみじみ味わったのはこのときではなかったか、と私は推測する。

しかし名子役としての勘九郎をつくづくと堪能し、舌を巻きながら見たのは、もう少し後、勘九郎九歳から十一,二歳ごろ、年号にして昭和三十九年から四十一、二年ごろまでではなかったろうか。昭和三十九年五月の『花上野譽碑(はなのうえのほまれのいしぶみ)』通称「志(し)渡寺(どうじ)」の田宮坊太郎は、その頃歌右衛門がつぎつぎと新しい役に挑み、上演が稀な狂言を復活したり掘り起こしたりしたひとつとして見たものだった。親の敵の森口源太左衛門を、幼いうえに唖者で口のきけない坊太郎に討たせるため、乳母のお辻が水垢離を取って祈願するという、「金比羅利生記」という別題があるように、奇蹟劇の一種で、本水をつかって井戸の水を何杯もあびている歌右衛門の姿が目に焼きついている。

勘九郎の役の坊太郎は、口がきけないが乳母を思って桃の実を盗んだり、砂文字を書いて盗みの理由を説明したり、子役としてはかなりの難役である。なまじに達者にやると、小面憎い感じが先に立って、哀れがなくなってしまう。この、歌舞伎狂言としては決して名作とはいえない芝居が、少なくとも印象にいまも残る舞台になったのは、歌右衛門の熱演もさることながら、勘九郎の、巧みだが情の表出が自然で、こまっしゃくれた嫌味のない柄のよさと演技が、大きくものを言ったからだった。

同じ月の興行、しかも『志渡寺』のすぐ次に、勘九郎は父十七代目と『舞鶴(ぶかく)雪月花』という新作舞踊を踊り、これも素敵な出来だった。近年に十八代目の手で再演されたから見た人も多いだろうが、萩原雪夫作のこの踊りは、上の巻が「さくら」、中の巻が「松虫」、下の巻が「雪達磨」と三段返しの構成で、「春」は若い頃は女形だった十七代目の娘姿、「秋」は勘九郎と親子で秋の虫のユーモアとペーソス、「冬」は夜の間いばっていた雪達磨が朝が来て溶けてしまうおかしみが狙いである。勘九郎はこの松虫の子でも、坊太郎と同じく、感情移入の自然さと情感の深さ、巧みでありながらおとなこどものような嫌味のなさが見事だった。もうこの頃には、単なるアンファンテリブルという興味本位ではなく、末頼もしい存在として万人の見るところとなっていた。先に言った梅枝とともに胡蝶を踊った『鏡獅子』が同じ年の秋である。

翌四十年は、舞台年譜を見ると、五月の六代目菊五郎十七回忌の大一座の公演で、父の『良寛と子守』で父子共演をした一役しか演じていない。勘三郎の親馬鹿ということが、この当時すでに囁かれていたが、こうして記録をたどってみると、やたらに役をさせて喜ぶような育て方は決してしていなかったことがわかる。この坪内逍遥作の新舞踊では、踊りの巧さだけでなく演技の確かさも求められるが、これもすでに書いたように、この子は本当に良寛の話に聞き入っている、とその役者ごころを、批評子に舌を巻かせている。

この批評子は、前年の十七代目の『鏡獅子』に厳しい採点をした浜村米蔵だが、ちかごろの勘三郎ではこの良寛さんに一等感心したと言い、その上で、勘九郎の子守にはなお一層感動した、六代目(菊五郎)の天分といったものは、隔世遺伝で勘九郎に分け与えられているのかも知れないとひそかに考えさせられた、と書いている。菊吉双方の血をもっとも近く受けているもの、ということは既に誕生のときから、事大的なニュアンスも含めて言われたことだったが、このころから、もっと実質的な意味合いをもって、勘九郎の天分というものに再び注目が集まっていたのは、当時の私自身の記憶に照らしても間違いない。

つぎに、『恋女房染分手綱』の自然生(じねんじょ)の三吉というのがある。翌昭和四十一年正月の歌舞伎座、尾上梅幸の重の井である。

自然生というのは、字の通り、生まれながらに育った自然児ということである。同時に、自然薯、つまり自生の山芋という意味でもある。幼いながらも街道筋で馬方をしている三吉少年が、姫君の旅のなぐさみにと呼び込まれた縁から、大名家の幼い姫君の乳母をしている実の母と出会うが、母親は、これからさる大名家へ輿入れをしようという姫の乳母という立場上、親子の名乗りをすることもできず、身を引き裂かれる思いで別れをするというのが、「重の井子別れ」という通称で知られるこの芝居の、昔から泣かせどころになっている。

三吉という子供を生んだのには、重の井には相応の事情があってのことだが、五歳のときから馬方をして稼いでいる三吉は、煙草も呑み、ませた理屈も言う。子役が活躍する演目の代表的なひとつだが、それだけに、悪達者でこまっしゃくれた子役がやると、鼻持ちならなくなるおそれがある。「親子三人一緒ににいたい」とか「父さん母さん養いましょう」という、言葉の上の生意気さが、その心根の純朴さを通じて観客に訴えなければ、お涙ちょうだいの古臭い母物芝居という識者の批判を覆すことがむずかしくなる。当時は、歌舞伎の持つそうした一面へのアレルギーはいまとは比較にならないほど強かった、ということを考えておく必要がある。『先代萩』だの『重ノ井』だのというと、冷笑的に見るインテリ層という存在が一方にあり、また一方に、母物映画が大流行した日々はまだ遠く去ってはいない、という時代環境である。いわゆる高度成長期のとば口にあって、冷笑するインテリ層と、岡や重ノ井にストレートに共感するファンと、双方が「戦後」という時代の作っていた心的環境の中にあったのだ。「いま」より「当時」の方が、歌舞伎の「後進性」に対する批判も拒否反応も、はるかに強かったことを知っておかなければならない。

勘九郎の三吉のすぐれたところは、そういう幣が微塵もないことだった。ませたところと年齢なりのところとが程よく融合し、セリフ尻を潤ませたり愁いを利かせたりする技巧や、歩きっぷりにも馬子の生活を反映させる身のこなしや利発さ加減、「伊達の与作が惣領」ときっぱり強調してプライドを示す解釈など、教えも教え覚えも覚えたもの、という『演劇界』の劇評は、することは達者でもこまっしゃくれた嫌味がない勘九郎の舞台ぶりをよく伝えているが、「役における自己陶酔が既になされている」という締めくくりの一言が、十八代目勘三郎となったのちに至るまで一貫する、演技者としての本質に触れているかのようだ。書いたのは如月青子さんである。

『良寛と子守』のときの子守が、良寛の話に本当に聞き入っているという評言とも通じているし、父の十七代目の舞台ぶりとも重なり合う。大袈裟なたとえになるのを承知で更にいえば、「まだ足らぬ踊り踊りてあの世まで」という祖父六代目菊五郎の、まるで辞世ともとれる一句すら、そこに重ねることも不可能ではないだろう。もちろん、満十歳のときの無心さと、大人の演者としての心境とはまた別にしても、役に自己陶酔する気質という一点で、この三代の演技者に相通じるものを見たくなるのは否定できない。つまりいま振り返れば、満十歳にして既に、勘九郎は単なる名子役というより、役者としての稟質をくっきりと示しはじめていたのだということになる。

それから、あの『加賀見山(かがみやま)再岩藤(ごにちのいわふじ)』の志賀市である。子役時代の勘九郎を語るのに欠かせない、これが一番の「名演」であったといっていい。

『再岩藤』は、昭和四十二年九月のこの時、大正九年以来四十七年ぶりの上演という触れ込みで、前年に開場したばかりの国立劇場が、創立の理念として復活による通し上演に取り組んでいたひとつとしての上演だった。このときに、又助と二役で悪人方の局岩藤の亡霊をつとめた十七代目が、白骨から甦って日傘にのって宙乗りで花見をする場面で、ばらばらに散乱していた白骨が寄り集まって骸骨となる「骨寄せ」や、「宙乗り」といった久しく大歌舞伎の舞台に乗らなかった手法を復活させたのが評判となった。のちの市川猿之助の活動の引き金になったり、また十八代目自身も、のちに平成中村座でさらに発展させて演じるなど、このときの復活上演が、その後の歌舞伎に新しいうねりを生む機縁ともなった。(人も知る、猿之助、いや猿翁の『千本桜四の切』の宙乗りは、翌年三月が初演である。)

さて子役の志賀市だが、いうまでもなく、お家横領をたくらむ悪臣にだまされて奥方を殺してしまった鳥居又助が、申し訳に腹を切る場面で、盲目の幼い弟志賀市が、兄の悲痛な死も知らずに、傍らで「飛鳥川」の曲を琴で弾き、歌うところが見せ場である。勘九郎の演じる盲目の子按摩志賀市は、通常の意味での名子役という枠内で納まらない、すぐれた少年俳優の誕生を告げるものだった。『演劇界』の志野葉太郎さんの劇評も、勘九郎が抜群、大人たち全員が食われてしまっている、琴もうまくこなしたが、それより何もしないで膝に手をおいてションボリすわっているときの巧さときたらただもう感服、身障児の寄る辺ない哀れさが測々とにじみ出ていると手放しの絶賛だが、勘九郎十二歳、幼いながらもすでに役者心がはっきりと育っているのがわかる舞台だった。良寛の話に本当に聞き入っている子守の娘とも、自然生の三吉の役への自己陶酔ともつながる、役として生きることを、勘九郎はすでに知っていたかのようである。

名子役としての勘九郎の名はますます高く、こののちも続くが、役者十八代目勘三郎を考える上で、私にとっての「名子役勘九郎」はほぼ以上を振り返れば足りる。先に言った父子共演の『連獅子』が翌々年四月、勘九郎が満十四歳を目前にした春のことだった。

25・「ゐ」の章 (談話・子役時代について)

―――僕ね、名子役って言われる割には、やってないんですよ。小太郎やってない。千松やってない。なんにもないんですよ。カカサマイノーっていうような役って経験がないの。子役の十種みたいのあるじゃないですか。その手の役って三吉ぐらいじゃないですか。田宮坊太郎なんて特殊な役ですから。これ、心理だから。いわゆるカカサマイノーじゃできない芝居でしょ? 三吉はね、うちの弟子の千弥かな、誰かに教わったんですね。

―――それから志賀市。これは思い出がありますわ。手を折ったんですよ、階段から落ちて。琴弾かなくちゃならないでしょ。それで弾いたのがね。とても痛かったけど休めない。これはね、役者魂というか、この役で植えつけられた。

やっぱり、形で入らなかったかもしれないね。本当にこう感情でやった。それでいいような役ばっかりじゃないですか、ボクのやった役って。感情出したらおかしいんだもの、普通の子役は。そういう役はやらなかった。

―――二条城の秀頼ね。これは好きな役でした。ぽーっとしてやれ、ってこと言われてね。いいよいいよって言われて。そういうことあんまり言われなかったから。家の親父がむかしやった秀頼もよかったらしい。