随談第489回 勘三郎随想(その20)

16.「た」の章

十七代目の、ひいては「菊吉」の話が、続きすぎたかもしれない。十八代目のことをよりよく語るために、話をそこまでさかのぼらせたのだが、ここらで、それが十八代目とどう関わっているかに、話を進めなければならない。

十八代目が、十代の少年時代に父の十七代目と踊った『連獅子』のことを前に言ったが、あれが、少年時代の十八代目を象徴するものだとすれば、それ以上に、十八代目を語る上でどうしても欠かすわけにいかない二つの舞台がある。ひとつは、昭和五十一(一九七六)年四月、二十歳直前に踊った『鏡獅子』、もうひとつは、それから十年後の九月、三十歳のとき踊った『鏡獅子』である。

昭和五十一年四月、この月の歌舞伎座は前にも言ったように「江戸歌舞伎三百五十年猿若祭」と銘打った豪華顔合わせだったが、その一演目として二十歳の青年中村勘九郎の踊った『鏡獅子』のめざましさが、興行全体の成果を浚うほどの大評判となった。いま思い出しても、その規矩正しく凛然とした、しかも血湧き肉踊る躍動感は、ある実感を伴って私の中に生きている。

興行全体の成果を浚う、といったが、この月の顔ぶれの豪華さといったら並のものではない。ほぼ三十年前のこの頃、戦後歌舞伎はその最も熟した季節を迎えつつあった。昭和二十四年と二十九年に、菊吉、つまり六代目菊五郎と初代吉右衛門の死があって、このふたつの死を契機に、主力が世代交代してから、既に四半世紀が過ぎている。菊吉の後を担ったのは、六世中村歌右衛門と七世尾上梅幸を立女形とし、十一世市川團十郎、八世松本幸四郎、二世尾上松緑の三兄弟に十七世中村勘三郎のビッグ6(シックス)を中心とする面々だった。いずれも、生年が明治四十年代から大正初期にほとんど集中している。十一世團十郎のみはこの時より十一年前に早世していたが、年齢にしてほぼ六十代、それぞれに円熟、爛熟のさなかにあった。

また、この人々の子供たちも、ようやく若手時代の生硬未熟さを払拭して、中堅世代への橋頭堡を築きはじめていた。後の名前に統一させて言うと、十二世團十郎、七世菊五郎、九世幸四郎、二世吉右衛門、初代辰之助(三代目松緑)といった人たちの間へ、現在の仁左衛門の片岡孝夫と玉三郎が、「孝玉」とか、頭文字をとって「T&T」などと呼ばれて惑星のように参入してくる、というのが、現在の第一線クラスの人々が当時描きかけていた勢力分布図だった。

こうした季節の中で、十七代目勘三郎が「江戸歌舞伎三百五十年猿若祭」と銘打つ興行を主催するというのも、いまやその栄華の頂点に立ったことを誇らかに示すものといえた。『弥栄(いやさかえ)芝居(しばいの)賑(にぎわい)』という外題のついた「芝居前」では、幸四郎・松緑以下の男伊達、歌右衛門・梅幸以下の女伊達がずらりと並ぶ中、十七代目の扮する座元猿若勘三郎が、二十歳の倅勘九郎の扮する若太夫を従えて手締めをした。栄誉という意味では、五年前に亡父の三世中村歌六五十年忌の興行を実現したのと並んで、十七代目はいまその絶頂に立つものともいえた。このとき勘九郎二十歳目前、この記念すべき場に、その爽やかな若太夫ぶりは誰の目にもあざやかだった。その凛とした姿を見ると、むしろこの猿若祭は、丁年に達した勘九郎を、満天下に披露するためのようにも思われた。

ビッグ6の他の面々の子供たちの中で、彼勘九郎ひとりが、年齢的に離れている。十七世勘三郎は、親世代のなかではむしろ最年長の世代であり、同じ市村座の子役として育った中でも、八代目三津五郎や十四代目守田勘弥などとともに(ふたりとも、まったくの偶然だが、前の年の一月と三月に相次いで世を去っていた)、大正中期までの、「菊吉」が相拮抗して勢力と人気を二分した、いわば市村座時代前期の空気を吸って育った世代であり、梅幸や十七代目羽左衛門等、吉右衛門が去って六代目菊五郎の一人天下となって以後の、市村座時代後期に育った世代とは、その芸風や感覚に微妙な差異をみせていた。それにもかかわらず、その十七世勘三郎の子が、ひとり年齢に開きがあるのは、四十七歳という歳になってようやく授かった男子だったからというより他はない。このことはやがて十八代目を考える上で見逃せない意味を持つことになるのだが、ともあれこの時点では、ようやくいま、大人の役者の仲間入りとしてのスタートラインに立ったものと受けとめられたのだった。

父の十七代目は、この興行の中心として、昼の部では『加賀見山(かがみやま)旧錦絵(こきょうのにしきえ)』の老女岩藤という女の敵役で、歌右衛門の尾上、梅幸のお初という当代の立女形ふたりを相手に悪の魅力を愛嬌をたっぷりに演じ、夜の部では、五代目・六代目と二代の菊五郎の芸を継承した『弁天娘女男白浪(めおのしらなみ)』通称「白浪五人男」の弁天小僧を演じ、爛熟の芸を見せた。柿なら熟柿、ワインなら年代物の古酒の味か。ある意味では、この時機に至って十七代目は、亡父歌六から受け継いだ古い役者の血を、それまで以上に芸の上に濃厚に顕わしはじめたともいえる。それは、弁天小僧のような、菊五郎直系の音羽屋の家の芸の上にも顕われ、玄妙複雑な味わいを見せていた。十七代目勘三郎、このとき六十七歳。

そうした中での、二十歳の勘九郎の『鏡獅子』だった。『娘道成寺』とともに女形舞踊の大曲として、ふつうなら、一日の中心に据えられる演目だが、このときは夜の部の最後に置かれていた。この大一座の中で、勘九郎の出し物としてはこの位置に置くしかない、苦肉の策だったのだろうが、老練の劇評家の志野葉太郎さんは、戦前からの数々の大舞台を見てきた人らしく、演目立ての坐りの悪さに苦言を呈しながら、同時に、その坐りの悪さを救ったのが勘九郎の好演であり、『芝居前』の若太夫といい『鏡獅子』といい目を見張る出来を見せ、夜の部はまさに勘九郎の「夜の部」といった趣きさえあると絶賛している。

夜の部の最後の演目といえば、観客は、一日の観劇を楽しみつつも快い疲れを覚えながら、くつろいで見るのが普通だが、その最後にいたって、それは倦怠を吹き飛ばすような鮮烈な舞台だったのだ。このときの『鏡獅子』こそ、一個の自立した役者としての十八代目勘三郎のデビューだったのだと、私は思っている。若い花形俳優が踊る『鏡獅子』を若獅子と評するのはよくある表現だが、このときの勘九郎こそ、そんな手垢にまみれた常套句とは無縁の、まさしくその名にふさわしい若獅子だった。