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2016/08/07
随談第580回 BC級映画名鑑・第2章「BC級名画の中の大女優」第2回(通算10回)高峰秀子『朝の波紋』
(BC級映画名鑑第2章の第一回として原節子の『東京の恋人』を載せたのは3月2日付の随談第569回だった。月一回程度の割りで連載するつもりでいたのが、心ならずも随分間が開いてしまった。これがホントの間抜けというところだが、遅ればせながら再開することにしたい。)
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 『朝の波紋』は前回にも書いたように、昭和27年5月1日封切りの新東宝映画だが、この日は、戦後史に刻される惨事の一つとして知られるメーデー事件の当日である。つい三日前の4月28日に講和条約が発効して日本がGHQの占領状態から解除されたことをシンボリックに示すマイナス札のような出来事だが、高峰秀子の笑顔が明るい『朝の波紋』にも、終戦から七年という時点での東京の街の様子が丹念に映し出されている。それは同時に、この映画の人物たちがそれぞれに戦後七年という歳月を生きてきた背後を暗示するかのように彩っている。
 高峰の役は英語が堪能なのを生かして中堅どころの貿易商社に勤務、社長秘書として重用され、当時のキャリアウーマン(など言う言葉は、当然、まだなかったが)として恵まれた立場にあるが、伯父の家に下宿住まいをしている。彼女の身寄りについて映画は詳しい説明もなく、深入りもしないが、親兄弟はなく、恋人や婚約者もいない孤独の身であることが戦争の後遺症として暗示される。
伯父の家にはもう一人、彼女には甥に当る居候の少年がいて、父親は戦死、三宅邦子演じる母親は、箱根の旅館で、子供の手前は事務の仕事をしていると繕いながら実際は女中をしている。元はれっきとした中流家庭の主婦だった様子が、三宅邦子のたたずまいを見ればおのずと知れる。(『麦秋』をはじめ小津安二郎に重用された三宅だが、戦前以来の東京の中流家庭の匂いを彼女ほど自然に身に着けている女優はいないだろう。その雰囲気とたたずまいは、この『朝の波紋』でも生かされている。女中をしていても元は「いいとこの奥さん」なのだ。昭和20年代というのは、戦後の混乱と全くと言っていいほど等価に、戦前が生き続けていた時代であり、それは社会のさまざまな面について言えることだが、当時小学生だった私などでも、三宅邦子の漂わせるのと同様な雰囲気をもった中年女性の幾人かを、身近な懐かしさと共に思い出すことが出来る。)
少年は母の言葉を信じつつ、寂しさを紛らわせるために、なついてきた野良犬を飼おうとするが、伯母にきつく叱られる。この伯母の役の滝花久子も、中流の上という家庭の主婦がぴたりとはまる雰囲気をもった女優である。少年の飼う野良犬が、近所から靴を銜えてきたり、小トラブルを次々と起こすことがきっかけとなって、通勤の行き帰りに付近を通る青年と親しくなる、という形で池部良が登場し、高峰と接点ができる。住所を当てに訪ねると、近くの、かつては広大なお屋敷が爆撃で廃墟となった一隅にわび住まいをしていることが分かる・・・といった経路をたどって、この人物の風貌、ひととなりが次第に姿を現してくる。元は著名な富豪の御曹司の身でありながら、いまは貿易会社の一介の社員をしながら泰然としてわが道を行く、知的なハンサムでありながらヌーボーとした趣きの男を演じて池部良を置いて他には求められない。(単に茫漠としたヌーボー男なら珍しくないが、育ちの良さと知性という二点がカギとなると、候補者はたちまち激減する。)『青い山脈』では旧制中学生、それよりはやや屈折はあるが『山の彼方に』では中学教師と、石坂洋次郎原作の青春映画で見せたのより、もう一味ふた味、懐の深さのある人物で、この辺りが日本映画の二枚目俳優中にあって他に真似手のない池部の真骨頂というべきであろう。(後年、任侠映画のインテリやくざとして効いてくる下地でもある。)
 高峰をめぐるライバルとして、同じ会社に勤める岡田英二扮する自信家の青年がいる。年配は池部の役と同じぐらいだが戦争体験についてはわからない。父親が有力な人物で、古臭く卑小な日本を捨てて海外へ進出することを目指しており、ついては、英語も堪能で外人バイヤーとも渡りあえる有能な女性として高峰を伴侶にふさわしいと考えている。この種の男は、現代にも、いつの時代にもいるが、やがて「もはや戦後ではな」くなる日をいち早く視野の内に入れようとしているという意味で、昭和27年という時代を映している。
 木村功と共に劇団「青俳」を代表する俳優として、この時代の日本映画にあっての一存在であった岡田だが、『また逢う日まで』とか『ここに泉あり』とか、憂いに沈んだ良心的インテリか、それを反転させた悪役めいた人物か、いずれにせよ影のある人物というのが役どころとしてイメージとなっている。ひとつ例外的なのは、『朝の波紋』と同じ年の作品で成瀬巳喜男監督の佳作として知られた『おかあさん』で、気のいいパン屋の倅をしているのをもう一方の側に置くと、『朝の波紋』の少々バタ臭い欧米指向の裕福な家庭に育った青年という役どころにいかにもふさわしいことが分かる。岡田青年は、知的な自負をちらつかせながら高峰に接近を試みる。ある米人バイヤーをめぐるいきさつから、同業の他社の社員である池部と敵対する形で関わりが出来ると、仕事一途というより、少々投げやりですらあったり、応召中に戦地で感染した難病を抱えている冴えない同僚のためにひと肌脱ごうとしたりする、業績や出世を度外視したような池部の行動に冷笑的な目を向ける。
 映画は、そういう二人の男に挟まれて、才知ある聡明な女性が、戦後という時代を如何に生きてゆくかに、次第に焦点が絞り込まれる。一種のビルドゥングス・ロマンとしての側面を女性を主人公としたこの時代の映画は強く持っており、つまりこの『朝の波紋』での高峰秀子は、新しい時代の若い女性の生き方を切り開く、一つのシンボル像を描いたことになる。このころから、高峰に限らず、彼女の後に続く形で戦後デビューした当時の代表的な若い女優たちは、それぞれにこうした作品で、時代を先取りするような形で若い女性観客の共感を得ていくことになる。それもまた、昭和20年代という時代の匂いなのだが、戦前に子役として活躍し戦中戦後に適齢に達した高峰は、この時期、他の戦後派女優たちの先頭に立つ形になっていたことが分かる。この後、『二十四の瞳』を大きな転換点として後続の女優たちと一線を画す道を歩くようになる、その分岐点としての意味も、この『朝の波紋』は持っているように見える。
 原作は高見順が前年に朝日新聞に連載した小説で、新聞連載小説全盛のこの当時、各紙は当時第一線の作家に執筆を依頼し、各映画会社は連載が終わるのを待ちかねるように映画化した、これもその一つだった。スター女優にとっては、こうした作品で評判を取ることが更なるステップともなる。前回、原節子の主演作として挙げた『風ふたたび』も『白魚』も、前者は永井龍男、後者は真船豊の新聞連載小説から、同じ昭和27年に映画化されたものだった。(前年の、原の出演作中でも屈指の名画として知られる『めし』も、林芙美子が朝日に連載中に急死、中絶した新聞小説の映画化だった。)
 池部の人となりを更に知るよすがとして、ボートレースの場面が、やや典型的なきらいはあるものの(戦前以来、映画に登場する大学スポーツといえば、ラグビーか、でなければボートレースと相場が決まっていた)、五所平之助監督らしいすがすがしいリリシズムがそれを上回って快い。
ある日曜日、池部は出身大学のOBとして、当時は隅田川で行われていたボートレースに選手として参加するのに高峰を誘う。ボート部の先輩として上原謙が特別出演風に登場するが、むしろ自分の主演作よりもこういうときの上原はちょっと乙である。終了後浅草の泥鰌屋で打ち上げをするシーンがあるが、戦後7年経ってもまだ戦災で焼け野ケ原になった後遺症をあからさまに見せているのを知らされる。(選手仲間で泥鰌屋の息子という好青年を演じる沼田曜一も、その後も新東宝に所属したためもあって遂に地味な存在のままで終わってしまったが、清潔感のある好俳優だった。後には、ときにアラカン主演の新東宝時代劇でひと癖ある役をしたりすることもあったが。)
 一方、高峰は商社に勤める仕事を通じても、海外向けに輸出される日本の製品が作られている現場の実態を出張先で見て、それまで知らなかった社会の現実を知り、そのことによって、岡田が思い描いている展望がエリート意識の限界内に留まり、如何に現実を見ようとしていないかを知る。どんなに卑小でみみっちくとも、それが日本の現実なのであり、岡田のような人間はそこに目を向けようとしない。
 映画の後半部は、学校の遠足で行った箱根で会った母親の現実を知り衝撃を受け、さらに飼っている野良犬を捨ててくることを伯母に強く命じられた少年が家出をし、行方が知れなくなるのを、池部の協力を得て尋ね回るのを通じて、互いに相手を知ってゆく。同時に、池部は少年の母親が自分の勤める会社に事務職として採用してもらえるよう、上司に働きかける。
 原作の高見順としては、新聞に連載する、当時の言葉で言う中間小説(純文学と大衆文学の中間という意味であろう)としての佳作だが、その清々しさと、前に言った五所監督の大人の瑞々しさ、それに若き高峰秀子の明るい清潔感とがマッチした、好もしい佳品というのが、この作品の映画史上での位置づけということになるだろう。
 この後高峰は、『二十四の瞳』というやがて伝説的存在となる「名画」を境に、大女優として別格的存在になってゆく。それと軌を一にするように、新任間もないころの大石先生の笑顔を最後にして、高峰の顔から笑顔がなくなって、やりきれないわ、とでもいうような憂い顔、うんざり顔のオンパレードになってゆく。後半生の大女優高峰秀子はうんざり顔の名優といっても過言ではない。 名女優高峰秀子にケチをつける気持ちは全くないが、私にとっては、それは一つの大きな喪失でもある。『銀座カンカン娘』のあの明るい笑顔こそが、私にとっての高峰の原点である。(そういう意味で、最近知ったことなのだが、あの『サザエさん』を、高峰秀子でという企画が、江利チエミの『サザエさん』よりはるかに前にあったというが、惜しいことをしたものである。江利チエミ版は江利チエミ版として、もっと原作の4コマ漫画のエスプリを生かした『サザエさん』が高峰バージョンとして実現していた可能性がある。)
 『朝の波紋』は、高峰秀子のそうしたさまざまな面を万華鏡のように見せる、彼女の女優人生の岐路に立つ、興味の尽きぬ佳作なのだ。
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