随談第484回 勘三郎随想(その18)

(承前)もうひとつ、思い出すのは昭和四十六年の三月、歌舞伎座の十七代目勘三郎と、国立劇場の尾上梅幸と、ふたりの踊る『京鹿子娘道成寺』が競演になったことがある。梅幸は、当時中村歌右衛門とともに歌舞伎界の立女形と目され、『娘道成寺』は何度も踊っていた。一方、十七代目は、若いころは女形を主にしていたが、中年以降立役が主体となるにしたがって、兼ねる形で女形をつとめることはあったが、『娘道成寺』のような大曲を踊るのは戦時の慰問公演で踊って以来、本当に久々のことだった。はたして、清流を小舟で流れ下るような快適なリズムをきざんで、差す手引く手、揺るぎのない踊りぶりの梅幸に比べ、十七代目は、随所に独特の面白さや味わいを見せながらも、こまかい技巧には、傷がないとはいえない踊りぶりだった。しかし思い出すのは、ふたりの踊りの優劣ではない。

『娘道成寺』の冒頭の「道行」は、花子という白拍子が紀州の道成寺まで訪ねてゆく旅の心象を踊る部分だが、そのなかで、「恋をする身は浜辺の千鳥、夜毎夜ごとに袖しぼる」という長唄の歌詞のところで、口にくわえて薄く紅のついた懐紙をまるめて、花道から目の前の客席に向けて軽く抛るところがある。梅幸は、そのくだりでも、正しい間を崩すことなく踊って、丸めた懐紙を、ぽんと、誰にともなく放ってそのまま踊り続ける。たまたま最寄りにいるのが不慣れな客だったりすると、床に落ちた懐紙をおずおずと、拾ってもいいのかしら、とでもいう風に拾い上げるということにもなる。

一方十七代目は、懐紙を丸めながら、客席に、もちろん演じている白拍子花子という役の心を離れはしないが、愛嬌を籠めた視線を送りながら、さあ誰にあげようかな、とでもいうような合図を送る。おのずと、客は自分に抛ってもらおうとわれがちに手を差し出す。勘三郎は、心持ちじらすような素振りを見せながら、ひょいと、ひとりを選んで手渡すかのように抛ると、いたずらっぽい表情のある目で笑いながら踊り続ける。受け取った客はもちろん、もらえなかった客も、心は既に勘三郎の虜になっている。

どちらをよしとするのではない。梅幸のを、屑籠に紙くずを抛るようだと評した批評家がいたが、心ない評というべきだろう。媚を見せずに、正しくリズムを刻んで踊りつづける梅幸の『娘道成寺』は、くりかえすが渓流を舟で流れ下るような快適さがあって、私は大好きだった。ときに歌舞伎に倦んだある時期、あるいはこころ弱くなったとき、梅幸の踊りに心を癒されるやすらぎを覚えたのを忘れられない。それが端正で鷹揚な梅幸の芸風であって、梅幸が勘三郎のようなことをしたら、それはすでに梅幸ではなくなってしまう。

しかしまた、こうしたところで見せる十七代目の、客の気を取る愛嬌も、いかにも勘三郎ならではの懐かしさをもって、四十余年をへだてたいまも、鮮やかに蘇える。そうして十七代目の中に抜きさしがたくあったそれこそが、父の歌六から受け継いだ血のなせるものであったに違いない、といまにして思うのだ。

十七代目勘三郎の平作で忘れがたいもうひとつの場面とは、平作のあばら家に一泊した重兵衛が早立ちをしたあと、わざと置き忘れた薬と、臍の緒書きの入った印籠を見つけ、真相を知った平作が、間道伝いに夜道を駆けて重兵衛を追いかけるところである。重兵衛こそがわが子であったことを知った驚き。同時に、志津馬が敵と追い求める沢井股五郎の所在を知る敵方の一人とわかれば、なんとしても重兵衛に追いついて敵の居場所を探り出さねばならない。「東海道は回り道、三枚橋の浜伝い、勝手知ったる抜け道を」と杖をついてよろぼい駆け出しながら、平作はお米に向かって、「われも後から、必ず来いよ」と声を掛ける。重兵衛とお米と、ふたりのわが子に対する親の思い、恩と義理の錯綜する人間関係、それらがいちどきに襲い掛かってきた悩乱。だが瞬時にそれらを引き受けた平作は、この一瞬に、それまでのみすぼらしい好々爺から、悲劇の主人公ともいうべき相貌を帯びることになる。

十七代目勘三郎の平作で、私が何よりも忘れがたいのは、この一瞬であり、耳朶に残るのは、われも後から必ず来いとお米に向かって言う、その声音である。はじめてその平作を見たとき、私はこの一瞬に、勘三郎の姿が、ぐいと、大きくなったように感じた。よく役者が大きいとか、大きな役者という言い方をするが、この場合は、衣裳や扮装が変わるわけでもなく、ことさらな見得や何かをするわけでもない。いうなら、ごくリアルな芝居の流れの中で、急所となる一瞬の、アクセントのつけ方にすぎない。十七代目を、巧い、と思うのは、だが実は、こういうところだった。

その前に、お米が盗みをしようとして発覚したとき、わが子の行為に驚き呆れた平作が、涙とともにお米を折檻するところが、この芝居の見せ場とされている。平作は極貧の中でかすかな暮らしを立てている雲助だが、正直者で、人としての気概を失ったことはない。一夜の客となった重兵衛が切り傷の妙薬を持っていると知ったお米が、病床にある恋人のために、夜中に盗もうとして気づかれる。驚き呆れた平作だが、瞬時に、お米の心根を察する。盗みをしたわが娘を折檻する平作は、同時にお米をいとおしんでいる。

舞台で人を叩くときの約束として、歌舞伎では、叩くふりをして陰で自分の手のひらを打つ、ということをする。当然ここでも、平作を演じる役者はそうするのだが、十七代目のを見ていると、演じる十七代目がというよりも、平作自身が、そうしているように見える。虚と実が重なり合い、一致する。同時に、義と情に引き裂かれた平作の心根の、この上ない表現ともなる。折檻をする平作の、言葉にすればいくつもの表現を重ねなければならない、幾重にも重なった矛盾する心情を、こうしてひと筋の真情として見せることになる。

十七代目は、とりわけ情の表出にすぐれていたとされている。このお米を折檻するところなど、まさしくその代表的な場面として挙げる人も多い。もちろん私もそれに異論はないのだが、しかしそれ以上に、重兵衛を追って駆け出す姿を忘れがたく思うのは、その情の涙の中から一跳躍して、お米、あとから来いよと駆け出す躍動感の中に、十七代目自身の心意気が役と重なり合うものを見ていたからだった。盗みをしたお米を哀れと思い、涙とともに折檻をするのも、たしかに平作の心意気だが、重兵衛をわが子と知って、親子の名乗りとひきかえに敵の在り処を訊き出そうと後を追う平作の心意気と、勘三郎自身とが重なり合うところに、余人にない心の躍動があった。十七代目は、本質的に「静」よりも「動」の役者だったと思う。

終幕の「千本松原」の場で、追いついた平作が、闇のなかで重兵衛の道中差で腹を切り、それと引き換えに敵股五郎の在り処を聞き出そうとする。親子の対面がそれと絡む。その心を察した重兵衛が、股五郎の落ち行く先は九州相良(さがら)、と教えるのを、あれを聞いたか、と藪陰にひそむお米へ声を張り上げる。さっきの、後から来い、と首尾一貫する一言だが、十七代目はここもよかった。重兵衛に礼を言って息をひきとるしんみりした長セリフの中、一箇所、破調となる一言でもある。その破調の中に、十七代目の「情」と「心意気」が重なり合う一瞬がある。十七代目は、「正」よりも「破」の役者でもあった。そうしてなにより、「心意気」の役者だった。

そう考えると、十七代目からさらには十八代目にまで流れている、人なつっこいあたたかさや庶民性、ときには権威にも恐れず立ち向かう不羈な精神、意気に感じればときには損得を超えても貫こうとする意気地、といった共通項は、まぎれもなく三世歌六から受け継いだ血液の中にある、波野の家の人たちに独特の気質であることがわかる。

いうまでもなく、『沼津』の平作は、十八代目も、一年九カ月にわたる襲名興行の中で披露の演目として、大阪中座その他で演じたし、最後の仕事となった平成中村座ロング公演の最初の月にも演じている。腹を切って仰のけにひっくり返ると、舞台がぐるぐる揺れて回っているようだったと、あとから述懐していたらしい。

13.「わ」の章  (談話・祖父三代目歌六について)

―――歌六のおじいさんのことといっても、家の親父が七つぐらいのとき死んでますからね。もちろん墓参りして手は合わしますけどね。非常に反骨精神の強い方だったらしいんで、そこはぼくと似てるかもしれませんね。もっとも六代目菊五郎のおじいさんも反骨精神が強いから、どっちにも似てるんだね。

―――あの、珊瑚の話、知ってます? あれ、うちのヒイ爺さん(=五代目菊五郎)とおじいさん(=三代目歌六)の話です。五代目菊五郎が、波野さん、それ何磨いてるのって訊いたら、珊瑚だって答える。それ本物かって菊五郎が言ったら、歌六のおじいさんが、失礼なっていうんで、いきなり煙管の雁首でがんと割った。中が渦巻いてるのが本物らしい。渦巻いてますから本物やろうなあって言うから、菊五郎は悪いことしたと思って、珊瑚を買って返した。そうしたらそれをまたぽんと割って、ああ本物だ、ありがとうって言ったんだって。こういう人ってのは、おそろしいやね。

―――上も下もない人だったらしい。物乞いの人をご飯に連れてったり。それはうちの親父もそういうとこありましたよ、ボクもありますね。そっちの、芝居というよりもそういう、人間としての共通するものがあるかもしれませんね。