随談第497回 机上の妄論

勘三郎随想を一旦お休みということにして、近頃ちと気になる話題について、ひぐらしパソコンに向かう内に怪しうこそ物狂おしくなってきたことを、書き留めておきたくなった。

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オリンピック種目からはずされそうになったレスリングが、このほどのIOCの審査でどうにか予選通過したというニュースで、日本中が沸き立っている。直前に委員へのアピ-ルのために現地に乗り込んだ吉田選手がこれまでに取った金メダルを何枚も首にぶら下げて、コングラチュレーション、などと言われている情景が画面に映ったりするのを見ていると、ナンジャコリャ、と思わず呟きたくなった。

そもそも、IOCの委員というのは何様だ、ということもある。この前、東京が開催地に立候補し(て落選し)たときにも、いろんな委員がやってきて何となく雰囲気を察したが、すべてはあの人たちの胸先三寸にあるわけで、生殺与奪の権を彼らは持っている。単に、どの種目が選ばれるか、だけでなく、レスリングなり野球ソフトボールなりスカッシュなりその他その他の、どの種目の何がよくて何がいけないかまでのすべてを彼らに支配されることになるから、野球みたいに、7イニング制に致しますから何とかお認めくださいまし、などと言いだす羽目になる。運営の仕方を改善すべしということだった筈が、その意を迎えようとするあまり、自分から自分の身を切って見せようとすることになるわけだ。陛下は何もおっしゃったわけではないが、その意を体したのである。阿部一族ではないが、腹を切れと言われたわけではなくとも切腹しないわけにはいかなくなったのだ。

それにしても、取ったメダルを首に下げて陳情に行く、というのはどういう意味なのだろう。こんなに私は強いのよ、という示威なのか。こんなに実績があるのだから認めろ、という意味なのか。そんな私がこんなにレスリングと熱心に取り組んでいるのだから、ということなのか。でもそれなら、どの種目にもそういう人はいるだろう。私がIOCの委員だったら、さあ、そう言われても困りますなあと答えるしかないだろう。メダルを見せられたあの委員も、せいぜいコングラチュレーションとお世辞を言ってお茶を濁したのだろう。以前モスクワ五輪の際、ソ連のアフガニスタン侵攻で日本は直前で不参加ということになった時(やはりレスリングの選手だったか)自分は何のためにこの四年間やってきたのか、と泣き出した人がいたが、気の毒だとは思ったが、正直なところちょっと滑稽を感じたのも事実だった。(今度も、関係者の大騒ぎに滑稽を感じている人も、決して少なくないに違いない。当然あるべき筈のものがなくなったら、もちろん、ショックだろう。しかし、それは何故、当然あるべき筈なのだろう? あるべき筈と思い込んでいるのは、突き詰めれば、傲慢に似て来はしないだろうか?)

もちろん私も、レスリングは正式種目であるべきだと思っている。古代オリンピックの昔からある、西欧起源の格闘技の原点であって、すなわち他の種目の範となる由緒正しいスポーツだと思うからだ。もっとも、そういう「大物」が落選しかかって懸命に選挙運動を始めたとなると、他のもっとマイナーな種目としては、自分の選挙区に突如大物候補が舞い降りてきて派手な選挙活動をやり出すのを横目で見るような気分になるだろう。あの人がシャシャリ出なければ私にだってもうちょっとは当選の可能性があったかもしれないのに、とぼやきたくなるだろう。それもこれも、みんなIOCへの心中立て、オオ口惜し、オオ恨めし、というわけだ。

前にも書いたことがあるが、私は、極論をすれば、オリンピックは陸上競技だけでいいと思っている。より早く走り、より高くより遠くへ飛び、投げる。それから、より重たいものを持ち上げる重量挙げ。つまりこれらが、「競争」というものを「遊び」に転化するという人類最大の叡智から生まれた「スポルト」の根源である。オリンピックとは、つまるところ世界大運動会である。江戸城吹上御殿へ天下無双の豪傑たちが集まってきて技を競い合う「寛永御前試合」のように、それはなるがたけ、簡潔明快なものがいい。「競争」の粋は「競走」である。小学校の運動会の精華が駆けっこ、わけても紅白リレーであるように、世界大運動会たるオリンピックの精髄もまた駆けっこ、イヤサ陸上競技であり、わけても400㍍リレーに尽きる。(私がこれまで見たオリンピックで最も感動したのは、前々回のときだったっけ、男子400㍍リレーで銅メダルを獲得した時だった。日本チームが陸上短距離で取った銅メダルの値打ちは、他の種目の金メダル何個分でも利かないだろう。)

そもそも球技というのは、人間の文化文明が高度に複雑に発展してから始まったもので、簡素簡潔を生命とするオリンピックに馴染まない。そもそも時間がかかりすぎる。野球が7イニング制などと言い出したのもそのためだろうし、サッカーなど、一年も前から世界中で予選が行われ、いざ本番には、開会式の前からトーナメント戦を始めている。入学式の前から卒業試験を始めるようなものでおかしな話である。体操みたいな、やたらに採点が煩雑で判定が左右されるような種目もふさわしくない。同じ理由で、冬季大会でもフィギュアスケートはオリンピックにはいらない。

こう言ったからと言って、私はこうした種目を嫌っているのではない。現に私は大の野球好きで、プロ野球は王・長嶋どころか川上・大下の時代からのファンである。大谷選手の二刀流と聞くとすぐ野口二郎選手を連想した人間である。つまり、野球もサッカーも、オリンピックなどを無暗に有難がらなくとも立派にやっていけるスポルトなのだから、IOCの方から是非参加してくれと言って来たら考えてやってもいいかもしれないが、こちらからペコペコ頭を下げて、ましてルールを変えたり姑息なことをしてまで「混ぜて」もらうことはないのだ。フィギュアスケートに至っては、(私は見るのは大好きだが)もうスポーツというより芸術に近い。以前は「規定」と「自由」の2種目で、規定というのは図形を正確に滑るとか、技の正確さを測るもので素人が見てもちっとも面白くなかったが、いまの「芸術点」などというのは何を以って点数にするのだろう。しかし選手たちの「芸」はたいしたものだから見ては面白い。入場料を取って興行する方が似つかわしい。

もっとも、ソフトボールなどは参加させてやりたいよね。そもそも野球と抱き合わせにするようなメジャーな存在ではないのに、一緒にしようと言ったのがIOCから評価されたというのを見ても、IOCの委員が如何に野球に認識がないかがわかろうというものだ。サッカーもラグビーもアメフトも元は同じフットボールなのだから一緒になれ、というようなものではないか。

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ニュースを聞いていたら、野球の側からIOCに請願する代表に松井が加わるらしい。松井は、先日の国民栄誉賞授賞式のスピーチで男を挙げたが、なるほど、自分がいまいる立場、自分という存在の在り方、果ては今度の受賞に関してどんなことが言われているかに至るまで、彼は実によく認識している。つまりそれだけ、己を知り、己を見る他者を知り、洞察するセンシビリティを持っている。またそれを、みずから卑屈にならず、また他を貶めずに、己の言うべきことを述べる表現力を持っている。実に、人物として賢明な人間であるというべきだろう。

もうアメリカには用というものはない筈だと思われるが、このままアメリカに居続ける気配なのは、クラシックの音楽家とか洋画家とかには従来から珍しくなかった「メトロポリタン」という生き方を選ぼうとしているのかもしれない。しかし日本を捨てたわけでも愛していないわけでもないから、日本のためにお役に立てることがあればお役に立ちましょう、ということでIOCへの陳情の役を引き受けた、というわけだろう。用が済めば、またニューヨークの自宅へ帰るだけである。

日本に戻ってくることはもうないのか? そんなことまで考えてやる義理も付き合いもないが、読売巨人軍の監督、というポストが用意されたときどうするか、ということは、野次馬として多少の興味はないでもない。