随談第481回 勘三郎随想(その15)

(承前)十七代目勘三郎の新三の話をしていたのだった。

十七代目の真にすぐれているのは、以上のような二重性の下に新三が隠しているもうひとつの顔までをも、おのずから見る者に察知させるところである。それは、いわゆる狂言の底を割るなどという体の、あざとい、底の浅い技巧とはまるで別種のものであって、強いていうなら、それはさっき言った眉宇の翳り、目遣いといったもので表現されるのだが、しかしそうした技巧よりも、勘三郎の持っている、さまざまに乱反射し、交錯し合う存在感が、そう感じさせるのだ。

新三が隠し持っているもうひとつの顔とは、上総無宿の前科者でばくち打ちという、ならず者の顔である。新三が実際にそういう「もうひとつの顔」を現わすのは、忠七をそそのかしてお熊を連れ出し、夕立のなか永代橋の袂で忠七を打ち据えるときだが、しかし現行の、本名題の『梅雨小袖昔八丈』よりも通称の『髪結新三』を前面に出し、「白子屋見世先」「永代橋川端」の序幕二場に、「新三内」と「家主長兵衛内」をいわゆる行って来いで交互に見せる二幕目、弥太五郎源七の仕返しをごくあっさり見せるだけの大詰「深川閻魔堂橋」の三幕仕立ての立て方だと、大詰でもうすっかりいっぱしの博徒になった姿を見せるほかには、家主の長兵衛に向かって「上総無宿の入墨新三」と凄んで見せたものの、逆に長兵衛からとっちめられて小さくなるという、むしろ間抜けな、喜劇的な場面ぐらいに点描されるだけだ。

もっとも、本名題『梅雨小袖昔八丈』として通し上演したとしても、新三の活躍する出番がこれ以上あるわけではない。「閻魔堂橋」の仕返しは、普通は新三がひと太刀斬られてダーッとなったところで幕にするが、通しでやれば、あのあと源七に殺され、それ以降は源七の芝居になる。つまり現行の『髪結新三』とは、大岡政談という枠組のもと、新三と源七のふたりのドラマで成立しているものを、新三ひとりの芝居として再構成したものだといっていい。こういう場立ての『髪結新三』は、十五代目羽左衛門や六代目菊五郎がくり返し演じるうちに慣行として定着していったのは間違いない。つまり、大正・昭和戦前の歌舞伎が、粋な江戸前の市井劇としてエッセンスを洗い上げたのが、いまわれわれの知る『髪結新三』なのだ。いうなら、六代目菊五郎らがそれを作り、観客がそれを支持した産物、つまりは、大正・昭和戦前の歌舞伎が作り上げた新三像である。

すると、どういうことになるか。そこには、意趣返しに新三を殺したものの罪に怯える、落剥した弥太五郎源七のみじめな姿も、大岡裁きというドラマ全体の枠組みも取り外されている。新三の出番に変りはないとしても、そうした全体の中で見るのと、新三の筋だけをとりはずして見るのとでは、長編小説のなかの一人物として読むのと短編小説の主人公として読むのとでまるで印象が違うように、新三の人物像も違って見えてくる。劇そのものの印象が、暗い翳の要素がなくなって、新三というちょいとワルな男の小英雄ぶりを楽しむ軽妙なドラマに変貌してしまう。上総無宿の入墨者、などという暗い翳はほとんど忘れられて、小粋な江戸っ子のように錯覚される。

事実、戦後の昭和二十年代に、十七代目や二代目松緑がはじめて新三を手がけたとき、批評家や見巧者の間の重要な関心事は、六代目菊五郎の名品と比べてどの程度のものかということであり、それは、たとえば「ひら清(せい)」の手拭を縫い合わせた浴衣がけという湯帰りの姿が「六代目」に比べて粋かどうか、といったことに向けられることになる。前の晩、忠七をそそのかして連れ出したお熊をわがものにして、そのほとぼりに酔いながら昼日中、きょうは仕事を休みにしてひと風呂浴びに行った戻り、という江戸っ子ぶりを見せる場面で、当時有名な料亭だった「ひら清」の手拭、というのがここで効いてくる。そこへ通りかかった魚屋から初鰹を、一両の四分の三である三分(ぶ)という大金をぽんと出して買う。その江戸っ子ぶりについて、同じ江戸前の味でも「六代目」が鮎の塩焼きとすれば松緑のはさんまだ、といった批評が、劇通らしい気の利いた批評の言葉だったのである。『髪結新三』とは、そういう芝居として理解されていたのだった。

その事情は、十七代目勘三郎の場合でも、違っていたわけではない。しかし、鮎とさんまの差はあるにしても、松緑の新三が明朗で粋な江戸の市井劇に終始したのに対し、勘三郎のそれは、そうでありつつも、新三のもうひとつの顔も透けて見えている新三だった、というところに、じつは真骨頂があったのだと思う。ひら清の手拭をはぎ合わせた浴衣をはおり、大金を投げ出して初鰹を買うというこの場の新三の行為の陰には、じつは気っぷのいい江戸っ子ぶりだけではないものがある筈である。

「六代目の生活には楽天的要素があったが、勘三郎には六代目にないニヒリズムがある。それが私をひきつける。五代目より数歩を進めた六代目の髪結新三より、また十五世羽左の新三よりさらに勘三郎の髪結新三がニヒリズムの点で、アルファをつけ加えることが出来たのは、彼の成功である」と舟橋聖一が書いたのも、私が見たのと同じ、昭和四十年五月のことである。舟橋は『筆屋幸兵衛』についても、花道七三で東を向いてきまるところ、その顔は六代目を超えて、ひとつ奥をのぞかせたと思う。そういう「部分」が出来たことでも、私は現代歌舞伎の存続にわずかでも安心する、と同じ文章の中で書いている。

この舟橋の書きぶりには、まだ満七歳にもならない明治四十四年に市村座ではじめて六代目菊五郎を見たのが歌舞伎初見参だったという時代の人らしい、適者生存の進化論と、その延長線上につらなる歌舞伎衰亡論とが結びついた、時の流れが一方向にしか進まない認識の仕方が口吻にほの見える。六代目菊五郎の時代を絶頂として、戦後の歌舞伎は衰亡への一途をたどるものと見るのが、舟橋に限らず、当時の識者の誰彼となく共有していた時代認識だったのだ。だから、六代目歌舞伎を継承するのはいまのところ勘三郎である、と書く舟橋聖一が、ほんの「部分」にせよ、その六代目にまさる「アルファ」を勘三郎が「つけ加えた」というのは、戦後の歌舞伎俳優に対する褒め言葉として最高のものだったと考えてもいい。

ところでその勘三郎がつけ加えた「アルファ」とは、舟橋聖一によればニヒリズムだということになるのだが、たしかに、大詰の「閻魔堂橋」で、それまでの髪結とはがらりと変わって、むしり、という月代を不精たらしく伸ばした鬘に、もうすっかりいっぱしのばくち打ちらしい風俗で登場すると、けだるいような虚無的な気配が、十七代目の身体から漂ってくる感じだった。ここは、前にも書いたように、十八代目も巧い。新三にしてみれば、弥太五郎源七の鼻を明かしたのをきっかけとして、念願通り、愛想を売って歩く廻りの髪結から足を洗って、ちょいとした顔役にのし上がった、得意の姿であるはずなのだが、十七代目にせよ十八代目にせよ、その虚無的な風情は一種ぞっとさせるものがある。わざわざ全編を通しで出すまでもなく、閻魔堂橋のこの姿を一瞬みせただけで、新三という男の行く末から、『梅雨小袖昔八丈』という狂言全体の裏側に潜んでいる闇の世界が暗示される。練達の画家が、ほんのひと刷毛で人物の外貌内面、人生までも描き出してしまうのに、それは似ている。むしろそれで、充分だとすらいえる。

おそらくここらが、十七代目勘三郎の真骨頂だったのだと私は思う。六代目菊五郎を私は見たことがないが、先人たちの書きのこしたものや、写真などから想像するその芸風からも、その新三にこういう感覚はたぶんなかったろうと思われる。ニヒリズムというアルファをつけ加えた、と近代小説家らしく舟橋聖一は言ったが、そう言うよりも、人物の秘めているさまざまな顔や人生が、色合いや翳りとなって交響するところに、余人にない魅力が溢れ出したのだというべきだろうか。

8.「ち」の章 (談話・父に教わった役)

―――髪結新三ね。あれはそういう意味ではさあ、劇的ですよ。親父の死んだ月にやってたんだもん。四月の十六日に。初役ですから。で、最後にベッドの中でやってくれた。

一番最後にベッドの中でやってくれたのは「四谷怪談」のお岩なんだけども、これは何時やるとも言わないで教わりに行った。だって四月ぐらいに危ないっていうんだから。実際にお岩をやるのは八月か七月の大阪の中座ですから、そんな役を今ごろ教えるなんて何でだ? なんて言われたらいやじゃないですか。だからいろんな話から持ってったの。そしたらやってくれました、親父。

―――新三は、それはまあ全部教わった。もっそう飯ってのは何か、とかね。そういう意味でも、親父が死んだときに初役でやらしてもらったってのが、そういうことで言えば因縁めいてるですわな。これからも大事にしていきたい役です。

随談第480回 勘三郎随想(その14)

7.「と」の章

父の十七代目勘三郎のことを、もう少し話したい。そもそも、「勘三郎二代論」というのが、私が十八代目を語りたいと思うサブテーマでもある。

父十七代目があっての十八代目であると同時に、十八代目があっての十七代目でもあると前にも言ったが、もしほ時代の十七代目のことを、気障でいやみな役者だったと言っていた安藤鶴夫が、すばらしい役者が誕生したと書いたのがちょうど十八代目の初舞台のころ、という時間と前後関係の符合は、安藤鶴夫ひとりの証言を頼りにするまでもなく、当時を語るさまざまなひとたちの言からも立証できそうだ。ほぼ万人の見るところ、十七代目襲名を境に、それまでの翳りが見る見る拭い去られた勘三郎が、いよいよ第一級の大俳優として「勘三郎ぶり」を発揮し出したのが、十八代目誕生から初舞台の前後と見てよい。その意味からいうなら、「名優」十七代目勘三郎は、十八代目が生んだのだということになる。私が十七代目の舞台を実際に見るようになったのも、まさしくそのころだった。

そのころの、歌舞伎座の筋書巻頭に載る顔写真に見る勘三郎を、私はいまでも思い浮かべることができる。実にいい顔だった、というのは、それは見事なまでに、そのころの十七代目の役者ぶりを雄弁に語る写真だったという意味であって、大立者らしい、いわゆる立派な顔というのとは、ちょいと違う。

眉宇に不敵な翳があって、目に表情が生動している。それが同時に、かすかな笑いを含んでいるようにも見えるのが、悪戯っ子のようでもあれば、覇気満々、機知縦横、颯爽の気に満ち溢れているようでもある。普通ならさほどおもしろいものではないパンフレットの顔写真の中で、あれほど、いろいろなものを読み取りたくなる表情をしている顔を、いまだに私は他に知らない。あの写真は、いつごろから使われ出したのだろう? あの写真こそ、いま私が語ろうとしているこの時期の勘三郎の「顔」なのだ。

その顔から、当時の十七代目のどの役が思い浮かぶか? ベストワン、という意味でなら、まだ他にも候補はあるかも知れないが、その人を語るのにもっともふさわしい代表作、という意味でなら、十七代目の場合にも、私はやはり髪結新三をあげる。

ただし私が見た十七代目の新三は、もうすでに何度も演じてからのもので、その意味では安定の域に達していたのであったのかも知れない。一九六五年五月、「六代目菊五郎十七回忌追善」という肩書のついた興行だった。このときは、「菊吉」以後の戦後歌舞伎の先頭に立ってきたビッグ6(シックス)ともいうべき六人のうち、当時東宝に在籍していた八代目幸四郎(白鸚)を除いた十一代目團十郎、六代目歌右衛門、七代目梅幸、二代目松緑、それに十七代目勘三郎の五人が、「舞踊五段返し」として六代目菊五郎ゆかりの曲を一曲ずつ踊るのが呼び物だった。その一曲として『保名』を踊る團十郎が、何か不満があったかして初日から休演していたのが、急遽月半ばから出演するということがあり、しかも後から見れば、この『保名』を本興行での最後の舞台として間もなく入院、秋には癌のため死去するという波乱があったりして、なおさら忘れがたい思い出となっているのだが、因みに十七代目はこの五段返しの中では、『良寛と子守』を踊ったのだった。坪内逍遥の作になる新舞踊で、良寛にからむ子守娘が勘九郎である。「この子は本当に良寛の話に聞き入っている」と、長老批評家の濱村米蔵が、舌を巻いた、といった感じで劇評に書いていたのを覚えている。勘九郎、満十歳のはずだ。

ところでこのとき十七代目が演じた『髪結新三』は、昼の部に松緑が『魚屋宗五郎』を出したのと裏表のような形で夜の部に出た。六代目菊五郎の黙阿弥の世話物の傑作二編を、その衣鉢を継ぐと目された勘三郎・松緑のふたりがそれぞれ演じるというのが、眼目となっていた。松緑は松緑で、宗五郎は六代目から受け継いだ遺産の中でももっとも自負するところであったろう。勘三郎松緑、それぞれ期するところあったであろうことは、想像に難くない。(松緑は、舞踊五段返しでは『浮かれ坊主』を踊っている。ついでだが、この『魚宗』で、宗五郎の家に酒を届けに来る酒屋の小僧の役が、三年前に初舞台と同時に襲名した坂東八十助、つまり現三津五郎だった。)

いわゆる「型」というような、やり方としては、十八代目がよく写しているから、することにかわりはない。だから違いといっては、部分部分の演技の印象ということにならざるを得ないのだが、とりわけ、それは目遣いにあらわれる。十八代目も、こうした芝居での目の遣い方がうまかったが、十七代目のそれとは微妙に違う。技巧の差でも、写し方が不十分なのでもなく、おのずから質の違いとなってあらわれる。目の色でいうなら漆と墨、血液でいうなら濃と淡、気質でいうなら粘液質と多血質、複雑と明快、どう言っても切りがないが、こうした細部の違いは、見終わっての印象というトータルな人間像としての新三という男のイメージとなって、十七代目の新三と十八代目の新三とでは、別様なチャームをもった存在として、見た限りの者の脳裏に定着することになる。そうしてやはり、この違いの依って来たるところを考えてみれば、親子といえども個性の違い、その生きた時代の違いと同時に、十七代目という役者を成り立たせていた背景について、またしても考えないわけにはいかなくなってくるのだ。

そこで、あの、昭和三十年代当時のプログラム巻頭の写真である。不敵さの下に見え隠れする翳。一言にして、その魅力の意味を読み取っていうなら、それだろう。小冠者、という言葉を、私はその写真の十七代目の風貌から思い浮かべていた。年齢からいえば、当時すでに五十歳の前後に達していた筈だ。たまたま自分の母親が、十七代目と同じ明治四十二年の酉年生まれであることを私は知っていたから、十七代目が実際にはそれほど若いわけではないこともわかっていた。しかし、ほぼ同年配の八世松本幸四郎の重厚さなどに比べても、「小冠者」というその眉宇から直感したイメージは、わたしの十七代目観の根底を形づくっている。

そうは言っても、その頃、十七代目勘三郎はすでに赫々たる大家であったから、目に見るかぎりのその舞台姿は堂々たる貫録である。それにもかかわらず、その奥に、私は「小冠者」としての十七代目の在り様を感じ取っていたのだ。大家としての外面の奥に見て取れる、永遠に歳を取らぬかとすら思える悪戯小僧の面影といおうか。いま思えば、そのとき私は、未熟な観客なりの目で、そこに十七代目という役者の本質を感じ取っていたことになる。かすかな笑いを含んでいる、とパンフレットの十七代目の顔写真のことを言ったのを思い出していただきたい。悪戯っ子の目、といってしまったのではストレートすぎて本当は面白くないが、油断のならぬ小娘も巨(こ)袋坂(ぶくろざか)に身の破れ、と弁天小僧のセリフにある、ただ者ならず、と見る者の関心をひかずにはおかない、颯爽感である。

このときの『髪結新三』では、忠七役は十四代目守田勘弥、お熊はまだ当時は七代目大谷友右衛門だった中村雀右衛門だったが、この配役もまた、十七代目の新三に配するにこれ以上のものは思い当たらない、絶妙の配役であったといまでも思う。白子屋の財政が傾いたため、五百両という持参金つきの入婿を取るという話を母親から聞かされたお熊が、忠七に駆け落ちを迫っているところへ、道具箱を提げた新三がやってきて門口で様子を伺う。もうそれだけで、幾重もの波乱を予感させてぞくぞくする。

筋の上では、この段階では、忠七はまだ奉公第一、ご恩を受けた主筋へ迷惑はかけられぬと忠義一途の口を利いているのだが、勘弥を見ていると、そういう言葉の表よりも、肚の中がおのずから表にあらわれて、お熊とうじゃじゃけているような印象として、記憶のなかに定着している。その後だれの忠七を見ても、こういう、忠七という男の本音というか、本質というか、優柔不断がお店者(たなもの)のユニフォームである縞物の着物を着ているような、つまり役の本質が衣裳をまとっているような忠七というものを、ついぞ見たことがない。新三に駆け落ちを唆されてその気になる。永年、白ねずみのようにお店大事で働いてきたけれど、ここで一番肚を決めて「いたずら者になりましょうわえ」という、そのあたりの何とも言えぬ軽み。言うなら、人生の岐路に立っている筈なのだが、うじゃうじゃ感はこの男から抜けることがない、とでも言おうか。

勘弥の二枚目役というと、『籠釣瓶』の栄之丞のヒモぶりが有名だが、忠七にせよ栄之丞にせよ、この種の役をこういう感覚で捕らえ、演じるのが、二枚目というものなのだということを、私は勘弥を見ることが出来たお陰で知ったのだといえる。その意味でこの人も、存在するだけでその役になれる、絶対の仁をもった「最後の役者」のひとりだったのだ。

こうして勘弥と雀右衛門がうじゃじゃけているところへ、勘三郎の新三がやってきて立ち聞きをするという、もうそれだけでぞくぞくする面白さというのは、どう言ったらいいだろう。勘三郎の眉宇に漂う、なんとも言えない不敵な翳が、この新三という男の併せ持つ幾重もの人物の存在を映し出している。

表に見せているのは、愛嬌と愛想を売って得意先を廻って歩く、廻りの髪結である。しかしその愛嬌の下に、この男がなにやら野太いものを秘めていることは、その身体から発散する体臭のように、あきらかに読み取れる。自分の才覚ひとつを頼りに体を張って渡世をしている者の発散する、一種のオーラともいえる。(この項つづく)

随談第479回 勘三郎随想(その13)

(前回、通算回数に間違いがあり、この回で修正します。)

6.「へ」の巻 

そろそろ勘三郎随想を再開しよう。中学生になった勘九郎が、父十七代目と『連獅子』を踊ることになったときの話だった。

あなたは歌舞伎と聞いて何をイメージしますか?とアンケート調査でもしたら上位入選はおそらく疑いない、白い毛の親獅子と赤い毛の子獅子が入り乱れるように毛を振る光景が、いかにも歌舞伎らしいイメージをかき立てる『連獅子』だが、じつはそれほど古い作品ではない。明治中期、初代市川猿之助(とこのほどの澤瀉屋一門の襲名を機にいわれるようになったのはご承知だろう。それまでは二代目市川段四郎といっていた)の踊ったのが最初といわれるが、その二世段四郎の子と孫に当る二世市川猿之助と三世市川段四郎という実の父子が踊って以来人気曲になった、いわば昭和の歌舞伎である。二世猿之助、すなわち初代猿翁と三世段四郎は、現在の二世猿翁と四世段四郎兄弟の祖父と父だが、体つきといい顔立ちといい瓜二つのようによく似ていた。父と子が入り乱れるように激しく動いて、跳躍したり、毛を振ったりする。気をつけていないと、どちらがどちらだかわからなくなってしまう。そこがまた面白いというのが人気の的だった。

しかしこの曲を実の親子で踊るというミソが、そうした見た目のさま以上に、この踊りの内容にあるのはいうまでもない。前段の狂言師の父と子が、後段の親獅子と子獅子に乗り移って、父がわが子を厳しく鍛え、育てるというテーマをはらんでいる。獅子がわが子を断崖から蹴落として力を試すという試練である。親獅子に蹴落とされた子獅子が、むっくりと起き上がって崖を這い上がってくるさまを、しばし花道に黙然と端座していた子獅子が、決然と起って本舞台まで片足立ちで戻ってくるのを親獅子が迎え入れるという形で表現するところが、この曲の眼目で、ふつうは先輩格の役者が親獅子をつとめるが、実の親子で親獅子と子獅子をつとめると、曲想がそのまま役の上と演者の上に重なって興趣は倍増する。人気曲だから、他の役者たちも踊ったが、猿之助・段四郎父子のがとびぬけて評判を得たのはそのためである。

十七代目は、勘九郎が子獅子を踊れるまで成長する日を待っていたのだった。親獅子の十七代目勘三郎六十歳。子獅子の勘九郎十四歳。中学生だった。実の親子といっても、猿之助と段四郎の場合は子獅子の方も成人だったが、こちらは、子獅子の年齢が、ようやく大人への第一歩を踏み出そうという、まさに曲想そのままである。親の勘三郎だけではない。観客もまた、瞼に残る「勘九郎坊や」の幼い姿を、すっかり成長した勘九郎少年の上に重ね合わせる。感動はひとしおにならざるを得ない。

それはまた、昭和四〇年代というその時点にあって、日本人が忘れかけていた、「少年」という言葉の持つイメージを、目の前にそのまま彷彿とさせるような姿だった。戦後の、社会のめまぐるしい変動が、新しい世代の登場とともに、つぎつぎと「新人種」を生み出してゆく。何々族、といった呼び方で、それらはマスコミを通じて喧伝され、ときに旧世代の神経を逆なでし、何とはなしに不安をかきたてる。勘九郎が少年らしい眉宇にひたむきな表情をうかべて、曲想の子獅子さながらに踊る姿は、まさしくその対極にあるものだった。

少年の凛々しさ、それは旧世代ばかりでなく、若い世代は世代なりに、新鮮なものとして迎え入れる。それは、少年が少しのてらいも不自然さもなく、少年らしい少年であり得た古き良き昔を知らない若い世代にとっても、ある懐かしさを感じさせるものだった。

成果は、期待以上のものだった。勘九郎の成長ぶりへの驚きもだが、その描き出すイメージが、この曲から思い描く子獅子の姿そのものであったからである。父に蹴落とされる振りがあって、花道七三まで行った子が、左右の腕を組むように胸の前に交差して、両脚を折り畳むように一跳躍してそのまま花道の上に胡座する。そのときの、勘九郎の呼吸(いき)のよさ。姿勢の正しさ。単に体が大きくなったというだけではない、その成長の内容を、見る者が実感した一刹那だった。

まっすぐに正面の一点を見据えて身じろぎもしない。決まった振りを忠実に守ってそうしているというより、勘九郎自身がみずから求めてそうしているかのように見える。じっとしているのに、役が、いや役を通じて演者である勘九郎自身が生動している。いざ動き出して、身体が描き出す描線は、父の勘三郎のそれよりも、むしろ明確で歯切れがよい。

これは、という感を抱いたのは、私だけではなかった。満場に高揚する気配が見る見る漂うのが感じられた。そのときのぞくぞくするような感覚を、私はいまでも呼び起こすことができる。その生動感。

思えば、いまに至るまで私の中にある十八代目勘三郎のイメージは、この瞬間に形となり、そのままはぐくまれてきたのであるともいえる。静と動というが、静の中にすでに動がある。静が動をはらんでいるといってもよい。

動が躍動するためには、じつは静の中に溜(た)めるものが前提となる。「溜める」、はすなわち「矯(た)める」と言い換えてもよい。静があっての動であると同時に、動をはらんでいればこその静でもある。じっと、身じろぎもせずにいても、生動するものを感じさせる。生動は、遠く離れた三階席に坐っている観客にも、優に伝わる。

勘三郎が見る者を動かす根本にあるのは、この、生動する感覚だと私は思っているが、いま思い出す限り、それを知った最初がこのときだった。それは、観客のひとりひとりを捕らえるだけでなく、見る者の間に波動して満場を高揚させる。その意味では開かれた芸なのだが、その根本にあるのは、静の中に矯(た)められた動という、凝縮された力である。

身体が描き出す描線が父よりも明確だというのも、少なくとも私の中では、このときの印象が元になっている。十七代目の挙措動作の魅力は、間や呼吸をずらしたり揺らしたりする微妙な高等技術にあったが、それはほとんど筆に捕らえるのを困難にする類いのもので、描き出す描線は、むしろまろやかで、はんなりとかまったりとかいった微妙な表現がふさわしいものだった。少なくとも、俊敏とか峻厳とかいう言葉で捕らえうる種類のものではなかったと思う。どちらをどうと、優劣をつけるわけにはいかないが、鮮烈という一点からいうなら、父より子の方が、より印象に鮮明である。

評判はたちまち広まって、父子『連獅子』はそれから短時日の内に再演、三演を重ねることになったが、ここでまた、かつての「勘九郎坊や」時代を思い出させるような「勘九郎語録」がマスコミによって伝えられたことから、ことは芸能欄からとびだして社会面でも扱われる内容をもつに至る。父の厳しい稽古に見事に耐えた勘九郎が、将来自分は絶対に勘三郎の名は継がないと言い出したという。自分は勘三郎の名前は継がず、息子に継がせる。そうすれば将来、わが子に稽古をつけてやるときに、「コラ、勘三郎」と呼び捨てにしてやれるからね、そうしたらなんと気持がいいだろう、と語ったというのである。

これはまた見事な「勘九郎語録」だった。父と子の厳しい稽古としつけ、父の厳しさもその厳しさの意味も完全に理解し、受け容れながらも、実の父、実の子であるかぎり逃れられない肉親同士の感情。それを、遠い未来のわが子に託して「コラ、勘三郎」と叱りつけたらどんなに気持ちがいいだろうと発想を転換させる、機知とユーモア。それを可能にする心のゆとり、広さ。

ここでも、かつての勘九郎坊やが見事に成長し、心豊かな少年になっている現実を知って、人々は微笑したが、この話題はさらに一転する。東京都の教育長や私立大学の学長をつとめ、マスコミにもしばしば登場する著名人であった教育界の大家が、勘九郎のこの発言をとりあげて、現代の最も理想的な親子関係の好例と評したのである。ちょうど世間では、親子の断絶がいわれはじめ、戦後教育のあり方を問うような声が高まろうとしている、ひとつの季節でもあったから、そういうときに、こういう立場の人物のこの発言は、芸能界という狭い枠をはるかに超えて、社会的な注目を惹く対象となったのだった。

随談第498回 今月の舞台から

歌舞伎座の杮落し公演が早や三月目になる。「3」という数は多数を表わすというが、なるほど、何事も三回目となると、いつもの××、といった感覚が生まれ始める。たとえば玄関を入ったらまず右手へ折れて、地下一階へ階段を下りてロッカーに荷物を預け、それから手洗いに入って身を整える、という行動パターンが私の場合出来つつある。上手奥に出来た喫茶室で働く人たちも、四月のときはもう気の毒になるほどの不慣れの様子だったが、三月目ともなるとそれなりの習熟の気配を見せ始めている。注文がちゃんと通っているのだろうかと心配になったりすることも、やがては、しないですむようになるであろう。(そうでなくては大変だけどね。)

ロビーを歩くのが、まだ慣れない。どこがどう通じているか、おおよそ頭に入ってはいるのだが、まだまだ勝手知ったる我が家の庭のようなわけには行かない。三階席を覗いてみると、出入り口の付き方が大きく変わり、従来は三階のロビーの平面がそのまま三階席の最前列の床面につながっていたのが、今度は、ロビーから中に入ると三階席の中腹辺りに入ることになり、ちょいと面食らう。勾配が急になった分、舞台との距離感に微妙な差異があるような気がする。

三階についてもうひとつ。女性用の手洗いに行列が出来た時に、ちょっと人目にさらされるような感じになって具合が悪いという声を女性の知人から聞いた。ここらは、設計者が男性であるが故の盲点か。それと、これは全フロアに関わることだが、ロビーにベンチがないのは,座りたければ自分の席に戻るしかないわけで、これはやはり、ちょっと具合が悪い。エスカレーターを設けたためその分スペースが足りなくなった、一方を立てれば一方が立てられなくなった帰結なのだが・・・

音響についても、やはり席によっていろいろな意見が出ているようだ。一階席の座席の高さと舞台の高さのバランスも、席によって微妙に違うらしい。まあ、すべてに完璧ということは不可能なことで、ああだこうだ言い合うのも賑わいの内だともいえる。

        *

さて舞台だが、最初の月のような客席が固唾を飲んで開幕の瞬間を見守ったような雰囲気は大分薄れて、よく言えばそれこそが落着きでありゆとりであり、安定感というものだが、舞台にもそれは、おのずから反映しないわけにはいかない。

開幕劇は、もう鶴だの亀だのの出てくるような祝典曲ではなく、橋之助の不破に勘九郎の山三、それに魁春が留女という『鞘当』である。勘九郎がもうすっかり、自分というものを自分の手にしっかりと捉えた大人の役者に成長しているのに目を見張る。橋之助も立派なマスクが生きて結構だが、但しこの不破、顔が白過ぎないか。もっとベリッと猛々しくないと、それでなくともハンサムな橋之助だから、のっぺり伴左衛門になってしまう。二枚目役者だ、という意識が白粉の分量をつい多めにさせるのか?

三津五郎の『喜撰』が大結構。こういうものを見ると、大和屋四代ほど一貫した芸の風を感じさせる家も珍しいとつくづく思う。古格を守り、楷書で書いて、やがてそれが深まり、とろりと芳醇な味わいに熟成してゆき、やがて七代目のごとく自在の芸境に達する。そういうことを可能にするのは三津五郎代々だけであろう。当代は、襲名の時にまず楷書できちんと踊り、十三年後のいま、ようやく柔らかにほどけ始めている。十年後には更に深い味になっているに違いない。そういうことを、見るわれわれも共に年齢を重ねながら味わってゆくという楽しみ方。完塾した時だけが正しくて、それまでは未熟だというのではない。その時々を、われわれの方も熟してゆきながら、味わい、親しんでゆくのだ。こういう楽しみ方こそ、まさに人生そのものを楽しむことと重なり合う。時蔵のお梶がまた素敵である。独特の硬質の色気がこの役、この踊りにまことにつきづきしい。すなわちこの『喜撰』が今月の白眉であり、お奨めである。

吉右衛門の『俊寛』は、四月の熊谷、五月の梶原もそうであった如く、どこを突出させるのではない、円環のごとく全き芸になっている。だからどこを捉えてどう評するということが難しい。ただ先月先々月に比べ、こころなしか燃焼度がやや低い気がするのは、これもまた三カ月目ということのなせるわざか。この三カ月、團十郎に代ってつとめた役も含めると、吉右衛門が一番負担が多かったのではあるまいか。

それで思うのだが、吉右衛門に限らず、菊五郎にせよ幸四郎にせよあるいは仁左衛門にせよ、こけら落しの三カ月がすんだら、ひと月二た月、休ませてやりたい。ひと月二十八日間興行というのも、疲労を蓄積するだろう。勘三郎が亡くなった時、誰かが、これは過労死だと言ったが、猿翁の倒れたのにしても、自ら求めて働いたにせよ、身体を酷使したことは間違いないのだ。菊五郎の土蜘が四天王との立ち回りで、片足立ちで花道から本舞台へと跳んでくるという矍鑠たる処を見せたが(嗚呼、菊五郎に「矍鑠」などという言葉を使おうとは!)、まずこれは芸の意地ひとつでしたことだろう。

仁左衛門など、丹左衛門といい工藤といい、もちろんいいものに違いはないが、やはり疲れているのを感じる。くれぐれも大切にしてもらいたいと切に思う。『対面』の冒頭の部分、幕が落ちると工藤が二重の上に立ち身でいて、それから下に降りて「高座御免」を言ってから高座に座るという演出は、十三代目が晩年、身体をいとって工夫した仕方らしいが、ちょっと落ち着かない気がした。冒頭いきなり大薩摩が始まるのも違和感を拭えない。

『俊寛』は大顔合わせといっていいが、『対面』は海老蔵の五郎、菊之助の十郎以下、芝雀の虎はともかく、孝太郎の舞鶴、七之助の少将から大名たちに至るまで、配役が大幅に若くなっている。『土蜘』の四天王や間狂言の面々にしても、『助六』の並び傾城など壱太郎が先頭なのだからその若いこと若いこと。まさに近未来図だ。

もっとも、齢を取るのは悪いことばかりではない。左団次など、瀬尾にせよ意休にせよ、何度やったか知れない役だが、一種飄々とした趣きが現われて、する仕事に変りがあるわけではないが、なかなか風情があって素敵である。東蔵の満江にしても、あの小柄な人が、海老蔵と菊五郎の五郎十郎を従えたところの実に立派なこと。四月の『盛綱』の微妙にせよ、田之助が膝の故障で出ない今(東蔵がどうのこうのでなく、満江をこの人で見たいという思いも別にあるけれど)、こうした役はこの人のものになった。蓄積された実力を、いまこそ、十全に発揮できる時を迎えたのである。

さて海老蔵だが、『対面』といい『助六』といい、これはどうしたことなのだろう? どう言えば、どう考えればいいのだろう? これが、かつてのあの、輝いていた海老蔵だろうか? 痩せて頬がこけたということもあるかも知れないが、そんなことは本質的なことではない。セリフの難のどうのこうのも、もちろんあれでいいわけではないが、いま始まったことではない。あんなに、自らも暗く、且つ、暗い翳に包まれたような五郎や助六が、いや海老蔵が、あるだろうか? 剥き身に取った紅隈がどす黒く見える。あの五郎は、工藤への復讐の念に燃える怨念の虜なのだろうか?

たしかに、海老蔵は一種の凄みを秘めた役者である。父十二代目より祖父十一代目に近いと目されるのも、容姿や風貌以上に、その点に最も根源的な理由がある。(犬丸治氏はそれを「怒気」と言い当てた。)助六にせよ『暫』の権五郎にせよ、その凄みが現人神の怒りという、荒事の本質に通じ、われわれは海老蔵を通じて、助六や鎌倉権五郎が、いまわれわれの目の前に、手を伸ばせば届きそうな、まさに「そこ」にいるような実感を味わったのだった。セリフが浮き上がろうと、多少の難があろうと、これぞ荒事だと実感したのだった。それもこれも、あの輝きに包まれていたればこそである。

あの海老蔵はどこへ行ってしまったのだろうか。率直に言おう。助六の出端の約20分間、私は暗然たる思いで見つめていた。本舞台に行って「芝居」が始まってからは、少しずつ、生気を取り戻すかのように尻上がりに良くなっていったので、少し愁眉を開いたけれど。一方菊之助は十郎も福山のかつぎも共に、自分の成長してゆくペースを知る者の、すくすくと伸びてゆくすこやかさが感じられるのが快かった。しかし何と言っても、海老蔵と菊之助と二枚揃ってこそ、歌舞伎の将来の展望は大きく開けるのだ。海老蔵をいま惑わせているものの正体は何なのだろう? 海老蔵は私が将来を最も期待する花形役者である。このままでは困る。本当に困る。

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国立劇場の歌舞伎鑑賞教室で『紅葉狩』のような舞踊を演目に選んだのは初めてのことかもしれない。しかし考えてみれば、全山紅葉のキレイキレイの舞台面といい、お姫様が出てきたり、衣装がぶっ返ると隈取の妖怪だったり、毛ぶりがあったり、その他その他、初心の客が何とはなしに抱いている歌舞伎イメージが満載なわけで、ストーリーは見ていれば誰にだってわかるし、これほど初心者向けの演目も少ないかもしれない。問題は、姫の踊りが長いので、あそこで睡魔に襲わせないためにはどうするか、ということぐらいか。(惟茂も、右源太左源太も眠ってしまうのだから、高校生が眠るのも無理はない、か?)

解説が十九歳の隼人と十五歳の虎之介というのは、高校生の集団をどよめかせるには充分だった。内容もよく工夫されていた。むかし、菊蔵だの半四郎だのがやっていた頃とは隔世の感がある。菊蔵のは教頭先生がみずから丁寧に教えて下さるみたいだったが、半四郎は、騒がしい生徒がいると舞台の上から叱りつけたりしていたっけ。虎之介は山神もよく踊ったし、二人には敢闘賞をやっていい。

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このところ三越劇場を本拠のようにして着実に得点を重ねてきた新派が、今月は『金色夜叉』を出したので注目したが、今度ばかりはちと躓いた。考えてみれば、新派古典としての『金色夜叉』はもう疾うに、時代の流れの中で役目を果たし終わっている。せいぜい昭和30~40年代まで、と見るのがいいところだろう。(森雅之が新派に入って寛一をやったりしたのは、もう少し後だったか。吉右衛門の間寛一というのも見ている。昭和50年頃だったか。森雅之なり吉右衛門なりの演技としての興味は別として、芝居としては、時すでに遅しという感は否めなかった。)『婦系図』とはそこが違うのだ。そのことをどこまで見極めての、今度の公演だったろう?

今度の脚本は昭和56年に文学座が上演した宮本研による新版である。新派としても夙に昭和58年に国立劇場公演でトライしているとはいえ、宮本版『金色夜叉』は新劇の脚本であり、杉村春子に赤樫満枝をさせるのが新解釈で、「とり源」の場で新内をよそ事浄瑠璃として聞かせるような、杉村流新派芸を見せる遊びの要素もあるものの(今度もその場面は当代八重子の満枝で面白く見せている)、しかし本質は『美しきものの伝説』の姉妹編であり、「新劇」の脚本である。もちろん、新派が新劇の脚本をやったって悪いわけではない。しかしそれならそれで対応の仕方がある。

文学座の所演では二宮さよ子がお宮を演じた。お宮が何故、寛一ではなく富山を夫として選んだのか、が宮本研の解釈の急所だが、しかし脚本にはそのことは敢えて明確には書いていない。このお宮が富山のプロポーズを受けたのは、むかしの新派古典の脚本で間寛一からののしられたように「ダイヤモンドに目が眩んだ」からではない。では何か? お宮自身にもそれは答えられない。「夢を見ているようだった」と後になってから述懐するのが精一杯の、明治という時代の乙女の、人生に対する夢のなせるわざである。つまりこの脚本のこの役は、若手の女優がするべき役であって、ベテランの大女優が「芸」で見せるような役ではない。たしかに58年の国立劇場では久里子お宮をやっている。しかしそれから30年後の今度も久里子に、と考えたところに誤算があった。このお宮は、八十翁の名女形もつとめる八重垣姫とは違う。

今度なら、お宮は瀬戸摩純だろう。久里子はむしろ、お宮の母に回るべきだった。こんどの高橋よしこも悪くないが、久里子がこういう役で新境地を開いたら面白かったろう。それとも、やはり「劇団新派」として八重子・久里子の二枚看板で売ろうというのなら、新規に、ふたりの「芸で見せる」のにふさわしい脚本を作るべきだった。

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新橋演舞場に五年ぶりで舟木一夫公演がかかった。前にも書いたが、私はこの公演のひそかなファンである。何と言っても、ファンが次々と手渡す花束やプレゼントを受け取りながらヒットナンバーを歌うのが見ものであり聞きものだが、芝居でも、野口雨情だの竹久夢二だの、大正の文化人の役をさせると、現在の各ジャンルを見渡してもちょっとない、いい持ち味を見せるのだ。(若い頃、川口松太郎や先代八重子から新派に入るよう勧められたという話さえあった筈だ。)

今度は里見浩太朗をゲストに『花の生涯』の長野主膳というやや物々しい時代劇だったが、それでも、セリフの緩急や身のこなしなどに、昔の時代劇俳優が身につけていた「時代と世話」の使い分けを心得た演技をするので、気持ちがいい。長谷川一夫でも千恵蔵・右太衛門でも、萬屋錦之介でも大川橋蔵でも、つまりそれが、歌舞伎で修行をした役者としての「教養」だったのだ。ちょっと大風呂敷を広げて演劇史的に見るなら、いま急速に終りを告げようとしている商業演劇としての時代劇という観点から見ても、間接的にせよそうした時代劇俳優の演技伝承の流れを汲んだ舟木あたりが、時代劇の俳優としての「教養」を身につけている最後の役者ともいえるわけだ。(演技の味付けに、いわゆる歌手芝居独特の調味料が加えられているのは是非ないとしても。)

もうひとつ、筋書に水落潔さんが書いている文章に、昭和28年に初代猿翁が演じて以来の『花の生涯』の劇化上演とテレビドラマについて簡単に触れられているが、映画のことが触れていないので蛇足を加えさせてもらうと、劇化と同じ昭和28年秋に、松竹で映画化されている。当時として、かなり力を入れた大作だった。八代目幸四郎の直弼、淡島千景の山村たか、高田浩吉の長野主膳という配役だったが、のちの白鸚にとってはこれが最初の映画出演だったということもあるので、忘れられないために書き留めておきたい。

随談第497回 机上の妄論

勘三郎随想を一旦お休みということにして、近頃ちと気になる話題について、ひぐらしパソコンに向かう内に怪しうこそ物狂おしくなってきたことを、書き留めておきたくなった。

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オリンピック種目からはずされそうになったレスリングが、このほどのIOCの審査でどうにか予選通過したというニュースで、日本中が沸き立っている。直前に委員へのアピ-ルのために現地に乗り込んだ吉田選手がこれまでに取った金メダルを何枚も首にぶら下げて、コングラチュレーション、などと言われている情景が画面に映ったりするのを見ていると、ナンジャコリャ、と思わず呟きたくなった。

そもそも、IOCの委員というのは何様だ、ということもある。この前、東京が開催地に立候補し(て落選し)たときにも、いろんな委員がやってきて何となく雰囲気を察したが、すべてはあの人たちの胸先三寸にあるわけで、生殺与奪の権を彼らは持っている。単に、どの種目が選ばれるか、だけでなく、レスリングなり野球ソフトボールなりスカッシュなりその他その他の、どの種目の何がよくて何がいけないかまでのすべてを彼らに支配されることになるから、野球みたいに、7イニング制に致しますから何とかお認めくださいまし、などと言いだす羽目になる。運営の仕方を改善すべしということだった筈が、その意を迎えようとするあまり、自分から自分の身を切って見せようとすることになるわけだ。陛下は何もおっしゃったわけではないが、その意を体したのである。阿部一族ではないが、腹を切れと言われたわけではなくとも切腹しないわけにはいかなくなったのだ。

それにしても、取ったメダルを首に下げて陳情に行く、というのはどういう意味なのだろう。こんなに私は強いのよ、という示威なのか。こんなに実績があるのだから認めろ、という意味なのか。そんな私がこんなにレスリングと熱心に取り組んでいるのだから、ということなのか。でもそれなら、どの種目にもそういう人はいるだろう。私がIOCの委員だったら、さあ、そう言われても困りますなあと答えるしかないだろう。メダルを見せられたあの委員も、せいぜいコングラチュレーションとお世辞を言ってお茶を濁したのだろう。以前モスクワ五輪の際、ソ連のアフガニスタン侵攻で日本は直前で不参加ということになった時(やはりレスリングの選手だったか)自分は何のためにこの四年間やってきたのか、と泣き出した人がいたが、気の毒だとは思ったが、正直なところちょっと滑稽を感じたのも事実だった。(今度も、関係者の大騒ぎに滑稽を感じている人も、決して少なくないに違いない。当然あるべき筈のものがなくなったら、もちろん、ショックだろう。しかし、それは何故、当然あるべき筈なのだろう? あるべき筈と思い込んでいるのは、突き詰めれば、傲慢に似て来はしないだろうか?)

もちろん私も、レスリングは正式種目であるべきだと思っている。古代オリンピックの昔からある、西欧起源の格闘技の原点であって、すなわち他の種目の範となる由緒正しいスポーツだと思うからだ。もっとも、そういう「大物」が落選しかかって懸命に選挙運動を始めたとなると、他のもっとマイナーな種目としては、自分の選挙区に突如大物候補が舞い降りてきて派手な選挙活動をやり出すのを横目で見るような気分になるだろう。あの人がシャシャリ出なければ私にだってもうちょっとは当選の可能性があったかもしれないのに、とぼやきたくなるだろう。それもこれも、みんなIOCへの心中立て、オオ口惜し、オオ恨めし、というわけだ。

前にも書いたことがあるが、私は、極論をすれば、オリンピックは陸上競技だけでいいと思っている。より早く走り、より高くより遠くへ飛び、投げる。それから、より重たいものを持ち上げる重量挙げ。つまりこれらが、「競争」というものを「遊び」に転化するという人類最大の叡智から生まれた「スポルト」の根源である。オリンピックとは、つまるところ世界大運動会である。江戸城吹上御殿へ天下無双の豪傑たちが集まってきて技を競い合う「寛永御前試合」のように、それはなるがたけ、簡潔明快なものがいい。「競争」の粋は「競走」である。小学校の運動会の精華が駆けっこ、わけても紅白リレーであるように、世界大運動会たるオリンピックの精髄もまた駆けっこ、イヤサ陸上競技であり、わけても400㍍リレーに尽きる。(私がこれまで見たオリンピックで最も感動したのは、前々回のときだったっけ、男子400㍍リレーで銅メダルを獲得した時だった。日本チームが陸上短距離で取った銅メダルの値打ちは、他の種目の金メダル何個分でも利かないだろう。)

そもそも球技というのは、人間の文化文明が高度に複雑に発展してから始まったもので、簡素簡潔を生命とするオリンピックに馴染まない。そもそも時間がかかりすぎる。野球が7イニング制などと言い出したのもそのためだろうし、サッカーなど、一年も前から世界中で予選が行われ、いざ本番には、開会式の前からトーナメント戦を始めている。入学式の前から卒業試験を始めるようなものでおかしな話である。体操みたいな、やたらに採点が煩雑で判定が左右されるような種目もふさわしくない。同じ理由で、冬季大会でもフィギュアスケートはオリンピックにはいらない。

こう言ったからと言って、私はこうした種目を嫌っているのではない。現に私は大の野球好きで、プロ野球は王・長嶋どころか川上・大下の時代からのファンである。大谷選手の二刀流と聞くとすぐ野口二郎選手を連想した人間である。つまり、野球もサッカーも、オリンピックなどを無暗に有難がらなくとも立派にやっていけるスポルトなのだから、IOCの方から是非参加してくれと言って来たら考えてやってもいいかもしれないが、こちらからペコペコ頭を下げて、ましてルールを変えたり姑息なことをしてまで「混ぜて」もらうことはないのだ。フィギュアスケートに至っては、(私は見るのは大好きだが)もうスポーツというより芸術に近い。以前は「規定」と「自由」の2種目で、規定というのは図形を正確に滑るとか、技の正確さを測るもので素人が見てもちっとも面白くなかったが、いまの「芸術点」などというのは何を以って点数にするのだろう。しかし選手たちの「芸」はたいしたものだから見ては面白い。入場料を取って興行する方が似つかわしい。

もっとも、ソフトボールなどは参加させてやりたいよね。そもそも野球と抱き合わせにするようなメジャーな存在ではないのに、一緒にしようと言ったのがIOCから評価されたというのを見ても、IOCの委員が如何に野球に認識がないかがわかろうというものだ。サッカーもラグビーもアメフトも元は同じフットボールなのだから一緒になれ、というようなものではないか。

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ニュースを聞いていたら、野球の側からIOCに請願する代表に松井が加わるらしい。松井は、先日の国民栄誉賞授賞式のスピーチで男を挙げたが、なるほど、自分がいまいる立場、自分という存在の在り方、果ては今度の受賞に関してどんなことが言われているかに至るまで、彼は実によく認識している。つまりそれだけ、己を知り、己を見る他者を知り、洞察するセンシビリティを持っている。またそれを、みずから卑屈にならず、また他を貶めずに、己の言うべきことを述べる表現力を持っている。実に、人物として賢明な人間であるというべきだろう。

もうアメリカには用というものはない筈だと思われるが、このままアメリカに居続ける気配なのは、クラシックの音楽家とか洋画家とかには従来から珍しくなかった「メトロポリタン」という生き方を選ぼうとしているのかもしれない。しかし日本を捨てたわけでも愛していないわけでもないから、日本のためにお役に立てることがあればお役に立ちましょう、ということでIOCへの陳情の役を引き受けた、というわけだろう。用が済めば、またニューヨークの自宅へ帰るだけである。

日本に戻ってくることはもうないのか? そんなことまで考えてやる義理も付き合いもないが、読売巨人軍の監督、というポストが用意されたときどうするか、ということは、野次馬として多少の興味はないでもない。

随談第476回 勘三郎随想(その12)

(前回よりつづく) もっとも勘三郎自身は、「勘九郎坊や」当時のことをあまり過大に蒸し返されるのは迷惑だったらしい。前に言った私の『20世紀の歌舞伎俳優たち』の中でも「勘九郎坊や」時代のことに触れ、アンファンテリブルと書いたのを、ああいうの、あんまりうれしくないんだ、と私に向かって言ったこともある。ご本人にしてみれば、それは確かにそうだろうと私も思う。しかし勘三郎一代を振り返って何かを言おうとするなら、あの勘九郎坊や時代の「恐るべき子供」時代のことに触れないわけに行かないのも、また事実なのだ。それは、単なる天才子役とか名子役というのとは別の、ちょっと大袈裟に言えば昭和30年代という時代を語る上で欠かせない、社会的な「現象」としての側面をももっているからである。

勘三郎自身も、照れくさがりながらも、当時の自分を否定しようとしたわけではない。一年九ヵ月におよんだ十八代目の襲名披露公演の掉尾を飾ったのは二〇〇六年十二月の京都南座の顔見世だったが、それにちなんで、JR京都駅に接続する美術館「えき」KYOTOで開かれた「十八代目中村勘三郎襲名記念展」をご覧になった読者は、会場の一コーナーに展示された、おそらく勘三郎自身のアルバムから剥がしてきたと思われる、当時のスナップ写真のあれこれが思い当たるに違いない。惜しげもなく提供された写真の数々は、「勘九郎坊や」の天真爛漫なベビーギャングぶりと、十七代目が齢五十にして、たぶんはじめて我が物とした日々の喜びを物語って余りあった。襲名興行を暮の南座に見に行った夜、一週間ほど前に高熱を発して『娘道成寺』を死に物狂いで踊ったという勘三郎が、まだ完全に回復していたわけではないのに、約束だからと言って、終演後、南座の近くのおでん屋に案内してくれた折、明日にでも見てくださいよと教えてくれたのだった。

いま改めて思う。父の十七代目の舞台が、万人を喜ばせる明るさとおおらかさとをもつようになった過程と、それは見事に軌を一にしていた。襲名や追善の口上の席で、自分の番がきて十七代目勘三郎が顔をあげる。もうそれだけで、満場がじわじわと、期待にざわめく。十七代目が、誰もが認めるそうした役者になったのは、この時期ではなかったろうか。十八代目が、父十七代目あっての十八代目であるように、十七代目もまた、わが子十八代目があっての十七代目なのである。子は父の親なのだ。

やがて、名子役勘九郎をひときわ世の話題にのぼらせた小「事件」が起こる。一九六三年七月の歌舞伎座は、『怪猫有馬の猫』のような、後にも先にもこのときに見落としたら二度と見る機会のないような珍品がメニューのなかに入っていたり、夜の部は、十七代目勘三郎と二代目松緑が弥次喜多になる『膝栗毛』の通しという、納涼気分の、やや軽めの演目の並ぶ興行だったが、そういうなかで、昼の部の切りに、子供ばかりの『白浪五人男』勢揃いの場というのが企画された。ちびっこ歌舞伎、という呼び名がたちまちの内にマスコミからつけられた。

この時点ではまだ大谷友右衛門だった雀右衛門の二男の広松の日本駄右衛門、先々代中村歌昇の二男の光輝の忠信利平、四代目中村時蔵の長男の梅枝の赤星十三郎、八代目三津五郎の孫で坂東蓑助の長男の八十助の弁天小僧という配役のなかで、勘九郎は南郷力丸を演じたのだったが、連日その時間になると一幕見の切符売り場に長い行列ができるという人気とともに、このとき話題となったのは、主役の弁天小僧を八十助にゆずって、勘九郎がみずから、その相棒の役の南郷力丸に廻るという気ばたらきを見せたという「秘話」だった。花形スターの弁天小僧に対して、南郷力丸というのは、脇にまわって巧さを見せる、芸達者のつとめるいわば味な役である。そういう役に目をつけた、勘九郎の幼にしてただ者ならずと思わせる「役者ごころ」に、ひとは微笑しつつも、ひそかに舌を巻いたというわけだった。かわいい生意気。もしかすると、後年のコクーン歌舞伎といい平成中村座といい、旺盛に発揮することになるプロデュース精神の、これが発露であったかも知れない。

このときの駄右衛門役の広松とは現在の中村芝雀のことで、いまも年齢を感じさせない楚々たる若女形ぶりからは想像もつかないが、それを別にすれば、勘九郎の南郷も八十助の弁天も、忠信利平の現在の中村又五郎も、赤星十三郎の現在の五代目中村時蔵も、四十余年をへだてたいまも、そのまま本役としてつとめられるのがおもしろい。

ところで、このとき弁天小僧の役を勘九郎から「ゆずられた」八十助は、つい前年、祖父が八代目坂東三津五郎を襲名するに当って、父がその前名の坂東蓑助を継ぎ、自身が五代目坂東八十助を名乗って初舞台を踏んで、三代揃っての襲名という華やかな話題をふりまいてデビュウしたばかりだった。八十助にも、通学する小学校の教室の黒板に「十代目坂東三津五郎」と落書きをしたという「おそるべき伝説」が早くも伝わっていた。年齢も一歳違い、今日まで続くふたりの盟友にしてライバルという関係はこのときに始まるといえる。いまも残るこのときの宣伝写真を見ても、教わった役のポーズを取りながらもどこか幼さ故の無防備さも露呈している他の四人の中で、八十助の弁天小僧だけは、かかとを揃えて束(そく)に立ち、斜に構えた立ち姿に寸分の隙もない。古典主義派(クラシシスト)十代目三津五郎は、このとき既にして、その塑像を幼い姿のなかに、原型として存在させているかのようですらある。

思えばそれから数年の歌舞伎界は、史上でも稀な「名子役の時代」だった。とりわけ勘九郎、八十助、それにひと足おくれて登場した当時光輝の現又五郎らの舞台ぶりは、けなげさや達者さといった並みの名子役の域に留まらない卓抜なものがあった。折から、そのころ次々と新しい役に挑戦を試みていた歌右衛門が、勘九郎を田宮坊太郎に『志渡寺』のお辻、光輝の力若で『身替音頭』の花園、やはり光輝の千代松で『お静礼三』のお静のような、このときを見逃していたらほとんど見る機会もなかった珍しい演目や役々に取り組んだのも、彼ら名子役たちがあってのことだったともいえる。『お静礼三』の礼三郎で歌右衛門と共演した梅幸も、勘九郎の三吉で『重の井』の子別れ、八十助の怪童丸で『山姥』を演じて、その生涯を通じての高い水準の秀作を残しているし、他ならぬ十七代目勘三郎も、光輝のお君で当時は上演の稀だった『奥州安達原』袖萩祭文の袖萩と貞任を演じ、勘九郎の志賀市で『再岩藤(ごにちのいわふじ)』の鳥井又助のくだりを復活したのだった。二代目松緑の『鳥羽絵』で八十助が踊った子鼠の舞台写真は、その後永らく、この踊りの写真といえばそのときのものが使われた。歌舞伎に渇を癒すように、むさぼり見ていた学生だった私は、ちょうどかれら名子役たちの数々の名作を目の当たりにする幸運にめぐり合わせたのである。

とはいえ、「名子役の時代」は、所詮、子役たちの一定の成長までのいっときの期間であることをまぬがれない。どんな名子役も、背丈が伸び、声変わりをし、子役という「天使の時代」から、成人し自覚も定まるまでの「無明の季節」を通り抜けるまで、パッとしない一時期を過ごさなければならなくなるのが普通である。だが、勘九郎の場合、その季節にあの『連獅子』が生まれたのだった。

一九六九年四月、勘九郎十四歳、父十七代目勘三郎六十歳、初舞台からほぼ十年後の、勘九郎のもうひとつのスタートである。