随談第490回 勘三郎随想(その21)

17.「れ」の章

さてここで、勘三郎にとっての『鏡獅子』という踊りについて、語らなければならない。これこそが、父十七代目勘三郎を経て、祖父六代目菊五郎へとまっすぐにつながる、勘三郎にとっての芸の核心だろうからだ。先に見た『髪結新三』をはじめ、六代目菊五郎から父十七代目を経由して十八代目勘三郎へと伝わる演目は少なくないが、勘三郎自身、自分のなかにある六代目菊五郎への憧憬と、そこへつながる自身の芸の筋道を、『鏡獅子』の中に見ているように、私には思われる。

ちょっと解説風なことを言うと、この曲には原曲があって、『枕獅子』という、題名からして隠微なイメージのその原曲は、遊女が枕を手にして踊るという遊里を背景にした舞踊だった。後半は獅子になるが、「石橋(しゃっきょう)」という、天竺の清涼山に出現する霊獣である獅子の狂いを見せる能楽の舞を歌舞伎に取り入れ、しかもそれを、傾城姿の女形が踊るというのが趣向になっている。だから獅子といっても、牡丹の花で飾った二枚の扇を手獅子に見立てた優美でたおやかなものである。優美だが、その根元には傾城が枕をもって振りをするという濃艶な色気がある。その色気こそが、歌舞伎の本来を支える生命だった。

その『枕獅子』を本歌取りして『鏡獅子』に作り変えたのは、明治の歌舞伎改革者として毎度名前の出てくる九代目市川團十郎で、明治二十年代という時代の志向、歌舞伎を遊里趣味から脱却させて典雅高尚なものに改良しようという團十郎自身の指向などが絡み合って、團十郎は、遊女と枕という隠微な連想を伴うモチーフを消して、鏡開きと女小姓という清純で高等なイメージへと転換させた、というのが近代歌舞伎の教科書風記述のおさらいである。

従来の女形舞踊の概念を破って、後ジテの獅子を豪宕・勇壮な、前後の対応を振幅の大きなものに作り変えた。前段の可憐な乙女と、後段の力強い獅子の精の双方をひとりの役者が踊り抜く。それこそ、歌舞伎俳優ならでは出来ないことであって、古い歌舞伎の殻を破りながら、きわめて歌舞伎的である、という意味で、團十郎の考えた歌舞伎改革は、この『鏡獅子』に最も成功した形で結晶しているといえる。

しかいその頃すでに老境に入ろうとしていた團十郎は、明治二十六年三月の歌舞伎座での初演は好評であったにもかかわらず、その後は一度再演したきりで終わっている。体力を要するむずかしい振りをつけたからだとされる。たとえば、前ジテの踊りに、中ダメといって、ふつうなら膝をつくところでつかずに、膝を曲げたまま、ふわりと身体を宙で支えるようにしてきまる、つまり身体を溜めた姿勢のまま一定時間静止する、という振りが随所にある。強靭な足腰の筋肉が必要となる。触ってごらん、と言われるままに、一度、勘三郎の太ももに触れてみたことがあるが、まるで陸上競技の選手のような筋肉だった。激しい動きをする後ジテの獅子の狂い以上に、前ジテの乙女の踊るくだりの方に、体力的には一倍苦しい振りがついているのだ。皮肉でもあり、高踏的ともいえる。

手獅子を持ってからのくだりも、後見の操る蝶々に見とれている内に、手に持った獅子頭が生き物のようにカタカタと音を立てて動き出して、舞い遊ぶ蝶を追う。弥生はその手獅子に引っ張られるように花道へ連れていかれる。花道で倒れるが、獅子の精が乗り移った手獅子は蝶を追って鳴り続け、弥生は引き起こされるように立ち上がると、そのまま花道の奥へと引き込まれてゆく。

と、見たさま本位に書くとなるが、じつはいうまでもなく、演じる者がそう見えるように手獅子を扱い、本舞台から花道へと駆け込むわけで、これもまた、皮肉であり高踏的な演出といえる。技巧としても体力的にも一番至難なのは、花道でいちど倒れたあと、手に持った獅子頭に引きずられるように立ち上がるところだといわれる。ここは、弥生は獅子の精に操られるままに、自分の意志に背いて動くのだから、自分から立ち上がるように見えてはいけない。

もちろん、後ジテの獅子になってからも、毛の振り方にも幾種類かの技巧があり、体力的にも激しい動きがあるから、高齢になっても踊れるというものではない。といって、未熟な踊り手だと、毛を振り切れないでしまうという光景もまま見かけたりもする。

こうした、技巧としても身体運動としても非常に困難な振りをつけたために、團十郎の後は、大正三年に若き日の六代目菊五郎が取り組むまで、本興行の舞台に乗ることはなかった。このときに菊五郎は、團十郎の実の娘である実子(じつこ)と扶伎(ふき)子(こ)のふたりにつぶさに教えを受けている。ふたりは、それぞれ二代目の市川翆(すい)扇(せん)に市川旭(きょく)梅(ばい)という芸名を持つ女優であり、旭梅はのちの新派の名女優三代目翆扇の母でもある。九代目團十郎が『鏡獅子』を初演したとき、前ジテから後ジテに扮装を変える間のつなぎに踊る胡蝶を演じたのは彼女たちだったから(女性が歌舞伎の本興行の舞台を踏むのは当時としては珍しく、話題となったらしい)、その折手ずから團十郎の教えを受け、振りを知悉していたのだった。そもそも團十郎が『鏡獅子』の発想を得たのは、姉妹が家で『枕獅子』の稽古をしている様子を見ているときだったといわれている。

ともあれ、菊五郎は翆扇・旭梅を通じて團十郎の『鏡獅子』をつぶさに学ぶことで、本格を受け継ぐ者としての自負を獲得した。だがそれと同時に、いま私たちの知っている『鏡獅子』は、ある意味では、六代目菊五郎が作ったのだ、とわたしは思っている。

大正三(一九一四)年から昭和二十(一九四五)年までの約三〇年間に、菊五郎は数知れぬほど(二十一回といわれる)『鏡獅子』を踊っている。それによって大正・昭和の観客に『鏡獅子』という踊りのイメージを定着させたことになるが、それはまた、ひるがえっていうなら、菊五郎と同じ時代に生きてその芸を支持した観客によって、『鏡獅子』は作られたのだということでもある。いま国立劇場のロビーに飾られている巨大な木彫による「鏡獅子像」は、木彫家平櫛(ひらくし)田中(でんちゅう)によって、昭和十一年ごろの、最盛期の菊五郎をモデルにして製作されたものとしてよく知られているが、頬のふくよかな丸顔に獅子の隈が見事に乗って、それ以降、いまでも、『鏡獅子』といえば丸くふくよかな顔でないとそぐわないようなイメージが定着している。だが、写真に残る九代目團十郎の『鏡獅子』を見ると、人一倍長い顔なのはともかく、いまわれわれが抱いているイメージとは距離がある。やや異質な感すらあるといっても過言ではない。闊達で明朗な獅子は、團十郎も知らない近代の観客の志向の反映である。弥生の清純も同じだろう。『鏡獅子』には、古い歌舞伎が宿していたに違いない翳のようなものが一切ない。振りは團十郎の踊った通りであったとしても、明るく晴朗で華麗な、近代の観客が歌舞伎に求めた美しさだけで成り立っている。平櫛田中の制作した『鏡獅子像』は、そうした近代歌舞伎のエッセンスを見事に造形化しているように、わたしには見える。菊五郎ののち誰が踊っても、『鏡獅子』のこの性格は変ることはない。

『鏡獅子』の弥生だけではないが、若い娘の役のとき、菊五郎は眉を細い八文字のような、下がり眉に描くことをはじめた。一九二〇年代にイット女優といわれて人気のあったハリウッド・スターのクララ・ボウの眉の描き方に似せたのだ、という評判が立った。戸板康二さんはこれを、自分の丸顔に配慮したためであり、そのころの人気女優松井須磨子などと相似点があると指摘している。明治の美人の典型だった瓜実顔が丸顔にクイーンの椅子をゆずる時代と時期が重なるとすれば、これは演劇史と風俗史の交叉を論ずるためのテーマにもなり得る、というのが戸板さんの意見だが、つまり菊五郎は、新歌舞伎十八番『鏡獅子』の前ジテの扮装に、当時の現代女性のメークを取り入れたのだ。

六代目菊五郎の『鏡獅子』には、もうひとつ、映画として撮影され今日でも見ることの出来る映像の『鏡獅子』がある。この映画の製作にまつわるさまざまな事情もからんで、菊五郎自身はその出来栄えに不満をもっていたとも伝えられが、昭和十年という最盛期の菊五郎の姿をとらえ、小津安二郎が監督をつとめるというもうひとつ話題におまけのついたようなこの映画は、本来、菊五郎の『鏡獅子』によって日本文化を海外に紹介するという目的で作られたものだった。つまり、菊五郎の『鏡獅子』は、その時点で、海外に対する日本文化という背景を背負って、歌舞伎を代表するシンボルだったことになる。

18.「そ」の章 (談話・『鏡獅子』について1)

―――六代目のおじいさんは、見ぬ人であり、身内であり、写真集であり、うちのおばあちゃんであり、母であり父であり、いろんな人からいろんなことを聞いたり、いろんなもの読み漁ったりして、ぼくのなかに出来上がっているんですよ。

―――あの映画になって残っている『鏡獅子』ね。あの踊りの格好がね、どんなに腰を折ってどんな形をしていても、皆さんも写真を見ていただくとわかるけど、定規を当ててみますと、こういう風に頭からお尻の穴まで見事に真直ぐなんですよ。ぶれない。このぶれない踊りを踊るのは、これはやりたいなと思ってね。それから、いろんな文献を読んだり、それからまあ、神谷町のお義父(とう)さん(=中村芝翫)もそうだし家の親父もそうだし、松緑さんもそうだし羽左衛門さんもそうだし、いろんな人がいろんなことを言うんです。いろんな人がいろんなことを言うような役者が自分のお祖父さんにいたっていうことがね、なにかこう駆り立てられたし、また踊りの話とかなんかも、ぼくが踊りを踊らせていただく上でも、非常に参考になりましたね。

―――それから『鏡獅子』の顔もずいぶん真似をして描いた。新橋演舞場の二階のロビーにうちのお祖父さんの肖像が飾ってあるでしょ。あの、羽二重をつけた顔だけのやつね。あれがそっくりだっていわれるの。そりゃあそうだ、俺、真似してるからね。真似してもやっぱり血がつながっていなければ、あそこまで似ないかなっていう気持ちがありますよね。自分で見ても似てますよ。

―――『鏡獅子』って踊りは特別なものなんですよね。六代目にとっても特別なものだったと思います。昔の新聞の切り抜きを、どなたかが父に下さったのがあって、それを見ると、「鏡獅子」って書いて「ろくだいめ」って仮名がふってあるんですよ。鏡獅子、イコール六代目菊五郎っていうわけね。この間、エベレストを見にネパールへ行ったんですけど、ああいう神聖な山を見ると、自分がどこまで行けるか、そういう風な気がしてきますね。

―――前に、高校生ぐらいの時だったかなあ、三越で六代目菊五郎展ていうのをやったときに、あの『鏡獅子』の映画を見せたんですよ。それを毎日見に行きましてね、「(口三味線で)獅子は勇んでトッツルテンツルトッツルテン」て、自分も首を動かして首の位置を写し取りました。そんなことやっても意味ないかも知れないけれど、それをやったお陰であそこのシーンになると、あの映画の感じの通りの首使いは出来るようになりました。恥ずかしいような話だけれども、そのぐらいなにかこう夢中で通いましたね。

やっぱり本物を見たかったですね。それはもう、間に合わなかったから仕方がないんですけど。