随談第493回 今月の舞台から

勘三郎随想はちょっと一服して、今月見た芝居の話を何やかやお喋りすることにしよう。

前に新しい歌舞伎座についてのあれこれを書いた時、ロビーのソファが少ないのが難と言ったことがあったが、今度、入れ替え時に二階ロビーに行ってみたら、吹き抜けのところに、前の歌舞伎座とほぼ同じ形にソファが置いてあるのを知った。別にこのブログの効果というわけでもなかろうが、ともあれ、ご報告しておこう。

今月の歌舞伎座が、そうは謳っていなくとも勘三郎追善の含みであることは演目を見ても明らかだが、その観点から言うなら追善の実を挙げた一番は勘九郎の『鏡獅子』ということになる。つまり、故人もさぞや満足、というところ。骨太のところが、父よりも役者ぶりが大きくなる期待を秘めている分、いずれは父勝りというか、父に倣いつつ父とは別の自分の『鏡獅子』を築くことになる予感を抱かせるところが頼もしい。芝翫・富十郎既になく、父勘三郎も亡きいま、既に現在、これに勝る『鏡獅子』はあるだろうか? 菊之助のを久しく見ていないが、いまの菊之助ならどういう『鏡獅子』を見せるだろうか?

月半ばから変わった七之助のも見た。こちらは若女形の役者の踊る『鏡獅子』という趣きで、前ジテ後シテとも、そのたおやかさに七之助ならではの良さがある。兄と競うのはいいことだが、兄と同じに踊れなければいけないと考えない方がいい。兄とは別な清冽さに、七之助の生命があるのだ。

三津五郎が勘九郎の勝奴で『髪結新三』を演じ、勘九郎の太郎冠者で『棒しばり』を踊るのも追善ならではだが、同時に、これらの狂言がこの二人によってこれからも演じ継がれてゆくであろうという期待を抱かせる。もっとも新三の場合は、同じ役同じ狂言が三津五郎という演じ手に変わることによって、今までとはまた別な新三像が出来てゆくという、別な意味、別な興味の方がより大きい意味合いを生じることになる。辛口にきりりと引き締まった三津五郎の新三を、勘三郎の新三に馴染んだ観客がどう受け止めるかという問題もある。

『野崎村』のお光というのは、勘三郎若き日の傑作であり、娘方時代の代表作として生涯のベスト幾つだかに選ばれて然るべきものだが、福助とすればお光という役をつとめるという意味での追善であって、芸としては父芝翫の遺産継承のお光を見せることになる。(勘三郎は、この種の役はもっぱら、梅幸に教わった。)しかしこのお光にせよ、扇雀の久松にせよ、七之助のお染にせよ、弥十郎の久作にせよ、それぞれなかなかの好演でなかなかの『野崎村』になったのは、これはこれで良き追善の役目を果たしたと言える。

七之助にしても扇雀にしても、本来このあたりが「仁」なのだろう。二人とも、『狐狸狐狸ばなし』で意外な役で達者な一面を見せて、それはそれで結構なことだが、自分の本領を知り、耕すことの大切さを、殊に七之助は心すべきであろう。扇雀の『狐狸狐狸ばなし』の伊之助というのは、この人稀代の傑作として、存外この人、こういう辺りを梃子にして化けるかもしれない。殷鑑遠からず、『決闘!高田馬場』(デ、ヨロシカッタデショウカ?)をきっかけに大化けした市村萬次郎という先例もある。

弥十郎の久作を、かつてはこういう役といえば八代目三津五郎だったのを思い出しながら見ていた。特に似ているわけでもないのだが、同じ血筋として争われないものだなぁとは思う。冒頭にちょいと出る女中を芝喜松がやっていて、程よくしながら程よく喝采を浚っている。出るところは出ながら出過ぎない、その加減の的確さはこの種の役の手本というべきか。

終りに出てくる油屋の後家を東蔵がやっていて、とりわけこの人だと、もののわかった良識ある母親という感じがするが、本来の浄瑠璃からすれば、こんな、まるで世話のデウス・エクス・マキーナのような役ではないわけで、かの岡鬼太郎は、自分の言いたいことだけ言うために出てくるようなイヤな婆ァだという意味のことを言っている。しかし、『新版歌祭文』全三冊ではなく、『野崎村』という一幕物として見るならば、このお常さんという「世上の補い心の遠慮」を弁えた「大人」というのは、三島由紀夫が『ダフニスとクロエ』になぞらえて書いた『潮騒』に出てくる村の大人たちと同じような役回りとして、われわれの目に映じることになる。そうだとすれば、東蔵のお常というのはなかなか味わい深いものがある。(かの六代目菊五郎発明になる、幕切れのお光の演じ方にしても、『野崎村』を一幕物として考えてこそ、成立するわけだろう。)

もっとも、話がそういうことになると、舞台が回って裏の土手になるところで、船頭と駕篭屋の口論の入れ事は、今度は駕篭屋の片割れをしている橋吾の名題昇進の花を持たせるためだろうが、一幕物としての完成度ということからいえば、ない方がよいことになるし(それにしても、仮花道なしだと船を上手に入れるのに遅々として進められず、船頭役の三津之助に同情したくなった)、久作や久松が上手屋台(に寝ている筈の婆)を気遣う様子をしきりに見せるのも、丁寧なようで、しかし初心の観客には却って不審を抱かせることになるだろう。やはり婆を出すべきだということになるが、それなら、後家が持ってくる菓子折の金包みのいきさつももっと分るようにすべきだ、ということになる・・と、こんなことは既に言い尽くされて来たことだが、今度の台本は「さもしけれども」というところを「さもしいものなれど」と言い換えるなど、現代の観客に分りやすいようとの配慮をしているらしいフシが随所にあるので、ちょっと蒸し返してみる気になった。

今月の演目で『かさね』だけは、とくに勘三郎ゆかりというわけではない。(累を一度、やっているけれど。そうして、この種の役をつとめる時の例によって、なかなか古風な味わいを見せた佳品ではあったけれど。)しかし、いまこういう場で福助と橋之助でやるのは、また別の意味での好企画と期待した。即ち、勘三郎や三津五郎の次には、染五郎だ、海老蔵だという前に、福助や橋之助たちの時代が来なければならないと私は思っているからで、むしろそういう意味から、今月この場で二人が『かさね』を出すというのは、勘三郎追善の意に叶うというものである。

と、思ったのだが、ところがちょいと案外だった。累といい与右衛門といい、仁は良し、役者としての尾鰭のつき方から言っても、若手連中とはさすがに違うという処を見せてくれていい筈だ。で、それはそうには違いないのだが、いすかの嘴と食い違ったというか、釘が一本多すぎるのか足りないのか、踊りなのか芝居なのか、かゆいところに手が届かないというか、要するにドンピシャリと行かないのだ。この『かさね』というのは、長い芝居の前後を切り取って一幕だけ生かしたもので、何だかよくわからないところがいろいろあるのだが、それでも、見ていると何やら不思議に魅惑されるものがあるのだが、肝心のそれが、利いてこない。

福助の累は、風情といい決して悪いとは思わない。むしろこの責は橋之助により多く負ってもらわなければならないのだろう。たしかに橋之助は踊り手ではないかもしれない。しかしそれをいうなら、かつての白鸚だって、普通の意味での与右衛門タイプではないし、決して踊りで見せるという人でもなかったが、背後にある(筈の)ドラマを感じさせる、役者の踊りとして得心の行く与右衛門を見せてくれたものだ。それを考えると、今度の橋之助は、踊りとも芝居とも、どちらとも徹底していなかった感がある。おそらく橋之助には、少年時代から憧れた尊敬する先輩の誰彼の与右衛門がいろいろ目にあって、それをついなぞっていたのかもしれない。思うにこの人、歌舞伎を愛し過ぎているのではあるまいか。もちろん、愛して何が悪いわけはない。が、ほんのちょっぴり、耳かき一杯分ぐらいでいいから、歌舞伎を疑ったりするところがあった方が、餡子をこさえる時の隠し味の塩のように、味わいを深めることになるのではなかろうか?

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ABKAIなるものありて第一回自主公演を渋谷シアター・コクーンにて開催す。海老蔵の会の心ならむ。歌舞伎十八番『蛇柳』の復活と新作歌舞伎『はなさかじいさん』を試む。『蛇柳』は高野山奥の院にありしといふ霊木の精の伝説に基き松岡亮これを脚色し藤間勘十郎これを振付・演出す。『はなさかじいさん』はお伽噺「花咲爺」に基き宮沢章夫これを作り宮本亜門これを演出す。どちらも、まずまず無難の作なり。

『蛇柳』はこの種復活ものの例に洩れず、先行諸作のいいとこを採り破綻なくアレインジす。能仕立てにせしはその典型にして、且つこの他に妙案ありとも覚えず。アヽいつものデンかと心もち退屈させておきて、最後に至りて、後ジテ蛇柳の精を演じつつありたる海老蔵、突如、これまた歌舞伎十八番の一なる押戻しにて登場、アレっと思わせるトリック、まずは図に当りたるは目出度し。

『はなさかじいさん』は、正直爺さんの飼犬シロを、桃太郎のイヌと綯交ぜにせしところがミソにて、近年はやりの(とはいえ、その濫觴は遠く芥川龍之介にあり)桃太郎悪人説をテレコにし、3・11後の世情荒廃を持ち込みしところが作者の働き。まずそれはよしとして、残る問題はそれを如何に歌舞伎の文法に添わせつつ新機軸を打ち出すか、演出力にあり。良識家宮本亜門は、一方に作者宮沢の顔を立て一方に歌舞伎愛好者連の顔を立て、役者海老蔵の仁と愛嬌に後事を託せしかと覚えたり。まずは無事にて、目出度さも中くらい、かな?

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故中村富十郎の遺児中村鷹之資が故人三回忌に因んで「翔の会」を国立能楽堂で催した。番組は、藤間勘祖振付で妹愛子と『菊寿の草摺』、片山幽雪指導、地謡片山九郎右衛門・味方玄で仕舞『松虫』、藤間勘祖振付で『越後獅子』の三番、すべて素踊り形式でつとめた。早や中学二年生だそうで、衣装をつけていないだけ却ってその成長ぶりに驚く。妹の愛子にしてもだ。まずはしっかりと楷書の踊り、と言ってしまえば紋切型のようだが、とりわけ『越後獅子』には感心した。亡父の使ったという子供にはやや長めの晒を見事に捌いた。身体がきちんと踊れていればこそであろう。

学習院の中学校に学ぶとの由だが、会場はその級友や親御さん方と思しき人たちも大勢詰めかけ華やかなこと。そういう一人、いや二人か、パパと思しき二名の紳士が幕間に交わしている会話が、通りすがりに小耳に引っかかった。「そもそもトミジュウロウって、何?」「いやあ、ハハハハ」だってさ。

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国立劇場の歌舞伎音楽研修者の発表会「音の会」と、歌舞伎会・稚魚の会合同公演をそれぞれ見る。『蝶の道行』は竹本の人たちの方が発表の主役なわけだが、藤間勘祖の振付で鴈之助と国矢が小槇と助国を踊る。『蝶の道行』というと、武智鉄二演出で、はじめに(蛾みたいだ、と陰口が聞かれた)つがいの蝶がスクリーンに写るところから始まる新舞踊風のばかり見せられていたことに、改めて気が付く。歌右衛門と梅幸の連舞なんて今も目に残ってはいるが。『吃又』は又之助の又平に京妙のお徳というのだから、なかなか見ごたえがある。いつも腰元で並んでいる京紫が将監の北の方になるなど、評とは別に、いつもと違う顔が見えて興味深い。

この『吃又』にせよ、合同公演で出した『引窓』にせよ、竹本の芝居だと、それぞれがそれぞれなりに手一杯にやっているのがすんなりと見ていられるのだが、『修禅寺物語』となると、若い人たちにはこういう芝居の方が却って難しいのだなあと、改めて知らされる。学校演劇など(いまはどうか知らないが)アマチュアでもよくやる芝居だけに、ひょっとすると、そういう人の方が結構巧かったりすることもあり得るわけだ。

富十郎門下の富彦と魁春門下の春之助による『団子売』がなかなかよかった。

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このところ毎夏、「趣向の華」という公演を見ているが、なかなか面白い。染五郎と藤間勘十郎、尾上菊之丞の三人が肝煎りになって、若手花形未満ぐらいの若い連中が紋付袴というなりで芝居をする。つまり踊なら素踊りというわけで、勉強にもなろうし、また一種独特の面白さも生まれる。今年は、壱太郎が春虹(シュンコウ)という名前で脚本を書き、演出をするという、袴歌舞伎『若華競浪花菱織』なる、いうなら御家狂言。いろいろな有名作から有名場面を取り込んで、どこかで見たような場面を散りばめながら運んで行くのが、それなりに飽かせずに見せる。『再岩藤』の中にお初徳兵衛の話を二番目狂言風に取り込んだり、『伊勢音頭』の追っかけを取り込んだり、なかなかうまくできている。歌舞伎のいろいろな典型場面を若手が真面目に取り組むことで、おのずから歌舞伎の「文法」を身に着ける勉強にもなるわけだ。

といって、これが新作歌舞伎として麗々しく名乗ったのでは、またちょいと大仰なわけで、これなら国立の小劇場でやってもいいのでは?とちらりと頭をかすめたりもするが、やはり野に置け蓮華草、お遊びも兼ねた、そこが「趣向」の華というわけなのだろう。

今年は(おそらく会場が確保できなかったのだろう)内幸町ホールという、あまり向いているとは言えない会場だったが(その割には、屏風を使っての場面転換など、なかなか気が利いていた)、例年は日本橋劇場という場所も良し、ロビーは着飾ったPTA連が華やかで、気後れがするほどだ。

今年は友右衛門と亀三郎が上置き格(友右衛門の立派なこと。失礼ながらちょっぴり認識を改めるほどだ)、亀三郎の役者ぶりのよさも、ふだんとはまた違った側面に気付かされる)、廣太郎と隼人が今回の主役。種之助が役名も又助、先月歌舞伎座で志賀市をしたばかりの玉太郎が志賀市の穴を行く乙市なる役を、もちろん本息でやるのが全編の見どころだったり、米吉のお初と廣松の徳兵衛が狂言回し風に活躍したり、ついこないだまで子役だと思っていた梅丸が意想外の一面を見せたり、平素の舞台では気が付かないいろいろな発見があって、こちらもいろいろな意味でベンキョウになった。

随談第492回 勘三郎随想(その23)

21.「な」の章

十七代目勘三郎の『鏡獅子』というと、じつはわたしは、たったの一度しか見たことがない。昭和三十九年十月といえば、東京オリンピックのさなかである。その月の歌舞伎座は、大立者たちが昼夜にそれぞれの演目を持つという大盤振る舞いの企画を立てて盛況だったが、わたしのたった一回の十七代目の『鏡獅子』体験は、その中で行われたのだった。胡蝶が、いまの時蔵の梅枝と十八代目の勘九郎であったことも、その踊りぶりまでくっきりと覚えている。あれほど美しく、またあれほど見事に踊った胡蝶は、その後どれだけあったろう?

十七代目の『鏡獅子』といえば、菊五郎自身が『をどり』という著書の中に「もしほ夫婦」という章で述べて以来、戸板康二『六代目菊五郎』をはじめ、いろいろなところに引用されている有名なエピソードがある。第二次大戦後間もない昭和二十三年二月、三越劇場で、当時まだ前名の中村もしほといっていた十七代目が、はじめて『鏡獅子』を踊るに当たって、岳父の六代目菊五郎から猛稽古を授けられたときの話である。

菊五郎は、踊りを教えるときは、女形の踊りであっても、下帯ひとつの素裸にさせて教えたという。基本的な骨格や筋肉の動きひとつまでごまかしの利かないようにするためだというが、このときの十七代目も、素裸で『鏡獅子』の稽古をした。真冬のはずだし、菊五郎は血圧が高く少し熱もあったというが、そんなことを厭う菊五郎ではない。それだけの準備をして開けた初日だったが、見に来てくれた菊五郎の気に入らなかった。それから、もしほの苦悩と、菊五郎の師としての厳しさと、岳父として、また愛娘であるもしほ夫人への父親としての情の葛藤とが言外に綴られていくのだが、十七代目にとっては、それだけの思い出のある『鏡獅子』なのだった。

それから十六年、この話はすでに「伝説」となっていた。十七代目勘三郎として、押しも押されもしない大立者となったいま、もはや昔のもしほではない。勘三郎自身も、折に触れ、その「伝説」を語っている。おのずから、その『鏡獅子』は特別な目で見られることになる。

しかし現実には、勘三郎はその後、それほど回数を重ねて『鏡獅子』を踊るということをしていない。改めて確認したところによると、昭和二十三年から三十九年までのあいだに、東京では一度だけしか出していない。それだけ大切にしていたのか、何か理由があったのかは知る由もないが、この当時、『鏡獅子』といえば、菊五郎の後継者である七代目梅幸が最も頻繁に手掛け、代表的と見られていた。私も何度も見ているが、たしかに、端正で、女形でありながら後ジテの獅子の気組みもよく、前後のバランスもよく取れた、オーソドクシイを感じさせる立派な『鏡獅子』だったと思う。(胡蝶といえばいまの団蔵の銀之助や、いまの松也の父の松助の禄也や、その弟でいまの大谷桂三の先代松也といったあたりだったっけ。)

歌舞伎になじんでまだ日の浅い当時のわたしにとっては、そういう梅幸の『鏡獅子』がおのずからひとつの規範のような働きをすることになる。そうした目からすると、はじめて見る勘三郎の『鏡獅子』は、どこか感触が違って感じられた。弥生は、梅幸のような現代人にもそのまま受け入れられる種類の可愛らしさというより、もう少し老けだちの、悪くいえばもっさりというか、昔ふうの娘という感じがした。獅子も、量感は梅幸以上にあって立派だが、隈を取った顔が、梅幸のような鮮明さと違い、にじみでも掛けたように、くすんだように感じられる。その分、古風な味があるともいえる。

十七代目の弥生が少し老けだちに見えたといま言ったが、このときの劇評を、老劇評家の浜村米蔵が書いているのを読むと、かなり辛辣な言葉がならんでいる。浜村米蔵という人は、大正中期の一番盛んなころの帝劇の文芸部に入る前、市村座の狂言作者として黒衣(くろご)を着て舞台裏で働いていたという経歴のある、その時点で批評家として半世紀にもなる閲歴の持主だったが、まず昭和二十三年の三越劇場の客席で、当時もしほの『鏡獅子』を見たときの「なまなましい想い出」から書きはじめる。

三越劇場はごく小さな劇場なので座席も少ない。うしろに立って見ていたら、すぐそばに菊五郎がいて、もしほの踊りを見ながら、「いけねえ、あ、いけねえ」とか「駄目駄目」とぼやいたりつぶやいたりする。そのつど、まわりのお客からシッシッと声がかかったり、「うるせえ」と叱咤したりする者もいる。菊五郎はたちまち出て行ったが、誰もそれが六代目とは気がつかないらしい。私はそこにはっきり歌舞伎の傾斜を見る思いがした、と浜村は書いている。終戦後まだ三年という時点の、歌舞伎をめぐる時世の落差をとらえた文章として興味深い。

さて、浜村米蔵の十七代目『鏡獅子』評だが、その前ジテには疑問がある、と浜村は言う。ひどく色っぽく、表情過多だ、というのである。「おぼろ月夜やほととぎす」という長唄の文句に合わせて、袂を持った手を胸にあてて、ほととぎすが飛び去るのを目で追う仕草をするところが大切なところとされているが、そこのところの目の使い方などはうまいものだ、と浜村はほめる。つまり技巧は認めているのだが、せっかくのその巧さがあまり引き立たないのは、全体に目を使いすぎるからで、あれでは十六、七のお小姓ではなく、色気ざかりの町娘どころかまるで年増だ、ときめつけている。

額面通りに読めば大変な酷評だが、わたしがこの批評を長々と引いたのは、これに賛同するわけでも、当時の劇評の代表として挙げるわけでもない。この浜村の批評に、わたしはある興味を覚えるからである。浜村自身は認めていないが、鑑賞の基準を変えて見るなら、浜村のこの評言は、十七代目の踊る前ジテ弥生の特徴の一面をよく捉えている。つまり老けだちで、現代人の考える乙女の清純さというのとは微妙に違う、むかし風の娘のぼんやりとした風情、とさっきわたしの言った在り様と、重なり合う。そこを、浜村はだからいけないと言い、わたしは、だから面白いと感じるのだ。

たしかに、十七代目の弥生は、現代の観客にストレートに受け入れられるような清純な乙女ではないかもしれない。その意味では、『鏡獅子』の批評としては、減点の対象になるのかもしれない。しかし翻って言うなら、娘を演じればそういう女になってしまう十七代目勘三郎という人の、役者としての体質を、わたしは面白いと思うのだ。またしても言うが、そこに三代目歌六の翳を見るからである。

十七代目はその後、二年後の昭和四十一年暮の京都南座の顔見世で出したのを最後に、『鏡獅子』を踊ることはなかった。理由は、おそらく年齢と体力の均衡を案じてのことだろう。

22.「ら」の章 (談話・父十七代目の『鏡獅子』のこと、『娘道成寺』のこと)

―――家の親父の『鏡獅子』でぼくの印象に残っているのは、南座の楽の日に百回毛を振ったのを覚えてます。それでぼくも真似してやってたんですけど、もうそろそろやめます。まあ、そんなに印象にないですよ。教わったんですけどね。教わったんですけれど、なんかあの、巧い、という『鏡獅子』かなという気がします。だから、味とか、巧い感じとか、なんじゃないですかね。

―――『道成寺』もそうです。巧いんですよ。テクニックですね。技というか。だからたとえば、「誰と伏見のすみぞめ」チチチチチなんてやるとお客さんがワーッていう。そういう風なことでやってたんだなあ。もっと早くにやればよかったんだけど。でも可愛かったですよ。あの、ゴリラみたいだったなんていうと怒られちゃうけど、だけど、そういう風に見える瞬間があるってことは凄いんじゃないのかとは思いますね。

―――あのときは国立劇場でも梅幸さんが『道成寺』をやって、歌舞伎座のお父さんと競演だったんですね。昭和四十六年三月でした。

―――そうそう。『道成寺』についていえば、私はこれは『鏡獅子』の後から追っかける形で踊るようになった。弥生さんを花子が追っかけたというわけ。二十歳で弥生さんをやり、『道成寺』は平成五年三月に『身替座禅』と一緒にやらせていただいたと思うんだけど。―――もちろん両方ともこれからも何回もやっていくんですけれども、踊りとしてはまったく違う。花子は、踊り込む。弥生というのは、踊るんですけど踊っちゃいけないんですよ。中に絞り込むんです。この間も染五郎が白鸚のおじさんの追善で『鏡獅子』を踊るっていうので、それを言ってやった。汗びっちょりかいてやっているけれども、まだわからないみたい。体を使って踊るんだけど、地味というか、抑える。中に入るんですね。だって大体、弥生はむりやり連れてこられて、いやいや踊るんだから。中に、内に絞るんですね。たとえば、チャンチャンと、手をこう出しますね、最初。そうしたらそこで極力、動きを小さくするんですよ。

―――片や、花子さんは派手なんですよ。もう可愛くてしょうがない。こんな楽しいことはないっていう。踊りたくってしょうがない。だって舞姫ですからね。ただその中でも、金冠をつけた、最初のあそこはずーっと動かないようにという口伝はありますよ。ただ根本的に陽気な子ですから。花子さんは陽気、弥生は陰気っていうか、やっぱりおぼこ。そのおぼこが、ちょっと羽目をはずしてこんなに踊るから可愛い。で。花子はほんとに可愛いっていうね。そのまったく違うところがミソなんですけれども。これはどちらもやっていきたいですね。

―――それともうひとつは、風情で見せる『道成寺』というものを歌右衛門のおじさんが確立なさった。これは六代目とは違うものですね。いまはそっちばっかりじゃないですか。そこに六代目のおじいさんのやり方のような『道成寺』を、やっぱりこれは、誰かがやらないといけないんじゃないかと思うんです。情念とか、もちろんそういうものも大事なんだけど、だってあれは『日高川』と違うんだから。ハハハ。理屈で行きゃあ。「京鹿子、ムスメ道成寺」だよということをね、踊りで示したい。だからおじいさんは「ただ頼め」がよかったって。写真見ても可愛いですよ。それから「鞨鼓」がよかった。踊りっていうもの、踊りで見せる『道成寺』っていうものを意識しますね。

―――先輩方のを見せていただいたなかでは、天王寺屋(=中村富十郎)のがやっぱりそうでしたよね。踊る道成寺っていうね。神谷町(=中村芝翫)もそうだけれど、ちょっと神谷町ともまた違う。まあ、ボクの先生は神谷町なんですよ。なんですけど、その、可愛らしさっていうと・・・みたいなことかな。やっぱり、踊り手の踊る踊りっていうか。芝居に持って行かないっていうか。

―――加役の踊りですね。これも体の続く限りね。情とか情念で見せない分、続けるのは大変なんですよ。体を使うから。

―――お父さんも、若いころはなさったでしょうけど、『鏡獅子』も『道成寺』も一回しか見てないんです。

―――『道成寺』はうちの親父は一回しかやっていないでしょ。満州へ戦地の慰問に行ったときにやっているけど。

23.「む」の章

『鏡獅子』に比べると、勘三郎が『京鹿子娘道成寺』を踊るようになったのは大分後になってからで、踊った回数もずっと少ない。談話にもあるように、戦後の歌舞伎の流れの中で、中村歌右衛門のを代表とする、女形の踊る『道成寺』が主流となってきたということも、若いころには踊る機会が少なかった遠因の内にあるのかもしれない。一日だけの舞踊会は別として、本興行の演目としてはじめて踊ったのは、これも談話にあるように、一九九三年三月、三十六歳のときだった。そのときももちろんよかったが、その年の暮れ、南座の顔見世で見た『道成寺』がわたしには忘れがたい。年が明けてすぐ、今度は歌舞伎座で『鏡獅子』を踊るのを見た。短い間に歌舞伎を代表する二大舞踊を踊る勘三郎に、旭日の勢いというのはこういうことかと思った記憶がある。初演と再演で、すでに驚くべき高いレベルにあったためでもあるが、もうひとつは、女形の踊る嫋々とした風情や、恋の情念を見せる『道成寺』が席巻した感のある現在の歌舞伎に、久々に見る、立役の役者が若い娘の恋の姿のさまざまを踊る、目のくらむような、息の詰んだ踊りの技で見せる『道成寺』だったからだ。

更に五年後の歌舞伎座。このときは、いまでなければ踊れない白拍子花子を見てくれというコメントが私の手許に届けられた直後に見たのだったが、まさにその通りの『道成寺』だった。五年前よりたおやかさ、芸のふくらみが増した中に、前段はしなやか、中段の「恋の手習い」の眼目のくだりはたっぷりと、それがすんだのちは疾風迅雷の趣きであっという間に幕切れに至るという、息もつかせぬものだった。こういう『道成寺』は、心身相俟って盛んだったころの中村富十郎以外、見たことがない。六代目菊五郎を知らない私としては、加役の踊りで見せる『道成寺』の神髄というのはこういうものかと思うばかりだった。

「道行」から「鐘入り」まで。余計なものは一切ない。「娘」道成寺のエッセンスだけが圧縮されたかのようだ。たっぷりと、豊饒でありながら、むしろあっけないとすら思えるほどに、疾風のように過ぎ去った一時間余だが、余韻はかえってその方が深い。

それからまた五年後が、十八代目襲名興行のときだった。このときには、いままでとはやや異なる印象を受けた。全段の運び方としては変わりはない。おきゃんな町娘の恋の万華鏡を見るような楽しさにも変わりはない。だが「恋の手管」のくだりがすんで、曲が終局にかかるにつれ、獅子奮迅の趣きが増し、それはやがて、現世の愉悦が一種の狂気へと募ってゆくような趣きだった。といっても、決して、かつての歌右衛門のそれのような、道成寺伝説を踏まえた『日高川』のように蛇身に変身することを予感させる、恋の執着の怖ろしさを踊るが故ではない。終局へ向けて踊りこんでゆく、踊りそのものによって凄みとか狂気とかを、見る者に感じさせるのだと言ったほうが適切だろうか。

このときには勘三郎としては初めて「押戻し」をつけたが、その團十郎の大館左馬五郎が実に雄大雄渾で、荒事役者の本領を見せるものだった。しかし、襲名興行の祝事ということを抜きにして見るなら、勘三郎の白拍子花子には、蛇身になって押戻しに花道から押戻されるというのは、あまり似つかわしくない。勘三郎の花子の踊りは、『日高川』の伝説を踏まえた踊りではないからだ。つまり、このときの『道成寺』によって勘三郎が示した狂気とは、芸それ自体の狂気なのである。

かつて六代目菊五郎が、その最も盛んであったころ、「まだ足らぬ踊り踊りてあの世まで」という句をものしたというのは、『娘道成寺』を快心の思いで踊ったときの感懐だという。芸をすること、踊りを踊ることの法悦のなかにあっての感懐であろう。このときの勘三郎がどういう心境に至っていたのかは聞いていないが、何か、一脈通じるものを感じさせるものではあった。