随談第476回 勘三郎随想(その12)

(前回よりつづく) もっとも勘三郎自身は、「勘九郎坊や」当時のことをあまり過大に蒸し返されるのは迷惑だったらしい。前に言った私の『20世紀の歌舞伎俳優たち』の中でも「勘九郎坊や」時代のことに触れ、アンファンテリブルと書いたのを、ああいうの、あんまりうれしくないんだ、と私に向かって言ったこともある。ご本人にしてみれば、それは確かにそうだろうと私も思う。しかし勘三郎一代を振り返って何かを言おうとするなら、あの勘九郎坊や時代の「恐るべき子供」時代のことに触れないわけに行かないのも、また事実なのだ。それは、単なる天才子役とか名子役というのとは別の、ちょっと大袈裟に言えば昭和30年代という時代を語る上で欠かせない、社会的な「現象」としての側面をももっているからである。

勘三郎自身も、照れくさがりながらも、当時の自分を否定しようとしたわけではない。一年九ヵ月におよんだ十八代目の襲名披露公演の掉尾を飾ったのは二〇〇六年十二月の京都南座の顔見世だったが、それにちなんで、JR京都駅に接続する美術館「えき」KYOTOで開かれた「十八代目中村勘三郎襲名記念展」をご覧になった読者は、会場の一コーナーに展示された、おそらく勘三郎自身のアルバムから剥がしてきたと思われる、当時のスナップ写真のあれこれが思い当たるに違いない。惜しげもなく提供された写真の数々は、「勘九郎坊や」の天真爛漫なベビーギャングぶりと、十七代目が齢五十にして、たぶんはじめて我が物とした日々の喜びを物語って余りあった。襲名興行を暮の南座に見に行った夜、一週間ほど前に高熱を発して『娘道成寺』を死に物狂いで踊ったという勘三郎が、まだ完全に回復していたわけではないのに、約束だからと言って、終演後、南座の近くのおでん屋に案内してくれた折、明日にでも見てくださいよと教えてくれたのだった。

いま改めて思う。父の十七代目の舞台が、万人を喜ばせる明るさとおおらかさとをもつようになった過程と、それは見事に軌を一にしていた。襲名や追善の口上の席で、自分の番がきて十七代目勘三郎が顔をあげる。もうそれだけで、満場がじわじわと、期待にざわめく。十七代目が、誰もが認めるそうした役者になったのは、この時期ではなかったろうか。十八代目が、父十七代目あっての十八代目であるように、十七代目もまた、わが子十八代目があっての十七代目なのである。子は父の親なのだ。

やがて、名子役勘九郎をひときわ世の話題にのぼらせた小「事件」が起こる。一九六三年七月の歌舞伎座は、『怪猫有馬の猫』のような、後にも先にもこのときに見落としたら二度と見る機会のないような珍品がメニューのなかに入っていたり、夜の部は、十七代目勘三郎と二代目松緑が弥次喜多になる『膝栗毛』の通しという、納涼気分の、やや軽めの演目の並ぶ興行だったが、そういうなかで、昼の部の切りに、子供ばかりの『白浪五人男』勢揃いの場というのが企画された。ちびっこ歌舞伎、という呼び名がたちまちの内にマスコミからつけられた。

この時点ではまだ大谷友右衛門だった雀右衛門の二男の広松の日本駄右衛門、先々代中村歌昇の二男の光輝の忠信利平、四代目中村時蔵の長男の梅枝の赤星十三郎、八代目三津五郎の孫で坂東蓑助の長男の八十助の弁天小僧という配役のなかで、勘九郎は南郷力丸を演じたのだったが、連日その時間になると一幕見の切符売り場に長い行列ができるという人気とともに、このとき話題となったのは、主役の弁天小僧を八十助にゆずって、勘九郎がみずから、その相棒の役の南郷力丸に廻るという気ばたらきを見せたという「秘話」だった。花形スターの弁天小僧に対して、南郷力丸というのは、脇にまわって巧さを見せる、芸達者のつとめるいわば味な役である。そういう役に目をつけた、勘九郎の幼にしてただ者ならずと思わせる「役者ごころ」に、ひとは微笑しつつも、ひそかに舌を巻いたというわけだった。かわいい生意気。もしかすると、後年のコクーン歌舞伎といい平成中村座といい、旺盛に発揮することになるプロデュース精神の、これが発露であったかも知れない。

このときの駄右衛門役の広松とは現在の中村芝雀のことで、いまも年齢を感じさせない楚々たる若女形ぶりからは想像もつかないが、それを別にすれば、勘九郎の南郷も八十助の弁天も、忠信利平の現在の中村又五郎も、赤星十三郎の現在の五代目中村時蔵も、四十余年をへだてたいまも、そのまま本役としてつとめられるのがおもしろい。

ところで、このとき弁天小僧の役を勘九郎から「ゆずられた」八十助は、つい前年、祖父が八代目坂東三津五郎を襲名するに当って、父がその前名の坂東蓑助を継ぎ、自身が五代目坂東八十助を名乗って初舞台を踏んで、三代揃っての襲名という華やかな話題をふりまいてデビュウしたばかりだった。八十助にも、通学する小学校の教室の黒板に「十代目坂東三津五郎」と落書きをしたという「おそるべき伝説」が早くも伝わっていた。年齢も一歳違い、今日まで続くふたりの盟友にしてライバルという関係はこのときに始まるといえる。いまも残るこのときの宣伝写真を見ても、教わった役のポーズを取りながらもどこか幼さ故の無防備さも露呈している他の四人の中で、八十助の弁天小僧だけは、かかとを揃えて束(そく)に立ち、斜に構えた立ち姿に寸分の隙もない。古典主義派(クラシシスト)十代目三津五郎は、このとき既にして、その塑像を幼い姿のなかに、原型として存在させているかのようですらある。

思えばそれから数年の歌舞伎界は、史上でも稀な「名子役の時代」だった。とりわけ勘九郎、八十助、それにひと足おくれて登場した当時光輝の現又五郎らの舞台ぶりは、けなげさや達者さといった並みの名子役の域に留まらない卓抜なものがあった。折から、そのころ次々と新しい役に挑戦を試みていた歌右衛門が、勘九郎を田宮坊太郎に『志渡寺』のお辻、光輝の力若で『身替音頭』の花園、やはり光輝の千代松で『お静礼三』のお静のような、このときを見逃していたらほとんど見る機会もなかった珍しい演目や役々に取り組んだのも、彼ら名子役たちがあってのことだったともいえる。『お静礼三』の礼三郎で歌右衛門と共演した梅幸も、勘九郎の三吉で『重の井』の子別れ、八十助の怪童丸で『山姥』を演じて、その生涯を通じての高い水準の秀作を残しているし、他ならぬ十七代目勘三郎も、光輝のお君で当時は上演の稀だった『奥州安達原』袖萩祭文の袖萩と貞任を演じ、勘九郎の志賀市で『再岩藤(ごにちのいわふじ)』の鳥井又助のくだりを復活したのだった。二代目松緑の『鳥羽絵』で八十助が踊った子鼠の舞台写真は、その後永らく、この踊りの写真といえばそのときのものが使われた。歌舞伎に渇を癒すように、むさぼり見ていた学生だった私は、ちょうどかれら名子役たちの数々の名作を目の当たりにする幸運にめぐり合わせたのである。

とはいえ、「名子役の時代」は、所詮、子役たちの一定の成長までのいっときの期間であることをまぬがれない。どんな名子役も、背丈が伸び、声変わりをし、子役という「天使の時代」から、成人し自覚も定まるまでの「無明の季節」を通り抜けるまで、パッとしない一時期を過ごさなければならなくなるのが普通である。だが、勘九郎の場合、その季節にあの『連獅子』が生まれたのだった。

一九六九年四月、勘九郎十四歳、父十七代目勘三郎六十歳、初舞台からほぼ十年後の、勘九郎のもうひとつのスタートである。