随談第479回 勘三郎随想(その13)

(前回、通算回数に間違いがあり、この回で修正します。)

6.「へ」の巻 

そろそろ勘三郎随想を再開しよう。中学生になった勘九郎が、父十七代目と『連獅子』を踊ることになったときの話だった。

あなたは歌舞伎と聞いて何をイメージしますか?とアンケート調査でもしたら上位入選はおそらく疑いない、白い毛の親獅子と赤い毛の子獅子が入り乱れるように毛を振る光景が、いかにも歌舞伎らしいイメージをかき立てる『連獅子』だが、じつはそれほど古い作品ではない。明治中期、初代市川猿之助(とこのほどの澤瀉屋一門の襲名を機にいわれるようになったのはご承知だろう。それまでは二代目市川段四郎といっていた)の踊ったのが最初といわれるが、その二世段四郎の子と孫に当る二世市川猿之助と三世市川段四郎という実の父子が踊って以来人気曲になった、いわば昭和の歌舞伎である。二世猿之助、すなわち初代猿翁と三世段四郎は、現在の二世猿翁と四世段四郎兄弟の祖父と父だが、体つきといい顔立ちといい瓜二つのようによく似ていた。父と子が入り乱れるように激しく動いて、跳躍したり、毛を振ったりする。気をつけていないと、どちらがどちらだかわからなくなってしまう。そこがまた面白いというのが人気の的だった。

しかしこの曲を実の親子で踊るというミソが、そうした見た目のさま以上に、この踊りの内容にあるのはいうまでもない。前段の狂言師の父と子が、後段の親獅子と子獅子に乗り移って、父がわが子を厳しく鍛え、育てるというテーマをはらんでいる。獅子がわが子を断崖から蹴落として力を試すという試練である。親獅子に蹴落とされた子獅子が、むっくりと起き上がって崖を這い上がってくるさまを、しばし花道に黙然と端座していた子獅子が、決然と起って本舞台まで片足立ちで戻ってくるのを親獅子が迎え入れるという形で表現するところが、この曲の眼目で、ふつうは先輩格の役者が親獅子をつとめるが、実の親子で親獅子と子獅子をつとめると、曲想がそのまま役の上と演者の上に重なって興趣は倍増する。人気曲だから、他の役者たちも踊ったが、猿之助・段四郎父子のがとびぬけて評判を得たのはそのためである。

十七代目は、勘九郎が子獅子を踊れるまで成長する日を待っていたのだった。親獅子の十七代目勘三郎六十歳。子獅子の勘九郎十四歳。中学生だった。実の親子といっても、猿之助と段四郎の場合は子獅子の方も成人だったが、こちらは、子獅子の年齢が、ようやく大人への第一歩を踏み出そうという、まさに曲想そのままである。親の勘三郎だけではない。観客もまた、瞼に残る「勘九郎坊や」の幼い姿を、すっかり成長した勘九郎少年の上に重ね合わせる。感動はひとしおにならざるを得ない。

それはまた、昭和四〇年代というその時点にあって、日本人が忘れかけていた、「少年」という言葉の持つイメージを、目の前にそのまま彷彿とさせるような姿だった。戦後の、社会のめまぐるしい変動が、新しい世代の登場とともに、つぎつぎと「新人種」を生み出してゆく。何々族、といった呼び方で、それらはマスコミを通じて喧伝され、ときに旧世代の神経を逆なでし、何とはなしに不安をかきたてる。勘九郎が少年らしい眉宇にひたむきな表情をうかべて、曲想の子獅子さながらに踊る姿は、まさしくその対極にあるものだった。

少年の凛々しさ、それは旧世代ばかりでなく、若い世代は世代なりに、新鮮なものとして迎え入れる。それは、少年が少しのてらいも不自然さもなく、少年らしい少年であり得た古き良き昔を知らない若い世代にとっても、ある懐かしさを感じさせるものだった。

成果は、期待以上のものだった。勘九郎の成長ぶりへの驚きもだが、その描き出すイメージが、この曲から思い描く子獅子の姿そのものであったからである。父に蹴落とされる振りがあって、花道七三まで行った子が、左右の腕を組むように胸の前に交差して、両脚を折り畳むように一跳躍してそのまま花道の上に胡座する。そのときの、勘九郎の呼吸(いき)のよさ。姿勢の正しさ。単に体が大きくなったというだけではない、その成長の内容を、見る者が実感した一刹那だった。

まっすぐに正面の一点を見据えて身じろぎもしない。決まった振りを忠実に守ってそうしているというより、勘九郎自身がみずから求めてそうしているかのように見える。じっとしているのに、役が、いや役を通じて演者である勘九郎自身が生動している。いざ動き出して、身体が描き出す描線は、父の勘三郎のそれよりも、むしろ明確で歯切れがよい。

これは、という感を抱いたのは、私だけではなかった。満場に高揚する気配が見る見る漂うのが感じられた。そのときのぞくぞくするような感覚を、私はいまでも呼び起こすことができる。その生動感。

思えば、いまに至るまで私の中にある十八代目勘三郎のイメージは、この瞬間に形となり、そのままはぐくまれてきたのであるともいえる。静と動というが、静の中にすでに動がある。静が動をはらんでいるといってもよい。

動が躍動するためには、じつは静の中に溜(た)めるものが前提となる。「溜める」、はすなわち「矯(た)める」と言い換えてもよい。静があっての動であると同時に、動をはらんでいればこその静でもある。じっと、身じろぎもせずにいても、生動するものを感じさせる。生動は、遠く離れた三階席に坐っている観客にも、優に伝わる。

勘三郎が見る者を動かす根本にあるのは、この、生動する感覚だと私は思っているが、いま思い出す限り、それを知った最初がこのときだった。それは、観客のひとりひとりを捕らえるだけでなく、見る者の間に波動して満場を高揚させる。その意味では開かれた芸なのだが、その根本にあるのは、静の中に矯(た)められた動という、凝縮された力である。

身体が描き出す描線が父よりも明確だというのも、少なくとも私の中では、このときの印象が元になっている。十七代目の挙措動作の魅力は、間や呼吸をずらしたり揺らしたりする微妙な高等技術にあったが、それはほとんど筆に捕らえるのを困難にする類いのもので、描き出す描線は、むしろまろやかで、はんなりとかまったりとかいった微妙な表現がふさわしいものだった。少なくとも、俊敏とか峻厳とかいう言葉で捕らえうる種類のものではなかったと思う。どちらをどうと、優劣をつけるわけにはいかないが、鮮烈という一点からいうなら、父より子の方が、より印象に鮮明である。

評判はたちまち広まって、父子『連獅子』はそれから短時日の内に再演、三演を重ねることになったが、ここでまた、かつての「勘九郎坊や」時代を思い出させるような「勘九郎語録」がマスコミによって伝えられたことから、ことは芸能欄からとびだして社会面でも扱われる内容をもつに至る。父の厳しい稽古に見事に耐えた勘九郎が、将来自分は絶対に勘三郎の名は継がないと言い出したという。自分は勘三郎の名前は継がず、息子に継がせる。そうすれば将来、わが子に稽古をつけてやるときに、「コラ、勘三郎」と呼び捨てにしてやれるからね、そうしたらなんと気持がいいだろう、と語ったというのである。

これはまた見事な「勘九郎語録」だった。父と子の厳しい稽古としつけ、父の厳しさもその厳しさの意味も完全に理解し、受け容れながらも、実の父、実の子であるかぎり逃れられない肉親同士の感情。それを、遠い未来のわが子に託して「コラ、勘三郎」と叱りつけたらどんなに気持ちがいいだろうと発想を転換させる、機知とユーモア。それを可能にする心のゆとり、広さ。

ここでも、かつての勘九郎坊やが見事に成長し、心豊かな少年になっている現実を知って、人々は微笑したが、この話題はさらに一転する。東京都の教育長や私立大学の学長をつとめ、マスコミにもしばしば登場する著名人であった教育界の大家が、勘九郎のこの発言をとりあげて、現代の最も理想的な親子関係の好例と評したのである。ちょうど世間では、親子の断絶がいわれはじめ、戦後教育のあり方を問うような声が高まろうとしている、ひとつの季節でもあったから、そういうときに、こういう立場の人物のこの発言は、芸能界という狭い枠をはるかに超えて、社会的な注目を惹く対象となったのだった。