随談第486回 机上の妄論(その2)

連載物をしていると、つい小回りが利かなくなりがちで、折々の雑報だの感想だの、よしなしごとを書き留める機会が少なくなって、酸欠気味になる。そこで、そうした「雑談」を一束ね、束ねてみよう。

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プロ野球のオールスター戦というのは、民放のテレビ中継だとやたらにお祭り気分を演出しようとするのに白けるが、平素なかなか見る機会のない有名選手の誰かれをいちどきに見る愉しみというのは、なかなかいい気分である。神宮球場での第二戦を見る。今年は初出場の選手が多かったが、何と言っても、前日に投げたので今日は出場しない広島の前田だの楽天の田中だのが、コーチボックスに入れ替わり立ち代わり姿を見せる。そんな他愛もないことを嬉しがるというのもオールスター戦なればこそで、そもそも、歌舞伎でも大相撲でも、興行ものの喜びというのは、アヽあれが音に聞くエビゾウか、ホラあれが大砂嵐だよ、といった具合に、お上りさんの都見物よろしく他愛もなくウレシガルところに本質があるのだ。プロの興行というのは煎じ詰めれば見世物である。顔見世、とはよく言ったもので、オールスターの愉しみはそれに尽きる。

その内に、マエケンて意外に細身なのね、とか、田中の身体つきってプロ野球選手の理想だよな、とか、イデホのデカさというのは稀勢の里ばりだとか、いろいろなところに気が付き始める。評判記ではないが、「評判」「噂」こそ批評の根源なのだ。マートンだブランコだバレンティンだといったところを連続三振に打ち取った育成選手上りの千賀にも、はじめて目の当たりにする光栄に浴した。日ハムの大谷のスマートさというのはやはりただ者ではないし、阪神の藤浪もヤクルトの小川も既にオーラを纏っている。一年間浪人暮らしをしてまで巨人入団にこだわったクソ野郎と好感を持てずにいた菅野なんてのも、しかし実物を見るとやっぱり悪くない・・・といった私家版「野ボール」評判記を、夜風に吹かれビールをぐびりぐびりやりながら胸の内に書いていた。

パ側がやや貧打の気味だったので地味目の試合展開になったが、しかしそれも、セ側の花形投手連の好リレーと背中合わせのことで、まあ痛し痒しか。妙にお祭り気分に染め上げようとするのでもなく、オールスター戦といえども勝敗にこだわって勝ちに行く、などというのでもない。それにしても民放のオールスター戦の中継放送というものが、こうしてみると、いかにパターン化しているか、今更ながら知らされる。

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名古屋場所は稀勢の里の独り相撲で終始したが、千秋楽のNHKの解説で舞の海氏が言っていた、稀勢の里は相撲の取り方に主体性がない、というのが一番の適評であろう。余計なことを考えず思い切って行け、と新弟子のときに親方に言われたのを馬鹿正直に守っている内に横綱を狙う地位になっても、つい、頭を使わないで相撲を取る癖が身についてしまったのか。

胸毛の立派なので有名だった昔の(つまり、朝青龍の親方のもうひとつ前の)朝潮は、栃若よりも強い筈なのに、第一人者の地位につけず三番手の横綱で終った。年に一度、大阪場所というと優勝するので「大阪太郎」と仇名がつくほどだったが、成績にムラがあるために横綱になれたのは晩年で、まもなく若き柏鵬に追いつかれてしまった。あまりに人が好く、いろんな人の助言をハイハイと聞き過ぎたと言われた。柏戸も、右前みつを鷲づかみにしての豪快な寄り身で全盛期の大鵬を幾度か土俵下に吹っ飛ばす力を見せながら、こと優勝回数に話を限るならほんの四回に留まった。朝潮も柏戸も、雄大な体躯といい、豪快な相撲振りといい、(朝潮などは『日本誕生』という東宝映画に特別出演し、原節子の天照大神や乙羽信子のアメノウズメの命を相手に、天の岩戸をこじ開けた手力男ノ命(タヂカラオノミコト)の役をつとめたほどだ)これぞ「角力」と思わせる、それこそ記録よりも記憶に残るという意味では「大横綱」ではあったが、記録という実績からすると「並みの横綱」に終わった。名を成さしめた栃錦や大鵬の相撲に比べると、あまりにも相撲振りが素朴であり過ぎたのだ。

だがそうは言っても、朝潮も柏戸も立派に横綱となったが、稀勢の里は今のままでは横綱になれるかどうか、心もとない。ひとつ違うのは、朝潮は両肘を締めて相手のとび込むのを許さない「鶏を追い込むよう」と評されたような、柏戸には先に言った右前みつを取っての突進という、それぞれ「型」を持っていて、それがツボにはまったときは栃錦も若乃花も大鵬もかなわなかったが、稀勢の里にはそれがない。ないわけではないが(現に白鵬に真っ向から勝てるのは稀勢の里だけだ)それが「型」として確立していない。舞の海氏の言う「取り口に主体性がない」とは、つまり「型」として確立するためにはもっと「頭」を使わなきゃ、という意味に違いない。主体性とは「意志」であり、意志は頭を使わなければ成り立たない。

ところで、このところ不充分ながらも改善の様子が見えていたNHKの大相撲ダイジェストの放送時間が、今場所、また午前三時台に改悪された。前にもこの欄に書いたことがあるが、幕内の取組が午後四時から六時までというのが見られない者が、あの簡略なスポーツニュースでは知り得ない、一番一番の取組を見たいがために深夜を厭わずダイジェストを見るのだ。とは言え、出勤時間その他、翌日の仕事のことを考えればそうそう夜更かしをするわけにもいかない。見終わったら午前四時というのでは、まともな勤労者は相撲を見るなということではないか。これも前に書いたが、心あるファンというのは、優勝争いや話題の力士だけを見るのではないのだ。

実況放送でも、無理やりその日その日の話題を作るために、さほどでもない「今日の一番」なるものをこしらえて、他の取組の間に前場所のビデオを流したり、解説者に予想を言わせたりするので、それに当てられた取組は制限時間いっぱいになるまで映してもらえないということになる。よほどの大一番ならともかく、その犠牲になった取組、その力士を見たい者には実に腹立たしい。何時だったか北の富士さんが、さほどでもない「今日の一番」について何度も同じ話題を振られて、エッ、それさっきも言ったじゃないの、と応じたことがあったが、実に痛快であった。

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先日、歌舞伎学会の企画で、松尾昌出子さんの話を聞く催しがあったが実に面白かった。近来の好企画というべきである。千土地観光(ドリーム観光)など大阪の興行師として著名な松尾国三を父に、貴重な女役者として知られた市松延見子を母に持つ松尾さんだが、そこで思ったのは、このご両親の一代記を、それこそNHKの朝ドラにしたらぴったりであろうということだった。役者上りの海千山千の興行師に市川中車、大歌舞伎の役者からも実力と意識を認められていた女役者であり、きびしくもやさしい母でもあった延見子に寺島しのぶなら、極上のキャストであろう。女の生き方シリーズとして延見子をヒロインにすれば、大当り間違いなしと思われる。どなたか、このブログを読んで下さりNHKに顔の利く方があったなら、売り込んで下さらないだろうか。

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都議選に続き参院選の投票率が、ことに若年層で低かったのが話題となっているが、そうしてこれは絶対、NHK民放を問わず放送局では言いっこないことだが、午後八時に投票が終了すると一秒も経たないうちに当確が出る、というのは、百の理屈千の説明を聞いてもなお、有権者として馬鹿にされているような気がしてならない。出口調査なるものに出会ったら断固拒否してやろうと思っているのだが、残念ながら私の投票所はその対象になっていないらしく、出会ったことがない。

そりゃあ、統計学なるものはそういうもので、太平洋の水質調査をするのに太平洋の水を全部汲み出す必要がないように、サンプリングなるものの正確さというものはよく承知しているが、それはそれ、あれは実に感じがよくないことに変りはない。私がもっと若くて、自分の一票の軽さ、むなしさの方が、それでもこれ以外に方法がないのだから、と考えるより大きかったなら(その方が、実感として自然ではあるまいか?)、午後8時と同時に当確、というのを聞いたら、投票意欲を失っているかもしれない。そのむなしさは、統計学によるサンプリングの正確さを説明されればされるほど、一層大きくなるだろう。だってそうではないか? あなたの、私の一票が日本を、東京を変え得る、という選挙の建前・方法というのは、人の善意・良識というものを前提にした「虚構」の上に成立させているのだから。
    
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それにしても、代々の民主党党首の方々というのは、つくづく、政治家としてはアマチュアだったんだなあと思わざるを得ない。もっともあの方々って、私は必ずしも嫌いなわけではない。アマチュアが首相にまでなってしまえるというのは、民主主義として少なくとも間違ったことではないだろう。

随談第485回 今月の舞台から

4カ月目に入って歌舞伎座の落し公演が花形中心に変わった。中心どころか、ほぼ全員が本当に若い。それはまあ、小山三も出て相変わらずおいろ役を元気でつとめているが、番付の連名の上段に名を連ねているような中では、錦吾と団蔵と萬次郎に市蔵が、たぶん『四谷怪談』が出るので四谷左門と伊藤喜兵衛と後家お槇と宅悦のために特に出演したと思しく、昼夜でそれ一役だけをつとめているのを例外とすれば、せいぜい権十郎あたりを年長者とするというのは、皆なんという若さだろう。こういう顔ぶれだけで『再岩藤』や『四谷怪談』が出来るのだ。今更ながら、ここまで時代は進行しているのだと痛感しないわけに行かない。

花形といっても、今回は染五郎、菊之助、松緑の三人で昼夜を持ち切る。『再岩藤』は愛之助も一枚噛んで望月弾正をつとめるが、それ以外は、『再岩藤』は染五郎が多賀大領に安田帯刀、菊之助が尾上にお柳の方、松緑が岩藤に鳥居又助と二役ずつ、『四谷怪談』では染五郎が伊右衛門に松緑が直助、菊之助がお岩・与茂七・小仏小平と、文字通り三人で持ち切る構えだ。とすると、昼の部は松緑が、昭和42年九月に開場まだ一年に満たない国立劇場で、当時として四十何年振りかで復活上演した時の配役でいえば十七代目勘三郎のつとめた二役を受け持つことになるわけだ。(ついでに言えば、染五郎の二役が勘彌、菊之助の二役が、ついその四月に襲名したばかりの芝翫だった。芝翫はこのときまだ40歳である!)

その後当代猿翁(と言わねばならぬとは、嗚呼! 何とも感じが出ないことおびただしい)がじつに十六回演じながら練り上げていったバージョンや、別に平成中村座で十八代目勘三郎が演じた串田和美バージョンでは、大領や弾正や帯刀までつとめて、多い時は七役早変わりなどということもあった。これらは別バージョンと考えるべきで、今度は音羽屋の型でやると松緑が言っているのは平成二年に菊五郎が国立劇場でやった時のことを言っているのだろうが、これは十七代目と同じ加賀山直三脚色版で、つまり岩藤の宙乗りが舞台を横切る式になる。それにしても『再岩藤』こそは、『桜姫東文章』と並んで、いやそれ以上に、国立劇場の復活上演以後、再認識されて現代歌舞伎のレパートリーに入った代表格というべく、それまでは骨寄せで知られていただけの「二流作」で、『四谷怪談』と互角に、昼夜一本建てで並べられるような「名作」とは思われていなかった。(その功績は、むしろ二代にわたる勘三郎以上に猿翁に帰せられるべきかもしれない。)

とまあ、こんな詮索は措いておいて、『再岩藤』ではまず松緑の進境に驚いた。まず口跡というか、滑舌がよくなって、ラリルレロがダヂヅデドに聞こえるような口捌きの難がほとんど気にならなくなり、同時にセリフばかりかすることがツボにはまって、寸法がぴしゃりとはまるようになったために、世話狂言らしい芝居全体のリズムと流れが出来て、芝居の内容がすんなりとこちらの胸に落ちてくる。もっともこれが『四谷怪談』の直助となると、捨て台詞風に言うセリフ尻が聞こえなくなる、腰高が気になる、いつもの癖が出てくるのが不思議だが、おそらく鳥居又助の方は、乞うた教えの(誰だろう?)薫陶著しかったのだろう。もっともその直助だって、こうしたいつもの癖は出るものの、全体の好調は維持されていて、後にも言うが青年歌舞伎版『四谷怪談』の主要メンバーの一員として立派に貢献している。要するに「役を生きている」のだ。

染五郎は『再岩藤』の多賀大領が、序幕は紫の帽子姿が子供っぽくて案外だったが、大詰の、暗君かと思ったら明君という変幻ぶりが、一条大蔵卿が御家狂言の殿様に生まれ変わったみたいで面白い。思うにこの人、こういう辺りに秘鍵があるのかも知れない。安田帯刀も、肚はしっかりわかって務めているから、『仮名手本』の大星では気になった貫目不足も、若き家老として通用するだけにはなっている。つまりここらが丸本の時代物と御家物の境い目で、大星ばかりでなく、今後盛綱だの実盛だのをつとめるとき果たしてどうか、という見極めどころとなるに違いない。

それにしても、帯刀より多賀大領の方が仁に合っているというのは、この人つくづく二枚目なのだなあと改めて思わせられるが、伊右衛門が予期以上によかったのは、そうしたおのれをよく知った上での頭脳プレイと見るべきか。現代的解釈はさまざまあり得る伊右衛門だが、直助との対照からいっても、歌舞伎の伊右衛門としては、やさおとこの二枚目の方がやはり座りがいい。例の「首が飛んでも動いてみせるわ」をせいぜい気張って言うものの、所詮肉食系ではないところが、却って伊右衛門という人物像に幅を持たせる結果になっているのが面白い。お岩を裏切ってお梅に乗り換えるのも、軽めにすいっと乗って、お父さんの伊右衛門ほど、良心の呵責にことさらに苛まれたりしないのも気に入った。ここでも、ある種大蔵卿風に、すいと、軽く、スマートに切り替わるのである。つまりそこが「現代的」であって、父や、更には祖父の世代の諸優のように、「近代的」であることに、こだわりや、腐心や、いろけや、その他もやもやしたものを持ち込んで、却って伊右衛門を、ひいては『四谷怪談』という狂言を、妙に重たくれたものにしないですんでいる。そこがいい、というか、気に入った。

同じことは菊之助にも言えて、お岩は、たとえば歌右衛門のように、貞淑な武家の妻が夫に裏切られたが故に(あまりにも過剰であるが故に自分を見失うまでに強靭な自我、という逆説を弄したくなるところが「歌右衛門的近代性」なわけだが)、存在の意義を失うまいがために狂気、いや幽霊になるのとも、勘三郎二代のように女としての執着のゆえに化けて出るのでもなく、美しく可憐な、いわば「乙女妻」が男を慕うことをやめずに霊魂となってつきまとう、というべきか。つまりは、こうした「印象批評」を物したくなるところに特質も魅力もあるわけで、今回久々に復活した「夢の場」がこれほど似つかわしいお岩もそうざらにない。染五郎伊右衛門ともども、「怨念」だの「おどろおどろしい」だのという常套句が似つかわしくないスマートさに、お父さんや小父さんたち、更にはお爺さんたちの時代の『四谷怪談』とは違う面白さがある。つまり、近代歌舞伎、でなく、コンテンポラリイ歌舞伎、か。

与茂七も、このところ着々と成果を挙げている立役にまたひとつ、新財産をこしらえたというところだが、ここでも、スッとした男ぶりのまま、夜になれば当然のように地獄宿に出掛けて行く、という感じが「利いて」いる。(『再岩藤』の二役について言い忘れるところだった。お初=二代目尾上はこのひと本来のホームグラウンド、一方お柳の方という御家狂言の類型悪女を類型を踏まえつつも、望月大膳ならずとも心を傾けたくもなりそうなチャームのある悪女にしたところなど、なかなかニクイ。)

先に言った松緑の直助にしても、筋書巻頭の扮装写真など、例の「穏亡堀」の鰻掻きのなりで拾い上げた櫛に見入っているというポーズだが、これがバンダナに短パンの青年が(お岩の櫛ならぬ)スマホを操作している、という見立をしたくなるような、これも一種のスマートさがある。肝心なのは、こうした見立が、もちろん冗談ではあっても決して皮肉や悪口でなく、あくまでも見立として成立することで、その当世感覚が役や狂言の色やテイストから遊離しての結果ではなく、当世の役者として、染五郎は染五郎の、菊之助は菊之助の、松緑は松緑の、それぞれの役を生きているところに意味がある。と、先ずは今回の花形歌舞伎、『再岩藤』は想定外の、『四谷怪談』は想定内の、共に80点というところ。想定外とは、予期を大きく上回ってという意味、想定内とは、このぐらいはやれるよな、やってくれなければ困るよな、という期待に応えてくれたという意味。どちらもめでたぢめでたし。

ところでこの与茂七・直助に加え、梅枝のお袖、市蔵の宅悦とそれぞれなりの大健闘ぶりを見て思ったのは、ぜひ次の機会に、このメンバーで「三角屋敷」を復活させたいということである。筋書巻末の上演記録を見れば明らかだが、シアターコクーンの折の「北版」はともかくとして、昭和54年9月を最後に既に30有余年、「三角屋敷」は上演を絶っている、ばかりか、それまでは出さないことの方がむしろ例外だったのだ。一の理由は上演時間だろうが、今度のように午後4時開演、8時20分終演という形なら、もうひとふんばりして短い幕間を入れてプラス一時間、終演9時20分で可能だろう。それほど長い幕ではないのだ。

第二の理由として、脇筋だから、というのがあるが、これは実は口実に過ぎまい。『仮名手本忠臣蔵』の六段目を見よ、『義経千本桜』の三段目「鮓屋」を見よ、『伊賀越道中双六』六段目「沼津」を見よ。脇筋というならどれも見事に脇筋ではないか。勘平も権太も平作も、皆、本筋から細糸一本で辛うじてぶらさがっているしがない存在でしかない。そういうしがない存在を一幕の、一段の主人公とするところに、浄瑠璃や歌舞伎の作者の工みがあるのではないか。それを脇筋というのは、西洋近代劇の発想に過ぎない。「三角屋敷」こそ、『四谷怪談』全編で最も芝居らしいコクのある場面なのだ。お父さんや小父さんたちの世代ではやらなかったけど、ボク達の手で是非やりたいよね、やろうよねと、染五郎や菊之助や松緑たちが語らい合ったりはしないだろうか? 少なくとも、そんな「空想」を愉しみたくなるところに、今度の花形連の気持ちのよさがあったとはいえる。

それにつけても、『四谷怪談』のお袖といい、『再岩藤』のおつゆといい、梅枝の質実ななかにも潤いのある若女形振りは、これまたもうひとつの推奨ものといっていい。

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国立劇場の鑑賞教室で時蔵が『葛の葉』をするというので楽しみにしていたのだが、少しばかり当てがはずれた。悪い出来というわけではないが、何故かもうひとつ、迫るものが感じられない。客席を埋め尽くした高校生たちも、え? これで終り?といった気配だったのが、端的に語っているかに思われた。時蔵ほどの役者が初役というのも意外とはいえ、そういうことはままあることではある。おそらく「彼」は安全運転第一の慎重派なのであろう。しかし少なくとも、その日見に来た高校生の9割までは文字通り「一期一会」の歌舞伎体験となるに違いない鑑賞教室には、ふさわしいとは言い難い。

秀調の保名というのも、期待していたのだがこれも空振りだった。地味だが古典的な風貌といい、実は私はこの人の密かなファンなのだが、こういう折にこそ、ひとつアッと言わせてやろうというぐらいの気概を見せてほしいではないか。芯の役者の邪魔にならぬよう、という舞台の行儀も時と場合によりけりである。(秀調というと、今は昔、国立劇場に岡本綺堂のシリーズで『室町御所』に『東京の昔話』という二本立てが掛った時、大詰が総踊りになって、上手と下手の両端に売り出して間もない玉三郎と、当時慶三と言っていた秀調が芸者姿で踊っていると、私のすぐ後ろにいた女性が、「玉三郎さん、こっち向いてちょうだい」と、慶三に向かって声をかけたのだった。その頃の慶三は、そそっかしい観客が玉三郎にも見紛う美しい若女形だったのである。そういう頃もあったのだ。)

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新橋演舞場で『香華』を見て改めて思うのは、こういう芝居らしい芝居、いかにも芝居を見たという満足を得られる芝居は、もうこれからは見られなくなるだろうということである。脚本の作り、話の運び、舞台の装置・転換、主役脇役を問わない役者の芸。ついこの間まで当り前のように存在していたこうした芝居が、いつの間にか作られなくなってしまった。ばかりか、演じる役者さえ、もう後何年かするうちにいなくなってしまうだろう。

演技のことだけに限っても、辛うじていま現在、何とかこのレベルでこの舞台を成立させているのは、小泉まち子とか青柳喜伊子といった永年新派で、文字通りしこしこと腕を磨いてきた脇を支える面々であることは間違いない。先月の新派の『金色夜叉』は作品としては残念ながら空振りに終わったが、その中にあって辛うじて芝居を支え、成り立たせていたのは、これも、柳田豊、高橋よし子、田口守といった新派子飼いのベテランたちだった。この春の新喜劇の時にも思ったことだが、新派と新喜劇と、すこし色合いはことなるが東宝現代劇と、プロフェッショナルといえる演技者集団はこれだけになってしまったといっても過言ではない。前進座や、(少々奮発して)若獅子あたりまで加えるとして、「劇団」という、ひとつの色合いを持った演技者集団というものが持っていた意義を、いま改めて深く思わないわけに行かない。

随談第484回 勘三郎随想(その18)

(承前)もうひとつ、思い出すのは昭和四十六年の三月、歌舞伎座の十七代目勘三郎と、国立劇場の尾上梅幸と、ふたりの踊る『京鹿子娘道成寺』が競演になったことがある。梅幸は、当時中村歌右衛門とともに歌舞伎界の立女形と目され、『娘道成寺』は何度も踊っていた。一方、十七代目は、若いころは女形を主にしていたが、中年以降立役が主体となるにしたがって、兼ねる形で女形をつとめることはあったが、『娘道成寺』のような大曲を踊るのは戦時の慰問公演で踊って以来、本当に久々のことだった。はたして、清流を小舟で流れ下るような快適なリズムをきざんで、差す手引く手、揺るぎのない踊りぶりの梅幸に比べ、十七代目は、随所に独特の面白さや味わいを見せながらも、こまかい技巧には、傷がないとはいえない踊りぶりだった。しかし思い出すのは、ふたりの踊りの優劣ではない。

『娘道成寺』の冒頭の「道行」は、花子という白拍子が紀州の道成寺まで訪ねてゆく旅の心象を踊る部分だが、そのなかで、「恋をする身は浜辺の千鳥、夜毎夜ごとに袖しぼる」という長唄の歌詞のところで、口にくわえて薄く紅のついた懐紙をまるめて、花道から目の前の客席に向けて軽く抛るところがある。梅幸は、そのくだりでも、正しい間を崩すことなく踊って、丸めた懐紙を、ぽんと、誰にともなく放ってそのまま踊り続ける。たまたま最寄りにいるのが不慣れな客だったりすると、床に落ちた懐紙をおずおずと、拾ってもいいのかしら、とでもいう風に拾い上げるということにもなる。

一方十七代目は、懐紙を丸めながら、客席に、もちろん演じている白拍子花子という役の心を離れはしないが、愛嬌を籠めた視線を送りながら、さあ誰にあげようかな、とでもいうような合図を送る。おのずと、客は自分に抛ってもらおうとわれがちに手を差し出す。勘三郎は、心持ちじらすような素振りを見せながら、ひょいと、ひとりを選んで手渡すかのように抛ると、いたずらっぽい表情のある目で笑いながら踊り続ける。受け取った客はもちろん、もらえなかった客も、心は既に勘三郎の虜になっている。

どちらをよしとするのではない。梅幸のを、屑籠に紙くずを抛るようだと評した批評家がいたが、心ない評というべきだろう。媚を見せずに、正しくリズムを刻んで踊りつづける梅幸の『娘道成寺』は、くりかえすが渓流を舟で流れ下るような快適さがあって、私は大好きだった。ときに歌舞伎に倦んだある時期、あるいはこころ弱くなったとき、梅幸の踊りに心を癒されるやすらぎを覚えたのを忘れられない。それが端正で鷹揚な梅幸の芸風であって、梅幸が勘三郎のようなことをしたら、それはすでに梅幸ではなくなってしまう。

しかしまた、こうしたところで見せる十七代目の、客の気を取る愛嬌も、いかにも勘三郎ならではの懐かしさをもって、四十余年をへだてたいまも、鮮やかに蘇える。そうして十七代目の中に抜きさしがたくあったそれこそが、父の歌六から受け継いだ血のなせるものであったに違いない、といまにして思うのだ。

十七代目勘三郎の平作で忘れがたいもうひとつの場面とは、平作のあばら家に一泊した重兵衛が早立ちをしたあと、わざと置き忘れた薬と、臍の緒書きの入った印籠を見つけ、真相を知った平作が、間道伝いに夜道を駆けて重兵衛を追いかけるところである。重兵衛こそがわが子であったことを知った驚き。同時に、志津馬が敵と追い求める沢井股五郎の所在を知る敵方の一人とわかれば、なんとしても重兵衛に追いついて敵の居場所を探り出さねばならない。「東海道は回り道、三枚橋の浜伝い、勝手知ったる抜け道を」と杖をついてよろぼい駆け出しながら、平作はお米に向かって、「われも後から、必ず来いよ」と声を掛ける。重兵衛とお米と、ふたりのわが子に対する親の思い、恩と義理の錯綜する人間関係、それらがいちどきに襲い掛かってきた悩乱。だが瞬時にそれらを引き受けた平作は、この一瞬に、それまでのみすぼらしい好々爺から、悲劇の主人公ともいうべき相貌を帯びることになる。

十七代目勘三郎の平作で、私が何よりも忘れがたいのは、この一瞬であり、耳朶に残るのは、われも後から必ず来いとお米に向かって言う、その声音である。はじめてその平作を見たとき、私はこの一瞬に、勘三郎の姿が、ぐいと、大きくなったように感じた。よく役者が大きいとか、大きな役者という言い方をするが、この場合は、衣裳や扮装が変わるわけでもなく、ことさらな見得や何かをするわけでもない。いうなら、ごくリアルな芝居の流れの中で、急所となる一瞬の、アクセントのつけ方にすぎない。十七代目を、巧い、と思うのは、だが実は、こういうところだった。

その前に、お米が盗みをしようとして発覚したとき、わが子の行為に驚き呆れた平作が、涙とともにお米を折檻するところが、この芝居の見せ場とされている。平作は極貧の中でかすかな暮らしを立てている雲助だが、正直者で、人としての気概を失ったことはない。一夜の客となった重兵衛が切り傷の妙薬を持っていると知ったお米が、病床にある恋人のために、夜中に盗もうとして気づかれる。驚き呆れた平作だが、瞬時に、お米の心根を察する。盗みをしたわが娘を折檻する平作は、同時にお米をいとおしんでいる。

舞台で人を叩くときの約束として、歌舞伎では、叩くふりをして陰で自分の手のひらを打つ、ということをする。当然ここでも、平作を演じる役者はそうするのだが、十七代目のを見ていると、演じる十七代目がというよりも、平作自身が、そうしているように見える。虚と実が重なり合い、一致する。同時に、義と情に引き裂かれた平作の心根の、この上ない表現ともなる。折檻をする平作の、言葉にすればいくつもの表現を重ねなければならない、幾重にも重なった矛盾する心情を、こうしてひと筋の真情として見せることになる。

十七代目は、とりわけ情の表出にすぐれていたとされている。このお米を折檻するところなど、まさしくその代表的な場面として挙げる人も多い。もちろん私もそれに異論はないのだが、しかしそれ以上に、重兵衛を追って駆け出す姿を忘れがたく思うのは、その情の涙の中から一跳躍して、お米、あとから来いよと駆け出す躍動感の中に、十七代目自身の心意気が役と重なり合うものを見ていたからだった。盗みをしたお米を哀れと思い、涙とともに折檻をするのも、たしかに平作の心意気だが、重兵衛をわが子と知って、親子の名乗りとひきかえに敵の在り処を訊き出そうと後を追う平作の心意気と、勘三郎自身とが重なり合うところに、余人にない心の躍動があった。十七代目は、本質的に「静」よりも「動」の役者だったと思う。

終幕の「千本松原」の場で、追いついた平作が、闇のなかで重兵衛の道中差で腹を切り、それと引き換えに敵股五郎の在り処を聞き出そうとする。親子の対面がそれと絡む。その心を察した重兵衛が、股五郎の落ち行く先は九州相良(さがら)、と教えるのを、あれを聞いたか、と藪陰にひそむお米へ声を張り上げる。さっきの、後から来い、と首尾一貫する一言だが、十七代目はここもよかった。重兵衛に礼を言って息をひきとるしんみりした長セリフの中、一箇所、破調となる一言でもある。その破調の中に、十七代目の「情」と「心意気」が重なり合う一瞬がある。十七代目は、「正」よりも「破」の役者でもあった。そうしてなにより、「心意気」の役者だった。

そう考えると、十七代目からさらには十八代目にまで流れている、人なつっこいあたたかさや庶民性、ときには権威にも恐れず立ち向かう不羈な精神、意気に感じればときには損得を超えても貫こうとする意気地、といった共通項は、まぎれもなく三世歌六から受け継いだ血液の中にある、波野の家の人たちに独特の気質であることがわかる。

いうまでもなく、『沼津』の平作は、十八代目も、一年九カ月にわたる襲名興行の中で披露の演目として、大阪中座その他で演じたし、最後の仕事となった平成中村座ロング公演の最初の月にも演じている。腹を切って仰のけにひっくり返ると、舞台がぐるぐる揺れて回っているようだったと、あとから述懐していたらしい。

13.「わ」の章  (談話・祖父三代目歌六について)

―――歌六のおじいさんのことといっても、家の親父が七つぐらいのとき死んでますからね。もちろん墓参りして手は合わしますけどね。非常に反骨精神の強い方だったらしいんで、そこはぼくと似てるかもしれませんね。もっとも六代目菊五郎のおじいさんも反骨精神が強いから、どっちにも似てるんだね。

―――あの、珊瑚の話、知ってます? あれ、うちのヒイ爺さん(=五代目菊五郎)とおじいさん(=三代目歌六)の話です。五代目菊五郎が、波野さん、それ何磨いてるのって訊いたら、珊瑚だって答える。それ本物かって菊五郎が言ったら、歌六のおじいさんが、失礼なっていうんで、いきなり煙管の雁首でがんと割った。中が渦巻いてるのが本物らしい。渦巻いてますから本物やろうなあって言うから、菊五郎は悪いことしたと思って、珊瑚を買って返した。そうしたらそれをまたぽんと割って、ああ本物だ、ありがとうって言ったんだって。こういう人ってのは、おそろしいやね。

―――上も下もない人だったらしい。物乞いの人をご飯に連れてったり。それはうちの親父もそういうとこありましたよ、ボクもありますね。そっちの、芝居というよりもそういう、人間としての共通するものがあるかもしれませんね。

随談第483回 勘三郎随想(その17)

11.「る」の章

ところで明治四十二年生まれの十七代目が、三代目中村米吉を名乗って市村座で初舞台を踏んだのは大正五年、七歳のときだった。このときのことは、自伝でも述べているし、ラジオに出演してみずから話しているのを聞いた記憶もあるから、いろいろなところで語られているに違いない。私が聞いたのは、功成り名遂げてからのゆとりが言わせた笑い話としてだったが、その初舞台披露の口上の席で体験した思いは、幼い米吉少年にとっては文字通り終生忘れがたいものであったに相違ない。はっきりいえば、それは、七歳のいたいけな少年の心に、染みとなって残るものだった。

初舞台披露の口上は、長兄初代中村吉右衛門が幡髄長兵衛をつとめる『花川戸噂の俎板(まないた)』の狂言半ばに行なわれた。今日でもよく見かける、狂言半ば、つまり劇中にいったん芝居を中断して、出演中の主立った役者たちが扮装のまま、素に返って祝いのスピーチ、つまり口上を言う。終わればまた元に戻って芝居が進められる。まさに虚と実の皮膜の間に、祝い事が行なわれる、考えてみればこれほど歌舞伎という演劇の本質を露呈しているものはないともいえる。

さてその狂言半ばの初舞台披露で、口上を言ってくれたのは兄の吉右衛門だった。

  「口上を申し上げます」

  と吉右衛門が言って、

  「ここに控えおりまする私の、倅、ではない、弟の・・・」

と続けると、ここでお客がどっと笑う。なぜ笑うんだろうと、毎日毎日考えても、幼い私にはその理由がわかりませんでした。吉右衛門兄さんは、兄弟とはいっても二十二も年上で私のおっ母さんとおないどしでしたから、文字どおり親子ほど離れていたわけです。

        <自伝・やっぱり役者>

ゆるぎのない大立者になった十七代目の語る幼い日の思い出だが、七歳の子供が受けた心の傷が思いやられる文章である。吉右衛門にしてみれば、ちょっぴり複雑な家庭内の事情を背負って生まれた幼い弟を見物に引き合わせるのに、役者らしい愛嬌に包んでみせたわけだろうが、つまりのちの十七代目勘三郎の米吉少年は、父である三世中村歌六が老年になってから外に作った子供だったのである。

歌六は、本妻とのあいだに、初代中村吉右衛門、三代目中村時蔵という立派な後継者をもっていた。米吉は、歌六が六十一歳でつくった孫のような子である。戸籍は父の歌六の籍に入ったが、実際の暮らしは、十歳のときに歌六が死んでしばらくして引き取られるまで、兄たちと一緒の暮らしではなかった。いわゆる「めかけの子」としての哀しみを、十七代目は自伝でしみじみと語っている。父の歌六は想像されるように、米吉を猫ッ可愛がりに可愛がったが、それとこれとはまた別の話だったろう。

三世歌六は、のちに赫々たる覇者となった十七代目が五十回忌の追善興行を歌舞伎座で催したとき、『伊賀越道中双六』沼津を出して亡父の当たり役だった雲助の平作を演じ、大正八年に死んだ歌六を見覚えていた古い劇通から、あまりにもそっくりなのに驚嘆の声があがったといわれる。古い写真に残るその面影を見ても、明治元年に二十歳だったという人の、時代のへだたりから来る相違や、團菊に楯突いたという人らしい不羈な風貌のむこうに、十七代目や、さらには十八代目にもまぎれもなく伝わっている、波野の家のひとの面差しを読み取ることができる。

愛嬌たくさんの芸達者で、晩年は好々爺然として終わったというが、壮年期までは覇気満々、圭角が多いためにみずから不遇を招いたともいわれている。明治の歌舞伎界の王者だった九代目市川團十郎に楯突いたためという話が伝わっているが、しかしそれ以上に、芸風や芸に対する考え方が昔風で、近代歌舞伎の潮流に乗り切れなかったというのが、実情ではなかったかと思われる。『市川左團次芸談きき書』という本の中で三代目市川左團次が、「明治の中頃からこの三代目(歌六)が東京で大いに名をあげてね、東京でも大阪でも押しも押されもせぬ大立者になって、俗に大播磨。立役と女形、両方よかった。特に義太夫ものじゃあ、誰も敵わなかったって言いますね」と語っている。

つまり三世歌六は、名優と呼ばれてしかるべき実力の持主だった。だが忌憚なくいうなら、近代歌舞伎史をひもとくとき、その存在の扱われ方は決して大きいとはいえない。芸の実力と、もうひとつ、その芸を時代の趨勢と反りを合わせられるかどうかが、命運を決めるのだ。近代の歌舞伎を考えるとき、このことを抜きにしては見えるべきものが見えてこない。

歌六といえばよく引き合いに出される逸話がある。得意にしていた『奥州安達原』の安倍貞任を演じていて、花道で、敵にむかってキッと振り返り、「何やつの」と言った後、照明のランプに手を伸ばして、「ああ暗(くら)」といいながらランプの芯を出して明るくしてから、「仕わざなるや」とセリフをつづけたというひとつ話である。この逸話はふつう、歌六という役者が、いかにも昔風の、一風変わった気骨をそなえた人物であることを語る笑い話として語られるのだが、それと同時に、役の人物の心理や内面を分析する近代的な演劇であろうとする團十郎などの歌舞伎とは正反対の、客とともにひとつの空間のなかで、芝居の虚と実の間を自在に往来する、歌六の昔風の歌舞伎観をおのずから物語っているように、私には見える。

歌六の当たり役だった『沼津』の平作は、十八代目も受け継いですでに自分のものにしているが、十七代目の演じるそれは、役の愛嬌と気骨と、演じる役者の愛嬌と気骨が渾然と重なり合い、愛嬌で観客を無条件に喜ばせ、気骨で共感と感動を呼ぶという、勘三郎の芸のあり方をそのまま反映した、一代の芸としてもユニークな位置を占めるものだった。さっき引用した三代目左團次は、十七代目の『沼津』を見ないで亡くなっているが、「いまの勘三郎さんが、どことはいえないが何ンかのとき、びっくりするような歌六のにおいを見せるんだ」とも語っている。もしあの平作が、老劇評家の証言どおり歌六にそっくりだったとするなら、十七代目からさらには十八代目にまで疑いなく流れている、ひとなつっこい、なつかしさを感じさせるような、あたたかな愛嬌は、三世歌六に源泉があることは間違いない。

12.「を」の章

十七代目勘三郎の演じるこの平作について、忘れがたい場面がいくつかある。

ひとつは、幕開きの沼津の宿(しゅく)の、棒鼻といって、宿場のとっつきにある立場で、茶店の縁台に掛けて一服している重兵衛に、平作が頼んで荷物を持たせてもらうところ。もう日暮れも近いのにまだ一文も稼いでいないというのを憐れんで、では、と荷物を持たせてみると、足元はひょろひょろとおぼつかない上に、少し行くとすぐ荷物をおろして休んでしまう。おかしみの場面だから、誰が平作をやっても客席から笑いが湧くところだが、ここでの十七代目の愛嬌はまた格別だった。

旦那さん、あそこの店の泥鰌はまた格別でござりましてな、などと気を引くようなお愛想をいっては、おちょぼ口をして、オホホホホ、と笑う。このおちょぼ口のオホホホホが、十七代目ならではの愛嬌であると同時に、平作という老人の愛嬌と重なり合う。

一徹で、貧しくともその貧しさに負けない気概があり、だからこそ、決して物乞いをするのではなく、旅人の荷物持ちという労働をして、たとえわずかな額ではあってもその報酬を受け取って、生業(なりわい)を立てている。だが老齢の身には、重兵衛の荷物は重い。三歩歩いては肩の荷を下ろして息を入れる。もう荷物持ちの仕事はつとまらないことを悟られまいと、世辞を言ってはおちょぼ口でオホホホホと愛想笑いをする。

誰の平作でも、この老人の人となりを演じ表すことに変わりはないが、このオホホホホは十七代目勘三郎が独特であり、ほんのちょっぴりわざとらしく、しかしそれが故に人の心を引く。この年寄りの哀しみと、雲助はしていても気概を失わない、達観した老人ならではの明るさと、人なつっこい愛嬌とが、次々と襲ってきて見る者をとらえてしまう。

いま、ほんのちょっぴりわざとらしいと言ったが、オホホホホにかかる、その一瞬の間に、十七代目勘三郎の愛嬌と芸がある。ある種のずるさ、といってもいいが、これに似たものと言っては、藤山寛美が得意とする阿呆の役をするときに、敢えて一瞬、間をとって、決め手となる言葉をくりかえしてみせるということをやったのが思い浮かぶ。観客の「気を取る」ことのうまさである。

こうした、客の気を取る芸を、あざといと言って嫌う人もいる。たしかに、ひとつ間違えば、それは客への媚とつながっている。しかし芸とは、芝居とは、演じる者と見る者との交感の中にあると考えれば、急所急所でこうして客を巻き込んで芝居をすることは、芸というもの、芝居というものの本質に根ざした行為とも考えられる。十七代目は、一面では役になり切ることを大事にする俳優だった。だが同時に、客の気を取ることに長け、またそれを好む役者でもあった。矛盾といえば矛盾だが、その両面を抜きにして、十七代目勘三郎という役者も、その芸も考えることはできない。

それで思い出すのは、『俊寛』で、赦免の船が到着してまず下り立った瀬尾が声を掛けると成経と康頼が出てきて「これに候」と這いつくばる。と、ほんの一呼吸、間をおいて、「俊寛もこれに候」とよろぼい出る、その「間」の絶妙さだった。こう文字に書けば、誰が俊寛をやったってここの手順は同じことなのだが、十七代目のみにあって、他の誰にも、十八代目といえどもなかったのは、この、ほんのひと呼吸遅れて「俊寛もこれに候」と声をかけておいてよろぼい出る、十七代目の間の巧さだった。その、わずかな一瞬の「間」で、この後に待っている俊寛の運命が予感となって観客の胸に突き刺さる。いや、この後のストーリーなど、よほどの初心の観客でなければみんな知っているのだ。今更そこで「ハッ」となどしなくとも、俊寛のこの後の悲劇はみんな知った上で見ている(筈だ)。それにもかかわらず、何度見ても、いつ見ても、十七代目の「ここ」の間の巧さには、してやられたのだった。

もしかするとそれは「だまされた」のかもしれない。そもそも原作の浄瑠璃では瀬尾と丹左衛門は一緒に船から下りてきて、声を掛けると三人がわれ先にと使の前に進み出るのだから、歌舞伎のいまのやり方は、ひとつには丹左衛門の役をよくするために後から登場させるのと、もうひとつには、俊寛を際立たせるためなのだから、十七代目のこの「出」の巧さというのは、ある意味で、観客の「気を取る」巧さと、ひとつにつながっているものに違いない。劇場という空間の中で「演じる」という「芸」とは、必ずそうした「魔術」と表裏一体のものであって、観客はそれに「だまされる」ことによって快感を得るのだという一面を取り去ることはできない。十七代目の芸とは、そういう「芸」というものの本来的な魔力と魅力を、見る者に感じさせるところに根差していたのだと思う。

(十七代目の俊寛は、泣き過ぎるという批判があった。クーデターの首謀者でありながらあんなに女々しいのは同情しがたいと、変痴気論めいた批評をするものもあった。たしかに、あんなに涙(と鼻水)でぐしゃぐしゃになってしまう俊寛もなかったろう。しかしそれにもかかわらず、あれほど「泣かされて」しまう俊寛もなかったのも事実である。)

随談第482回 勘三郎随想(その16)

9.「り」の章

もう少し、十七代目の芸の話を続けたいが、その前に、ここらで十七代目勘三郎という人の背負っていた背景について、語っておいた方がいいだろう。十七代目を知る上だけでなく、十八代目について語る上でも、おそらくそのあたりが、奥の院となってくるであろうと思うからである。 もっとも、十七代目についての伝記や評伝は、すでにいくつかの先達がある。だからここでは、私の知る十七代目のよって来たるところを確認し、それが十八代目にどういう風に伝わり、どういう風に影を落としているかを知るために必要なことだけを書くことにしよう。

十七代目の評伝を読んでいて、なにか一番なつかしいような、私の知る十七代目のこれが原点かと察しられるようなことといえば、子役として出演していた大正中頃の市村座の楽屋風景である。

当時の市村座といえば、はるか後に十七代目の岳父となる六代目尾上菊五郎と、十七代目の長兄の初代中村吉右衛門が、ともにまだ三十代の若さで覇を競い合っていた、世に言う二長町(にちょうまち)時代である。二長町というのは、現在のJR秋葉原駅から歩いて数分の、当時市村座のあった町の名だが、終生「菊吉」と呼ばれることになるライバル関係の、いわば水源であり、震源地である。

市村座といえば、世が世ならば江戸三座の一として中村座に次ぐ格式をもっていた劇場だが、維新このかたの世の変動とともに衰退し、下谷二長町という、芝居小屋として一等地とは言いかねる土地に退転していたのを、名興行師として知られた田村成義が買い取って、菊五郎吉右衛門をはじめ若手花形の生きのいいところを集めて競わせたのが評判を呼んで、新時代の歌舞伎のメッカと目されていた。つい数年前に松竹の手に落ちたばかりの、いわば保守本流である歌舞伎座、山の手の上・中流のハイカラ文化を反映する帝劇と並べて、伊原青々園が老巧の批評家らしく三国志の「蜀」になぞらえたが、活気と人気の点では随一だった。(松竹による歌舞伎王国は、まだこの時点では全国制覇の途上だったのだ。)

当時の市村座は、現在も同じ場所にある凸版印刷の工場と隣接していて(市村座跡地という碑が立っている)、昼休みと終業のときに鳴らすサイレンの音が芝居のさなかにも鳴り響く、という環境だった。だがそれでも、往時の舞台を知る人々は、まるで理想の劇場を語るように「市村座時代」をなつかしんだのである。

十七代目が中村米(よね)吉(きち)という芸名で子役として市村座に入ったころ、同じ年頃の子役としてひと足先にいたのが七代目坂東三津五郎の子の坂東八十助と、十三代目守田勘弥の子の坂東玉三郎という従兄弟同士だった。それぞれのちの名前でいえば、八代目坂東三津五郎と十四代目守田勘弥である。

ところでこのころ、年齢的にも若干年長だった玉三郎は、役の上でも米吉に優位に立っていた。『先代萩』なら玉三郎が千松で米吉が鶴千代、『盛綱陣屋』なら小四郎と小三郎という、それぞれ前者の方が、子役として大役なわけである。おまけに玉三郎は、いわゆる「おませ」だったらしく、生意気な玉三郎、略して「生(なま)玉(たま)」と呼ばれていた。のちの十四代目勘弥と十七代目勘三郎を少しでも知る者として、この対比は、いかにもさもありなんと微笑したくなる、あるおかしさをたたえている。俊敏さ、おませな頭脳の働きの点で、米吉は玉三郎の敵ではなかったのだ。少年時代の勘三郎にはどこかおっとりしたところがあったのだろう。この感じは、いまの十八代目にも、まぎれもなく(と敢えて言おう)通底している。

その代わり、米吉少年は、楽屋が三階にあるので俗に「三階」と呼ばれた、門閥外の役者の子供たちの支持を獲得していた。御曹司よりも三階の子役たちと仲良しになるという、この感覚は、十七代目の人となりや、さらには芸のあり方にまでつながる、勘三郎という役者を理解する上の、見落とせないキーポイントであるような気がする。その三階の子役たちの中に、のちに舞踊家として大きな存在となった西川鯉三郎や尾上菊之丞がいて、十七代目の終生の盟友となる。

ところでこの話の山場は、この「生玉」の玉三郎と三階派の加勢を得た米吉の対立に、六代目菊五郎が口を出して、玉三郎の奴に水をぶっ掛けてやれとけしかけたというところから始まる。楽屋風呂で、菊五郎に言われたとおり米吉が玉三郎に水をかけると、玉三郎が殴り返す。噂はたちまち三階の悪童たちに伝わって、バスタオルを肩にひっかけて乙に気取った風呂上りの玉三郎を待ち伏せて、ポカポカ殴りつける、という風に筋書きは展開する。

第二場はその翌日である。おでこに絆創膏を貼って現れた玉三郎は、『先代萩』の千松の舞台をすませると、楽屋で米吉に向かってこう言った。

「米(よん)ちゃん、もう喧嘩はよしにして、これからは芝居のうまくなりっこしようよ」

この「生玉」ぶり!

結局この結末は、菊五郎がその後毎日、双方へうなぎの弁当を出してくれるという形で幕になるのだが、本名波野聖司の米吉の「よんちゃん」と、本名守田好之の玉三郎の「よっちゃん」とは、こうして竹馬の友として始まった親交を終生つづけることになる。それにしても、「おませ」でちょっぴり気取り屋のよっちゃんや、「おくて」で情の厚いよんちゃんや、三階のその他大勢の悪童たちや、まだ三十代の若さだった菊五郎のちょいと大人げないともいえる悪戯と、同時に鮮やかな裁きのつけ方などを見るにつけ、良きにつけ悪しきにつけ、当時の子供がいかに子供らしく、大人がいかに大人らしくありえた時代であったかを、思わずにはいられない。

この「生玉退治」の物語を、いま私は十七代目の自伝にしたがって書いたのだが、後年、よっちゃんの勘弥を顕彰するテレビ番組で、ゲストとして出演したよんちゃんの十七代目がいかにもなつかしげに、この逸話を披露する姿を見たことがある。

「生意気でねえ、あのころのよっちゃんは・・・」

耳朶に残る十七代目の笑いを含んだ声音は、まさにみずからの「たけくらべ」の物語を語っていたかのようだった。(いかにも蛇足を承知でつけ加えるのだが、同じ番組にやはり終生の友として出演していた十三代目仁左衛門が、いえ、生意気などということはすこしもありませんでしたよ、とかばっていたのも、いかにも好人物の松島屋というべきで、思い出してもつい微笑を誘われる。)

10.「ぬ」の章 (談話・勘弥のおじさんのこと)

―――勘弥のおじさんはうちの親父と喧嘩友達でね。ある時、俺が何かのことで親父に猛烈に怒られたことがあるんです。歌舞伎座の楽屋の出入り口のタタキが、いまでも覚えてるけど、そのころ白い砂利みたいになってたの。そこへ正座させられてるんだけど、そこへ涙がぽたぽたぽたぽた落ちてくるんですよ、ぼくの。なんで叱られたんだっけなあ。とにかくものすごい剣幕で怒られてたら、勘弥のおじさんがやって来てねえ。うちの親父に向かって、オイ、よんちゃン、お前はねえ、そんなねえ、こんな小さいときにねえ、こんなにうまくなかったよ、って。ハハハハ。なんかすごく助けてくれた。

―――ええ、だって本当の悪友ですよ。それはねえ、子供ごころに見てても、やっぱり友達だなあって思いましたね。喧嘩も一番してたんじゃないかなあ。ああ、すぐ怒ってね。駄目だあんなことやって、なんてお互いにやってたらしいしね。

まあ、そんなようなことで、うちの親父と勘弥のおじさんは育った学校が一緒でしょ。そう、市村座。だから玉さん(=現・坂東玉三郎)とぼく、仲がいいのはね、やっぱり教え方の同じ学校で育ってるから、楽屋の礼儀とか、そういうことが同じなのね。芸に対する考え方が似てるんだね。

―――勘弥のおじさんといえば、『助六』の白酒売り。「抜けば玉散る天秤棒」って言って、本当に天秤棒抜くの。あれやるの、おじさんだけね。他の方の抜くの見たことない。で、ぼくが白酒売りやったとき、あれをちょっと真似さしていただきました。

―――とにかくね、おじさんにもいろんな思い出がありますね。白鸚のおじさんと一緒で、年始に行くと、飲めよって言ってね、酒出してくれる。きゅーっとやると、お、強いね、って言ってね、やってくれた。

でも、おじさん早くに亡くなっちゃったから、ある意味で。うーん、やっぱり、あの粋な様子がね、いいですよね。