随談第488回 勘三郎随想(その19)

14.「か」の章

そろそろ「勘三郎随想」を再開しよう。が、もうしばらく、十七代目の話を続けたい。十八代目のことを考える上で、どうしても必要だと思うからだ。ちょっとばかりお勉強風の固い話になるが、しばらく辛抱してお読みいただきたい。

長兄初代中村吉右衛門、次兄三世中村時蔵と、歳の離れた兄を持ち、その兄たちとは幼い日々を共にすることなく育った十七代目勘三郎という役者の、芸とその人となりを考えるとき、おそらくふたりの兄たちよりも濃厚に、父三世歌六の気質を受けていると思わずにはいられないが、それが十七代目にとって、より多く無意識の領域に属するものとするなら、長じてから、より意識的に多くを学び、多くを血肉として受けついだのが、六代目尾上菊五郎の芸だった。

十七代目がいかに六代目菊五郎を崇拝していたかについては、本人だけでなくさまざまな人たちによって、既にあまりにも多くのことが語られている。その中からひとつだけ挙げるなら、若き日の十七代目自身の姿をも同時に語っているエピソードとして忘れがたいのは、ときに兄吉右衛門と一緒に暮らしていた家から抜け出しては、菊五郎の家へ駆けつけて、一門の若手や門弟たちなかに混じって、菊五郎の話を聞いたという話である。

菊五郎は、一日の芝居が終わってから、晩酌を豪快にやりながら、のちの梅幸や松緑をはじめ一門の子飼いの者たちを前にはべらせて芸の話をするのが習慣だった。もちろん、酒が入っての、心を許したものばかりを相手の水入らずの場だから、改まった芸談というより、文字通りの放談のなかにおのずから芸の話が随所にとびだしてくる、といった趣きであったらしい。ときには、オイおめえ、『道成寺』のあそこのとこ、ちょっと踊ってみろ、などと不意打ちを喰らわされることもあって、平素の精進のほどを試されることにもなる。

菊五郎の芸談のうまさ面白さはさまざまな逸話となって伝わっているが、連日のようにこれが夜更けまで続く。身近の者にとってはときに煙たくもあったに違いないことも、参加することのかなわない者には、いても立ってもいられないまでの羨望の対象となる。菊五郎と兄の吉右衛門は、「菊吉」と併称され、万事につけライバル視される間柄であると同時に、性格から趣味、暮らしぶりにいたるまで、見事なまでに対照的だったらしい。奔放闊達な菊五郎に対し、慎重小心な吉右衛門は、菊五郎を憧憬、崇拝する弟にとっては、気欝でもあり、板ばさみのような苦悩も味わったに違いないが、そうしたふたりの目に見えない対立葛藤の狭間に、おのずから立つことになったのが、十七代目のいわば宿命だったといえる。

はるか後になって、十七代目は菊五郎を岳父(ちち)と呼ぶめぐり合わせの当事者になる。その長男として生まれた十八代目が、「菊吉」双方の血を最も濃く引く者、と目されたのも、こうして十七代目の思いをたどってみれば、単に、近代歌舞伎の両巨頭の血を引く者、というだけではすまない、ほとんどその役者人生のすべてを貫く因縁と絡み合う意味合いを持つものであったことが見えてくる。その意味で、十八代目勘三郎は、生まれながらにして、「菊吉神話」に包まれた申し子だったのだ。

もちろん、現在「菊吉」の名跡を名乗る現七代目菊五郎も、現二代目吉右衛門も、菊五郎なり吉右衛門なりの栄光を受け継ぐ者たちであることに変りはないが、十七代目という存在を介在させて菊吉双方の芸と血という観点に立つとき、二代の勘三郎の持つひときわユニークな意味が見えてくる。

「團菊」と呼ばれ、九代目市川團十郎とともに明治の歌舞伎を代表した五代目尾上菊五郎という覇者を父に持つ、生まれながらにして名門の御曹司として人となった六代目菊五郎に対して、中村吉右衛門という名前は、自身が初代という歴史の浅さを察知させる。この家は、役者の系図としては、吉右衛門には祖父にあたる初代中村歌六からはじまるに過ぎない。だがこの家系は、傾城の役を得意にしたので傾城歌六と仇名がついたという初代から、その子である三代歌六を経て、初代吉右衛門、三世時蔵、十七代勘三郎の三兄弟から、現在の十八代目勘三郎やその姉の波乃久里子や、血縁の九代目幸四郎、二代目吉右衛門、さらには現在の五代目時蔵、五代目歌六、三代目又五郎等まで考えても、その芸といい気質といい、これほど役者の血を濃厚に感じさせる家も滅多にない、芝居巧者の家系であることが、あらためて見えてくるだろう。(いうまでもないが、三世時蔵の子で早世した四世時蔵、映画界で大成した萬屋錦之介や中村嘉葎雄らも、この大系図を構成する有力なメンバーだし、まだ将来は未知数とはいえ、三代目歌六の血を引く若手たちが大勢、後に続いているのはご存じの通りである。)

またこの家は上方の出自であり、明治初年、三代目歌六が若き日に東京に出てきたという家でもあった。義太夫狂言を得意とする役者としての身についた教養、芸風が、それを反映している。吉右衛門は、江戸前の世話狂言を家の芸とし、代々、江戸前という美学の体現者でもあった菊五郎に対し、時代物の義太夫狂言をその芸の根幹に据えることによって、明治の「團菊」に対する「菊吉」として、大正・昭和の歌舞伎の両頭目の地位にのしあがったのだった。十八代目が襲名披露の演目として演じた『近江源氏先陣館』通称「盛綱陣屋」は、初代吉右衛門の当たり役であり、東京の歌舞伎に人気曲として定着したのも、吉右衛門があればこそという由緒がある演目だった。(それと別に十五代目羽左衛門に始まる系譜もあるのは無論だが。それにしても『盛綱』にせよ『石切梶原』にせよ『引窓』にせよ、「團菊」を経ないで、吉右衛門と羽左衛門と、もうひとり初代鴈治郎と、この三人によって伝えられた今日の代表的な丸本時代物が三本もあるのは不思議である。)

十七代目も、ある時期から、『俊寛』とか『桔梗の旗揚』の光秀とか、兄吉右衛門の当り役を手掛けるようになり、盛綱も二度、演じている。十八代目が襲名の演目として選んだのも、たぶんご当人としては自然のことだったろう。しかし、昭和四十五年五月に「三代目歌六五十回忌追善」と謳って、十七代目が祭主となって盛大な興行を催した時(八代目幸四郎も十三代目仁左衛門も七代目梅幸も皆、口上の席にずらりと並んだのを見やりながら、ここにいるのは皆すべて、親類でございますと挨拶する十七代目の得意満面の様子が忘れられない)、歌六って歌舞伎座で追善をするほどの役者だったのかね、と囁き合っている声もあったのだ。

売り出した当初の菊吉を評して、というのは明治も四十年ごろの話だが(十七代目の生まれたのは明治四十二年である)楠山正雄という当時気鋭の批評家が、六代目菊五郎は親の死後、当然のごとくに家督を継いだ男、吉右衛門は丁稚小僧から番頭にまで出世して暖簾を分けてもらった苦労人という見立てをしたことがある。六代目菊五郎の自負を支える根拠として、父五代目の子であると同時に、少年時代に、茅ヶ崎にあった九代目團十郎の別荘に預けられて、芸の基礎を團十郎みずからの手で叩き込まれたということがあった。つまり菊五郎には、芸の上からも血の上からも、明治の歌舞伎を制覇した團菊直系の衣鉢を継ぐ者という誇りがあったのである。

一方の吉右衛門を、丁稚小僧から番頭に出世し、暖簾を分けてもらった苦労人とたとえたのは、少し辛らつすぎる比喩であったかもしれない。(むしろこの楠山のような言い方が、菊吉二人の対照を更に誇大化したきらいもあったのではないかという気もするが、この際それは他日の論としよう。)少なくと六代目菊五郎と対比し、一面を穿ったという意味では巧みな比喩であったのも事実で、吉右衛門は子役というのは初舞台のときしか経験していない。子供芝居といって、子役の年齢を過ぎたぐらいの少年ばかりで一座を組ませた興行が大人気を呼んだ、そのスターとして売り出したからである。ここにも、同じころ團十郎の別荘で英才教育を受けていた菊五郎との対照があるわけだが、ともあれ吉右衛門という人は、幼くして売り出した日から、腕達者な役者として知られ、倦まずたゆまず精進をつづけてきた人だった。スターでなかった日は一日もなかった代わり、時の来るまでゆっくりと力を蓄えるという豊かな日々は知らなかった人であったかも知れない。夏目漱石の門下で、のちにドイツ文学者として知られた小宮豊隆が、若き日に『中村吉右衛門論』という論文を書いて、その芸をロダンの彫刻になぞらえたりしたのも、そうした日々のことだった。

そういう、何から何まで対照的な六代目菊五郎と初代吉右衛門が、並び立つ両雄といった風に見られるようになったのは、一にも二にも市村座以来のことである。田村成義という歌舞伎座の参謀格だった興行師が、自身の資本で始めた市村座の興行は、明治の「團菊」にならって「菊吉」と呼ばれるようになったこの二人によって、近代歌舞伎史に大きな足跡を残すことになる。「市村座時代」あるいは、所在地の地名から「二長町時代」と呼ばれる菊吉並立の時代は、明治四十一(一九〇八)年から、吉右衛門が突如脱退する大正十(一九二一)年まで続く。前にも書いたが、十七代目勘三郎の役者人生は、幼名の米吉を名乗ってこの市村座で初舞台を踏んだのがはじまりだった。また六代目菊五郎との出会いも、この市村座だった。十七代目こそ、市村座の申し子なのだった。

15「よ」の章 (談話・父十七代目勘三郎のこと)

―――家の親父のことで凄いなと思うことといったら、端的に言えばお客さんを引きずりこむ、なんだろう、粉かけちゃう、金の粉かけちゃう。出てきただけでね。何ともいえないって言う、その何ともいえないって感じですね。

――― 一番、これは凄いなと思った役というのは、後にも先にもね、『馬盥』の光秀。しかも一日だけ。これ好江(=勘三郎夫人)も言いますね。舞台はNHKホール。変なとこですよ、花道も半分しかなくて。だけどよかったよお。あのね、銀色してました、光秀が。銀色。もう光秀だったんだ、ずーと。出から最後まで。熱が入ってたんだなあ。あれは、もう、おったまげましたよ。もう、なんか、あれがちょっと突出してるかな。どこがどうってことは言えないのよ。もう、凄い塊りが動いてた。

―――それから、これはまあ芸を見るというのとちょっと違うけど、子供のころに、自分が息子として見てて、同世代の学校の友達に見せたいと思いましたね。うちの親父の芝居を見せたかった。だって歌舞伎って難しいじゃないですか。小学校五、六年生ぐらいのとき、友達に歌舞伎っていったってそうは見てくれないですよ。でも、家の親父の『高杯』だったら、友達もみんなわかるんじゃないかとか、そんなことを考えましたね。だって楽しいから。それをすすめたかった。

それと同じようにうちの子供たちも言ってくれるんですけど、俺がやっているたとえば『狐狸狐狸ばなし』みたいんだったらわかりいい。中学の一、二年生のころに、絶対面白いんだから見においでよってことが言えたって。

―――やっぱり面白いっていうことではさ、家の親父の右に出るっていったら、一人しかいなくて、(二代目)鴈治郎さんでしょうね。なんともいえない役者だよ、両方ともね。それが、ある意味大切なことかもしれないね。小学生の俺が、同級生に家の親父の歌舞伎だったらわかるんじゃないかっていうのは、ありましたね。それからあと、親父の役で好きだったのは、『筆屋幸兵衛』。よかったですね。

―――こないだのあなたの幸兵衛を拝見して、お父さんのより雄々しい感じがしました。あの、子供を殺そうと決意して片足をぐっと踏み出すところとかね。お父さんのは、子供を刺そうとすると子供が無心に笑うので、刺し殺そうとした短刀を玩具の代わりにひらひらさせてあやしはじめるところ。どうしたって泣いちゃいますよね。でも、女々しいといえば女々しい。お父さんの方が泣かせてくれたけど、あなたのは、それは敢えて避けたのかなと思ったけど。

―――ああ、それはね、反面教師というか。そう、それは敢えて避けました。おっしゃるとおり。