随談第481回 勘三郎随想(その15)

(承前)十七代目勘三郎の新三の話をしていたのだった。

十七代目の真にすぐれているのは、以上のような二重性の下に新三が隠しているもうひとつの顔までをも、おのずから見る者に察知させるところである。それは、いわゆる狂言の底を割るなどという体の、あざとい、底の浅い技巧とはまるで別種のものであって、強いていうなら、それはさっき言った眉宇の翳り、目遣いといったもので表現されるのだが、しかしそうした技巧よりも、勘三郎の持っている、さまざまに乱反射し、交錯し合う存在感が、そう感じさせるのだ。

新三が隠し持っているもうひとつの顔とは、上総無宿の前科者でばくち打ちという、ならず者の顔である。新三が実際にそういう「もうひとつの顔」を現わすのは、忠七をそそのかしてお熊を連れ出し、夕立のなか永代橋の袂で忠七を打ち据えるときだが、しかし現行の、本名題の『梅雨小袖昔八丈』よりも通称の『髪結新三』を前面に出し、「白子屋見世先」「永代橋川端」の序幕二場に、「新三内」と「家主長兵衛内」をいわゆる行って来いで交互に見せる二幕目、弥太五郎源七の仕返しをごくあっさり見せるだけの大詰「深川閻魔堂橋」の三幕仕立ての立て方だと、大詰でもうすっかりいっぱしの博徒になった姿を見せるほかには、家主の長兵衛に向かって「上総無宿の入墨新三」と凄んで見せたものの、逆に長兵衛からとっちめられて小さくなるという、むしろ間抜けな、喜劇的な場面ぐらいに点描されるだけだ。

もっとも、本名題『梅雨小袖昔八丈』として通し上演したとしても、新三の活躍する出番がこれ以上あるわけではない。「閻魔堂橋」の仕返しは、普通は新三がひと太刀斬られてダーッとなったところで幕にするが、通しでやれば、あのあと源七に殺され、それ以降は源七の芝居になる。つまり現行の『髪結新三』とは、大岡政談という枠組のもと、新三と源七のふたりのドラマで成立しているものを、新三ひとりの芝居として再構成したものだといっていい。こういう場立ての『髪結新三』は、十五代目羽左衛門や六代目菊五郎がくり返し演じるうちに慣行として定着していったのは間違いない。つまり、大正・昭和戦前の歌舞伎が、粋な江戸前の市井劇としてエッセンスを洗い上げたのが、いまわれわれの知る『髪結新三』なのだ。いうなら、六代目菊五郎らがそれを作り、観客がそれを支持した産物、つまりは、大正・昭和戦前の歌舞伎が作り上げた新三像である。

すると、どういうことになるか。そこには、意趣返しに新三を殺したものの罪に怯える、落剥した弥太五郎源七のみじめな姿も、大岡裁きというドラマ全体の枠組みも取り外されている。新三の出番に変りはないとしても、そうした全体の中で見るのと、新三の筋だけをとりはずして見るのとでは、長編小説のなかの一人物として読むのと短編小説の主人公として読むのとでまるで印象が違うように、新三の人物像も違って見えてくる。劇そのものの印象が、暗い翳の要素がなくなって、新三というちょいとワルな男の小英雄ぶりを楽しむ軽妙なドラマに変貌してしまう。上総無宿の入墨者、などという暗い翳はほとんど忘れられて、小粋な江戸っ子のように錯覚される。

事実、戦後の昭和二十年代に、十七代目や二代目松緑がはじめて新三を手がけたとき、批評家や見巧者の間の重要な関心事は、六代目菊五郎の名品と比べてどの程度のものかということであり、それは、たとえば「ひら清(せい)」の手拭を縫い合わせた浴衣がけという湯帰りの姿が「六代目」に比べて粋かどうか、といったことに向けられることになる。前の晩、忠七をそそのかして連れ出したお熊をわがものにして、そのほとぼりに酔いながら昼日中、きょうは仕事を休みにしてひと風呂浴びに行った戻り、という江戸っ子ぶりを見せる場面で、当時有名な料亭だった「ひら清」の手拭、というのがここで効いてくる。そこへ通りかかった魚屋から初鰹を、一両の四分の三である三分(ぶ)という大金をぽんと出して買う。その江戸っ子ぶりについて、同じ江戸前の味でも「六代目」が鮎の塩焼きとすれば松緑のはさんまだ、といった批評が、劇通らしい気の利いた批評の言葉だったのである。『髪結新三』とは、そういう芝居として理解されていたのだった。

その事情は、十七代目勘三郎の場合でも、違っていたわけではない。しかし、鮎とさんまの差はあるにしても、松緑の新三が明朗で粋な江戸の市井劇に終始したのに対し、勘三郎のそれは、そうでありつつも、新三のもうひとつの顔も透けて見えている新三だった、というところに、じつは真骨頂があったのだと思う。ひら清の手拭をはぎ合わせた浴衣をはおり、大金を投げ出して初鰹を買うというこの場の新三の行為の陰には、じつは気っぷのいい江戸っ子ぶりだけではないものがある筈である。

「六代目の生活には楽天的要素があったが、勘三郎には六代目にないニヒリズムがある。それが私をひきつける。五代目より数歩を進めた六代目の髪結新三より、また十五世羽左の新三よりさらに勘三郎の髪結新三がニヒリズムの点で、アルファをつけ加えることが出来たのは、彼の成功である」と舟橋聖一が書いたのも、私が見たのと同じ、昭和四十年五月のことである。舟橋は『筆屋幸兵衛』についても、花道七三で東を向いてきまるところ、その顔は六代目を超えて、ひとつ奥をのぞかせたと思う。そういう「部分」が出来たことでも、私は現代歌舞伎の存続にわずかでも安心する、と同じ文章の中で書いている。

この舟橋の書きぶりには、まだ満七歳にもならない明治四十四年に市村座ではじめて六代目菊五郎を見たのが歌舞伎初見参だったという時代の人らしい、適者生存の進化論と、その延長線上につらなる歌舞伎衰亡論とが結びついた、時の流れが一方向にしか進まない認識の仕方が口吻にほの見える。六代目菊五郎の時代を絶頂として、戦後の歌舞伎は衰亡への一途をたどるものと見るのが、舟橋に限らず、当時の識者の誰彼となく共有していた時代認識だったのだ。だから、六代目歌舞伎を継承するのはいまのところ勘三郎である、と書く舟橋聖一が、ほんの「部分」にせよ、その六代目にまさる「アルファ」を勘三郎が「つけ加えた」というのは、戦後の歌舞伎俳優に対する褒め言葉として最高のものだったと考えてもいい。

ところでその勘三郎がつけ加えた「アルファ」とは、舟橋聖一によればニヒリズムだということになるのだが、たしかに、大詰の「閻魔堂橋」で、それまでの髪結とはがらりと変わって、むしり、という月代を不精たらしく伸ばした鬘に、もうすっかりいっぱしのばくち打ちらしい風俗で登場すると、けだるいような虚無的な気配が、十七代目の身体から漂ってくる感じだった。ここは、前にも書いたように、十八代目も巧い。新三にしてみれば、弥太五郎源七の鼻を明かしたのをきっかけとして、念願通り、愛想を売って歩く廻りの髪結から足を洗って、ちょいとした顔役にのし上がった、得意の姿であるはずなのだが、十七代目にせよ十八代目にせよ、その虚無的な風情は一種ぞっとさせるものがある。わざわざ全編を通しで出すまでもなく、閻魔堂橋のこの姿を一瞬みせただけで、新三という男の行く末から、『梅雨小袖昔八丈』という狂言全体の裏側に潜んでいる闇の世界が暗示される。練達の画家が、ほんのひと刷毛で人物の外貌内面、人生までも描き出してしまうのに、それは似ている。むしろそれで、充分だとすらいえる。

おそらくここらが、十七代目勘三郎の真骨頂だったのだと私は思う。六代目菊五郎を私は見たことがないが、先人たちの書きのこしたものや、写真などから想像するその芸風からも、その新三にこういう感覚はたぶんなかったろうと思われる。ニヒリズムというアルファをつけ加えた、と近代小説家らしく舟橋聖一は言ったが、そう言うよりも、人物の秘めているさまざまな顔や人生が、色合いや翳りとなって交響するところに、余人にない魅力が溢れ出したのだというべきだろうか。

8.「ち」の章 (談話・父に教わった役)

―――髪結新三ね。あれはそういう意味ではさあ、劇的ですよ。親父の死んだ月にやってたんだもん。四月の十六日に。初役ですから。で、最後にベッドの中でやってくれた。

一番最後にベッドの中でやってくれたのは「四谷怪談」のお岩なんだけども、これは何時やるとも言わないで教わりに行った。だって四月ぐらいに危ないっていうんだから。実際にお岩をやるのは八月か七月の大阪の中座ですから、そんな役を今ごろ教えるなんて何でだ? なんて言われたらいやじゃないですか。だからいろんな話から持ってったの。そしたらやってくれました、親父。

―――新三は、それはまあ全部教わった。もっそう飯ってのは何か、とかね。そういう意味でも、親父が死んだときに初役でやらしてもらったってのが、そういうことで言えば因縁めいてるですわな。これからも大事にしていきたい役です。